平家物語 百二十 猫間(ねこま)
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平家物語巻第八より「猫間(ねこま)」。
源頼朝の立ち居振る舞いが洗練され優美であったのに対し、木曾義仲のそれは無骨で田舎じみたものだった。
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前回「征夷将軍院宣(せいいしょうぐんのいんぜん)」からのつづきです。
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あらすじ
鎌倉で頼朝に院宣を授けた中原泰定は(「征夷大将軍院宣」)、都に上り事の次第を報告した。
頼朝の優美な態度を聞き、法皇以下感心した。
一方、木曽義仲は都の守護についていたが、その立居の無作法さは、ひどいものだった。
ある時猫間の中納言光高卿(ねこまのちゅうなごん みつたかのきょう)という人が、義仲の館を訪問した。
「猫間」とは、館の所在地を指しているのだが、義仲はこの中納言を「猫殿」と決め付け猫扱いし、さまざまな無作法をしたので、中納言は用事を告げる前に不機嫌になり退出してしまった。
にわかに正装した姿は、目も当てられないほど無様だった。
牛車へ乗る作法もひどいもので、「牛飼」という言葉を知らず「子牛こでい」と呼び、車には後ろから乗り前から降りるという作法を知らず後ろから降りるなど、牛飼いからも呆れられる始末だった。
原文
康定都へのぼり院参(ゐんざん)して、御坪(おつぼ)の内にして、関東(くわんとう)のやうつぶさに奏聞(そうもん)しければ、法皇(ほふわう)も御感(ぎよかん)ありけり。公卿殿上人(くぎやうてんじやうびと)も皆(みな)ゑつぼにいり給へり。兵衛佐はかうこそゆゆしくおはしけるに、木曾(きそ)の左馬頭(さまのかみ)、都(みやこ)の守護(しゆご)してありけるが、たちゐの振舞(ふるまひ)の無骨(ぶこつ)さ、物いふ詞(ことば)つづきのかたくななる事かぎりなし。 理(ことわり)かな、二歳(さい)より信濃国木曾(しなののくにきそ)といふ山里に三十まで住みなれたりしかば、争(いか)でか知るべき。
或時猫間中納言光隆卿(あるときねこまのちゆうなごんみつたかのきやう)といふ人、木曾に宣(のたま)ひあはすべき事あッておはしたりけり。郎等(らうどう)ども、「猫間殿の見参(げンざん)にいり、申すべき事ありとて、いらせ給ひて候」と申しければ、木曾大きにわらッて、「猫は人にげんざうするか」。「是(これ)は猫間の中納言殿と申す公卿(くぎやう)でわたらせ給ふ。御宿所(ごしゆくしよ)の名とおぼえ 候」と申しければ、木曾、「さらば」とて対面(たいめん)す。猶(なほ)も猫間殿(ねこまどの)とはえいはで 、「猫殿のまれまれわいたるに物よそへ」とぞ宣ひける。中納言是を聞いて、「ただいまあるべうもなし」と宣へば、 「いかがけどきにわいたるにさてはあるべき」。何もあたらしき物を無塩といふと心えて、「ここに無塩の平(ひら)茸(たけ)あり。とうとう」といそがす。根(ねの)井(ゐ)の小弥太陪膳(こやたいはいぜん)す。田舎合子(ゐなかがふし)のきはめて大きにくぼかりけるに、飯(はん)うづたかくよそひ、御菜三種(ございさんじゆ)して、平茸の汁(しる)で参らせたり。木曾がまへにも同じ体(てい)にてすゑたりけり。木曾箸(はし)とッて食(しよく)す。猫間殿は合子(がふし)のいぶせさに召さざりければ、「それは義(よし)仲(なか)が精進合子(しやうじんがふし)ぞ」。中納言召さでもさすがあしかるべければ、箸(はし)とッて召すよししけり。 木曾是を見て、「猫殿は小食(せうじき)におはしけるや。きこゆる猫おろしし給ひたり。かい給へ」とぞせめたりける。中納言かやうの事に興(きよう)さめて、宣ひあはすべきことも一言(いちごん)もいださず、軈(やが)ていそぎ帰られけり。
