平家物語 百二十一 水島合戦(みづしまがつせん)

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平家物語巻第八より「水島合戦(みづしまがつせん)」。

木曽義仲配下の矢田義清、海野行広らが、四国屋島の平家軍を討伐するため、備中水島の渡に舟を浮かべていた。そこへ平家の船団が押し寄せる。

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あらすじ

都を落ち延びた平家は、讃岐の屋島で形勢を整えていた。

義仲は討伐軍を遣わす。矢田判官代義清(やたのほうがんだい よしきよ)、 海野弥平四郎行広(うんのの やへいしろう ゆきひろ)ら七千余騎を山陽道へ差し向けた。軍勢は備中国水島が渡(岡山県倉敷市玉島)に舟を浮かべて、いまにも屋島に攻め寄せようとしていた。

そこに平家の船団があらわれる。源氏の舟五百余艘に対し、平家は新中納言知盛卿、能登守教経を大将とした千余艘で押し寄せる。

能登守教経は、舟同士を綱でつなぎあわせ、甲板に板を敷き、往来できるようにした。

乱戦の中で源氏の大将海野弥平四郎は討たれ、矢田判官代義清は舟もろとも沈んだ。

源氏は敗走。平家はこの水島の合戦に勝って、会稽の恥を雪いだ。

原文

平家は讃岐(さぬき)の八島(やしま)にありながら、山陽道八ヶ国(せんやうだうはつかこく)、南海道六ケ国(なんかいだうろくかこく)、都合(つがふ)十四箇国(かこく)をぞうちとりける。木曾左馬頭(きそさまのかみ)是を聞き、 やすからぬ事なりとて、やがて討手(うつて)をさしつかはす。討手の大将(たいしやう)には矢田判官代義清(やたのはうぐわんだいよしきよ)、侍大将(さぶらひだいしやう)には信濃国(しなののくに)の住人海野(うんの)の弥平四郎行広(やへいしらうゆきひろ)、都合其勢(つがふそのせい)七千余騎(よき)、山陽道へ馳(は)せ下り、備中国水島(びッちゆうのくにみづしま)が渡(と)に舟をうかべて、八島へ既(すで)に寄せむとす。

同閏(おなじきうるふ)十月一日(ひとひのひ)、水島が渡に小船(こぶね)一艘(さう)いできたり。海人舟(あまぶね)、釣舟(つりぶね)かと見る程に、さはなくして、平家方より牒(てふ)の使舟(つかひぶね)なりけり。是(これ)を見て、源氏の舟五百余艘ほしあげたるを、を めきさけむでおろしけり。平家は千余艘でおし寄せたり。平家の方の大手(おほて)の大将軍(たいしやうぐん)には新中納言知盛卿(しんぢゆうなごんとももりのきやう)、搦手(からめて)の大将軍には能登守教経(のとのかみのりつね)なり。能登殿宣(のとどののたま)ひけるは、「いかに者共、いくさをばゆるに仕(つかまつ)るぞ。北国のやつばらにいけどられむをば 心憂しとは思はずや。御方(みかた)の舟をばくめや」とて、千余艘が艫綱(ともづな)、舳綱(へづな)をくみあはせ、中にむやひをいれ、あゆみの板をひきわたしひきわたしわたいたれば、舟のうへは平々(へいへい)たり。 源平両方(げんぺいりやうばう)時つくり、矢合(やあはせ)して、互(たがひ)に舟どもおしあはせてせめたたかふ。遠きをば弓で射、近きをば太刀できり、熊手(くまで)にかけてとるもあり、とらるるもあり、引組(ひつく)んで海にいるもあり、さしちがへて死ぬるもあり。思ひ思ひ心々(こころごころ)に勝負(しようぶ)をす。 源氏の方の侍大将海野(さぶらひだいしやううんの)の弥平四郎うたれにけり。是を見て大将軍矢田(やた)の判官代義清主従(はうぐわんだいよしきよしゆじゆう)七人、小舟(こぶね)に乗りて、真前(まつさき)にすすンで戦ふ程に、いかがしたりけむ、船ふみ沈めて皆死(し)にぬ。平家は鞍置馬(くらおきうま)を舟のうちにたてられたりければ、舟差(さ)し寄せ、馬どもひきおろし、うち乗りうち乗りをめいてかけければ、源氏の勢(せい)、大将軍はうたれぬ、われさきにとぞ落ち行(ゆ)きける。平家は水島のいくさに勝つてこそ、会稽(くわいけい)の恥をば雪(きよ)めけれ。

