平家物語 百二十五 法住寺合戦(ほふぢゆうじかっせん)

原文

院方(ゐんがた)に候(さうら)ひける近江守仲兼(あふみのかみなかかね)、其勢五十騎(そのせいごじつき)ばかりで法住寺殿の西の門をかためてふせぐ処(ところ)に、近江源氏山本冠者義高(やまもとのくわんじやよしたか)馳(は)せ来たり。「いかにおのおのは、誰(たれ)をかばはんとて軍(いくさ)をばし給ふぞ。御幸(ごかう)も行幸(ぎやうがう)も他所(たしよ)へなりぬとこそ承はれ」と申せば、「さらば」とて、敵(かたき)の大勢(おほぜい)のなかへをめいてかけいり、さんざんに戦ひ、かけやぶッてぞとほりける。主従(しゆうじゆう)八騎にうちなさる。八騎がうちに河内(かはち)の日下党(くさかたう)、加賀房(かがぼう)といふ法師武者(ほふしむしや)ありけり。白葦毛(しらあしげ)なる馬の、きはめて口こはきにぞ乗ッたりける。「此(この)馬があまりひあひで乗りたまるべしともおぼえ候はず」と申しければ、蔵人(くらんど)、「いでさらばわが馬に乗りかへよ」とて、栗毛(くりげ)なる馬の下尾(したを)白いに乗りかへて、根井(ねのゐ)の小弥太(こやた)が二百騎ばかりでささへたる川原坂(かはらざか)の勢(ぜい)の中(なか)へをめいて懸けいり、そこにて八騎が五騎はうたれぬ。ただ主従三騎にぞなりにける。加賀房はわが馬のひあいなりとて、主の馬に乗りかへたれども、そこにてつひにうたれにけり。

源蔵人(げんくらんど)の家の子に、信濃次郎蔵人仲頼(しなののじらうくらんどなかより)といふ者あり。敵におしへだてられて、蔵人のゆくゑを知らず。栗毛なる馬の下尾白いがはしり出でたるを見て、下人(げにん)をよび、「ここなる馬は源蔵人の馬とこそ見れ。はやうたれけるにこそ。死なば一所(いつしよ)で死なむとこそ契りしに、所々(ところどころ)でうたれん事こそかなしけれ。どの勢の中へかいると見つる」。「川原坂の勢のなかへこそ懸けいらせ給ひ候ひつるなれ。やがてあの勢の中より御馬(おんま)も出できて候」と申しければ、「さらば汝(なんぢ)はとうとう是(これ)より帰れ」とて、最後の有様(ありさま)故郷へいひつかはし、只(ただ)一騎敵のなかへ懸けいり、大音声(だいおんじやう)あげて名のりけるは、「敦実親王(あつみのしんわう)より九代(くだい)の後胤(こういん)、信濃守仲重(しなののかみなかしげ)が次男、信濃次郎蔵人仲頼、生年(しやうねん)廿七歳。我と思はん人々は寄りあへや、見参せん」とて、竪様(たてさま)、 横様(よこざま)、くも手(で)、十文字(じふもんじ)に懸けわり懸けまはり戦ひけるが、敵あまた打ちとッてつひに打死(うちじに)してンげり。蔵人是をば夢にも知らず、兄の河内守(かはちのかみ)、郎等(らうどう)一騎打具(うちぐ)して、主従三騎南をさして落ち行くほどに、摂政殿(せつしやうどの)の都をば軍(いくさ)におそれて、宇治(うぢ)へ御出(ぎよしゆつ)なりけるに、木幡山(こはたやま)にて追ッ付き奉る。木曾が余党かとおぼしめし、御車(おんくるま)をとどめて、「何者ぞ」と御尋(おんたづ)ねあれば、「仲兼」「仲信(なかのぶ)」となのり申す。「こはいかに。北国の凶徒(きやうと)かなンどおぼしめしたれば、神妙(しんべう)に参りたり。ちかう候ひて守護仕(つかまつ)れ」と仰せければ、畏ッて承り、宇治の富家殿(ふけどの)までおくり参らせて、軈(やが)て此人どもは河内へぞ落ちゆきける。

あくる廿日(はつかのひ)、木曾左馬頭六条川原(きそのさまのかみろくでうかわら)にうッたッて、昨日きるところの頸(くび)どもかけならべて記(しる)いたりければ、六百卅余人なり。其中(そのなか)に明雲大僧正(めいうんだいそうじやう)、寺の長吏円恵法親王(ゑんけいほつしんわう)の御頸(おんくび)もかからせ給ひたり。是(これ)を見る人、涙をながさずといふ事なし。木曾其勢七千余騎、馬の鼻を東(ひんがし)へむけ、天も響き大地(だいぢ)もゆるぐ程に、時をぞ三ヶ度(さんがど)つくりける。京中又さわぎあへり。但(ただ)し是は悦(よろこび)の時とぞきこえし。

