平家物語 百十 忠度都落(ただのりのみやこおち)

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本日は平家物語巻第七より「忠教都落(ただのりの みやこおち)」です。(「忠度」とも)薩摩守忠教(さつまのかみ ただのり)は都落ちに際し、歌道の師俊成に今まで書き集めた歌を託します。

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前回「聖主臨幸(せいしゆりんかう)」からのつづきです。
https://roudokus.com/Heike/HK109.html

あらすじ

木曾義仲の軍勢が都へ迫り、平家一門は西国へ落ち延びていく。

その中に薩摩守忠度(忠教)は都落ちの途中で引き返し、歌道の師、俊成卿の邸を訪ねる。

俊成に対面した忠度は、近年は忙しさにかまけ訪れることも稀になっていたことを侘びる。

そして勅撰集の編纂が今は中断しているが世が平和になって再開された時は一首なりとも入れてほしいと、日ごろから書き溜めていた歌を俊成に託す。

俊成はきっと忠度の願いをかなえるよう約束した。忠度は心置きなく都を落ちていった。

その後、世間が平和になり勅撰集「千載和歌集」が編纂される。

忠度の歌には優れたものが多かったが、朝敵である平家の一員ということで名前を出すことを許されず「よみ人知らず」として一首のみ採用された。

原文

薩摩守忠度(さつまのかみただのり)は、いづくよりやかへられたりけん、侍(さぶらひ)五騎、 童(わらは)一人、わが身(み)共に七騎取って返し、五条の三位俊成卿(さんみしゆんぜいのきやう)の宿所におはして見給へば、門戸(もんこ)を閉ぢて開(ひら)かず。「忠度」 と名のり給へば、「落人(おちうど)帰りきたり」とて、その内さわぎあへり。薩摩守馬よりおり、身づからたからかに宣(のたま)ひけるは、「別(べち)の子細候(しさいさうら)はず。三位殿(さんみどの)に申すべき事あッて、忠度がかへり参って候。 門(かど)をひらかれずとも、此(この)きはまで立寄らせ給へ」と宣ヘば、俊成卿、さる事ある」「其人(そのひと)ならば苦しかるまじ。いれ申せ」とて、門をあけて対面あり。事(こと)の体(てい)何となう哀れなり。薩摩守宣ひけるは、「年来(としごろ)申し承ッて後、おろかならぬ御事に思ひ参らせ候へども、この二三年は京都のさわぎ、国々の乱(みだれ)、併(しか)しながら当家の身の上の事に候間、疎略(そらく)を存ぜずといへども、常に参り寄る事も候はず。君既に都を出でさせ給ひぬ。一門の運命はやつき候ひぬ。撰集(せんじふ)のあるべき由承り候ひしかば、生涯(しやうがい)の面目(めんぼく)に一首なりとも、御恩(ごおん)をかうぶらうど存じて候ひしに、やがて世の乱(みだれ)いできて、其沙汰(そのさた)なく候条、ただ一身の歎(なげき)と存ずる候(ざうらふ)。世しづまり候ひなば、勅撰(ちよくせん)の御沙汰(ごさた)候はんずらむ。是(これ)に候巻物のうちにさりぬべきもの候はば、一首なりとも御恩を蒙(かうぶ)ッて、草の陰にてもうれしと存じ候はば、遠き御まもりでこそ候はんずれ」とて、日比(ひごろ)読みおかれたる歌共のなかに、秀歌(しうか)とおぼしきを百余首、書きあつめられたる巻物を、今はとてうッたたれける時、是(これ)をとッてもたれたりしが、鎧(よろひ)のひきあはせより取りいでて、俊(しゆん)成(ぜいの)卿(きやう)に奉る。三位是をあけてみて、「かかる忘れがたみを給はりおき候ひぬる上は、ゆめゆめ疎略(そらく)を存ずまじう候。御疑(うたがひ)あるべからず。さても唯今(ただいま)の御わたりこそ、情(なさけ)もすぐれてふかう、哀れもことに思ひ知られて、感涙おさへがたう候へ」と宣(のたま)へば、薩摩守悦(よろこ)ンで、「今は西海(さいかい)の浪(なみ)の底に沈まば沈め、山野(さんや)にかばねをさらさばさらせ、浮世(うきよ)に思ひおく事候はず。さらば暇(いとま)申して」とて、馬にうち乗り、甲(かぶと)の緒をしめ、西をさいてぞあゆませ給ふ。三位うしろを遥(はる)かに見おくッてたたれたれば、忠度の声とおぼしくて、「前途程遠(せんどほどとほ)し、思(おもひ)を鴈山(がんさん)の夕(ゆふべ)の雲に馳(は)す」と、たからかに口ずさみ給へば、俊成卿いとど名残(なごり)惜しうおぼえて、涙をおさへてぞ入り給ふ。

