平家物語 九十五 清水冠者(しみずのくわんじや)

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本日は『平家物語』巻第七より、「清水冠者(しみずのかんじゃ)」。

木曽義仲が頼朝との関係修復のため、わが子清水冠者義重(義高)を人質として頼朝のもとに送る。

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前回「横田河原合戦(よこたがわらのかっせん)」からのつづきです。
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あらすじ

寿永二年(1183年)三月上旬、頼朝と義仲が対立することがあった。

頼朝は信濃の国へ進軍し、義仲は信濃と越後の境、熊坂山に陣を取る。

義仲は今井四郎兼平を頼朝の元に遣わし、争うつもりは無いと訴えるが、頼朝は信用せず、早くも討手を出発させる。

義仲は身に異趣無き証として、嫡子清水冠者義重(しみずのかんじゃ よししげ。義高、義基など諸説あり)を頼朝の元に送る。

頼朝は「ならば子にしよう」と喜び、鎌倉へ引き上げていった。

清水冠者義重(義高) 系図

原文

寿永(じゆえい)二年三月上旬に、兵衛佐(ひやうゑのすけ)と木曾冠者義仲(きそのくわんじやよしなか)不快の事ありけり。兵衛佐木曾追討(きそついたう)の為に、其勢(そのせい)十万余騎で信濃国(しなののくに)へ発向(はつかう)す。木曾は依田(よだ)の城(じやう)にありけるが、是(これ)を聞いて依田の城を出でて、信濃と越後(ゑちご)の境、熊坂山(くまさかやま)に陣をとる。兵衛佐は同じき国善光寺(ぜんくわうじ)に着き給ふ。木曾乳母子(めのとご)の今井四郎兼平(ゐまいしらうかねひら)を使者で、兵衛佐の許(もと)へつかはす。「いかなる子細(しさい)のあれば、義仲うたむとは宣(のたま)ふなるぞ。御辺(ごへん)は東(とう)八ヶ国をうちしたがへて、東海道より攻めのぼり平家を追ひおとさむとし給ふなり。義仲も東山北陸(とうせんほくろく)両道をしたがへて、今一日(いちにち)もさきに平家を攻めおとさむとする事でこそあれ。何(なん)のゆゑに御辺と義仲と中(なか)をたがうて、平家にわらはれんとは思ふべき。但し十郎蔵人殿(じふらうくらんどどの)こそ、御辺をうらむる事ありとて、義仲が許へおはしたるを、義仲さへすげなうもてなし申さむ事、いかんぞや候(さうら)へば、うちつれ申したれ。まッたく義仲においては、御辺に意趣思ひ奉らず」といひつかはす。兵衛佐の返事には、「今こそさやうには宣(のたま)へども、慥(たし)かに頼朝(よりとも)討つべきよし、謀叛(むほん)のくはたてありと申す者あり。それにはよるべからず」とて、土肥(とひ)、梶原(かぢはら)をさきとして、既に討手(うつて)をさしむけらるる由聞えしかば、木曾真実(しんじつ)意趣なき由をあらはさむがために、嫡子清水冠者義重(しみずのくわんじやよししげ)とて、生年(しやうねん)十一歳になる小冠者(こくわんじや)に、海野(うんの)、望月(もちづき)、諏方(すは)、藤沢(ふぢさは)なンどいふ聞ゆる兵共(つはものども)をつけて、兵衛佐の許へつかはす。兵衛佐、「此上(このうえ)はまことに意趣なかりけり。頼朝いまだ成人の子をもたず。よしよしさらば子にし申さむ」とて、清水冠者を相具(あひぐ)して、鎌倉へこそ帰られけれ。

現代語訳

寿永二年三月上旬に、兵衛佐と木曽冠者義仲の間で仲違いすることがあった。

兵衛佐は木曽義仲追討の為に、十万余騎の軍勢をもって信濃の国へ出陣する。

木曽義仲は依田の城に陣取っていたが、これを聞いて依田の城を出て、信濃と越後の境にある熊坂山に陣をとる。

兵衛佐は同じ信濃の国善光寺にお着きになる。木曽義仲は自分の乳母の子にあたる今井四郎兼平を使いに立て、兵衛佐の許へ行かせる。

「どんな理由があって義仲を討とうと言われるのか。貴殿は当国八ケ国を討ち従えて、東海道から攻め上って平家を追い落とそうとなされている。義仲も東山道並びに北陸道の両道を従えて、一日でも先に平家を攻め落とそうとしているのだ。どういう訳で貴殿と義仲とが仲違いをして、平家に笑われようとするのか。但し、十郎蔵人殿は貴殿に恨み事があるということで、義仲の陣に参られたので、義仲まで冷たい対応をするのはどうかと思い、同行申してはいるが、義仲は貴殿を少しもお恨みしてはいない」と伝えさせる。

