平家物語 百ニ 実盛(さねもり)
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平家物語巻第七より「実盛(さねもり)」。
平家方、長井の斎藤別当実盛は戦場に一人踏みとどまって戦っていた。そこへ木曾方、手塚光盛と組合となり…
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前回「篠原合戦」からの続きです。
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あらすじ
篠原の合戦も終盤になり、実盛は一人戦場に残り、義仲軍の追撃を防いでいた。
そこへ義仲方の武士、手塚太郎光盛(てづかのたろう みつもり)が声をかける。
手塚は名前を尋ねるが、実盛は名乗らず、組合いとなる。
実盛は手塚太郎の郎党の首をかききりるも、手塚太郎に組み落とされ、 ついに討たれてしまった。
手塚太郎は、義仲に不思議な武者を討ち取ったことを報告する。
いくら尋ねても名乗らなかったこと、錦の直垂を着ているわりには、従っている軍勢はいなかったことを語る。
義仲は、「斉藤別当ではないか」と口走る。
しかし白髪でなく黒髪なのが気になったので、
実盛と長年親しかった樋口次郎兼光(ひぐちのじろう かねみつ)を呼ぶ。
樋口次郎は、すぐに斉藤別当実盛とわかり、涙を流した。
実盛はかつて、樋口次郎に語っていた。
六十を過ぎて戦場に向かう時は髪を黒く染めようと思う。若武者たちと争うのも大人げないことだし、老武者といって侮られるのもつまらないことだと。
また、実盛は昨年富士川の合戦で 水鳥の羽音に驚いて源氏と一矢もまじえず敗退したこと(「富士川」)を老後の恥辱と感じていた。
今回の北陸の戦いでは平家のために討死を覚悟しており、大臣殿(おおいとの。平宗盛)の前で 「故郷には錦を着て帰れという故事があります」と言って、錦の着用を許されたいうことだった。
原文
又武蔵国(むさしのくに)の住人長井斎藤別当実盛(ながゐのさいとうべつたうさねもり)、みかたは皆おちゆけども、ただ一騎かへしあはせ返しあはせ、防ぎたたかふ。存(ぞん)ずるむねありければ、赤地(あかぢ)の錦(にしき)の直垂(ひたたれ)に萌黄威(もよぎをどし)の鎧(よろひ)着て、 鍬形(くは)うッたる甲(かぶと)の緒をしめ、金作(こがねづく)りの太刀をはき、切斑(きりふ)の矢負ひ滋藤(しげどう)の弓もッて、連銭葦毛(れんぜんあしげ)なる馬に、黄覆輪(きンぷくりん)の鞍(くら)おいてぞ乗 ッたりける。木曾殿の方より、手塚(てづか)の太郎光盛(たらうみつもり)、よい敵(かたき)と目をかけ、「あなやさし。いかなる人にてましませば、み方(かた)の御勢(おんせい)は皆落ち候(さうらふ)に、ただ一騎のこらせ給ひたるこそ優(いう)なれ。なのらせ給へ」と詞(ことば)をかけければ、「かういふわ殿(どの)はたそ」。「信濃国(しなののくに)の住人手塚太郎金刺光盛(てづかのたらうかねざしのみつもり)」とこそなのッたれ。「さてはたがひによい敵(かたき)ぞ。但(ただ)しわ殿をさぐるにはあらず、存ずるむねがあれば名のるまじいぞ。寄れ、くまう、手塚」とて、おしならぶる処(ところ)に、手塚が郎等おくれ馳(ば)せにはせ来(きた)ッて、主(しゆう)をうたせじとなかにへだたり、斎藤別当にむずとくむ。「あッぱれ、おのれは日本一(につぽんいち)の剛(かう)の者とくんでうずなうれ」とて、とッて引寄(ひきよ)せ、鞍の前輪(まへわ)におしつけ、頸(くび)かききッて捨ててンげり。手塚太郎、郎等がうたるるを見て、弓手(ゆんで)にまはりあひ、鎧の草摺(くさずり)ひきあげて二刀さし、よわる処にくんでおつ。斎藤別当心はたけく思へども、いくさにはしつかれぬ、其上老武者(そのうへおいむしや)ではあり、手塚が下になりにけり。又手塚が郎等(らうどう)おくれ馳(ば)せにいできたるに頸とらせ、木曾(きそ)殿(どの)の御(おん)まへに馳せ参ッて、「光盛こそ奇異(きい)のくせ者くんでうッて候へ。侍かと見候へば錦の直垂を着て候。大将軍かと見候へばつづく勢も候はず。