平家物語 百六 平家山門連署(へいけさんもんへのれんじよ)

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木曽義仲の上洛に際し平家は延暦寺に書状を送り、平家に味方するよう呼びかける。

しかし比叡山はすでに源氏に与することを決定した後だった。

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前回「返牒(へんちょう)」からの続きです。
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あらすじ

木曾義仲の書状によって、山門(比叡山延暦寺)は義仲に同心することに決定した(「木曾山門牒状」「返牒」)。

平家はそれを知らず、比叡山に書状を送る。

源頼朝、木曽義仲、源行家、またそれに同心する源氏らの暴虐を訴え、もともと延暦寺を創設した桓武天皇は平家の先祖でもあり、平家と山門は根を同じくするものだ、もし平家に味方するなら末長く平家と山門は苦楽を共にするだろうと訴える。

天台座主明雲大僧正は三日間祈祷した後この書状を衆徒に公表した。

すると最初はなかった平家の凋落を暗示する歌が願書の包み紙にあらわれた。

すでに源氏に味方すると書状を送った以上、いまさら身を翻すわけにもいかないと、誰も平家に味方しなかった。

原文

平家はこれを知らずして、「興福園城(こうぶくをんじやう) 両寺は鬱憤(うつぷん)をふくめる折節なれば、かたらふともよもなびかじ。当家(たうけ)はいまだ山門のためにあたをむすばず、山門又当家のために不忠を存ぜず。山王大師(さんわうだいし)に祈誓して、三千の衆徒をかたらはばや」とて、一門の公卿(くぎやう)十人、同心連署(どうしんれんじよ)の願書(ぐわんじよ)を書いて山門へ送る。其状に云(いはく)、

敬白(うやまつてまうす)、延暦寺(えんりやくじ)をもッて氏寺(うぢでら)に准(じゆん)じ、日吉(ひよし)の社(やしろ)をもッて氏社(うぢやしろ)として、一向天台(いつかうてんだい)の仏法を仰ぐべき事。

右当家一族の輩(ともがら)、殊(こと)に祈誓する事あり。旨趣如何者(しいしゆいかんとなれば)、叡山(えいさん)は是桓武天皇(くわんむてんわう)の御宇(ぎよう)、伝教大師(でんげうだいし)入唐(につたう)帰朝の後、円頓(ゑんどん)の教法(けうぼふ)を此所(このところ)にひろめ、遮那(しやな)の大戒(だいかい)を其内(そのうち)に伝へてよりこのかた、専(もつぱ)ら仏法繁昌の霊崛(れいくつ)として、鎮護国家の道場にそなふ。方(まさ)に今、伊豆国(いづのくに)の流人(るにん)源頼朝(みなもとのよりとも)、其身(そのみ)の咎(とが)を悔(く)いず、かへッて朝憲(てうけん)を嘲(あざけ)る。しかのみならず、奸謀(かんぼう)にくみして同心をいたす源氏等(ら)、義仲(よしなか)、行家以下(ゆきいへいげ)党を結ンで数(かず)あり。隣境遠境数国(りんけいゑんけいすこく)を掠領(りやうりやう)し、土宜土貢万物(とぎどこうばんぶつ)を押領(おふりやう)す。これによッて、或(あるい)は累代勲功(るいたいくんこう)の跡をおひ、或(あるい)は当時弓馬(きゆうば)の芸にまかせて、速(すみ)やかに、賊徒を追討し、凶党を降伏(がうぶく)すべき由、いやしくも勅命をふくんで頻(しき)りに征(せい)罰(ばつ)を企(くはた)つ。爰(ここ)に魚鱗鶴翼(ぎよりんかくよく)の陣、 官軍利をえず、星旄電戟(せいぼうてんげき)の威(ゐ)、逆類(ぎやくるい)勝つに乗るに似たり。

