平家物語 九十六 北国下向(ほつこくげかう)

原文

さる程に木曾、東山北陸(とうせんほくろく)両道をしたがへて、五万余騎の勢(せい)にて、既に京へせめのぼるよし聞えしかば、平家はこぞよりして、「明年(みやうねん)は馬の草がひについて、いくさあるべし」と披露(ひろう)せられたりければ、山陰(せんおん)、山陽(せんやう)、南海(なんかい)、西海(さいかい)の兵共(つはものども)、雲霞(うんか) のごとくに馳(は)せ参る。東山道(とうせんだう)は近江(あふみ)、美濃(みの)、飛騨(ひだ)の兵共は参りたれども、東海道は遠江(とほたふみ)より東は参らず、西は皆参りたり。北陸道(ほくろくだう)は若狭(わかさ)より北の兵共一人(いちにん)も参らず。

まづ木曾冠者義仲を追討して、其後(そののち)兵衛佐を討たんとて、北陸道へ討手をつかはす。大将軍(たいしやうぐん)には小松三位中将維盛(こまつのさんみのちゆうじやうこれもり)、越前三位通盛(ゑちぜんのさんみみちもり)、但馬守経正(たじまのかみつねまさ)、薩摩守忠度(さつまのかみただのり)、三河守知度(みかはのかみとものり)、淡路守清房(あはぢのかみきよふさ)、侍大将(さぶらひだいしやう)には越中前司盛俊(ゑつちゆうのせんじもりとし)、上総大夫判官忠綱(かづさのたいふのはうぐわんただつな)、飛騨大夫判官景高(ひだのたいふのはうぐわんかげだか)、高橋判官長綱(たかはしのはうぐわんながつな)、河内判官秀国(かはちのはうぐわんひでくに)、武蔵三郎左衛門有国(むさしのさぶらうざゑもんありくに)、越中次郎兵衛盛嗣(ゑつちゆうのじらうひやうゑもりつぎ)、上総五郎兵衛忠光(かずさのごらうひやうゑただみつ)、悪七兵衛景清(あくしちびやうゑかげきよ)をさきとして、以上大将軍六人、しかるべき侍三百四十余人、都合(つがふ)其勢十万余騎、寿永(じゆえい)二年四月十七日辰(たつ)の一点に、都を立ッて北国へこそおもむきけれ。かた道を給はッてンげれば、逢坂(あふさか)の関よりはじめて、路次(ろじ)にもッてあふ権門勢家(けんもんせいけ)の正?(しやうぜい)、
官物(くわんもつ)をもおそれず、一々にみなうばひとり、志賀(しが)、辛崎(からさき)、三河尻(みつかはじり)、真野(まの)、高島(たかしま)、塩津(しほつ)、貝津(かひづ)の道のほとりを次第に追補(ついふく)してとほりければ、人民(にんみん)こらへずして山野にみな逃散(でうさん)す。

現代語訳

そうこうしているうちに、木曽義仲が東山道、北陸道の両道を従えて、五万余騎の軍勢で既に京へ攻め登るということを聞いたので、平家は去年から、「明年は馬に若草を食わせる頃に戦があるであろう」と世間に言いふらしていたので、山陰、山陽、南海、西海の兵士どもが、大勢馳せ参じた。東山道には近江、美濃、飛騨の兵士どもが馳せ参じたが、東海道には遠江より東は参らず。西は皆参った。北陸道には若狭より北の兵士どもが一人も参らず。

平家は、先ず木曽義仲を追討して、その後で兵衛佐を討とうと思い、北陸道へ追っ手を差し向ける。大将軍(だいしょうぐん)には小松三位中将維盛(こまつのさんみのちゅうじょうこれもり)、越前三位通盛(えちぜんのさんみみちもり)、但馬守経正(たじまのかみつねまさ)、薩摩守忠度(さつまのかみただのり)、三河守知度(みかわのかみとものり)、淡路守清房(あわじのかみきよふさ)、侍大将(さむらいだいしょう)には、越中前司盛俊(えっちゅうのぜんじもりとし)、上総大夫判官忠綱(かずさのたあいふのほうがんただつな)、飛騨大夫判官景高(ひだのたいふのほうがんかげたか)、高橋判官長綱(たかはしのほうがんながつな)、河内判官秀国(かわちのほうがんひでくに)、武蔵三郎左衛門有国(むさしのさぶろうざえもんありくに)、越中次郎兵衛盛嗣(えっちゅうのじろうびょうえもりゆぎ)、上総五郎兵衛忠光(かずさのごろうびょうえただみつ)、悪七兵衛景清(あくしちびょうえかげきよ)を先陣として、以上大将軍六人、それに付従う侍三百四十余人、合計その勢力十万余騎が、寿永(じゅえい)二年四月十七日の午前七時に、都を発って北国へ赴いた。往路の費用を道中で徴収することを許されていたので、逢坂(おうさか)の関から初めて、途中で持っているのに出会った権門勢家(けんもんせいけ)の正税’しょうぜい)・官物(かんもつ)を何の憂いもなく、一々皆奪い取り、志賀(しが)・辛埼(からさき)・三河尻(みかわじり)・真野(まの)・高島(たかしま)・塩津(しおづ)・貝津(かいづ)の道の辺(ほとり)を次第に資財を没収しながら通ったので、人民(じんみん)は我慢できずに皆、山野へ逃げ散った。

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朗読・解説:左大臣光永

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