平家物語 百二十四 鼓判官(つづみはうぐわん)

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平家物語巻第八より「鼓判官(つづみはうぐわん)」。平家を追い出し都入りした木曾義仲だったが、すぐに院との関係が悪化し、合戦となる。

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あらすじ

平家が都落ちしたのに替わり木曾義仲が都に入ったが、義仲の部下は町中で略奪を行い、不評だった。平家のほうがまだマシだったという声も出た。

後白河法皇は、狼藉をやめさせようと、義仲のもとに壱岐判官朝泰(いきのほうがん ともやす)を使いを送る。鼓の名人で、「鼓判官」と呼ばれていた。

ところが義仲はその鼓判官という異名について朝泰を侮辱したので、朝泰は何も言わずに院の御所に帰り、義仲を追討するよう法皇に要請した。

法皇は比叡山と三井寺にその役目を託し僧兵が招集された。公卿・殿上人が集めたのも無類の徒で、正規の武士ではなかった。

義仲と院の関係が悪化したという噂が流れると、それまで義仲に従っていた源氏たちも、義仲のもとを去り院方につく。

今井四郎兼平は「天皇を敵に回して合戦をするつもりですか、早く降伏なさい」と義仲を諌めるが、義仲は意地になって院方との合戦に踏み切る。

寿永二年十一月十九日、合戦が始まった。義仲軍が院の御所法住寺殿に押し寄せると、鼓判官朝泰が築垣の上に立ち、異様な風貌でののしっている。義仲軍は、法住寺殿に火矢を射かける。

院方は鼓判官朝泰をはじめとして、大混乱の中に逃げていく。

そこへ「落人があれば打ち殺せ」と院より指示を受けていたものたちが屋根の上から石を投げつけ、打ち殺す。

主水正親成(もんどうのかみ ちかなり)は今井四郎兼平に射殺された。人々は、「明経道の博士(経書を教える博士)が甲冑を着るなど、あってはならない」と言った。

他にも多くの院方が討たれ、生捕りにされた。比叡山の天台座主明雲大僧正、三井寺の長吏円慶法親王も、馬から射落とされて、首を取られた。

刑部卿三位頼資卿(ぎょうぶきょうさんみ よりすけのきょう)は義仲方の武士に衣装を剥ぎ取られ素っ裸で立っていた所を小舅の越前法眼性意という僧が召し使っている雑用僧に助けられる。

この雑用僧は白子袖二枚に僧衣を着ていた。どうせなら小袖を着せてやればよかったのに、僧衣を与えたので、頼資卿はだぶだぶで見苦しい風貌となった。

その上「あれは誰の家だここはどこだ」など質問しながらゆっくり歩いたので、人々はそれを見て笑った。

法皇は御輿に召されて逃げていたが、それを知らず義仲方の武士どもが矢を射かけた。守護の者が「これは法皇の御輿だぞ」と言うと、武士どもはかしこまり、すぐに五条内裏にお連れし、監禁した。

後鳥羽天皇は、池に舟を浮かべて火から逃れていたが、義仲方の武士はそれにも矢を射かける。守護のものが「主上がお召しだぞ」と言うと、武士どもはかしこまり閑院殿にお連れした。天皇の行幸と言ってもそれはひどい有様だった。

原文

凡(およ)そ京中(きやうぢゆう)には源氏みちみちて、在々所々(ざいざいしよしよ)にいりどりおほし。 賀茂(かも)、八幡(はちまん)の御領(ごりやう)ともいはず、青田(あをた)を刈りてま草(くさ)にす。人の倉をうちあけて物をとり、持ッてとほる物をうばひとり、衣裳(いしやう)をはぎとる。「平家の都におはせし時は、六波羅殿(ろくはらどの)とて、ただおほかたおそろしかりしばかりなり。衣裳をはぐまではなかりし物を。平家に源氏かへおとりしたり」とぞ人申しける。

