平家物語 百三 玄肪(げんぼう)

平家物語巻第七より「玄昉(げんぼう)」。北陸での戦乱が長引くにつれ朝廷ではさまざまな祈りが捧げられた。そして戦乱がしずまれば安徳天皇が伊勢大神宮へ行幸することが言い渡される。これに関連して、奈良時代の僧玄昉の逸話が引用される。

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あらすじ

北国では平家の名だたる武将らが命を落とした。わが子の死を知った上総督忠清、飛騨督景家は嘆きのあまり命を落とした。

六月一日、戦乱平定のため法皇が伊勢大神宮へ行幸されることが言い渡される。

天平の頃、玄昉(玄房)僧正という僧は朝廷に反旗を翻した藤原広嗣を調伏したが後にその怨霊に首をもがれた。

この玄昉僧正は吉備真備が唐へ渡ったとき付き添いをし、仏教の一派である法相宗を伝えた人である。

「玄昉」という名について唐人が不吉な占いをした。「玄昉とは還って亡ぶという意味だ。日本に帰ってから災難があるだろう」と。それが実現してしまったのである。

玄房が首をもがれて後の天平十九年、興福寺の庭に「玄昉」と書かれた頭蓋骨が落ち、大きな笑い声が響いたという。

こんなことがあったので藤原広嗣の怨霊をなだめるため神扱いにし松浦の鏡の宮にまつったのである。

また嵯峨天皇の時代、先帝平城上皇が愛妾の薬子、その兄藤原仲成にそそのかされて嵯峨天皇と対立したことがあった(平城太上天皇の変/薬子の変)。

その時は帝の第三皇女、有智内親王を賀茂の斎院として戦乱が静まることを祈った。

こうした例に倣い、今回も様々の祈祷が持たれた。

原文

上総守忠清(かずさのかみただきよ)、飛騨守景家(ひだのかみかげいへ)は、一昨年(おととし)入道相国薨(こう)ぜられける時、共に出家したりけるが、今度北国にて子ども皆ほろびぬと聞いて、其思(そのおもひ)のつもりにや、つひに歎死(なげきじに)にぞ死ににける。是(これ)をはじめて、親は子におくれ、婦(め)は夫(をつと)にわかれ、凡(およ)そ遠国近国(ゑんごくきんごく)もさこそありけめ、京中(きやうぢゆう)には家々に門戸を閉ぢて、声々(こゑごゑ)に念仏申し、をめきさけぶ事おびたたし。

六月一日(ひとひのひ)、蔵人右衛門権佐定長(くらんどのうゑもんのごんのすけさだなが)、神祇権少副(じんぎのごんのせう)大中臣親俊(おほなかとみのちかとし)を殿上(てんじやう)の下口(しもぐち)へ召して、兵革(ひやうがく)しづまらば、大神宮(だいじんぐう)へ行幸(ぎやうがう)なるべきよし仰せ下さる。

大神宮は高間原(たかまのはら)より天(あま)くだらせ給ひしを、崇神天皇(しゆじんてんわう)の御宇(ぎよう)廿五年三月に、大和国笠縫(やまとのくにかさぬひ)の里より伊勢国度会郡(いせのくにわたらひのこほり)五十鈴(いすず)の河上(かはかみ)、下(した)つ石根(いはね)に大宮柱(おほみやばしら)をふとしきたて、祝(あが)めそめ奉(たてま)ッてよりこのかた、日本六十余州、三千七百五十余社の大小の神祇冥道(じんぎみやうだう)のなかには無双(ぶさう)なり。されども代々(よよ)の御門(みかど)臨幸(りんかう)はなかりしに、奈良御門(ならのみかど)の御時、左大臣(さだいじん)不比等(ふひとう)の孫、参議式部卿宇合(さんぎしきぶきやううがふ)の子、右近衛権少将(うこんゑのごんのせうしやう)兼(けん)太宰少弐藤原広嗣(だざいのせうにふじはらのひろつぎ)といふ人ありけり。天平(てんぴやう)十五年十月、肥前国松浦郡(ひぜんのくにまつらのこほり)にして、数万(すまん)の凶賊(きやうぞく)をかたらッて国家を既にあやぶめんとす。是によッて大野東人(おほののあづまうど)を大将軍にて、広嗣追討せられし時、はじめて大神宮へ行幸(ぎやうがう)なりけるとかや。其例とぞ聞えし。彼(かの)広嗣は肥前の松浦より都へ一日(いちにち)におりのぼる馬を持ちたりけり。追討せられし時もみかたの凶賊おちゆき、皆亡びて後(のち)、件(くだん)の馬にうち乗ッて、海中へ馳(は)せ入りけるとぞ聞えし。その亡霊あれて、おそろしき事どもおほかりけるなかに、天平(てんぴやう)十八年六月十八日、筑前国御笠郡太宰府(ちくぜんのくにみかさのこほりだざいふ)の観世音寺(くわんぜおんじ)、供養ぜられける導師には、玄肪(げんぼう)僧(そう) 正(じやう)とぞきこえし。高座にのぼり敬白(けいひやく)の鐘うちならす時、俄(にはか)に空かき曇り、雷(いかづち)おびたたしう鳴ッて玄肪の上におちかかり、その首(かうべ)をとッて雲のなかへぞ入りにける。広嗣調伏(てうぶく)したりけるゆゑとぞ聞えし。