名のれ名のれとせめ候ひつれども、終(つひ)になのり候はず。声は坂東声(ばんどうこゑ)で候ひつる」と申せば、木曾殿、「あッぱれ、是(これ)は斎藤別当であるごさんめれ。それならば義仲が上野(かうづけ)へこえたりし時、をさな目に見しかば、しらがのかすをなりしぞ。いまは定而白髪(さだめてはくはつ)にこそなりぬらんに、びんぴげの黒いこそあやしけれ。樋口次郎(ひぐちのじらう)はなれあそンで見知ッたるらん。樋口召せ」とて召されけり。樋口次郎ただ一目みて、「あなむざんや、斎藤別当で候ひけり」。木曾殿、「それならば今は七十にもあまり、白髪にこそなりぬらんに、びんぴげの黒いはいかに」と宣へば、樋口次郎涙をはらはらとながいて、「さ候へばそのやうを申しあげうど仕り候が、あまり哀れで不覚の涙のこぼれ候ぞや。弓矢とりは、いささかの所でも思ひ出での詞(ことば)をば、かねてつかひおくべきで候ひける物かな。斎藤別当、兼光(かねみつ)にあうて常は物語に仕り候ひし。『六十にあまッていくさの陣へむかはん時は、びんぴげを黒う染めて、わかやがうど思ふなり。其故(そのゆゑ)は、若殿原(わかとのばら)にあらそひてさきをかけんもおとなげなし、又老武者(おいむしや)とて人のあなどらんも口惜(くちを)しかるべし』と申し候ひしが、まことに染めて候ひけるぞや。あらはせて御覧候へ」と申しければ、「さもあるらん」とてあらはせて見給へば、白髪(はくはつ)にこそなりにけれ。
現代語訳
又武蔵国(むさしのくに)の住人長井斎藤別当実盛(ながいのさいとうべっとうさねもり)は、味方は皆逃げ去ったが、ただ一騎引き返しては戦い引き返しては戦って防戦する。
思う事があったので、赤地の錦(にしき)の直垂(ひたたれ)に萌黄威(もえぎおどし)の鎧(よろい)を着て、鍬形(くわがた)を打った甲(かぶと)の緒を締めて、黄金づくりの太刀(たち)を差して、切府(きりふ)の矢を負い、繁藤(しげとう)の弓を持って、連銭葦毛(れんせんあしげ)の馬に、黄覆輪(きんぷくりん)の鞍(くら)をおいて乗っていた。
木曾殿の方よりは、手塚の太郎光盛が、いい敵と目を付けて、「ああ、立派な事よ。どういう人でいらっしゃるのか、味方の兵士どもは皆逃げてしまったのに、ただ一騎お残りになったのはすばらしい。お名乗り下され」と言葉をかけたところ、「そういう貴殿は誰ぞ」。「信濃国(しなののくに)の住人手塚太郎金刺光盛(てづかのたろうかなざしのみつもり)」と名乗った。
「さあ、互いに良い敵ぞ。但し貴殿を見下げるわけではないが、思う事があるので名乗るまい。寄れ、組もう。手塚」といって、馬を並べた所に、手塚の郎等が遅ればせに駆けて来て、主人を討たせまいと間に割り込み、斎藤別当にむんずと組み付く。
「あっぱれ、おのれは日本一の剛の者と組もうというのだな。おのれ」と言って、掴んで引き寄せ、鞍の前輪に押し付け、この郎等の首を掻き切って棄ててしまった。
手塚の太郎は、郎等が討たれたのを見て、左手にまわって組み付き、鎧の草摺を引き上げ、二回刀を刺し、弱ったところを組んだまま落馬する。
斎藤別当は心は勇み立つが、戦に戦い疲れており、そのうえ老武者ではあり、手塚に組み伏されてしまった。
又手塚の郎等が遅ればせにやってきたのに実盛の首を取らせ、木曾殿の御前に馳せ参って、「光盛が奇妙な者と組んで討ちました。侍かと見ますと錦の直垂を着ております。大将軍かと見ますと配下の兵士どももおりません。名乗れ名乗れと責め立てましたが、遂に名乗りませぬ。声は関東訛りでございました」と申し上げると、木曾殿は、「あっぱれ、是は斎藤別当に相違あるまい。それならば義仲が上野(こうずけ)へ越えたとき、幼い目で見たときは白髪交じりの髪であったぞ。いまではきっと白髪になっておろうに、鬢髭の黒いのが不思議だ。樋口の次郎は斎藤別当と遊び馴れて見知っているであろう。樋口を召せ」と言って召された。
樋口次郎は一目見ただけで、「ああ、無惨なものよ。斎藤別当でござった」。