木曾(きそ)の左馬頭(さまのかみ)のもとへ、法皇(ほふわう)より御使(おつかひ)あり。「狼籍(らうぜき)しづめよ」と仰せ下さる。御使は壱岐守知親(いきのかみともちか)が子に壱岐判官知康(いきのはうぐわんともやす)といふ者なり。天下にすぐれたる鼓(つづみ)の上手(じやうず)でありければ、時(とき) の人鼓判官(つづみはうぐわん)とぞ申しける。木曾対面(たいめん)して、先(ま)ず御返事(おんへんじ)をば申さで、「抑(そもそも)わ殿(との)を鼓判官といふは、よろづの人にうたれたうたか、はられたうたか」とぞ問うたりける。知康(ともやす)返事におよばず、院(ゐん)の御所(ごしよ)に帰り参って、「義仲(よしなか)をこの者で候。只今朝敵(たうてき)になり候(さうら)ひなんず。いそぎ追討(ついたう)せさせ給へ」と申しければ、法皇、さらばしかるべき武士(ぶし)にも仰せ付けられずして、山の座主(ざす)、寺(てら)の長史(ちやうり)に仰せられて、山、三井寺(みゐでら)の悪僧(あくそう)どもを召されけり。公卿殿上人(くぎやうてんじやうびと)の召されける勢(せい)と申すは、向(むか)へ礫(つぶて)、印地(いんぢ)、いふかひなき辻冠者原(つじくわんじやばら)、乞食法師(こつじきぼふし)どもなりけり。

木曾左馬頭(きそさまのかみ)、院の御気色(ごきしよく)あしうなると聞えしかば、はじめは木曾にしたがうたりける五畿内(ごきない)の兵(つはもの)ども、皆そむいて院方(ゐんがた)へ参る。信濃源氏村上(しなののげんじむらかみ)の三郎判官代(さぶらうはんぐわんだい)、是(これ)も木曾をそむいて法皇へ参りけり。今井四郎(いまゐのしらう)申しけるは、「是こそ以(もつ)ての外(ほか)の御大事(おんだいじ)で候へ。さればとて十善帝王(じふぜんていわう)にむかひ参らせて、争(いか)でか御合戦(ごかつせん)候べき。甲(かぶと)をぬぎ弓をはづいて、降人(かうにん)に参らせ給へ」と申せば、木曾大(おほ)きにいかつて、「われ信濃を出でし時、麻績(をみ)、会田(あひだ)のいくさよりはじめて、北国には砥浪山(となみやま)、黒坂(くろさか)、篠原(しのはら)、西国(さいこく)には福隆寺縄手(ふくりゆうじなはて)、篠(ささ)の迫(せまり)、板倉(いたくら)が城(じやう)を責めしかども、 いまだ敵(かたき)にうしろを見せず。たとひたとひ十善帝王にてましますとも、甲をぬぎ弓をはづいて、降人にはえこそ参るまじけれ。たとへば都の守護してあらむ者が、馬一疋(ぴき)づつかうて乗らざるべきか。いくらもある田どもからせてま草(くさ)にせんを、あながちに法皇のとがめ給ふべき様(やう)やある。兵粮米(ひやうらうまい)もなければ、冠者原共(くわじやばらども)がかたほとりについて時々いりどりせんは、何かあながちひが事ならむ。大臣家(だいじんげ)や宮々(みやみや)の御所(ごしよ)へも参らばこそ僻事(ひがこと)ならめ、是は鼓判官が凶害(きよょうがい)とおぼゆるぞ。其鼓(そのつづみ)め打破(うちやぶ)つて捨てよ。今度(こんど)は義仲(よしなか)が最後の軍(いくさ)にてあらむずるぞ。頼朝(よりとも)が帰りきかむ処(ところ)もあり。軍(いくさ)ようせよ、者ども」とてうッたちけり。北国の勢(せい)ども皆(みな)落ち下ッて、纔(わずか)に六七千騎(ぎ)ぞありける。我軍(わがいくさ)の吉例(きちれい)なればとて、七手(ななて)につくる。先(ま)づ樋口次郎兼光(ひぐちのじらうかねみつ)、二千騎(ぎ)で新熊野(いまぐまの)のかたへ搦手(からめて)にさしつかはす。のこり六手(むて)はおのおのがゐたらむずる条里小路(でうりこうぢ)より川原(かはら)へ出でて、七条河原(しつでうかはら)にて一つになれと、あひづをさだめて出で立ちけり。

現代語訳

およそ、京中に源氏の兵士が満ち満ちて、至る所で人家に侵入し家財などを掠奪する押し入り強盗が多い。加我神社や石清水八幡の領地でもかまわず青田を刈ってま草にする。人の倉を押し開けて物を取り、持って通る物を奪い取り、衣装を剥ぎ取る。「平家が都におられた時は、六波羅殿といって世間一般にただ恐ろしかっただけである。衣装を剥ぐ迄はなかったものを。平家に源氏が変って返って悪くなってしまった」と人は申した。