兵衛佐の返事には、「今ではそのように言われるが、確かに頼朝を討つべし、謀叛の企てがあると申す者がいる。義仲の言葉に騙されてはなるまい」と言って、土肥次郎実平、梶原平三景時を先陣として、すでに討手を差し向けられたという事が耳に入ったので、木曽義仲は真実恨みは無い事を表そうとして、嫡子の清水冠者義重という、生年十一歳になる若者に、海野、望月、諏訪、藤沢などという名のある武士どもをつけて、兵衛佐の許へ行かせる。

兵衛佐は、「こうなさるからには本当に意趣はなかっのだな。頼朝はまだ成人の子がいない、よしよしそれなら我が子にし申そう」と言って、清水冠者を連れて、鎌倉へ帰られた。

語句

■清水冠者 「清水」は地名らしいが未詳。「冠者」は成人して間もない若者。 ■寿永二年 1183年。前年、治承から養和へ、さらに寿永へ改元した。 ■不快の事 仲違い。頼朝と義仲仲違いの理由については延慶本・長門本・源平盛衰記などに記述がある。新宮十郎行家が頼朝に知行国の分与をもとめて断られて、義仲方に走ったこと。義仲に恨みを持つ成田信光が「義仲に謀反の疑いあり」と頼朝に進言したことが挙げられている。 ■依田城 長野県上田市南方の依田山にあった城。 ■熊坂山 長野県上水内郡信濃町。長野・新潟の県境。長範山とも。 ■善光寺 長野県長野市の名刹。 ■乳母子の今井四郎兼平 養育者の子。主君と乳母子はともに育てられ、生涯にわたって強い絆で結ばれることが多かった。今井四郎兼平は義仲を養育した中三兼遠(巻六・廻文)の子。義仲と同年。長野県松本市今井の人。 ■東山北陸両道 東山道は近江・美濃・飛騨・信濃・上野・下野・陸奥・出羽の八か国。北陸道は若狭・越前・越中・越後・加賀・能登・佐渡の七か国。 ■十郎蔵人殿 源行家。為義の子。新宮十郎。頼朝・義仲の叔父。 ■いかんぞや候へば どうかと思われましたので。いくら何でも叔父だから見捨てることはできなかったというほどの意。 ■それにはよるべからず それ(義仲の言葉)は信用できない。 ■土肥・梶原 土肥実平(巻五・早馬)・梶原景時(巻四・信連)と思われる。 ■既に いままさにそれが行われようとしている状態。 ■義重 屋代本・延慶本・『尊卑分脈』には「義基」、『吾妻鏡』には「義高」とある。母は今井兼平の女。人質として頼朝のもとに送られ、義仲の死後斬られる。清水冠者の後日談は『吾妻鏡』にくわしい。海野小太郎幸氏を身代わりに女装して鎌倉を脱出するが、つかまり、入間川原で斬られたと。婚約者と定められていた頼朝の娘、大姫は、義重(義高)の死後、病にかかり若死にする。また室町時代の小説『清水冠者』がある。

……

木曽義仲が、源頼朝との関係修復のために、わが子清水冠者義重(義高)を人質として頼朝のもとに送る、という話でした。

一般には木曽義高として知られますね。数奇な運命が待ち受けています。この章で注目したいのは、義仲が叔父の新宮十郎行家を自分の陣営に受け入れていることです。

行家は義仲や頼朝の叔父にあたり、なにかと胡散臭い人物ですが、義仲としては叔父という縁もあり、無下に追い出すわけにもいかないと、受け入れているわけです。

このあたりの義仲のお人好しつぷり、義理に篤いところは、とても好感がもてます。どうして義仲のような好人物と頼朝はともに戦うことができなかったのかと残念に思います。

清水冠者義高にその後待ち受けていた運命も考えあわせると、ああこんなことやってたから源氏は三代でほろびたのか、という気にもなります。

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朗読・解説:左大臣光永

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