平家物語 百十九 征夷将軍院宣(せいいしやうぐんのいんぜん)
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平家物語巻第八より「征夷将軍院宣(せいいしょうぐんのいんぜん)」。源頼朝が征夷(大)将軍に任じられる。
※史実では頼朝が征夷大将軍に任じられるのは建久3年(1192)。
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前回「太宰府落(だざいふおち)」からのつづきです。
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あらすじ
平家一門が九州を流浪していた頃、頼朝は鎌倉で征夷大将軍の院宣を受け取っていた。
寿永二年(1183)十月十四日、院の使い左史生中原泰定(さししょう なかはらのやすさだ)が鎌倉に到着。
頼朝は院宣を受け取る場所として鶴岡八幡宮若宮を指定。三浦義澄に受け取らせた。
次の日、中原泰定は頼朝の私邸で接待を受けた。頼朝は顔が大きく背は低いが、容貌は優美で、言葉づかいは訛りなく明瞭だった。
頼朝の威勢を恐れて平家は都を去ったのに、その後に木曽の冠者、十郎蔵人が都に入り、まるで自分の手柄のように振る舞い、また拝領した国についてえり好みを言い出す始末。
また、頼朝の命令に従わない奥州の藤原秀衡、常陸の佐竹高義追討の院宣を求める。
泰定はさらに一日引きとめられ、頼朝から沢山の引き出物をもらい、都へ帰った。
原文
さる程に鎌倉(かまくら)の前右兵衞佐頼朝(さきのうひやうゑのすけよりとも)、ゐながら征夷将軍(せいゐしやうぐん)の院宣(ゐんぜん)を蒙(かうぶ)る。御使(おつかひ)は左史生中原康定(さししやうなかはらのやすさだ)とぞ聞えし。十月十四日関東(くわんとう)へ下着(げちやく)。兵衛佐宣(のたま)ひけるは、「頼朝年来勅勘(ねんらいちよくかん)を蒙りたりしかども、今武勇(ぶよう)の名誉長(めいよちやう)ぜるによッて、ゐながら征夷将軍の院宣を蒙る。いかんが私(わたくし)でうけとり奉るべき。若宮(わかみや)の社(やしろ)にて給はらん」とて、若宮へ参りむかはれけり。八幡(はちまん)は鶴(つる)が岡(おか)にたたせ給へり。地形石清水(ちけいいはしみず)にたがはず。廻廊(くわいらう)あり、楼門(ろうもん)あり、 つくり道十余町(みちじふよちやう)見くだしたり。「抑(そもそも)院宣をば誰(たれ)してかうけとり奉るべき」と評定(ひやうぢやう)あり。「三浦介義澄(みうらのすけよしずみ)してうけとり奉るべし。其故(そのゆゑ)は八ヶ国(はちかこく)に聞えたりし弓矢(ゆみや)とり、三浦平太郎為次(みうらのへいたろうためつぐ)が末葉(ばつえふ)なり。其上父大介(ちちおほすけ)は君の御ために命(いのち)をすてたる兵(つはもの)なれば、彼義明(かのぎめい)が黄泉(くわうせん)の迷闇(めいあん)をてらさむがため」とぞ聞えし。院宣の御使康定は、家子二人(いへのこににん)、郎等(らうどう)十人具したり。院宣をば文袋(ふぶくろ)にいれて雑色(ざふしき)が頸(くび)にぞかけさせたりける。三浦介義澄も家子二人、郎等十人具したり。二人(ににん)の家子は和田三郎宗実(わだのさぶらうむねざね)、比企(ひき)の藤四郎能員(とうしらうよしかず)なり。十人の郎等をば大名十人して、俄(にはか)に一人づつしたてけり。