木曾の左馬頭の所へ法皇よりの使いがあり、「狼藉を鎮めよ」と命令を下される。御使いは壱岐守知親(いきのかみともちか)の子で壱岐判官知康(いきのほうがんともやす)という者である。天下に名の知れた鼓の名手だったので、当時の人が鼓判官(つづみほうがん)と申していた。木曾は対面して、先ず御返事はしないで、「そもそも貴方を鼓判官というのは、多くの人にお打たれになったのか、張られなさったのか」と聞いたのだった。知康は返事もできずに、院の御所に帰って来て、「義仲はおろか者でございます。今にも朝敵(ちょうてき)になるでしょう。急いで追討おさせください」と申したところ、法皇は、それなら然るべき武士に仰せつけられるべきなのにそれもなさらないで、比叡山の座主、園城寺の首長の僧に仰せられて、比叡山、三井寺の荒法師共をお呼びになった。公卿・殿上人が集められた軍勢というのは、向え礫(つぶて)、印地や特に言うほどの価値もない市中を徘徊する浮浪の若者や乞食坊主どもであった。

木曾左馬頭への院の御機嫌が悪くなったという噂がたったので、はじめは木曾に従っていた五幾内の武士どもが、皆背(そむ)いて院方へ参った。信濃源氏村上三郎の三郎判官代がこれも背いて法皇方へ参った。今井四郎が申したのは、「これこそ以ての外の一大事でございます。だからといって十善帝王にお手向かいになってどのようにして合戦なさいますか。甲を脱ぎ弓を外して、降参なさいませ」と申すと、木曾はたいそう怒って、「「自分は信濃を出た時、麻積(おみ)、会田(あいだ)の戦を初めとして、北国では砺波山(となみやま)、黒坂(くろさか)、篠原(しのはら)、西国では福隆寺縄手(ふくりゅうじなわて)、篠の迫り、板倉の城を攻めたがいまだ敵に後を見せた事は無い。たとえ十善帝王であられようとも、甲を脱ぎ弓をはずして、降参はしない。たとえば都の守護をしている者が、馬を一頭づつ飼って乗らないでいるはずはなかろう。いくらでもある田を刈らせて秣(まぐさ)にするのを、強いて法皇がお咎めなさるべきだろうか。兵粮米も無いので、若者共が都のはずれに行って時々物を掠奪するのは、どうしてあながち不都合であろうか。大臣家や宮々様の御所へ参るのならば不都合であろが、これは鼓判官の人を陥れる悪だくみと思うぞ。その鼓めを打ち破って捨てよ。今度は義仲の最後の戦になるであろう。頼朝が伝え聞くという事もある。だから立派な戦をせよ。者ども」といって出発した。北国の軍勢は皆本国へ落ち下って、纔かに六七千騎が残っていた。我軍の吉例になればと、七手にわける。まず樋口次郎兼光が二千騎で新熊野(いまくまの)の方面へ搦手として向わせる。残りの六手はおのおのが控えていた条里や小路から川原へ出て、七条河原で一つになれと合図を決めて出発した。