彼(かの)僧正は、吉備大臣入唐(きびのだいじんにつたう)の時あひともなッて、法相宗(ほつさうじゆう)わたしたりし人なり。唐人(たうじん)が玄肪(げんぼう)といふ名をわらって、 「玄肪とはかヘッてほろぶといふ音あり。いか様にも帰朝の後(のち)事にあふべき人なり」と相(さう)したりけるとかや。 同(おなじき)天平十九年六月十八日、しやれかうべに玄肪といふ銘を書いて、興福寺(こうぶくじ)の庭におとし、虚空(こくう)に人ならば千人ばかりが声で、どッとわらふ事ありけり。興福寺は法相宗の寺たるによッてなり。彼(かの)僧正の弟子共是(これ)をとッて塚(つか)をつき、其(その)首をさめて頭(づ)墓(はか)と名付けて今にあり。
是則ち広嗣が霊のいたすところなり。是によッて彼亡霊(かのぼうれい)を崇(あが)められて、今松浦(まつら)の鏡の宮と号(かう)す。

嵯峨皇帝(さがのくわうてい)の御時は、平城(へいぜい)の先帝(せんてい)、内侍(ないし)のかみのすすめによッて世を乱(みだ)り給ひし時、その御祈(おんいのり)の為(ため)に御門(みかど)、第三皇女有智内親王(だいさんのくわうぢよいうちないしんわう)を賀茂の斎院(さいいん)にたて参らせ給ひけり。是斎院のはじめなり。朱雀院(しゆしやくゐん)の御宇(ぎよう)には、将門(まさかど)、純友(すみとも)が兵乱(ひやうらん)によって八幡(やはた)の臨時の祭をはじめらる。今度もかやうの例をもッてさまざまの御祈共はじめられけり。

現代語訳

上総守忠清(かずさのかみただきよ)、飛騨守景家(ひだのかみかげいえ)は、一昨年入道相国がお亡くなりになった時、共に出家したが、今度北国にて子供が皆死んだと聞いて、その歎きの思いが積ったのだろうか、遂に歎き悲しんで死んでしまった。これをはじめとして、親は子に先立たれ、妻は夫と死に別れ、おおかた遠国の戦でも近国の戦でもそうであったそうだ、京都では町中(まちじゅう)家々に門戸を閉じて、声々に念仏を唱え、おびただしくわめき叫ぶ声が聞えた。

六月一日(ついたち)、蔵人右衛門権佐定長(くらんどのうえもんのすけさだなが)は、神祇権少副大中臣親俊(じんぎのごんのしょうおおなかとみのちかとし)を殿上の下口へ呼んで、戦が治まったら伊勢大神宮へ行幸なさるはずであることを仰せ下される。