現代語訳

院方にお仕え申し上げていた近江守仲兼が、その軍勢五十騎ほどで法住寺殿の西の門を固め防いでいるところに、近江源氏山本冠者義高が駆けて来て、「どうしたのだ、おのおの方は誰を庇(かば)おうとして戦をしておられるのか。御幸も行幸も他の場所になったと承りました」と申すので、「それならば」といって、大勢の敵の中へ叫んで駆け入り、散々戦い、駆け破って通った。その時、主従は八騎までに討ち果たされた。八騎のなかに河内(かわち)の日下党(くさかとう)、加賀房(かがぼう)といふ法師武者(ほうしむしゃ)がいた。白葦毛(しらあしげ)で非常に顎が強く手綱を引きにくい馬に乗っていた。「この馬はあまりに危険で乗りこなせるとも思われません」と申したところ、蔵人仲兼は、「さあそれなら自分の馬に乗り換えろ」といって、栗毛で尾の先が白い馬に乗り換えて、根井(ねのい)の小弥太が二百騎ほどで支えていた川原坂(かわらざか)の軍勢の中に大声をあげながら駆け入り、そこで八騎のうちの五騎は討たれた。ただ主従三騎になってしまった。加賀坊は自分の馬は危険だと、主人の馬に乗り換えたけれども、その場で遂に討たれてしまった。

源蔵人(げんくらんど)の家子(いえのこ)に、信濃次郎蔵人仲頼(なかより)という者がいた。敵に押され蔵人とは離れ離れになり、蔵人の行方がわからない。栗毛で下尾の白い馬が敵陣の中から走り出たのを見て、下人を呼び、「この馬は源蔵人の馬と見る。はや討たれてしまったのだな。死ぬ時は一緒に死のうと誓ったのに、別々の所で討たれれるという事は悲しい事だ。どの軍勢の中に居ると見たか」。「川原坂の軍勢の中へ駆け入られました。まもなくあの軍勢の中から御馬も出てまいりました」と申したところ、「ではお前は早くここから帰れ」と、最後の様子を故郷へ言い伝えさせ、たった一騎敵のなかに駆け入り、大声をあげて名乗ったのは、「敦実(あつざね)親王から数えて九代目の後胤(こういん)、信濃守仲重(なかしげ)の次男、信濃次郎蔵人仲頼(なかより)、生年(しょうねん)二十七歳。我こそと思う人々は寄って来い。お相手しよう」といって、縦様・横様・蜘蛛手・十文字に駆け破り駆けまわって戦ったが敵を大勢討取った後ついに討死してしまった。蔵人仲兼はこれを夢にも知らず、兄の河内守は郎等一騎を引き連れて、主従三騎が南に向かって落ちて行くうちに、摂政殿が戦を怖れて都を離れ、宇治へおい出になったのに木幡山で追いつき申す。摂政殿は、木曾の余党かとお思いになり、御車を止めて、「何者か」と尋ねられるので、「仲兼」「仲信」と名乗り申す。「これはどうしたことだ。北国の凶徒かなどと思ったが神妙に参った。近くに寄って守護せよ」と言われたので、畏まって承り、宇治の富家殿(ふけどの)までお送り申し、すぐにこの人々は河内へ落ちて行った。

次の二十日、木曾左馬頭義仲は六条河原に立って、昨日斬った首を掛け並べて記録したところ、六百三十余人である。そのなかに、明雲大僧正、寺の長史円恵法親王の御首も掛けられていた。これを見た人が涙を流さないということはなかった。木曾はその軍勢七千余騎、馬の鼻を東へ向けて、天にも響き大地も揺るがず程、鬨の声を三度上げたのだった。京中また戦かと騒ぎ合っている。しかしこれは勝利の喜びの鬨の声ということであった。

原文

故少納言入道信西(こせうなごんにふだうしんせい)の子息宰相脩範(さいしやうながのり)、法皇のわたらせ給ふ五条内裏(ごでうだいり)に参って、「是は君に奏すべき事があるぞ。あけてとほせ」と宣(のたま)へども、武士どもゆるし奉らず。力及ばで、ある小屋(せうおく)にたちいり、俄(にはか)に髪そりおろし法師になり、墨染(すみぞめ)の衣(ころも)、袴(はかま)着て、「此上(このうへ)は何か苦しかるべき、いれよ」と宣へば、其時ゆるし奉る。御前(ごぜん)へ参ッて、今度うたれ給へるむねとの人々の事ども、つぶさに奏聞(そうもん)しければ、法皇御涙(おんなみだ)をはらはらとながさせ給ひて、「明雲は非業(ひごふ)の死(しに)すべきものとはおぼしめさざりつる物を。今度はただわがいかにもなるべかりける御命(おんいのち)にかはりけるにこそ」とて、御涙(おんなみだ)せきあへさせ給はず。

