平家物語 百二十三 室山(むろやま)

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平家物語巻第八より「室山(むろやま)」。播磨国室山(兵庫県たつの市御津町室津)にて、十郎蔵人行家(じゅうろうくらんど ゆきいえ)率いる源氏方と、平家方が戦う。

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前回「瀬尾最期(せのおさいご)」からのつづきです。
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あらすじ

義仲は備中万寿庄(岡山県倉敷北部)に軍勢を集めて屋島に攻め寄せようとしていた。

そこへ都の留守を預かる樋口次郎兼光が、十郎蔵人行家が義仲の悪い評判を帝に上奏していると伝えたので、義仲は都へ引き返す。

十郎蔵人はまずいと思ったか、丹波路を通って播磨国に下る。義仲は摂津国を経て都に入る。

平家は木曾を討とうと、新中納言知盛、本三位中将重衡以下、ニ万余騎で千余艘の船に乗り、播磨国へ渡り、室山(兵庫県たつの市御津町室津)に陣を取る。

十郎蔵人は木曾と仲直りしようと思ったのか、五百余騎で室山へ押し寄せる。

平家は全軍を五陣に分け、十郎蔵人の軍勢を中に取り込め翻弄する。十郎蔵人は死にもの狂いで戦い、平家方は勝利をおさめたが多くの犠牲が出た。

十郎蔵人はわずかな手勢をつれて播磨国高砂から船に乗り、和泉国についた。そこから河内国へ越えて、長野城に引きこもった。

平家は水島・室山二度の合戦に勝って、ますます勢力盛んであった。

原文

さる程に、木曾殿は備中国万寿(びッちゆうのくにまんじゅ)の庄(しやう)にて勢(せい)ぞろへして、八島(やしま)へ既(すで)に寄せむとす。其間(そのあひだ)の都の留守におかれたる樋口次郎兼光(ひぐちのじらうかねみつ)、使者(ししや)をたてて、「十郎蔵人殿(じふらうくらんどどの)こそ殿のましまさぬ間に、院のきり人(びと)して、やうやうに讒奏(ざんそう)せられ候(さふらふ)なれ。西国の軍(いくさ)をば暫(しばら)くさしおかせ給ひていそぎのぼらせ給へ」と申しければ、木曾、「さらば」とて、夜(よ)を日についで馳(は)せ上る。十郎蔵人あしかりなんとや思ひけむ、木曾にちがはむと丹淡路(たんばぢ)にかかッて、播磨国(はりまのくに)へ下る。木曾は摂津国(つのくに)をへて都へいる。

平家は又木曾うたむとて、大将軍(たいしやうぐん)には新中納言知盛卿(しんぢゆうなごんとももりのきやう)、本三位中将重衡(ほんざんみのちゆうじやうしげひら)、侍大将(さぶらいだいしやう)には越中次郎兵衛盛嗣(ゑつちゆうのじらうびやうゑもりつぎ)、上総五郎兵衛忠光(かずさのごらうびやうゑただみつ)、悪七兵衛景清(あくしちびやうゑかげきよ)、都合其勢(つがふそのせい)二万余騎、千余艘(せんよさう)の舟に乗り、播磨(はりま)の地へおしわたりて、室山(むろやま)に陣(じん)をとる。十郎蔵人、平家と軍(いくさ)して木曾と中なほりせんとや思ひけむ、其勢(そのせい)五百余騎で室山へこそおし寄せたれ。平家は陣を五つにはる。一陣越中次郎兵衛盛嗣(いちぢんゑつちゆうじらうびやうゑもりつぎ)二千余騎、二陣伊賀平内左衛門家長(にぢんいがのへいないざゑもんいへなが) 二千余騎、三陣上総五郎兵衛、悪七兵衛三千余騎、四陣本三位中将重衡三千余騎、五陣新中納言知盛卿一万余騎でかためらる。十郎蔵人行家(じふらうくらんどゆきいへ)五百余騎でをめいてかく。一陣越中次郎兵衛盛嗣、しばらくあひしらふ様(やう)にもてないて、中をざッとあけてとほす。二陣伊賀平内左衛門家長、同じうあけてとほしけり。三陣上総五郎兵衛、悪七兵衛、共にあけてとほしけり。四陣本三位中将重衡卿(しげひらのきやう)、是(これ)もあけていれられけり。一陣より五陣まで兼ねて約束したりければ、敵を中にとりこめて、一度(いちど)に時をどッとぞつくりける。十郎蔵人、今は遁(のが)るベき方(かた)もなかりければ、たばかられぬと思ひて、おもてもふらず命も惜しまず、ここを最後とせめたたかふ。平家の侍(さぶらひ)ども、「源氏の大将にくめや」とて、我さきにとすすめども、さすが十郎蔵人におしならべてくむ武者(むしや)一騎もなかりけり。新中納言のむねとたのまれたりける紀七左衛門(きしちざゑもん)、紀八衛門(きはちゑもん)、紀九郎(きくらう)なンどいふ兵(つはもの)ども、そこにて皆(みな)十郎蔵人にうちとられぬ。かくして十郎蔵人、五百余騎が纔(わず)かに卅騎ばかりにうちなされ、四方(しはう)はみな敵(かたき)なり、御方(みかた)は無勢(ぶせい)なり、いかにしてのがるベしとは覚えねど、思ひきッて雲霞(うんか)のごとくなる敵(かたき)のなかをわッてとほる。されども我身は手も負はず、家子郎等(いへのこらうどう)、廿余騎大略(たいりやく)手負うて、播磨国高砂(はりまのくにたかさご)より舟(ふね)に乗り、おしいだいて和泉国(いづみのくに)にぞ付きにける。それより河内(かはち)へうちこえて、長野城(ながののじやう)にひッこもる。平家は室山(むろやま)、水島(みづしま)二ヶ度(にかど)のいくさに勝つてこそ、弥(いよいよ)勢(ぜい)はつきにけれ。

