平家物語 九十七 竹生島詣(ちくぶじままうで)

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本日は平家物語巻第七より「竹生島詣(ちくぶしまもうで)」です。琵琶の名手・平経正は北陸での合戦にさきかげて竹生島で戦勝祈願をします。

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前回「北国下向(ほっこくげこう)」からのつづきです。
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あらすじ

木曽義仲討伐のために、平家は北陸へ軍隊を差し向ける。

大将軍維盛、通盛は先に進んだが副将軍経正、忠教らはいまだ近江の国塩津、貝津に控えていた。

経正は詩歌管弦に長けた人で、琵琶湖上の竹生島へ戦勝祈願へ向かう。

頃は旧暦四月十八日のこと。木々の緑はまだ春の名残を残しているようで、谷間の鶯の声は衰え、ほととぎすの初音がゆかしく響く。

竹生島に上陸した経正は弁財天の御前で経を詠む。

しだいに日が暮れてくると、いよいよ風情がます。

住込みの僧たちが、「あなたが琵琶の名手であることは有名です」といって経正に琵琶を手渡すと、経正は琵琶の秘曲、上玄・石上(しょうげん・せきしょう)を奏でる。

宮のうちはしんと静まりかえり、弁財天が感激のあまり示現したのか経正の袖の上に白竜が現れた。

原文

大将軍維盛(これもり)、通盛(みちもり)はすすみ給へども、副将軍経正(つねまさ)、忠度(ただのり)、知度(とももり)、清(きよ)房(ふさ)なンどはいまだ近江国塩津(あふみのくにしほつ)、貝津(かひづ)にひかへたり。其中(そのなか)にも経正は、詩歌管絃(しいかくわんげん)に長(ちやう)じ給へる人なれば、かかる乱(みだれ)の中にも心をすまし、湖(みづうみ)のはたに打出(うちい)でて、遥(はる)かに興(おき)なる島 を見わたし、供に具せられたる藤兵衛有教(とうひやうゑありのり)を召して、「あれをばいづくといふぞ」と問はれければ、「あれこそ聞え候(さうろふ)竹生島(ちくぶしま)にて候へ」と申す。「げにさる事あり。いざや参らん」とて、藤兵衛有教、安衛門守教以下(あんゑもんもりのりいげ)、侍五六人召し具して、小舟(こぶね)に乗り、竹生島へぞわたられける。

比(ころ)は卵月中(うづきなか)の八日(やうか)の事なれば、緑に見ゆる梢(こずゑ)には、春のなさけをのこすかとおぼえ、澗谷(かんこく)の驚舌(あうぜつ)声老いて、初音(はつね)ゆかしき郭公(ほととぎす)、折(をり)知りがほにつげわたる。松に藤なみ咲きかかつて、まことにおもしろかりければ、いそぎ舟よりおり、岸にあがッて、此(この)島の景気(けいき)を見給ふに、心も詞(ことば)もおよばれず。彼秦皇(かのしんくわう)、漢武(かんぶ)、童男丱女(とうなんくわぢよ)をつかはし、或(あるい)は方士(はうじ)をして不死の薬を尋ね給ひしに、「蓬?(ほうらい)を見ずはいなや帰らじ」といッて、徒(いたづ)らに舟のうちにて老い、天水茫々(ぼうぼう)として求むることをえざりけん蓬?洞(ほうらいどう)の有様も、かくやありけむとぞみえし。或経(あるきやう)の中に、「閻浮提(えんぶだい)のうちに湖あり、其中(そのなか)に金輪際(こんりんざい)よりおひ出でたる水精輪(すいしやうりん)の山あり。天女(てんによ)住む所」といへり。則ち此(この)島の事なり。経正明神(みやうじん)の御(おん)まへについゐ給ひつつ、「夫大弁功徳天(それだいべんくどくてん)は往古(わうご)の如来(によらい)、法身(ほつしん)の大士(だいじ)なり。弁才(べんざい)、妙音(めうおん)二天の名は、各(かく)別(べつ)なりといへども、本地一体(ほんぢいつたい)にして衆生(しゆじやう)を済度(さいど)し給ふ。一度(いちど)参詣の輩(ともがら)は、所願成就円満(しよぐわんじやうじゆゑんまん)すと承る。たのもしうこそ候へ」とて、しばらく法施(ほつせ)参らせ給ふに、やうやう日暮れ、居待(ゐまち)の月さし出でて、海上(かいしやう)も照りわたり社壇も弥(いよいよ)かかやきて、まことに面白かりければ、常住の僧共、「きこゆる御事(おんこと)なり」とて、御琵琶(おんびは)を参らせたりければ、経正是(これ)をひき給ふに、上玄石上(しやうげんせきしやう)の秘曲には、宮のうちもすみわたり、明神感応(かんおう)にたへずして、経正の袖のうへに、白竜(びやくりゆう)現じて見え給へり。忝(かたじけな)くうれしさのあまりに、泣く泣くかうぞ思ひつづけ給ふ。

千はやふる神にいのりのかなへばやしるくも色のあらはれにける

されば怨敵(をんでき)を目前(めのまへ)にたひらげ、凶徒(きようと)を只今(ただいま)せめおとさむ事の、疑(うたがひ)なしと悦(よろこ)ンで、又舟に取乗(とりの)ッて、竹生島をぞ出でられける。