木曾は、官加階(くわんかかい)したる者の直垂(ひたたれ)で出仕(しゆつし)せん事、あるべうもなかりけりとて、はじめて布衣(ほうい)とり、装束(しやうぞ)く。烏帽子(えぼし)ぎはよ り指貫(さしぬき)の裾(すそ)までまことにかたくななり。されども車にこがみ乗んぬ。鎧(よろひ)とッて着(き)、矢かき負ひ弓もッて馬に乗ッたるには似(に)も似ず、わろかりけり。牛車(うしくるま)は八島(やしま)の大臣殿(おほいとの)の牛車なり。 牛飼(うしかひ)もそなりけり。世にしたがふ習(ならひ)なれば、とらはれてつかはれけれども、あまりの目ざましさに、すゑかうたる牛の逸物(いちもつ)なるが、門(かど)出づる時、ひとずはへあてたらうに、なじかは よかるべき、飛んでいづるに、木曾車のうちにてのけに倒れぬ。蝶(てふ)のはねをひろげたるやうに、左右(さう)の袖(そで)をひろげて、おきむおきむとすれども、なじかはおきらるべき。木曾牛飼とは えいはで、「やれ子牛健児(こうしこでい)、やれ子牛健児」といひければ、 車をやれといふと心えて、五六町こそあがかせたれ。今井(いまゐ)の四郎兼平(しらうかねひら)、鞭鐙(むちあぶみ)をあはせておッついて、「いかに御車(おんくるま)をばかうは仕(つかまつ)るぞ」としかりければ、「御牛(おうし)の鼻(はな)がこはう候」とぞのべたりける。牛飼なかなほりせんとや思ひけん、「それに候手がたにとりつかせ給へ」と申しければ、木曾手がたにむずととりついて、「あッぱれ支度(したく)や。是(これ)は牛健児(うしこでい)がはからひか、殿のやうか」とぞ問うたりける。さて院の御所に参りついて、車かけはづさせ、うしろよりおりむとしければ、京(きやう)の者(もの)の雑色(ざふしき)につかはれけるが、「車には、召され候時こそうしろより召され候へ。おりさせ給ふには、まへよりこそおりさせ給へ」と申しけれども、「いかで車であらむがらに、すどほりをばすべき」とて、つひにうしろよりおりてンげり。其外(そのほか)をかしき事どもおほかりけれども、おそれて是を申さず。
現代語訳
康定が都へ上り院の御所へ参って、中庭にて関東の様子を詳しく申しあげたところ、法皇も感心なさった。公卿・殿上人も皆思い通りの展開に上機嫌でお笑いになった。兵衛佐はこのように立派な方でいらっしゃったのに、木曾の左馬頭は都の守護をしておられたが、その立ち居振る舞いは無骨で物言う言葉使いは無作法で教養の無さは限りない。道理かな、二歳の時から木曾の山里で三十まで住み慣れていたので、どうして礼儀や言葉遣いがわかろうか。
ある時、猫間(ねこま)中納言光隆卿という人が、木曾に相談する事があって訪問された。郎等どもが、「猫間殿がおいでになり申す事があると言って来られています」と申したところ、木曾はたいそう笑って「猫が人に目通りするのか」。「この方は猫間の中納言殿と申す公卿でいらっしゃいます。猫間は御宿所の名と思います」と申したところ、木曾、「そうか、では」といって対面する。木曾は猶も猫間殿とは言わず「猫殿が珍しく来られたので食事を用意せよ」とおっしゃった。中納言はこれを聞いて、「今は食事など必要ありません」とおっしゃると、「どうして食事時に来られたのにそんなことがあろうか」。何でも新しい物を無塩(むえん)と言うと思い込んで「ここに無塩の平茸(ひらたけ)があります。早く早く」と急がせる。根井(ねのい)の小弥太が給仕をする。田舎風のたいそう底の深い碗に飯をうず高くよそい、おかずを三品添えて、平茸の汁で差し上げた。木曾の前にも同じように据えた。木曾は箸を取って食べる。猫間殿は合志の食器を汚らしく感じて食べられなかったので、「それは義仲が仏事に使う碗だぞ」。中納言は食べないのもさすがに具合が悪いので、箸を取って食べるふりをなさった。木曾はこれを見て、「猫殿は小食でいらっしゃるか。有名な猫おろしをなさった。かきこまれよ」と責めた。中納言はこのような事に興冷(きょうざ)めして、相談するはずのことも一言も言い出さず、まもなくお帰りになった。