其後世(そののちよ)しづまッて、千載集(せんざいしふ)を撰ぜられけるに、忠度のありし有様、いひおきしことの葉、今更思ひ出でて哀れなりければ、彼(かの)巻物のうちに、さりぬべき歌いくらもありけれども、勅勘(ちよくかん)の人なれば、名字(みやうじ)をばあらはされず、「故郷花(こきやうのはな)」といふ題にて、よまれたりける歌一首ぞ、「読人(よみびと)知らず」と入れられける。

さざなみや志賀の都はあれにしをむかしながらの山ざくらかな

其身朝敵(てうてき)となりにし上は、子細(しさい)におよばずといひながら、うらめしかりし事どもなり。

現代語訳

薩摩守忠度は(さつまのかみただのり)は、何処から帰られたのであろうか、侍5騎、童一人、我身一人合せて七騎が引き返し、五条の三位俊成卿(さんみしゅんぜいきょう)の館に来てみたが、門戸を閉じて開こうとしない。「忠度」と名乗られると、「落人が帰って来たぞ」といって、その内では騒ぎ合っている。薩摩守忠度は馬から下りて、自ずから高らかにおっしゃったのは、「ここに寄ったのは、特別わけがあるわけではありません。忠度は、三位殿に申す事があって、戻って参りました。門を開けられないまでも、この門の傍までお寄りください」とおっしゃると、俊成卿は「薩摩守殿が尋ねて来られる事情もあろう。その人なら問題は無かろう。お入れ申せ」といって、門を開けて対面された。様子は何となく哀れである。薩摩守が言われたのは、「ここ数年、歌のご指導を受けて後、俊成殿の事をおろそかに思ったことはございませんでしたが、この二三年は京都での騒動、国々での乱れが生じております。これはまったく平家の身の上のことでございますので、俊成殿の和歌の教えをなおざりには思ってはおりませんが、いつも参り立ち寄る事もできません。君はもう都をお出になられました。一門の運は早くも尽きてしまいました。勅撰集を作る集りがあることを承りましたが、生涯の面目に一首なりとも、俊成殿のご恩によって入選したいと思いましたのが、世の中の乱れが生じ、その知らせもないので、ただひとえに嘆いておるところでございます。世の中が鎮まったならば、勅撰のお知らせがあることでしょう。ここに持参しました巻物のなかに、選ばれてふさわしいと思う歌がございますので、一首なりともご恩を蒙って選ばれ、草葉の陰でも嬉しく思えば、遠いあの世からでも末永く貴方様をお守りすることでしょう」といって、ひごろ読み置いた歌のなかでも、秀歌と思われるものを百余首、書き集めた巻物を、もう発たなくてはと出発される時、これを取って持たれていたが、鎧の胴の合わせ目より取り出して、俊成の卿に差し上げる。三位はこれを開けて見て、「このような忘れ形見をいただきました上は、ゆめゆめ粗略には扱いません。御疑いなさるな。さても今来られたのこそ、情けも勝れて深く、哀れも特に思い知られて、感涙抑えがたいものです」と言われると、薩摩守は喜んで、「今は西海の波の底に沈むなら沈め、山野に屍をさらすならさらせ、浮世に思い残す事はございません。ではお暇(いとま)いたします」と、馬に乗り、甲の緒を締め、西を指して歩ませになる。三位は薩摩守の後姿を遥かに見送って立たれると、忠度の声と思われて、「行先の道のりは遠い。思いを鴈山の夕の雲に馳す」と高らかにくちづさまれると、俊成卿はたいそう名残惜しさを覚えて、涙を押えて家のなかにお入りになった。