語句

■在々所々 在所在所に同じ。あちこち。 ■いりどり 「入取」。家屋に押し入って略奪すること。 ■賀茂、八幡の御領 賀茂神社と石清水八幡宮の所領地。 ■ま草 馬の飼葉。 ■おほかた 世間一般に。一般論として。 ■狼籍 狼藉に同じ。乱暴な行い。 ■壱岐守知親 底本「壱岐守朝親」より改め。「壱岐守平知親」(玉葉・寿永二年(1183)十一月二十九日条)。 ■知康 底本「知泰」より改め。以下同。「左衛門尉平知康(大夫尉)」(玉葉・寿永二年十一月二十九日条)。 ■うたれたうたか、はられたうたか お打たれになったのか。なぐられなさったのか。「はる」は鼓を張ると頬を張る(殴る)をかける。「たうたか」は「たまひたるか」の転。 ■をこの者 おろか者。ばか者。 ■さらばしかるべき武士にも仰せつけられずして 「さらばしかるべき武士に仰せつけらるべきところ仰せつけられずして」の意。 ■寺の長吏 園城寺(三井寺)のトップ。 ■悪僧 戒律は無視して荒々しい行いをする僧。僧兵。 ■向へ礫 小石を投げて相手を殺生すること。ここではそれを得意とする者。印地も同意。 ■いふかひなき 特に言うほどのことでもない。取るに足りない。 ■辻冠者原 辻を歩き回る若者ども。 ■村上の三郎判官代 清和源氏源頼清の子孫。村上党の祖為国の三男、基国。 ■十善帝王 前世で罪を犯さなかったため帝王に生まれ変わった方。後白河院のこと。 ■麻績、会田 長野県東筑摩郡麻績および松本市会田。 ■福隆寺縄手 岡山市北部にあった福輪寺か(巻八「瀬尾最期」)。 ■たとへば 詳しく言えば。以下、略奪の言い訳。 ■あながちに 強引に。強いて。 ■冠者原共 若者ども。 ■何かあながちひが事ならむ どうしてあながち不都合なことだろうか。それぐらいいじゃないか、ゆるせの意。 ■凶害 人を害そうとしてやる悪いたくらみ。 ■帰りきかむ 回り回って耳に入る。伝え聞く。 ■吉例なれば 燧ヶ城合戦で勝利したことをいう(<巻七「火打合戦」)。 ■樋口次郎兼光 延慶本などでは新熊野へ向かうのは今井四郎兼平。 ■新熊野 永暦元年(1160)後白河法皇が熊野権現を勧請して建てた神社。熊野参詣の出発点となる。京都市東山市。法住寺殿の東南。 ■条里小路 条里は市内を東西南北に走る道で規模の大きいもの。小路はその規模の小さいもの。

原文

軍は十一月十九日の朝(あした)なり。院御所法住寺殿(ゐんのごしよほふぢゆうじどの)にも、軍兵(ぐんぴやう)二万余人参りこもりたるよし聞えけり。御方(みかた)の笠(かさ)じるしには、松の葉をぞ付けたりける。木曾法住寺殿(ほふぢゆうじどの)の西門(さいもん)におし寄せてみれば、鼓判官知康(つづみはうぐわんともやす)軍の行事(ぎやうじ)承って、赤地(あかぢ)の錦(にしき)の直垂(ひたたれ)に、鎧(よろひ)はわざと着ざりけり。甲計(かぶとばかり)ぞ着たりける。甲には四天(してん)を書いておしたりけり。

御所の西の築墻(ついかき)の上にのぼッて立ッたりけるが、片手にはほこをもち、片手には金剛鈴(こんがうれい)をもって、金剛鈴を 打振(うちふ)り打振り、時々は舞ふ折(をり)もありけり。若き公卿殿上人(くぎやうてんじやうびと)、「風情(ふぜい)なし。知康には天狗(てんぐ)ついたり」とぞわらはれける。大音声(だいおんじやう)をあげて、「むかしは宣旨(せんじ)をむかッてよみければ、枯れたる草木(くさき)も花咲き実(み)なり、悪鬼(あくき)、悪神(あくじん)も随(したが)ひけり。末代ならむがらに、いかんが十善帝王(じふぜんていわう)にむかひ参らせて弓をばひくベき。汝等(なんぢら)がはなたん矢は、返ッて身にあたるべし。ぬかむ太刀は身をきるべし」なンどとののしりければ、木曾、「さないはせそ」とて、時をどッとつくる。

さる程に、搦手(からめて)にさしつかはしたる樋口次郎兼光(ひぐちのじらうかねみつ)、新熊野(いまぐまの)の方(かた)より時の声をそあはせたる。鏑(かぶら)のなかに火をいれて、法住寺殿(ほふぢゆうじどの)の御所に射たてたりければ、をりふし風ははげしし、猛火(みやうくわ)天にもえあがッて、ほのほは虚空(こくう)にひまもなし。いくさの行事知康は、人よりさきに落ちにけり。行事がおつるうへは、二万余人の官軍ども、我さきにとぞ落ちゆきける。あまりにあわてさわいで、弓とる者は矢を知らず、矢をとる者は弓を知らず。或(あるい)は長刀(なぎなた)さかさまについて、我足(わがあし)つきつらぬく者もあり、或(あるい)は弓の弭(はず)物にかけて、えはづさで捨ててにぐる者もあり。七条(しつでう)がすゑは摂津国源氏(つのくにげんじ)のかためたりけるが、七条を西へおちて行く。かねて軍(いくさ)以前より、「落人(おちうど)のあらむずるをば、用意してうちころせ」と、御所より披露(ひろう)せられたりければ、在地(ざいぢ)の者共、屋ねいに楯(たて)をつき、おそへの石をとりあつめて、待ち懸けたるところに、摂津国源氏のおちけるを、「あはや落人よ」とて、石を拾ひかけ、さんざんに打ちければ、「これは院がたぞ。あやまち仕(つかまつ)るな」といへども、「さないはせそ。院宣であるに、ただ打ちころせ打ちころせ」とて打つ間、或(あるい)は馬をすてて、はふはふにぐる者もあり、或はうちころさるるもありけり。八条(はつでう)がすゑは山僧(さんぞう)かためたりけるが、恥(はぢ)ある者は討死(うちじに)し、つれなき者はおちぞゆく。