三浦介が其日(そのひ)の装束(しやうぞく)には、かちの直垂(ひたたれ)に 黒糸威(くろいとをどし)の鎧(よろひ)着て、いか物づくりの大太刀(おほだち)はき、廿四さいたる大中黒(おほなかぐろ)の矢負ひ、滋籐(しげどう)の弓脇(わき)にはさみ、甲(かぶと)をぬぎ高紐(たかひも)にかけ腰をかがめて院宣をうけとる。康定、「院宣うけとり奉る人はいかなる人ぞ、名のれや」といひければ、三浦介とは名のらで、本名(ほんみやう)を、「三浦の荒次郎義澄(あらじらうよしすみ)」とこそなのッたれ。院宣をば覧箱(らんばこ)にいれられたり。兵衛佐(ひやうゑのすけ)に奉る。ややあッて、 覧箱をば返されけり。重かりければ、康定是(これ)をあけてみるに、 沙金(しやきん)百両いれられたり。若宮(わかみや)の拝殿(はいでん)にして、康定に酒をすすめらる。斎院次官親能陪膳(さいゐんのしくわんちかよしはいぜん)す。五位一人役送(やくそう)をつとむ。馬三疋(びき)ひかる。一疋に鞍(くら)おいたり。大宮のさぶらひたッし狩野(かの)の工藤一﨟祐経(くどういちらふすけつね)是をひく。ふるき萱屋(かやや)をしつらうて、いれられたリ。厚綿(あつわた)のきぬ二両、小袖十重(こそでとかさね)、長持(ながもち)にいれてまうけたり。 紺藍摺白布千端(こんあゐずりしろぬのせんだん)をつめり。盃飯(はいはん)ゆたかにして美麗(びれい)なり。
次日(つぎのひ)兵衛佐の館(たち)へむかふ。内外(うちと)に侍(さぶらひ)あり。共(とも)に十六間(けん)なり。 外侍(とざぶらひ)には家子郎等(いへのこらうどう)肩をならべ、膝(ひざ)を組んでなみゐたり。 内侍(うちさぶらひ)には一門(いちもん)の源氏上座(げんじしやうざ)して、末座(ばつざ)に大名小名(だいみやうせうみやう)なみゐたり。 源氏の座上(ざしやう)に康定(やすさだ)をすゑらる。良(やや)あッて寝殿(しんでん)へ向ふ。広廂(ひろびさし)に紫(むらさき)の縁(へり)の畳(たたみ)をしいて、康定をすゑらる。うへには高麗縁(こうらいべり)の畳を敷き、御簾(みす)たかくあげさせ、兵衛佐殿出られたり。布衣(ほうい)に立烏帽子(たてえぼし)なり。顔(かほ)大きに、せいひきかりけり。容貌優美(ようはういうび)にして言語分明(げんごふんみやう)なり。まづ子細(しさい)を一々のべ給ふ。「平家頼朝(よりとも)が威勢(ゐせい)におそれて都をおち、その跡(あと)に木曾(きそ)の冠者(くわんじゃ)、十郎蔵人(じふらうくらんど)うちいりて、わが高名(こうみやう)がほに官加階(くわんかかい)を思ふ様(さま)になり、剰(あまつさ)へ国をきらひ申す条(でう)、奇怪(きつくわい)なり。奥(おく)の秀衡(ひでひら)が陸奥守(むつのかみ)になり、佐竹四郎高義(さたけのしらうたかよし)が常陸守(ひたちのかみ)になッて候(さうらふ)とて、頼朝が命(めい)にしたがはず。いそぎ追討(ついたう)すべきよしの院宣を給はるべう候」。左史生(さししやう)申しけるは、「今度(こんど)康定も名簿(みやうぶ)参らすべう候が、御使(おんつかひ)で候へば、先づ罷上(まかりのぼ)ッて、やがてしたためて参らすべう候。おととで候史(し)の大夫重能(たいふしげよし)も其(その)義(ぎ)を申し候」。兵衛佐わらッて「当時(たうじ)頼朝が身として、各(おのおの)の名簿思ひもよらず。さりながら、げにも申されば、さこそ存ぜめ」とぞ宣(のたま)ひける。軈(やが)て今日上洛(こんにちしようらく)すべきよし申しければ、今日(けふ)ばかりは逗留(とうりう)あるべしとてとどめらる。