現代語訳

そうしているうちに、木曾殿は備中国万寿(びっちゅうのくにまんじゅ)の庄(しょう)で勢揃えして、八島へすでに攻め寄せようとする。その間の都の留守に置かれた樋口次郎兼光が使者を立て、「十郎蔵人殿が殿が御不在の間に、院のお気に入りの人を通じて、いろいろと讒言を申し上げているようです。西国の戦をしばらくさしおかれて急ぎお上り下さい」と申したので、木曾は、「それでは」といって、夜昼休まず馳せ上る。十郎蔵人は具合が悪いと思ったのか、木曾に合わないように丹波路を通って、播磨国へ下る。木曾は摂津国を経て都に入る。

平家は又木曾を討とうと、大将軍には新中納言知盛卿、本三位中将重衡(しげひら)、侍大将には越中次郎兵衛盛嗣(もりつぎ)、上総五郎兵衛忠光、悪七兵衛景清、合計その軍勢二万余騎が千余艘の舟に乗り、播磨の地に押し渡って、室山に陣を構える。十郎蔵人は平家と戦って木曾と仲直りしようと思ったのか、その軍勢五百余騎で室山へ押し寄せた。平家は陣を五つに分けて構える。一陣は越中次郎兵衛盛嗣二千余騎、二陣は伊賀平内左衛門家長二千余騎、三陣は上総五郎兵衛、悪七兵衛三千余騎、四陣は本三位中将重衡三千余騎、五陣は新中納言知盛卿一万余騎で固められる。十郎蔵人行家が五百余騎でをめいて仕掛ける。一陣の越中次郎兵衛盛嗣がしばらく応戦するように振舞って、中をざっと開けて通す。二陣の伊賀平内左衛門家長も同じように開けて通した。三陣の上総五郎兵衛、悪七兵衛も共に開けて通した。四陣の本三位中将重衡卿もこれを開けて入れられた。一陣から五陣迄かねての計画通り、敵を中に閉じこめて一斉にどっと鬨の声をあげた。十郎蔵人は今となっては逃げる術(すべ)も無く、騙されたと思って、脇見もせず命も惜しまず、ここが最後と攻め戦う。平家の侍共が、「源氏の大将に組めつけ」と我先に進むがさすがに十郎蔵人と並んで組もうとする武者は一騎もなかった。新中納言が一番頼りにしていた紀七左衛門、紀八衛門、紀九郎などという武士どもは、そこで皆十郎蔵人に討ち取られてしまった。こうして十郎蔵人は五百余騎の勢力であったのを纔か三十騎程迄に打ち破られ、四方は皆敵であり、御方は無勢であり、どうすれば逃げられるのかわからなかったが、思い切って雲霞のように押し寄せる敵の中を割って通る。しかし我が身は傷も負わず、家子郎等二十四騎がおおかた傷を負い、播磨国高砂(はりまのくにたかさご)から舟に乗り、海上に押し出して和泉国(いずみのくに)に着いたのだった。そこから河内を越えて、長野城に引き籠る。平家は室山、水島二回の戦に勝って、ますます勢いづいたのである。

語句

■万寿の庄 岡山県倉敷市北部。JR倉敷駅北口一帯。 ■きり人 あれこれ切り回す人。裏でこそこそ策動しているといった悪い意味。 ■讒奏 悪い評判を帝に奏上すること。 ■ちがはむと 入れ違いに。 ■丹波路にかかッて 大江山を越えて、篠山を経て西下する。義仲が進むのは海沿いの道なので途中で出会わない。 ■都へいる 「今日、義仲入京シ了ンヌ、其勢甚少シ」(玉葉・寿永二年閏十月十五日条)。 ■室山 兵庫県たつの市御津町室津の背後の山。室津は天然の良港で古くから汐待ちの港として栄えた。行基が定めたと伝える播磨五泊の西端。牡蠣の名所。伝遊女発祥の地。室山合戦は『玉葉』によると寿永ニ年(1183)十一月二十九日。あとにある法住寺合戦は十一月十九日で、『平家物語』の記述は実際と逆。 ■あひしらふ 応戦する。 ■むねと 主に。柱として。第一に。 ■高砂 兵庫県高砂市。 ■長野城 大阪府河内長野市にあった城。修験道の霊地・金剛山脈の西麓。

………

室津はとても景色のいい港です。瀬戸内海運の要衝であり、汐待ちの港として古くから栄えました。こんな景色のいいところで戦するとは「他にやることないんか」と呆れます。のんびり歌でも詠んでればいいのに。

朗読・解説:左大臣光永

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