主水正親業薄青(もんどのかみちかなりうすあを)の狩衣(かりぎぬ)のしたに、萌黄威(もえぎをどし)の腹巻を着て、白葦毛(しらあしげ)なる馬に乗り、河原をのぼりに落ちてゆく。今井四郎兼平(いまいのしらうかねひら)おッかかッて、しや頸(くび)の骨を射て射おとす。清大外記頼業(せいだいげきよりなり) が子なりけり。「明経道(みやうぎやうだう)の博士(はかせ)、甲冑(かつちう)をよろふ事しかるべからず」とぞ人申しける。木曾を背(そむ)いて院方(ゐんがた)へ参ッたる信濃源氏村上三郎判官代(しなののげんじむらかみのさぶらうはんぐわんだい)もうたれけり。是(これ)をはじめて院方には近江中将為清(あふみのちゆうじようためきよ)、越前守信行(ゑちぜんのかみのぶゆき)も射ころされて頸とられぬ。伯耆守光長(ほうきのかみみつなが)、子息判官光経父子(はうぐわんみつつねふし)共にうたれぬ。按察大納言資賢卿(あぜちのだいなごんすけかたのきやう)の孫播磨少将雅賢(はりまのせうしやうまさかた)も鎧に立烏帽子(たてえぼし)で軍(いくさ)の陣へ出でられたりけるが、樋口次郎に生(いけ)どりにせられ給ひぬ。天台座主明雲大僧正(てんだいざすめいうんだいそうじやう)、寺(てら)の長吏円恵法親王(ちやうりゑんけいほつしんわう)も御所に参りこもらせ給ひたりけるが、黒煙(くろけぶり)すでにおしかけければ、御馬(おんま)に召して、いそぎ川原へ出でさせ給ふ。武士どもさむざむに射奉る。明雲大僧正、円恵法親王も御馬より射おとされて御頸(おんくび)とられさせ給ひけり。

現代語訳

戦は十一月十九日の朝である。院の御所法住寺殿にも、軍兵(ぐんぴやう)二万余人が参って籠っているということが伝わってきた。院の味方の笠印(かさじるし)には、松の葉を付けていた。木曾が法住寺殿の西の門に押し寄せてみると、鼓判官知康(ともやす)が戦の指揮を承って、赤地の錦の直垂に、鎧はわざと着ていなかった。甲だけを被っていた。甲には四天王の絵を貼ってあった。御所の西の築垣(ついがき)に登って立っていたが、片手には矛(ほこ)を持ち、片手には金剛鈴(こんごうれい)を持って、金剛鈴を打ち振りながら、時々は舞う時もあった。若い公卿・殿上人は、「見苦しい。知康には天狗が付いた」と笑われた。知康が大音声を上げて、「昔は宣旨を面と向って読んだら、枯れた草木も花が咲き実がなり、悪鬼、悪神も随ったものだ。末代であるからといって、どうして十善帝王にお向い申して弓が引かれようか。お前たちの放った矢は、元に返ってお前たちの身に当たるであろう。抜いた太刀は身を切るであろう。」などと罵(ののし)ったので、木曾は、「そうはさせぬ」と、どっと鬨の声をあげる。