若(も)し神明仏陀(しんめいぶつだ)の加被(かび)にあらずは、争(いか)でか反逆(はんぎやく)の凶乱をしづ めん。是(これ)を以て一向天台之仏法に帰し、不退日吉之神恩を憑(たの)み奉る耳(のみ)。何(いか)に況(いはん)や、忝(かたじけな)く臣等(しんら)が曩祖(なうそ)を思へば、本願(ほんぐわん) の余裔(よえい)といッつべし。弥(いよいよ)崇重(そんちやう)すべし、弥恭敬(くぎやう)すべし。自今以後(じごんいご)山門に悦(よろこび)あらば一門の悦とし、社家(しやけ)に憤(いきどほり)あらば一家(いつか)の憤として、おのおの子孫に伝へてながく失堕(しつだ)せじ。藤氏(とうじ)は春日社(かすがのやしろ)興福寺をもッて氏社氏寺(うぢやしろうぢでら)として、久しく法相大乗(ほつさうだいじよう)の宗(しゆう)を帰(き)す。平氏は日吉社(ひよしのやしろ)延暦寺(えんりやくじ)をもッて氏社氏寺として、まのあたり円実頓悟(ゑんじつとんご)の教(けう)に値遇(ちぐ)せん。かれはむかしの遺跡(ゆいせき)なり、家のため栄幸(えいかう)を思ふ。これは今の精祈(せいき)なり、君のため追罰(ついばつ)をこふ。仰ぎ願はくは、山王七社王子眷属(さんわうしちしやわうじけんぞく)、東西満山護法聖衆(とうざいまんざんごほふしやうじゆ)、十二上願日光月光(じふにじやうぐわんにつくわうげつくわう)、医王善逝(いわうぜんぜい)、無二(むに)の丹誠(たんぜい)を照(てら)して唯一(ゆゐいち)の玄応(けんおう)を垂(た)れ給へ。然れば則ち邪謀逆臣(じやぼうげきしん)の賊、手を君門(くんもん)につかね、暴逆残害(ぼうぎやくさんがい)の輩(ともがら)、首(かうべ)を京土(けうど)に伝へん。仍(よつ)て当家(たうけ)の公卿等異口同音(くぎやうらいくどうおん)に礼(らい)をなして祈誓(きせい)如件(くだんのごとし)

現代語訳

平家はこの事を知らずに、「興福寺・園城寺の両寺は南都焼き討ちの平家への憤りを持っている時期なので味方するよう誘いかけてもよもやなびくことはあるまい。当家はまだ山門の為に恨みを買うようなことをしておらず、山門も又当家の為に忠義に欠けるような事をしていない。山王大師にお願いして、三千の衆徒を味方につけたい」といって、一門の公卿十人が同意見の連署の願書を書いて山門へ送る。その状に次のように記した。

敬白、延暦寺を平家の氏寺に準じ、日吉の社を氏寺として、ひたすら一向天台の仏法を仰ぐつもりであること。
右は当家一族の者が特に祈誓する事であります。その訳はどういうことかと申しますと、叡山は桓武天皇の御代、伝教大師が唐から帰朝された後、、円頓(えんどん)の教法(きょうほう)を此処に広め、大日如来の大戎を叡山の内に伝えて以来、もっぱら仏法繁昌の霊山として、鎮護国家の役割を果たしている。ちょうど今、伊豆国の流人源頼朝はその身の罪を悔いず、かえって朝廷の定めた法をないがしろにしている。そればかりではなく、悪だくみに賛同する源氏等、義仲、行家以下の者たちが多くの徒党を組んでいる。遠近の数国をかすめ取り、地方の産物・朝廷への献上品を横領している。そのために、我が平氏は、ある場では先祖代々の勲功の跡にならい、ある場では今の武力を頼みとして、速やかに賊徒を追討し、悪党どもを降服させるべく畏れ多くも勅命をいただいて源氏の征伐を計画している。ここに魚鱗鶴翼の陣を張って戦っているが、官軍に不利であり、多くの軍勢の威力をもってしても逆賊が勝ちそうな状態である。もし神仏の加護が無ければ、どうして反逆の狂乱を鎮める事ができましょうか。それゆえ我々は、ひたすら一向天台の仏法に帰依し、退くことなく日吉の神恩をお頼みするだけである。ましてや忝くも我等の先祖の事を思えば、我等平家は延暦寺を建立された桓武天皇の子孫である。我等平家はいよいよもって貴寺を尊重すべきであるし、ますます慎み敬わなければならない。これから先は、山門に喜ばしい事があれば平家一門の喜びとし、日吉神社に憤る事があれば、平家の憤りとして、それぞれ子孫に伝えてその思いをながく忘れる事は無いであろう。藤原氏は春日神社・興福寺をもって氏社・氏寺として、長く法相宗に帰依していた。我等平氏は日吉神社・延暦寺をもって氏社・氏寺とし親しく天台の教えを信奉するであろう。春日社・興福寺は昔からの遺跡であり、藤原家の栄幸を願うものである。日吉社・延暦寺には今心をこめてお祈りするものであり、君の為、源氏を追い罰を与えられん事を願うものである。仰ぎ願わくば、山王七社とその末社、比叡山の東西の峰を始めとして全山に満ちて仏法を護る菩薩、人類を救済する十二の大願を立てられた日光、月光の両菩薩と薬師如来よ、我々の無二の真心を御照覧あって唯一の感応をお示しください。そうすれば邪悪な逆賊は吾軍門に手を合せて屈服し、暴逆残害を行う者共の首を都に送る事ができましょう。よって当家の公卿等が異口同音に祈誓する事、この通りである。