その後、世の中が静まった後、千載集に載せる歌を選ばれたが、忠度の生きていた時の有様、言い置いた言葉を今更のように思い出して哀れであった。かの巻物のなかに選ばれるのにふさわしい歌がいくつかあったが、天皇の咎めを受けた人ということで、名字を示さず、「故郷花」という題で読まれた歌を一首、「読人知らず」として選ばれた。

さざなみや志賀の都はあれにしをむかしながらの山ざくらかな
(志賀の都は荒れてしまったが、昔ながらに山桜が咲いているのだなあ)

その身が朝敵になってしまったので、とやかく言えぬ事だが、悲しい残念な事であった。

語句

■五条の三位 五条京極邸にすむ藤原俊成。歌道の家・御子左家の当主。藤原定家の父。『千載和歌集』選者。現在、烏丸五条に「俊成社」がある。 ■さわぎあへり 都落ちにともなう略奪を怖れた。 ■申し承ッて 忠教が俊成に申し上げ、俊成の言葉を承っての意。歌の指導を受けたこと。 ■おろかならぬ御事 粗略にしてはならない御事。「俊成のこと」「和歌のこと」のニ説がある。 ■併しながら すべて。 ■疎略 いい加減。なおざり。 ■御恩をかうぶらうど 俊成の温情で歌を入集してもらうこと。 ■さりぬべきもの 選ばれるにふさわしい歌。 ■鎧のひきあはせ 鎧の胴の合わせ目。 ■忘れがたみ 忘れがたい形見。 ■前途程遠し、思を雁山の夕の雲に馳す 「前途程遠シ、思ヒヲ雁山ノ暮(ゆふべ)ノ雲ニ馳ス。後会期遥カナリ、纓ヲ鴻臚ノ暁ノ涙ニ霑(うるほ)ス」から引く。外国の使節が帰るのを見送る歌。雁山は雁門山。中国山西省太原付近の山。 ■千載集 千載和歌集。七番目の勅撰和歌集。文治三年(1187)成立。 ■故郷花 「故郷」は昔都であった地。 ■さざなみや 「さざなみや」は「志賀(滋賀)」にかかる枕詞。「昔ながら」に「長等山(ながらやま)」の地名をかける。天智天皇の大津京は壬申の乱の後荒廃していった。それに平安京をなぞらえる。「さざなみの志賀の唐崎幸くあれど大宮人の船待ちかねつ」(万葉・巻一 柿本人麻呂)を引くか。この歌は『千載集』春上に「故郷花といへる心を詠み侍りける」と詞書してある。延慶本・長門本には「いかにせん御垣が原に摘む芹の根にのみ嘆き知る人のなき」も忠教詠歌として上げる。『千載集』にはほかに平経正・平行盛・平経盛の歌も「読人しらず」として載る。 ■子細におよぶべからず あれこれ言う必要はない。名前など載せる必要はないの意。

……

「さざなみの志賀の都」は琵琶湖西南部、天智天皇が都をおいた大津京のことです。壬申の乱の後、都が大津から飛鳥にもどると大津京はしだいに荒れ寂れていきました。柿本人麻呂がすっかり荒廃した大津京跡を訪れた時、

さざなみの志賀の唐崎幸くあれど大宮人の船待ちかねつ

とよみました。忠教の歌は今まさに戦火の巷になろうとしている平安京を、天智天皇の大津京になぞらえ、柿本人麻呂の歌の心もただよわせて読んだものです。

朗読・解説:左大臣光永

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