そうしていると搦手に遣わした滝口次郎兼光が、新熊野の方角より正面の味方に合せて鬨の声をあげた。鏑のなかに火を入れて、法住寺殿の御所に射たてたので、折から風は激しく、猛火が空に燃え上がって、炎は空いっぱいに広がる。戦の指揮者知康は、誰よりも先に逃げてしまった。指揮者が逃げた以上、二百余人の官軍どもは我先にと落ちて行った。あまりにも慌てふためいて、弓をとる者は矢がわからず、矢を取る者は弓がわからない。あるいは長刀を逆(さか)さまについて我足を突き貫く者もあり、或は弓の弾(はず)を物に引っ掛け外しもせず捨てて逃げる者もいる。七条のはずれは摂津国源氏が守っていたが、七条を西へ落ちて行く。かねて戦の前から、「落人を見つけたら、待ち構えて打ち殺せ」と御所から触れ回られていたので、地元の人々屋根の上に盾を作り襲えの石を取り集めて、待ち受けていた所に、摂津国源氏が逃げて来たので、石を拾って投げ散々に打ったので「これは院方ぞ。間違いなさるな」と言えども「そうはさせん。院宣なので、ただ打ち殺せ、打ち殺せ」といって打つ間、ある者は馬を棄てて、ほうほうの体で逃げたが、打ち殺される者もいた。八条通りのはずれは叡山の僧が守っていたが、恥を知る者は討死し、恥知らずの者は逃げて行く。

主水正親業(もんどのかみちかなり)は薄青の狩衣の下に、萌黄威(もえぎおどし)の腹巻を着て、白葦毛(しろあしげ)という馬に乗り河原をのぼり逃げて行く。今井四郎兼平が追っかけて、首の骨を射て射落す。清大外記頼業(せいだいげきよりなり)の子であった。「明経道(みょうきょうどう)の博士が甲冑を身に着ける事はよろしくない」と世間の人は申した。木曾に背いて院方に寝返った信濃源氏村上三郎判官代も討たれた。これを初めとして院方では近江中将為清(ためきよ)、越前守信行(のぶゆき)も射殺されて首を取られた。伯耆守(ほうきのかみ)光長、子息判官光経(みつつね)父子も共に討たれた。按察使(あぜちの)大納言資賢卿(すけかたのきょう)の孫播磨少将雅賢(まさかた)も鎧に立烏帽子で戦の陣へ出られたが、樋口次郎に生け捕りにされてしまわれた。天台座主明雲大僧正、寺の長史(ちょうり)円恵法親王(ほっしんのう)も御所に参りお籠りになられたが、黒煙がすでに押しかけていたので御馬にお乗りになって、急いで川原へお出になられる。武士どもが散々に射申し上げる。明雲大僧正、円恵法親王も御馬から射落とされて御首をお取られになった。

語句

■御方の笠じるし 甲につける自軍のしるし。 ■行事 儀式などの責任者。ふつう戦の場には用いない。 ■四天 四天王。持国天・増長天・広目天・多聞天。 ■金剛鈴 金剛杵(こんごうしょ)の片側が刃のかわりに鈴になっているもの。ガンタ(Ghanta)。金剛杵は密教などで用いる法具。ヴァジュラ(vajra)。仏の教えで煩悩を滅ぼす意味がある。 ■むかしは宣旨をむかッてよみければ… 「昔は宣旨をむかッてよみければ、枯れたる草木も花咲き実なり、とぶ鳥もしたがひけり」(巻五「朝敵揃」)。 ■法住寺殿の御所に… 『玉葉』によれば午刻(正午頃)過ぎに義仲の軍勢が法住寺殿に押し寄せ、未刻(午後ニ時頃)、鬨の声が聞こえ、申刻(午後四時頃)、官軍が敗れていたという。 ■七条がすゑ 七条大路の東端。鴨河原に接する。 ■在地の者共 そのあたりに住む連中。 ■屋ねい 屋根上あるいは屋上(やのえ)の転。 ■おそへの石 「襲(おそい)の石」の転か。屋根板を押さえるために置いておく石。 ■仕るな 「仕る」は謙譲語。相手が下賤な者なので。 ■つれなき者 物事に対して平気な者。ここでは恥を知らぬ者。 ■主水正 主水司(もんどのつかさ)の長官。主水司は水・かゆ・氷室などを扱う役所。 ■親業 底本「親成」より『玉葉』・『清原系図』などにより改め。清原頼業の次男。「後白河院上北面、寿永二年十一月十九日木曾義仲法住寺殿ニ於テ合戦之時、流矢ニ中リテ卒ス。三十二歳」(清原系図)。 ■萌黄 鮮やかな黄緑色。 ■白葦毛 葦毛の白色の強いもの。ほぼ白馬に近い。 ■清大外記 清原頼業。「清」は清原氏。「大外記」は太政官外記局で文書を扱う役人。 ■明経道 大学寮で経学を教えた博士。清原・中原氏の世襲。 ■近江中将為清 「近江守重章」(百錬抄)、「近江守高階為清」(玉葉・治承三年十ニ月十ニ日条)。 ■信行 藤原道隆の子孫。信輔の子。 ■光長 源頼光の子孫。光信の子。「武士伯耆守光長、同子廷尉光経已下合戦(吉記・七月十九日条)。 ■資賢卿 底本「資方」より改め。 ■雅賢 底本「雅方」より改め。播磨守右中将。 ■明雲 「伝聞、座主明雲合戦之日、其場ニ於テ切リ殺サレ了ンヌト」(玉葉・十一
月二十ニ日条)。『徒然草』百四十六段に、明雲大僧正が相人から「武器で殺生される相がある」と占われた話がある。 ■円恵法親王 底本「円慶法親王」。以下同。後白河法皇の皇子。高倉天皇の弟。八条宮と号す。「八条円恵法親王、華山寺辺ニ於テ伐リ取ラレ了ンヌ」(玉葉・十一月二十ニ日条)。