大神宮は高天原(たかまがはら)より天下られたのを、崇神天皇の御代二十五年三月に、大和国(やまとのくに)笠縫(かさぬい)の里から伊勢国度会郡五十鈴川(いせのくにわたらいのこおりいすずがわ)のほとりの地下の岩を礎石として大宮柱をしっかりと立て、崇め奉って以来、日本六十余州、三千七百五十余社の大小の神々の中で並ぶもののない神である。けれども代々の御門がお出かけになることはなかったが、奈良の御門(聖武天皇)の御時、左大臣不比等(ふひと)の孫、参議式部卿宇合(しきぶのきょううごう)の子、右近衛権少将兼太宰少弐藤原広嗣(うこんえのごんのしょうしょうけんだざいのしょうにふじわらのひろつぎ)という人がいた。この男が、天平十五年、肥前国松浦郡にて数万人の凶賊を自分の仲間に引き入れて国家を滅ぼそうとする。この騒乱を鎮めるため、大野東人(おおのあずまびと)を大将軍にして広嗣を追討せられし時、その戦勝祈願の為にはじめて大神宮へ行幸なさったということだ。今度の行幸はその例によるものだという。その広嗣は肥前の松浦から都までを一日で往復できる俊足の馬を持っていた。追討された時も味方の凶賊が逃げ去り、皆亡びた後、件の馬に打ち乗って、海中へ馳せ入ったということであった。後にその亡霊が荒れて恐ろしい事が多く起ったが、その中で、天平十八年六月十八日、筑前国御笠郡太宰府の観世音寺における供養の行事で、供養に当たられた導師が玄肪(げんぼう)僧正ということであった。高座に登り法会の始まりを告げる鐘を打ち鳴らす時、突然に空が掻き曇り、雷が激しく鳴り響いて玄昉の上に落ちかかり、その首を取って雲の中へ入っていった。そのような事が起ったのは玄昉が広嗣を調伏(ちょうふく)した為だということであった。

その僧正は吉備(きび)の大臣(吉備真備(きびのまきび))が入唐された時、一緒に連れ立って唐へ渡り、法相宗(ほっしょうしゅう)を日本に伝えた人である。唐人が玄昉という名を笑って、「玄昉とは環亡(帰ってから滅ぶ)というのと発音が同じである。どうみても帰朝の後に事件に会う人である」と占いに現れたそうである。同じ天平十九年六月十八日、しゃれこうべに玄昉という銘を書いて、興福寺の庭に落し、空中で人であるならば千人ばかりの声でどっと笑うという事があった。興福寺は法相宗の寺である為である。かの僧正の弟子共がこれを取って塚を築き、その首を納めて頭塚(ずづか)と名付けて今もある。これは即ち広嗣の霊が行った事である。この事件によって広嗣の亡霊が崇められ、現在、松浦(まつら)の鏡の宮と号す神社に祭られている。

嵯峨天皇の御代には、平城の先帝が尚侍(ないしのかみ)藤原薬子(くすりこ)の勧めによって再び天皇の位に返り咲こうとして戦乱をお起しになった時、それを平定するための御祈りのために御門が、第三皇女有智内親王(ゆうちないしんのう)を加茂神社の斎院(さいいん)におたてになった。これが斎院のはじまりである。朱雀院(すざくいん)の御代には、平将門(たいらのまさかど)、藤原純友(ふじわらのすみとも)の乱によって石清水(いわしみず)八幡宮の臨時の祭りが始められた。今度もこのような例によって様々な御祈祷が始められた。