語句

■鬱憤 興福寺園城寺が高倉宮に味方し、平家が両寺を焼き討ちにしたことによる遺恨。 ■山王大師 日吉山王権現のこと。 ■願書 神仏への願文の体で延暦寺に書状を送った。 ■遮那 「毘盧遮那仏」の略。毘盧遮那仏の正体については宗派によって解釈がまちまちだが、密教では大日如来と同一と見る。 ■霊崛 霊験あらたかな岩穴。 ■鎮護国家 仏教の力で国を治めるという考え。 ■朝憲 朝廷の定めた法。 ■掠領 かすめ取る。 ■土宜土貢 「土宜」は地方の特産物。「土貢」はそれを朝廷に貢ぐこと。 ■いやしくも 分に過ぎたことではあるが。 ■魚鱗鶴翼の陣 魚鱗は魚の鱗のように中央が突出した陣形。鶴翼は鶴が羽を広げたような陣形。 ■星旄電戟 「星旄」は星のごとく連なる旗。「電戟」は電雷のごとくきらめく矛。軍隊のこと。 ■逆類 逆賊。 ■加被 加護。 ■是を以て 以下「憑み奉る」まで屋島本により補足。 ■一向 ひたすら。 ■不退 退くことなく。ひたすら。一向とほぼ同意。 ■本願 寺院建立の願を立てた人。延暦寺は桓武天皇の勅願。平家は桓武天皇の末裔。 ■法相大乗 法相宗。南都六宗の一。唯識論を特徴とする。 ■円実頓悟の教 天台の法門。 ■値遇 前世からの宿縁によって現世でめぐりあうこと。 ■かれは 春日社・興福寺。次の「これ」は延暦寺。 ■遺跡 古くからの仏教の霊場。 ■精祈 心をこめて祈る(所)。 ■山王七社 日吉社の本社と摂社をあわせた七社を山王七社という。内訳は、大宮権現・地主権現・聖真子・八王子・客人・十禅師・三宮。はじめのニ社を山王ニ社といい、はじめの三社を両所三聖という。 ■王子 日吉社の末社の名。 ■眷属 一族である氏社。 ■東西満山護法聖衆 「東西」は比叡山の東峰(大岳)と西峰(四明岳)。聖衆は菩薩たち。 ■十二上願 薬師如来の発する十ニの大願。 ■日光月光 薬師如来の脇侍仏。日光菩薩・月光菩薩。 ■医王善逝 薬師如来。延暦寺根本中堂の本尊。 ■玄応 霊験あらたかな感応。感応は人の願いに対して神仏が応ずること。 ■君門 宮門。 ■礼をなして 底本「雷」。

原文

從三位行兼越前守(じゆさんみぎやうけんゑちぜんのかみ) 
平(たひらの) 朝臣(あつそん)通盛(みちもり)
従三位行兼右近衛中将(うこんゑのちゆうじやう)
平(たひらの) 朝臣(あつそん)資(すけ)盛(もり)
正三位(じやうざんみ)行左近衛権中将(さこのゑのごんのちゆうじやう)兼伊予守(いよのかみ)
平(たひらの) 朝臣(あつそん)維盛(これもり)
正三位行左近衛中将(さこんゑのちゆうじやう)兼播磨守(はりまのかみ)
平(たひらの) 朝臣(あつそん)重衡(しげひら)
正三位行右衛門督(うこんゑのかみ)兼近江遠江守(あふみとほたふみのかみ)
平(たひらの) 朝臣(あつそん)清宗(きよむね)
参議(さんぎ)正三位皇太后宮大夫(くわうだいこくうのだいぶ)兼修理大夫加賀越中守(しゆりのだいぶかがゑつちゆうのかみ)
平(たひらの) 朝臣(あつそん)経盛(つねもり)
從二位(じゆにゐ)行中納言(ちゆうなごん)兼左兵衛督征夷大将軍(さひやうゑのかみせいいたいしやうぐん)
平(たひらの) 朝臣(あつそん)知盛(とももり)
從二位(じゆにゐ)行中納言(ちゆうなごん)兼肥前守(ひぜんのかみ)
平(たひらの) 朝臣(あつそん)教盛(のりもり)
正弐位(じやうにゐ)行権大納言(ごんだいなごん)兼出羽陸奥按察使(ではみちのくのあぜつし)
平(たひらの) 朝臣(あつそん)頼盛(よりもり)
従(じゆ)一位(いちゐ)
平(たひらの) 朝臣(あつそん)宗盛(むねもり)
寿永二年七月五日(いつかのひ)         敬白(うやまつてまうす)
とぞ書かれたる。