原文

豊後(ぶんご)の国司刑部卿三位頼輔卿(こくしぎやうぶきやうざんみよりすけのきやう)も、御所に参りこもられたりけるが、火は既におしかけたり、いそぎ川原へ逃げ出で給ふ。武士の下部(しもべ)どもに衣装(いしやう)皆はぎとられ、まッぱだかでたたれたり。十一月十九日のあしたなれば、河原の風さこそすさまじかりけめ。三位こじうとに越前法眼性意(ゑちぜんのほふげんしやうい)といふ僧あり。其中間法師(そのちゆうげんぼふし)、軍(いくさ)見んとて河原に出でたりけるが、三位のはだかでたたれたるに見あうて、「あなあさまし」とてはしり寄り、此(この)法師は白き小袖(こそで)二つに衣(ころも)着たりけるが、さらば小袖をもぬいで着せ奉れかし、さはなくて衣をひンぬいで投げかけたり。短き衣うつほにほほかぶッて帯もせず。うしろさこそ見苦しかりけめ。白衣(びやくえ)なる法師ともに具しておはしけるが、さらばいそぎもあゆみ給はで、あそこ爰(ここ)に立ちとどまり、「あれはたが家ぞ、是(これ)は何者が宿所ぞ、ここはいづくぞ」と、道すがら問はれければ、見る人みな手をたたいてわらひあへり。

法皇は御輿(おんこし)に召して他所(たしよ)へ御幸(ごかう)なる。武士どもさんざんに射奉る。豊後少将宗長(ぶんごのせうしやうむねなが)、木蘭地(むくらんぢ)の直垂(ひたたれ)に折烏帽子(をりえぼし)で供奉(ぐぶ)せられたりけるが、「是は法皇の御幸ぞ、あやまち仕るな」と宣(のたま)へば、兵(つはもの)ども皆馬よりおりてかしこまる。「何者ぞ」と御尋(おんたづ)ねありければ、「信濃国住人矢島(しなののくにのぢゆうにんやしま)の四郎行綱(しらうゆきつな)」となのり申す。軈(やが)て御輿に手かけ参らせ、五条内裏(ごでうだいり)におしこめ奉(たてま)ッて、きびしう守護し奉る。

主上(しゆしやう)は池に船をうかべて召されけり。武士どもしきりに矢を参らせければ、七条侍従信清(しつでうのじじゆうののぶきよ)、紀伊守範光(きのかみのりみつ)、御船(おんふね)に候はれけるが、「是はうちのわたらせ給ふぞ。あやまち仕るな」と宣へば、兵ども皆馬よりおりてかしこまる。閑院殿(かんゐんどの)へ行幸(ぎやうがう)なし奉る。行幸の儀式のあさましさ、申すもなかなかおろかなり。