木曾は高い官位をいただいた者が直垂姿で出仕することはないだろうと、初めて無紋の狩衣を取り寄せ装束する。烏帽子際から指貫の裾までまことに見苦しい。しかし車に屈(かが)んで乗った。矢を背負い弓を持って馬に乗った姿は少しも似合わず良くなかった。牛車は八島の大臣殿の牛車である。牛飼いもそうであった。世に従う習いなので、捕われて使われていたが、あんまり癪(しゃく)に障るので牛小屋に繋いで飼っていた牛の逸物が門を出る時、一鞭(ひとむち)当てると、なんでいいことがあろうか、牛が驚いて飛び出したので、木曾は車の中で仰向けに倒れた。蝶が羽を広げたように、左右の袖を広げて起きよう起きようとするが、どうして起きられようか。木曾は牛飼いとは言わず、「やれ子牛健児(こうしじこでい)、やれ子牛健児」と言ったので、牛飼いは車をやれという意味と思い、五六町走らせた。今井の四郎兼平が、鞭を当て鐙を踏み込んで急いで追い着き、「どうして御車をこのように扱うのか」と叱ったところ、「御牛の勢いが強く御しにくいのです」と述べたのだった。牛飼いは仲直りしようと思ったのか、「そこにあります手形におつかまり下さい」と申したところ、木曾は手形にしっかとつかまって、「見事な仕掛けだ。これは牛健児(うしこでい)の考えか、宗盛殿のやり方か」と聞いたのだった。さて院の御所に到着して、車を牛から外させ、後ろから下りようとしたところ、京の者で雑色として使われていた者が、「車にお乗りになる時は後ろからお乗りになって下さい。降りられる時は、前から降りてください」と申したが、「どうして車だからといって、素通りをすることがあろう」と言って、最後には後ろから下りてしまった。そのほかにもおかしな振る舞いが多かったが、世間の人は木曾を恐ろしがって何も申さない。
語句
■ゑつぼにはいり給へり 「笑壺に入る」は上機嫌で笑うこと。 ■兵衛佐はかうこそ… 類句「小松おとどはかうこそゆゆしうおはせしに」(巻四「競」)。 ■かたくななること 見苦しいさま。 ■光隆卿 底本「光高」。『尊卑分脈』・屋代本・延慶本等により改め。藤原清隆の子。兼輔の子孫。従二位家隆は子(小倉百人一首九十八番)。猫間は邸があった場所。延慶本によれば七条坊城壬生あたり。 ■げんざう 見参の訛ったもの。頼朝の「言語分明なり」(巻八「征夷将軍院宣」)と対比をなす。 ■わいたる 「おはしたる」の音便。田舎臭さが出ている。 ■けどき 食時。食事時。 ■無塩 新鮮で塩気のない魚介類を言うが、それを魚介類以外に対しても言ったもの。義仲の無知さが出ている。 ■根井の小弥太 底本「ねのゐの小野太」。信濃国北佐久郡(佐久市)根々井の人。 ■田舎合子 田舎風の蓋のある椀。 ■いぶせさに 「いぶせし」はむさ苦しい。異様だなどマイナスの形容詞。 ■精進合子 仏事に使う椀。 ■猫おろし 猫の食べ残し。 ■かい給へ 「かき給へ」の音便。かきこまれよ。 ■こがみ乗んぬ 「こがみ乗る」はかがみ乗るのことか。 ■八島の大臣 平宗盛。 ■牛飼もそなりけり 牛飼の名は屋代本では弥二郎丸、延慶本では二郎丸。 ■すゑかうたる 「据ゑ飼ひたる」の音便。牛小屋で飼っているの意。 ■ひとずはへ 一楉(ひとすわえ)。一鞭。 ■のけに あおむけに。 ■やれ子牛健児 やれは相手への呼びかけ。これを牛飼いは「遣れ」と勘違いする。「健児」は雑役に当たる召使い。「子牛健児」は子牛を引く雑役の者の意で義仲の造語。 ■あがかせたれ 「足掻く」は馬を疾走させること。 ■鞭鐙をあはせて 鞭で馬の尻を叩くと同時に鐙で馬の横腹を蹴る。速く走らせる時の動作。 ■御牛の鼻がこはう候 牛が制御しにくいことをいう。牛は手綱を鼻につけるためこういうか。 ■手がた 牛車内部を一部くり抜いて手をかけるようにしたもの。
……
義仲のなんとなく憎めないエピソードが満載の回です。牛車の中で「蝶のはねをひろげたる
やうに」ぶっ倒れるところは、とくに強烈な印象があります。
ちなみに猫間中納言藤原光隆の息子が、小倉百人一首九十八番従二位家隆です。
風よそくならの小川の夕暮れはみそぎぞ夏のしるしなりける