現代語訳

平家は讃岐の八島にありながら、山陽道八ケ国、南海道六ケ国、合せて十四ケ国を討ち取った。木曾左馬頭はこれを聞き、けしからん事だといって、すぐに討手を向かわせる。討手の大将には矢田判官代義清、侍大将には信濃国の住人海野(うんの)の弥平四郎行広、合せてその軍勢七千余騎が山陽道へ馳せ下り、備中国水島の渡(と)に舟を浮べて、既に屋島に寄せようとしている。

同じ閏十月一日、水島の渡に小船が一艘出て来た。海人舟、釣舟かと見ていると、そうではなくて平家方よりの書状の使い舟であった。これを見て、源氏の舟が五百艘ほど浜にあげられていたが、おめき叫んで海に下した。平家は千余艘で押し寄せた。平家の方の大手の大将軍は新中納言知盛卿、搦手の大将軍は能登守教経(のりつね)である。能登殿が言われたのは、「者共、どうしてそんな手ぬるい戦をしているのだ。北国の奴等に生け捕られたのを悔しいとは思わないのか。御方の舟を組み合わせろ」といって、千余艘の艫綱(ともづな)、舳綱(へづな)を組合せ、中にもやい綱を入れ、渡り板を引き渡し引き渡し渡ったので、海の上は平らになった。源平両方で鬨の声をあげ、矢合せして、互いに舟を押し合わせて攻め戦う。遠くにいる敵は弓で射、近くにいる敵は刀で斬り、熊手に掛けて取るもあり、取られるもある。組んで海に入る者もあり、刺し違えて死ぬ者もある。思い思い心々に勝負をする。源氏の方の侍大将海野の弥平四郎が討たれた。これを見て大将軍矢田の判官代義清の主従七人が、小舟に乗って、真っ先にすすんで戦っていると、どうしたのか、船の底を踏み外して沈め皆死んでしまった。平家は鞍置馬を舟の中に立てていたので、舟を寄せ、馬どもを引き下ろし、飛び乗り飛び乗りおめいて駆けたので、源氏の軍勢は大将軍は討たれているし、我先にと逃げて行った。平家は水島の戦に勝って、これまでの敗戦の恥を雪(すす)いだのである。

語句

■山陽道八カ国 播磨・美作・備前・備中・備後・安芸・周防・長門の八カ国。 ■南海海六カ国 紀伊・淡路・阿波・讃岐・伊予・土佐の六カ国。 ■矢田判官代義清 京都府亀岡市矢田の住人。 ■海野の弥平四郎行広 信濃国海野の住人。 ■水島 児島半島の西の地(岡山県倉敷市玉島)。当時は入り組んだ入江だった。 ■渡 戸・門。湾が狭くなったところ。 ■牒の使舟 牒(牒状)を運ぶ使者を乗せた舟。 ■むやひ 船と船をつなぎあわせる綱。 ■あゆみの板 船から船、船から岸に板を渡して、歩き回れるようにしたもの。 ■矢合 合戦開始にあたり双方から鏑矢を射ること。 ■熊手 長い竿の先に幾筋かに分かれた爪状のものが出ている武器。 ■会稽の恥 春秋時代、会稽山の戦いで呉王夫差に敗れた越王勾践が、「会稽の恥を忘れるな」と自分を励まし、ついに復讐を遂げたという故事に基づく(史記・貨殖伝)。

……

『平家物語』にはしるされていませんが、『源平盛衰記』には水島の合戦の最中に日蝕があり、平家はそれを知っていたが義仲軍には未知のことで敗れる原因になったとあります。

かかる程に、天俄に曇りて日の光も見えず闇の夜のごとくなりたれば、源氏の軍兵ども日蝕とは知らず、いとど東西を失って、船を退きていずちともなく風に随って逃げ行く。平家の兵共は、かねて知りにければいよいよ鬨をつくり、重ねて攻め戦う。

『源平盛衰記』

ちなみに怪談「舟幽霊」は、この水島合戦の死者が化けて出る話です。

朗読・解説:左大臣光永

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