次日兵衛佐(つぎのひひやうゑのすけ)の館(たち)へむかふ。萌黄(もえぎ)の糸威(いとをどし)の腹巻(はらまき)一両、白(しろ)うつくッたる太刀一振(たちひとふり)、滋籐(しげどう)の弓、野矢(のや)そへてたぶ。馬十三疋(びき)ひかる。三疋に鞍(くら)おいたり。家子郎等(いへのこらうどう)十二人に、直垂(ひたたれ)、小袖(こそで)、大ロ(おほくち)、馬鞍におよび、荷懸駄(にかけだ)卅疋ありけり。鎌倉出(かまくらいで)の宿(しゆく)より鏡(かがみ)の宿(しゆく)にいたるまで、宿々(しゆくじゆく)に十石づつの米(よね)をおかる。たくさんなるによッて施行(せぎやう)にひきけるとぞ聞えし。
現代語訳
そうしているうちに鎌倉の前兵衛佐頼朝(さきのうひょうえのすけよりとも)は、鎌倉に居たままで征夷将軍の院宣を受ける。院宣の御使いは左史生中原康定という噂であった。十月十四日関東へ到着。兵衛佐が言われたのは、「頼朝は長年天皇のお怒りを蒙っておりましたが、今武勇の名誉が高まったので、鎌倉に居ながらにして征夷将軍の院宣をいただいた。どうして私の家で受け取れましょうか。若宮の社でいただきましょう」と言って、若宮へ向かわれた。八幡は鶴ケ岡にお建ちになっていた。その地形は石清水八幡宮とそっくりである。廻廊があり、楼門もあり、造られた参道の十余町が見下ろせた。「そもそも院宣を誰が受け取るべきか」との評定(ひょうじょう)が開かれる。「三浦介義澄をもって受け取り奉るべき。その訳は八か国に聞えた弓矢取り、三浦平太郎為次の子孫である。そのうえ父の大介(義明)は君の御為に命を捨てた武士なので、義明の霊を慰めるためだ」という事であった。院宣の御使い康定は、家子二人・郎等十人を連れていた。院宣を文袋に入れて雑色の首に掛けさせていた。二人の家子は和田三郎宗実(むねざね)、比企(ひき)の藤四郎能員(とうしろうよしかず)である。十人の郎等は十人の大名が急いで一人ずつ仕立てたのであった。三浦介のその日の装束は濃い紺色のかちの直垂に黒糸威の鎧を着て、いかめしい作りの大太刀をはき、二十四本の矢をさした大中黒の矢を負い、滋籐(しげどう)の弓を脇に挟み、甲を脱ぎ高紐に掛けており、腰をかがめて院宣を受け取る。康定は、「院宣を受け取る人はどんな人か。名乗れや」と言ったので、三浦介とは名乗らず、「三浦の荒次郎義澄」と本名を名乗った。院宣は覧箱(らんばこ)に入れられていた。兵衛佐(ひょうえのすけ)に差し上げる。しばらくしてから覧箱を返された。重かったので、康定がこれを開けて見ると、砂金が百両入れられていた。若宮の拝殿で、康定に酒を勧められる。斎院次官親能(さいいんのじかんちかよし)が給仕をする。五位の一人が食膳を運ぶ。三頭の馬が引出物として送られる。一頭には鞍を置いている。大宮の侍であった狩野の工藤一臈祐経(いちろうすけつね)がこれを引く。古い萱屋を整備して康定を迎え入れた。厚綿の衣二重ねに、小袖十重ねを長もちに入れて用意してある。紺藍摺・白布千反を積んであった。もてなしの酒や料理は豊富で豪華である。
次の日兵衛佐の館へ向う。館の内外に侍の詰所がある。共に十六間の建物である。外の詰所には家子郎等が肩を並べ、膝を組んで並んで座っている。内の詰所には一門の源氏の武士どもが上座に座り、末座には大名・小名が並んで座っている。源氏の座上に康定を座らせる。しばらくしてから寝殿へ向う。そこには広い廂に紫の縁取りの畳が敷かれており、康定をすわらせる。上には高麗縁の畳を敷き、御簾を高く上げさせ、兵衛佐殿が出られた。無紋の狩衣に立烏帽子である。顔は大きく背が低かった。その容貌は優美さを湛え、言葉は明快である。まず詳しい事情を一々お述べになる。