貫首是(くわんじゆこれ)を憐(あはれ)み給ひて、左右(さう)なうも披露(ひろう)せられず、十禅師(じふぜんじ)の御殿(ごてん)にこめて三日加持(さんにちかぢ)して、其後(そののち)衆徒に披露せらる。はじめはありとも見えざりし一首の歌、願書の上巻(うはまき)にできたり。

たひらかに花さくやども年ふれば西へかたぶく月とこそなれ

山王大師あはれみをたれ給ひ、三千の衆徒力を合(あは)せよとなり。されども年ごろ日比(ひごろ)のふるまひ、神慮にもたがひ、人望(じんぼう)にもそむきにければ、いのれどもかなはず、かたらへどもなびかざりけり。大衆まことに事の体(てい)をば憐(あはれ)みけれども、「既に源氏に同心の返牒をおくる。今又かろがろしく其儀をあらたむるにあたはず」とて是を許容する衆徒もなし。

現代語訳

從三位行兼越前守(じゅさんみぎょうけんえちぜんのかみ) 
平朝臣通盛(たいらのあっそんみちもり)
従三位行兼右近衛中将(うこんえのちゅうじょう)
平朝資臣盛(たいらのあっそんすけもり)
正三位(しょうざんみ)行左近衛権中将(さこんえのごんのちゅうじょう)兼伊予守(いよのかみ)
平朝臣維盛(たいらのあっそんこれもり)
正三位行左近衛中将(さこんえのちゅうじょう)兼播磨守(はりまのかみ)
平朝臣重衡(たいらのあっそんしげひら)
正三位行右衛門督(うこんえのかみ)兼近江遠江守(おうみとうとうみのかみ)
平朝臣清宗(たいらのあっそんきよむね)
参議(さんぎ)正三位皇太后宮大夫(こうたいごうぐうのだいぶ)兼修理大夫加賀越中守(しゅりのだいぶかがえっちゅうのかみ)
平朝臣経盛(たいらのあっそんつねもり)
從二位(じゅにい)行中納言(ちゅうなごん)兼左兵衛督征夷大将軍(さひょうえのかみせいいだいしょうぐん)
平朝臣知盛(たいらのあっそんとももり)
從二位(じゅにい)行中納言(ちゅうなごん)兼肥前守(ひぜんのかみ)
平朝臣教盛(たいらのあっそんのりもり)
正弐位(しょうにい)行権大納言(ごんだいなごん)兼出羽陸奥按察使(でわみちのくのあぜつし)
平朝臣頼盛(たいらのあっそんよりもり)
従(じゅ)一位(いちい)
平朝臣宗盛(たいらのあっそんむねもり)
寿永二年七月五日         敬白
と書かれといた。

天台座主は是を哀れにお思いになってすぐには披露なさらない。日吉山王七社の一つである十禅寺の社殿に納めて三日間加持祈祷を行い、その後で衆徒に披露された。はじめはあるのがわからなかった一首の歌が願書の上にあった紙に現れた。

たひらかに花さくやども年ふれば西へかたぶく月とこそなれ
(平穏無事に花が咲くように栄えた平家も年がたつと西へ傾く月と同じように凋落したことよ)

この願書の趣旨は「山王大師よ、憐みを垂れたまい、我一門を救うために三千の衆徒の力を合せてくれ」というものである。しかしながら平家の日頃の振舞、神の意思とも異なり、人望も失っていたので、祈りが叶う事は無く、呼びかけるがなびかない。大衆は真実この事態に憐みを感じたが「既に源氏に同意する返諜を送っている。今又軽々しくそれを改めることはできない」と言って、この平家の申し入れを許し認める衆徒もいなかった。

語句

■行 官に対して位が高いこと。たとえば資盛は従三位で右近衛中将だが、本来右近衛中将は従四位相当であり、従三位に対しては低い。こういう時「行」をつける。 ■貫主 天台座主。 ■十禅師 山王七社の一。地蔵菩薩を本尊とし瓊瓊杵命(ニニギノミコト)を祭る。 ■上巻 書状などを包む表紙となる紙。 ■たひらかに… 「たひらか」は平穏無事・平家・平安京の意をかける。「月」は月日の月と天体の月をかける。今月中に平家が都落ちする暗示。

朗読・解説:左大臣光永

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