木曾殿は、「それならば今は七十を過ぎ、白髪になっておろうに、鬢髭の黒いのはどうしたことか」と宣うと、樋口次郎は涙をはらはらと流して、「それですのでその訳を申しあげようと思いますが、あまりに哀れで思いがけず涙がこぼれましたよ。弓矢とりは、どのような所でも思い出になる言葉を、日ごろから使っておくべきでございましたな。斎藤別当は、いつも兼光に向って話として申しておりました。『六十過ぎて戦の陣に向かう時があれば、鬢髭を黒く染めて、若やごうと思う。その訳は、若い者と争って先駆けするのも大人げないし、又老武者として人からあなどられるのも悔しい事だ』と申しておりましたが、本当に染めておりましたのですな。洗わせて御覧ください」と申したので、「そうであろう」と言って洗わせて御覧になると、白髪になっていた。
語句
■長井斎藤別当実盛 本姓藤原氏。別当は庄司=庄園管理人。『尊卑分脈』によると実直の子で祖父実遠の猶子とも実遠の子とも。保元・平治の乱では源義朝に従った。越前の出身で、後に関東に移住。源義賢が悪源太義平に責め滅ぼされた、「大蔵合戦」の後、みなしごとなった駒王丸(木曽義仲)を信濃に逃した。(巻五「富士川」)。 ■返しあはせ 引き返して敵と戦うこと。 ■存ずるむね 後述。討ち死に覚悟で若武者のようななりをして戦うこと。 ■錦の直垂 大将軍にのみ許された軍装。本来は斎藤別当が着れるものではない。 ■萌黄威の鎧 萌黄色(若葉のような薄緑色)の緒を礼(さね)の穴に通して組まれた鎧。「威」は「緒通し」のこと。 ■鍬形 甲の前部につける金属製の板。 ■金作りの太刀 金で飾った太刀。 ■切斑の矢 きりゅう。きりふ。鷲の羽で矧いだ矢。 ■黄覆輪 金覆輪と同じ。鞍の前輪・後輪(しずわ)が金メッキで装飾してあるもの。 ■手塚 清和源氏。諏訪神社の神官金刺氏の一族。長野県上田市塩田の住。 ■あなやさし ああ立派だ、ああ殊勝だ。負け戦の中ふみとどまって戦っていることを誉めた。 ■給ひたるこそ優なれ 「給ひたるか。それこそ優なれ」の意。 ■さぐるにはあらず 「下ぐる」は相手を見下すこと。名乗らないのは相手を見下すことになるため。「避ぐる」とする説も。 ■くんでうずなうれ 「組みてんずな、うれ」の転。「な」は感動。「うれ」は相手を罵る代名詞。お前。汝。 ■草摺 鎧の腰の部分にスカート状に垂れた部位。 ■坂東 東国諸国。 ■是は斎藤別当で 義仲の父義賢が甥の悪源太義平に討たれた(久寿ニ年(1155年)大蔵合戦)。時、斎藤別当が幼い駒王丸を逃した話が『源平盛衰記』にある。 ■ござんめれ 「にこそあるめれ」の転。「めり」は推量。 ■義仲が上野へこえたりし時 義仲が子供の頃、父義賢が殺されると、斎藤別当は幼い義仲=駒王丸を武蔵から信濃に逃し、中原兼遠にたくしたという。 ■白髪のかすをなりし 糟尾は白黒入り混じった色。白髪まじりであったことをいう。 ■びんぴげ 鬢と髭。 ■あなむざんや 松尾芭蕉が『おくのほそ道』の旅の中で斎藤別当の甲が納められた太田神社を訪れ「むざんやな甲の下のきりぎりす」とよんでいる(『おくのほそ道』小松)。 ■兼光にあうて 「あうて」は「向かって」。 ■仕り候ひし 「仕る」は「する」の謙譲。 ■むかはん時は 「ん」は仮定の助動詞。
原文
錦(にしき)の直垂(ひたたれ)を着たりける事は、斎藤別当、最後の暇(いとま)申しに大臣殿(おほいとの)へ参ッて申しけるは、「実(さね)盛(もり)が身一(ひと)つの事では候はねども、一年(ひととせ)東国へむかひ候ひし時、水鳥(みずどり)の羽音(はおと)におどろいて、矢一つだにも射ずして、駿河(するが)の蒲原(かんばら)よりにげのぼッて候ひし事、老後の恥辱ただ此事候(このことざうらふ)。今度(こんど)北国へむかひては、討死(うちじに)仕り候べし。さらんにとッては、実盛もと越前国(ゑちぜんのくに)の者で候ひしかども、近年御領(きんねんごりやう)について武蔵(むさし)の長井(ながゐ)に居住せしめ候ひき。 事の喩(たとへ)候ぞかし。故郷(こきやう)へは錦を着て帰れといふ事の候。錦の直垂御ゆるし候へ」と申しければ、大臣殿(おほいとの)、「やさしう申したる物かな」とて、錦の直垂を御免(ごめん)ありけるとぞ聞えし。昔の朱買臣(しゆばいしん)は錦の袂(たもと)を会稽山(くわいけいざん)に翻(ひるげへ)し、今の斎藤別当は其名(そのな)を北国の巷(ちまた)にあぐとかや。朽(く)ちもせぬむなしき名のみとどめおきて、かばねは越路(こしじ)の末の塵(ちり)となるこそかなしけれ。