「平家は頼朝の威勢を怖れて都を落ち、その後に木曾の冠者、十郎蔵人が打ち入って、自分の自慢顔に官位を取ったり、位を上げたり思う様に振る舞っており、そのうえ国司として与えられた国を嫌い申すのはけしからんことです。陸奥の秀衡が陸奥守になり、佐竹四郎高義が常陸守になったといって頼朝の命に従いません。急ぎ追討すべきとの院宣をいただきとう存じます」。左史生康定が申したのは、「今度康定も名簿を書こうとしましたが、御使いでございますので、先ずは都へ帰って、すぐにしたためようと思っております。弟で候史(こうし)の大夫重能(たいふしげよし)もそう申しております」。兵衛佐(ひょうえのすけ)は笑って、「今、頼朝の身として、各々の名簿をいただく事など思いもよらぬ事。そうはいっても、本当にそのように申されるのであれば、そのつもりでいよう」とおっしゃった。やがて、今日上洛するするということを申したところ、今日だけはお留まりなるようにということで留められた。
次の日康定は兵衛佐の館へ向う。萌黄の糸威の腹巻一領、銀で飾った太刀一振り、滋籐の弓に野矢を添えてお与えになる。馬を十三頭引いてお与えになる。三頭には鞍が置かれていた。家子郎等十二人に、直垂、小袖、大口袴、馬鞍までお与えになり、そのほか荷を負った馬が三十頭もあった。鎌倉を出る時の宿から鏡の宿に至るまで、宿々に十石づつの米を置かれた。たくさんだったので貧しい者へ施し物として配られたという事である。
語句
■左史生中原康定 底本「左史生中原泰定」より改め。以下同。史生は文書の起草・書写などを行う。左右各十名。 ■十月十四日 寿永二年(1183年)。頼朝が征夷大将軍に就任したのは建久三年(1192)七月十二日。 ■若宮 康平六年(1063)源頼義が材木座に石清水八幡宮を勧請したのを治承四年(1180)源頼朝が大臣山のふもとに移し、鶴岡若宮と称した。建久2年(1191年)火事で焼失したので、背後の大臣山中腹に石清水八幡宮を勧請して本宮とし、山のふもとの若宮も再建されて、現在の上下両宮の形となった。 ■つくり道 八幡宮から由比ヶ浜まで作った道。 ■三浦介義澄 衣笠合戦で死んだ三浦大介義明(巻五「早馬」)の子。三浦氏は相模の豪族。坂東八平氏の一。三浦介は相模国の庶務を行った。 ■為次 義澄の曾祖父。 ■其上父大介は… 治承四年(1180)八月二十五日、三浦半島衣笠城(横須賀のちかく)に立てこもる老将三浦大介義明を、畠山重忠らが攻め落とし、自害に追い込んだ。 ■迷闇 底本「迷暗」。冥土の闇に迷うこと。 ■雑色 雑役に当たる者。小使。 ■和田三郎宗実 三浦義明の孫。義澄の甥。和田(三浦半島南西部)の住人。後に和田合戦を起こす和田義盛とは実の兄弟。 ■比企の藤四郎能員 比企能員。武蔵国比企郡の豪族。後に「比企の変」を起こす。 ■かちの直垂 褐色の鎧直垂。褐色は濃い紺色。ほぼ黒に近い。 ■三浦介とは名のらで 私的な称号なので院宣の使者の前で遠慮したか。頼朝の兵衛佐にはばかったか。 ■覧箱 貴人が閲覧する文書を入れる箱。 ■斎院次官親能 底本「斎院次官親義」より改め。中原親能。斎院次官は賀茂斎院司の次官。 ■陪膳 給仕をつとめること。 ■役送 食物や食器を運ぶ役。 ■馬三疋 康定と二人の家子用。康定の馬だけ鞍を置く。 ■大宮 藤原多子(巻一「二代妃」、巻五「月見」)。 ■狩野 伊豆国の地名。狩野川が流れる。北条氏発祥の地。 ■工藤一臈佑経 底本「工藤一臈資経」より改。藤原為憲の子孫。一臈は武者所一臈(院の下北面の長)。後に曾我兄弟に討たれる。 ■二両 一両は二反。一反は約11メートル。 ■端 反に同じ。 ■盃飯 酒食の器具。 ■兵衛佐の館 大蔵幕府。鶴岡八幡宮の東。 ■内外に侍あり 「侍」は侍の詰所。内侍(うちさぶらい)・外侍(とさむらい)。 ■高麗縁の紫の縁の 底本、この八文字を欠く。熱田本などにより補う。高麗縁は白地に黒い文様のある縁。 ■顔大きに、せいひきかりけり 以下「言語分明」まで源頼朝の人となりを端的に記した一文として著名。 ■佐竹四郎高義 源隆義。義光五代の子孫。佐竹昌義の子。常陸守は正しくは常陸介。 ■名簿 底本「名符」より改め。以下同。姓名を記した書面。これを提出することは相手に服従することをしめす。 ■史の大夫 大史(法規、記録などの役に当たる)で五位の者。中原兄弟はともに頼朝に服従するというのである。 ■軈て今日上洛すべきよし申しければ 中原康定が。 ■今日ばかりは逗留(とうりう)あるべしとてとどめらる 頼朝が。 ■一両 領に同じ。鎧を数える単位。 ■白うつくったる太刀 銀の飾りをほどこした太刀。 ■野矢 狩猟用の矢。 ■馬十三疋 康定と家子郎党十二人、計十三人へのもの。康定と二人の郎党の馬には鞍を置く。 ■大口 大口袴。裾の広い袴。 ■荷懸駄 荷物を積んだ馬。 ■鏡の宿 滋賀県蒲生郡竜王町鏡の宿駅。このあたり近江牛発祥の地。 ■施行 貧者への施し。
……
源頼朝が征夷大将軍の院宣を下されたのは実際には後白河没後の建久三年(1192)です。いわゆるイイクニツクロウですね。
しかし平家物語では寿永二年(1183)10月に征夷大将軍の院宣を下されたとなっており、これは史実に反します。
寿永二年(1183)10月に実際に出されたのは「十月宣旨」とよばれるものです。
その内容は、
□東海道・東山道における荘園と国衙領の支配を、旧来のもの(平家が台頭する以前)に戻す
□これに従わない者の追討を頼朝に命ず
というものでした。
これは、頼朝が東国における軍事警察権を握ることを朝廷が実質認めたことでした。十月宣旨によって、頼朝の軍事力は国家の中に取り込まれたのでした。
ゆかりの地
鶴岡八幡宮 若宮
康平六年(1063)源頼義が材木座に石清水八幡宮を勧請したのを治承四年(1180)源頼朝が大臣山のふもとに移し、鶴岡若宮と称した。建久2年(1191年)火事で焼失したので、背後の大臣山中腹に石清水八幡宮を勧請して本宮とし、山のふもとの若宮も再建されて、現在の上下両宮の形となった。『平家物語』では頼朝はここで中原康定より三浦義澄を介して征夷大将軍の院宣を受け取ったとなっている。
大蔵幕府跡・西御門跡・東御門跡
治承4年(1180年)8月、伊豆で打倒平家の旗揚げをした源頼朝は、同年10月、鎌倉に入り、大倉の地を拠点と定めた。
当初は父義朝の館のあった亀ヶ谷の地、現在の寿福寺のあたりに御所を建てる計画もあったらしいが、手狭なことと、すでに義朝の菩提を弔う寺院があったために、大倉の地を選んだという。そして2ヶ月後の12月には、御所が完成していた。
東西約270メートル。南北約200メートル。大倉幕府の西御門と東御門の場所を示す石碑も、現在、それぞれの位置に立つ。
大倉幕府は頼朝没後の承久元年(1219年)火事で焼失する。その後しばらく小町の北条義時邸を仮の御所としたが、三代執権北条泰時の時にまず宇都宮辻子幕府(1225年)、次に若宮大路幕府(1236年)に遷された。
それぞれの場所は、北条義邸は小町の宝戒寺あたりと言われ、宇都宮厨子幕府の碑はカトリック雪の下教会横の細い道を入った所にある。そして若宮大路幕府跡の碑は雪の下の大佛次郎邸の前に立つ。
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