現代語訳

豊後の国司刑部卿三位頼輔卿(ぎょうぶきょうざんみよりすけのきょう)も御所に参り籠っておられたが、火はすでにおしかけていた、急いで川原へお逃げだしになられる。身分の低い武士共に衣装を皆剥ぎ取られ、真裸(まっぱだか)で立たれていた。十一月十九日の朝なので、河原の風はさぞかしすさまじく冷たかったことだろう。三位の小舅に越前法眼性意(えちぜんのほうげんしょうい)という僧がいた。その中間法師が戦を見ようと河原へ出ていたが、三位の裸で立たれているのに見会って、「ああ、情けない」と走り寄って、この法師は白い小袖二つに衣を着ていたが、それなら小袖を脱いでお着せ申せばいいのに、そうではなく衣を引き抜いで投げかけた。短い衣を頭からすっぽりかぶって帯もしない。後姿はそれこそ見苦しかったことであろう。白衣の法師を共に連れていらっしゃったが、それも急いで歩むこともなく、あそこ此処に立ち止まり「あれは誰の家か、これは何者の宿所か、ここは何処だ」と、道すがら聞かれたので、見ていた人はみな手を叩いて笑いあった。

法皇は御輿にお乗りになって他の場所へ御幸なさる。武士どもが散々に射申し上げる。豊後少将宗長(むねなが)は、木蘭地の直垂に折り烏帽子でお供をなさっていたが、「これは法皇のお通りである。あやまちをいたすな」とおっしゃると、武士どもは皆馬から下りて畏まる。「何者か」とお尋ねがあったので、「信濃国住人矢島の四郎行綱(ゆきつな)と名のり申す。すぐに御輿を担い、五条内裏に押し込め申して、厳重にお守り申し上げる。

主上は池に船を浮べてお乗りになった。武士どもがしきりに矢を射かけ申したので、七条侍従信清(しちじょうのじじゅうのぶきよ)、紀伊守範光(きのかみのりみつ)が天皇の御舟にお伴しておられたが、「これは帝がお乗りであるぞ。あやまちをいたすな」とおっしゃると、兵どもは皆馬から降りて畏(かしこ)まる。武士どもは天皇を閑院殿へお移し申し上げる。その行幸の儀式の興ざめな事は言葉では言い表せない程である。

語句

■頼輔 底本「頼資」より改め。藤原忠教の四男。蹴鞠の宗家、飛鳥井家の祖。 ■越前法眼性意 詳細不明。 ■中間法師 中程度の立場の法師。 ■白き小袖二つに衣着たりける 白い小袖二枚の上に黒い僧衣を重ね着していること。 ■ひンぬいで 「引き脱ぎて」の転。 ■うつほにほほかぶッて 頭からすっぽりかぶって。「うつほ(お)」は空っぽのこと。 ■さらばいそぎもあゆみ給はで 「さらばいそぎも歩みたまへかし、さはなくて」の意。 ■宗長 頼経の長男で祖父頼資の養子となる。蹴鞠(けまり)の名手。難波流の祖。弟雅経の飛鳥井流とともにニ大流派となった。 ■木蘭地 赤みのある黄を帯びた茶色。 ■矢島の四郎行綱 延慶本「根井小野矢(太)并楯六郎親忠ガ弟、八島四郎行綱」。矢島は信濃佐久郡矢嶋。 ■五条内裏 五条東洞院にあった。もと五条大納言邦綱の邸で高倉天皇の皇居。五条通は現在の松原通。「申ノ刻ニ及ビ、官軍悉ク敗績、法皇ヲ取リ奉リ了ンヌ、義仲ノ士卒等、歓喜限リ無シ、即チ法皇ヲ五条東洞院ノ摂政ノ亭ニ渡シ奉リ了ンヌ」(玉葉・十一月十九日条)。 ■主上 後鳥羽天皇。 ■信清 藤原(坊門)信隆の子。七条坊城に家があった。七条院殖子(後鳥羽母)の兄。娘(坊門信清女)は後鳥羽(院)の妾となる。 ■範光 底本「教光」より改め。 ■閑院殿 二条南、西洞院西。高倉天皇以来の里内裏。京都市中京区古城町369に碑。『源氏物語』の主要な舞台、二条院(光源氏の邸宅)はこの近く。

……

義仲が鼓判官を侮辱したことがきっかけで戦が始まったという話になっています。これは単純化が過ぎると思います。まさかこんなことで戦にはならんでしょう。

平家物語には書かれていませんが、義仲は京都から平家一門によって京都から連れ去られた安徳天皇に代わって、亡き以仁王の遺児・高倉宮を推しました。

この事が院と義仲の関係が決裂した直接の理由と思います。一介の武士の分際で、天皇の人事に口を出すとは何事だと。

平家物語はそれを鼓判官の話で単純化し、戯画的に描いているのだと思います。

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朗読・解説:左大臣光永

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