去(さんぬる)四月十七日、十万余騎にて都を立ちし事がらは、何面(なにおもて)をむかふべしともみえざりしに、今五月下旬に帰りのぼるには、其勢わづかに二万余騎、「流(ながれ)をつくしてすなどる時は、おほくの魚(うを)を得(え)といへども明年(めいねん)に魚なし。林を焼いてかる時は、おほくの獣(けだもの)を得(う)といへども明年に獣なし。後(のち)を存じて少々はのこさるべかりける物を」と申す人々もありけるとかや。
現代語訳
錦の直垂を着ていた事は、斎藤別当が最後のお別れに大臣殿へ参って申した事に、「実盛だけのことではございませんが、先年東国へ向いました時、水鳥の羽音に驚いて矢ひとつさえも射ずに、駿河の蒲原から逃げ上ってしまいました事は、老後の恥辱とはこの事でございます。今度北国へ向いましたなら討死いたします。それにつけては、実盛は元は越前国の者でございますが、近年平家の荘園に付属して武蔵の長井に居住しておりました。事の喩えでございますよ。故郷へは錦を着て帰れと言うことがございます。錦の直垂をお許しください」と申したところ、大臣殿は、「健気(けなげ)にも申したものだな」と言って、錦の直垂をお許しになったということであった。
昔の朱買臣(しゅばいしん)は錦の袂(たもと)を会稽山(かいけいざん)に翻(ひるがえ)し、今の斎藤別当はその名を北国の町にあげたということあろうか。
朽ちもしない空しい名前だけをそこに残して、屍(かばね)は越路の末の塵となるのは悲しい事であった。
去る四月十七日、十万余騎で都を出発した時の様子は、誰が敵対できるとも見えなかったのに、今五月下旬に帰り上る時には、その勢力わずかに残り二万余騎、「流れに居る魚を取る時は全て、多くの魚を得たと言っても、次の年に魚はいない。林を焼いて刈る時は、多くの獣得たりといえども明年には獣がいない。後の事を考えて少しは都に兵を残されるべきであったのに」と申す人々もあったとかいうことだ。
語句
■一年東国へむかひ候ひし時 富士川の合戦のこと(巻五「富士川」)。 ■蒲原 静岡県静岡市清水区蒲原町。 ■さらんにとっては さあらんにとっては。それについては。「さ」は討ち死にすること。 ■実盛もと越前国の者で 『尊卑分脈』には武蔵国長井斎藤実直の子とある。長井は埼玉県熊谷市西野。斎藤別当実盛館跡が残る。 ■御領について 実盛が平家の荘園の別当になったことをさす。 ■故郷へは錦を着て帰れ 「富貴ニシテ故郷ニ帰ラザルハ繍(にしき)ヲ衣(き)テ夜行クガ如シ」(史記・項羽本紀、漢書・朱買臣伝)。 ■朱買臣 漢の武帝の世の人。貧しかったが故郷の会稽郡の太守となった時、錦の直垂を着た。所謂「故郷に錦を飾る」の故事。『源氏物語』にも朱買臣の故事にもとづく歌がある。 ■会稽山 中国浙江省紹興県東南の山。 ■朽ちもせぬむなしき名のみ 「朽ちもせぬその名ばかりを留めおきて枯野の薄 かたみにぞ見る」(新古今、山家集 西行)。 ■事がら 事のようす。 ■流をつくして… 「雍季曰ク、沢ヲ渇シテ漁スレバ、豈獲得セザラムヤ、而モ明年魚無シ。藪ヲ焚キテ田(かり)スレバ、豈獲得セザラムヤ、而モ明年獣無シ」(呂氏春秋・義賞篇)。ぜんぶ取ってしまってはいけないという戒め。
『源平盛衰記』によると、斎藤別当実盛は久寿二年(1155)、武蔵国の源義賢が甥の悪源太義平にほろぼされた「大蔵合戦」の時、生き残った駒王丸…後の木曽義仲をかばい、木曽山中に逃しました。
そこで義仲は木曾の豪族中原兼遠に養育され、成人したわけです。実盛は義仲にとって命の恩人です。
それが、このような悲痛な形で再会となったわけですが、義仲の心中はまったく語られず想像にゆだねられるところがいいですね。
樋口次郎兼光の「あなむざんや」の一言が、どんな心理描写よりも雄弁に義仲の思いを語っています。
松尾芭蕉は『おくのほそ道』の旅の中で、斎藤別当の甲をおさめた加賀国太田神社(石川県小松市)をたずね、「むざんやな甲の下のきりぎりす」とよんでいます。
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