現代語訳

大将軍維盛、通盛はお進みになられたが、副将軍の経正、忠度、清房などはまだ近江国(おうみのくに)塩津(しおつ)、貝津に留まっていた。その中でも経正は、詩歌管弦に勝れていたので、戦いの中にも風雅の世界に浸る気持ちで、湖のほとりに出て、遥かに沖の島を見渡し、共に連れておられた藤兵衛有教(とうびょうえありのり)を召して、「あれは何という島か」とお尋ねになると、「あれこそ有名な竹生島(ちくぶじま)でございます」と申す。「なるほど、聞いたことがある。さあ、参ろう」と言って、藤兵衛有教、安衛門守教以下(あんえもんもりのりいか)、侍五六人を召し連れて、小舟に乗り、竹生島へ渡られた。

季節は四月中旬の八日の事だったので、緑に覆われた梢には、春の名残が残っているように思われ、谷間の鶯の声が、年老いてさびのあるように聞え、初音が待たれる郭公が時期を知っているかのようにあたり一帯に夏の訪れを告げている。松には藤の花が揺れて波のように咲きかかり、ほんとうに綺麗なので、急いで舟から降り、岸に上がって、この島の美しさを御覧になると、心もとぎすまされ、言葉にもならない。かの秦の始皇帝や漢の武帝が、少年少女を遣わし、或は占い師を使って不死の薬をお探しになったが、「蓬莱(ほうらい)を見なければまさか帰る事はないであろう」と言って、無駄に舟の中で年老い、空も海も茫々として、ついに求める薬を得られなかったという蓬莱洞の有様も、このようであったのかと見えた。或経文の中に、「閻浮提(えんぶだい)のなかに湖がある。その中に金輪際から生れ出た水精輪(すいしょうりん)の山がある。天女が住む所」と言われた。それがこの島の事である。経正は竹生島明神(みょうじん)の御前にひざまずいて、「そもそも大弁功徳天は大昔の如来であり、法性を顕現する菩薩である。弁才、妙音の二天の名は格別だとは言っても、本来は体は一つで全ての生き物を苦しみや困難からお救いになられるのだ。一度でもここに参詣した人たちは、願いが叶い、円満になったと聞いている。頼もしい事だ」と言って、しばらく経を読み、法文をお唱えになっていると、ようやく日も暮れ、十八夜の月が出て、その光が海上を照らしだし、社殿もますます輝いて美しいので、いつもそこに住んでいる僧たちが、「あなたの琵琶(びわ)の上手な御事は有名です」と言って、琵琶を差し出したので、経正はこれをお弾きになられたが、上弦石上(じょうげんせきしょう)の秘曲の音色には、宮の中も澄み渡り、明神は感激されて、経正の袖の上に、白竜が現れて見えたのである。忝(かたじけな)くもうれしさのあまりに、次のように思いをつづられたのである。

千はやふる神にいのりのかなへばやしるくも色のあらはれにける
(神に祈りが通じたのであろうか、そのしるしが色に現れた事だ)

そうであるから憎い敵を近いうちに平らげ、凶徒を今攻め落とす事は疑いなしと悦んで、又舟に取り乗って、竹生島を出られた。

語句

■藤兵衛有教 経政の従者。「経正都落」にも登場。 ■竹生島 琵琶湖北部にうかぶ島。都久夫須麻神社がある。 ■げにさることあり なるほど、そんなことを聞いたことがある。 ■澗谷の鶯声老いて 谷間の鶯の声が(春は過ぎたので)年老いているように聞こえる。春をすぎて鳴く鶯を老鶯という。 ■松に藤なみ咲きかかって 「わがやどの池の藤波さきにけり山郭公いつか来鳴かむ」(古今・夏・135 読人しらず)をふまえるか。 ■秦皇、漢武 秦の始皇帝と漢の武帝。どちらも不老不死の薬を求めさせた。「人伝フラク、中ニ三神山有リ、山上多ク不死ノ薬生ヒタリ、之ヲ服スレバ羽化シテ天仙ト為ル。秦皇漢武此語ヲ信ジ、方士年々薬ヲ采リニ去《つかは》ス、蓬莱今モ古モ但ダ名ヲ聞クノミ。天水茫々覓《もと》ムルニ処無シ、海漫々、風浩々、眼ハ穿ゲナントスレドモ蓬莱島ヲ見ズ、蓬莱ヲ見ザレバ敢《あへ》テ帰ラズ、童男丱女舟中ニ老イタリ」(白氏文集・三・海漫々)。 ■方士 仙術を使う者。 ■蓬莱を見ずは… 前述の『白氏文集』をふまえる。 ■或経の中に 経文の名は不明。「古老ノ口伝ニ云ハク、此島ハ華厳経ノ説ニ出ヅ、故ニ金輪際ヨリ出生ス」(竹生島縁起)。 ■閻浮提 人間世界。 ■金輪際 世界の底。 ■水精輪 水晶でできた山。 ■大弁功徳天 弁天。竹生島明神の主神である浅井姫命は釈迦如来・弁財天の垂迹。 ■法身 仏性を顕現する身。 ■大士 菩薩。 ■本地一体 弁天と妙音天が本来一つの体であること。 ■法施 経を読み捧げること。 ■居待ちの月 陰暦十八夜の月。望月(十五夜)・十六夜月・立待月(十七夜)・居待月(十八夜)。 ■上玄石上の秘曲 琵琶の秘曲。未詳。 ■目前に すぐにでも。

朗読・解説:左大臣光永

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