語句

■玄肪 底本「還亡」。屋代本・延慶本などにより玄肪と表記。 ■上総守忠清 藤原忠清。実際はこの時上総介。上総は親王任国であり、介が実際上の守にあたる)。 ■飛騨守景家 底本「飛騨督景家」。藤原忠清の弟(巻ニ「西光被斬」)。 ■子ども皆ほろびぬ 忠清の子の上総大夫判官忠綱、景家の子の飛騨大夫判官景高が侍大将として出陣し(巻七「北国下向」)、倶利伽羅峠の合戦で戦死(巻七「倶梨伽羅落」)。 ■嘆死にぞ死ににける 悲しみのあまり死んだ。諸本により記述が異なる。屋代本では景家のみ嘆き死に。源平盛衰記では水島合戦・児島合戦に忠清・景家の名が見え、忠清は壇ノ浦後に降伏し斬られる。 ■六月一日 『百錬抄』では六月十三日。 ■定長 藤原定長。藤原為隆の孫。元房の子。養和元年(1181)蔵人、寿永元年(1182)右衛門権佐兼任(巻四「源氏揃」)。 ■神祇権少副 少副は神祇官の三等官。 ■殿上の下口 清涼殿南東の戸口。無名門。殿上門。 ■兵革 戦乱。 ■高間原 正しくは高天原。 ■崇神天皇 正しくは垂仁天皇か。『日本書紀』には崇神天皇六年に笠縫邑(奈良県磯城郡田原本町新木(にき))に祭り、垂仁天皇の二十五年三月に伊勢に祭ったとある。 ■河上 川のほとり。 ■下つ岩根 地下の岩盤。 ■ふとしきたて 厳しく立てて。 ■三千七百五十余社 「天神地祇惣て三千一百三十ニ座」(延喜式)、「五畿七道諸国境内天神地祇三千一百三十四神」(三代実録)。 ■冥道 人の目に見えない仏や天。 ■奈良御門 聖武天皇。 ■左大臣不比等 藤原不比等。鎌足の子。 ■宇合 藤原宇合。藤原式家の祖。 ■天平十五年十月 実際は天平十ニ年(740年)九月。大宰少弐藤原広嗣は、橘諸兄が吉備真備・玄昉を優遇することに反発し、九州で反乱を起こしたが、肥前国松浦で捕らえられた。 ■大野東人 蝦夷地平定に功績があった。広嗣の乱を平定したため従三位となる(『おくのほそ道』壺の碑)。 ■行幸なりける 『続日本紀』天平十二年十月条に「伊勢国ヘ行幸ス」と。 ■一日におりのぼる馬 一日で都と現地を往復する馬。『今昔物語』巻十第六。 ■天平十八年六月十八日 底本「天平十六年」とあるのを『扶桑略記』および平家物語諸本等により修正。「天平十七年十一月乙卯、玄昉法師ヲ遣ハシ筑紫観世音寺ヲ造ラシム」(続日本紀)。 ■観世音寺 現太宰府市。天智天皇が亡母・斉明天皇の菩提を弔うために建立と伝える。670年頃造営が始まり、完成は80年後の天平18年(746)。 ■玄昉僧正 底本「玄房」。以下同じ。玄昉は養老元年(717年)吉備真備・阿倍仲麻呂らとともに遣唐使として中国に渡り、玄宗皇帝より三品(さんぽん)の位に叙せられ、18年後に帰国した。帰国後は奈良の朝廷で吉備真備とともに橘諸兄政権下で重く用いられた。しかし九州に左遷された藤原広嗣に恨まれる。広嗣は「吉備真備と玄昉の左遷」を求めて天平12年(740年)、九州で兵を挙げた(藤原広嗣の乱)。すぐに反乱は鎮圧され、その後も玄昉は橘諸兄政権を支え続けたが、橘諸兄が失脚し藤原仲麻呂が政権を握ると、玄昉は疎まれ、天平17年(745)大宰府観世音寺別当に左遷された。そして赴任の翌年、観世音寺造立供養の日に死んだ。 ■敬白 つつしんで本尊に申し上げること。 ■吉備大臣 吉備真備。玄昉として遣唐使として唐へ渡った。 ■法相宗 玄昉がはじめて法相宗を伝えたわけでなく、はじめては白雉四年(653)に渡唐した道昭とされる。唯識論を掲げる。 ■かへッてほろぶ 還亡。 ■頭墓 興福寺の南東約600メートルのところにあったとされる(『南都七大寺巡礼記』)。 ■松浦の鏡の宮 佐賀県唐津市鏡にある鏡神社。藤原広嗣はその南西の板櫃神社に祭られたが、混同されて板櫃神社も鏡の宮とよばれるようになった。 ■内侍のかみのすすめによって… 平城上皇が、尚侍藤原薬子とその兄仲成のすすめで都を平城京にもどそうと画策した事件。嵯峨天皇はこれを食い止め、仲成は射殺され、薬子は毒を飲まされて死んだ。平城太上天皇の変、薬子の変。 ■有智内親王 有智子(うちこ)内親王。弘仁元年(810)、初代賀茂の斎院。 ■八幡 石清水八幡宮。石清水臨時祭は旧暦三月午の日に行われた。

……

北陸で戦が長引いている。なんとかこれを鎮めたいということでさまざまの祈りが行われ、戦乱がしずまったあかつきには安徳天皇が伊勢大神宮に行幸する旨が仰せくだされる。

それに関連して、奈良時代の僧、玄昉のエピソードが引用されるという回でした。

みなさまも昔歴史の授業でならったと思います。740年藤原広嗣の乱。

橘諸兄政権下で、吉備真備と玄昉ばかりが重く扱われていて、藤原氏が落ち目であることに不満を抱いた藤原広嗣が、九州で反乱を起こした事件です。

この時、僧玄昉が、藤原広嗣調伏の祈りをしたと。やがて広嗣は追い詰められて処刑されますが、ずいぶん恨みを残して死んだんですね。

後に、玄昉は藤原仲麻呂政権下では落ち目になり、大宰府の観世音寺の別当に左遷されます。その落慶式の日に、あらわれた藤原広嗣の怨霊が、玄昉の首をズボーーーと引っこ抜いて、空高く持ち去ったと、そんなエピソードです。

太宰府観世音寺の裏手に、現在も玄昉の墓はひっそりと立っています。

朗読・解説:左大臣光永

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