木曾、家子郎等(いへのこらうどう)召しあつめて評定(ひやうぢやう)す。「抑義仲(そもそもよしなか)、一天(いつてん)の君にむかひ奉りて軍(いくさ)には勝ちぬ。主上(しゆしやう)にやならまし、法皇(ほふわう)にやならまし。主上にならうど思へども、童(わらは)にならむもしかるべからず。法皇にならうど思へども、法師にならむもをかしかるべし。よしよしさらば関白(くわんぱく)にならう」ど申せば、手書(てかき)に具せられたる大夫房覚明(たいぶぼうかくめい)申しけるは、「関白は大織冠(だいしよくわん)の御末(おんすゑ)藤原氏(ふじはらうぢ)こそならせ給へ。殿(との)は源氏でわたらせ給ふに、それこそ叶(かな)ひ候まじけれ」。「其上は力およばず」とて、院の御厩(みまや)の別当におしなッて、丹後国(たんごのくに)をぞ知行(ちぎやう)しける。院の御出家(ごしゆつけ)あれば法皇と申し、主上のいまだ御元服もなき程は、御童形(ごとうぷぎやう)にてわたらせ給ふを知らざりけるこそうたてけれ。前関白松殿(さきのくわんぱくまつどの)の姫君とり奉(たてま)ッて、軈(やが)て松殿の聟(むこ)におしなる。

同(おなじき)十一月廿三日、三条中納言朝方卿(さんでうのちゆうなごんともかたのきやう)をはじめとして、 卿相雲客(けいしやううんかく)四十九人が官職をとどめておッこめ奉る。平家の時は四十三人をこそとどめたりしに、是は四十九人なれば、平家の悪行には超過(ていくわ)せり。

さる程に、木曾が狼籍(らうぜき)しづめんとて、鎌倉の前兵衛佐頼朝(さきのひやうゑのすけよりとも)、舎弟蒲(かば)の冠者範頼(くわんじやのりより)、九郎冠者義経(くらうくわんんじやよしつね)をさしのぼらせけるが、既に法住寺殿焼きはらひ、院うちとり奉ッて天下くらやみになッたるよし聞えしかば、左右(さう)なうのぽッて軍(いくさ)すべき様(やう)もなし。是(これ)より関東へ子細(しさい)を申さんとて、尾張国熱田大宮司(をはりのくにあつたのだいぐんじ)が許(もと)におはしけるに、此事(このこと)うッたへんとて、北面(ほくめん)に候ひける 宮内判官公友(くないはうぐわんきんとも)、藤内左衛門時成(とうないざゑもんときなり)、尾張国に馳(は)せ下り、此由 一々(いちいち)次第にうッたヘければ、九郎御曹司(くらうおんざうし)、「是は宮内判官の関東へ下らるべきにて候ぞ。子細知らぬ使(つかひ)はかへし問はるるとき不審の残るに」と宣(のたま)へば、公朝(きんとも)鎌倉へ馳せ下る。軍(いくさ)におそれて下人(げにん)ども皆落ちうせたれば、嫡子(ちやくし)の宮内所公茂(くないどころきんもち)が十五になるをぞ具したりける。関東に参ッて此よし申しければ、兵衛佐(ひやうゑのすけ)大きにおどろき、「まづ鼓判官知康(つづみのはうぐわんともやす)が不思議事(ふしぎのこと)申し出(いだ)して御所をも焼かせ参らせ、高僧貴僧をもほろぼし奉ッたるこそ奇怪(きッくわい)なれ。知康においては既に違勅(ゐちよく)の者なり。召しつかはせ給はば、かさねて御大事(おんだいじ)出でき候ひなむず」と、都へ早馬をもッて申されければ、鼓判官陳(ちん)ぜんとて、夜を日についで馳せ下る。兵衛佐、「しゃつにめな見せそ。あひしらひなせそ」と宣へども、日ごとに兵衛佐の館へむかふ。つひに面目(めんぼく)なくして、都へ帰りのぼりけり。後(のち)には稲荷(いなり)の辺(へん)なる所に、命ばかりいきてすごしけるとぞ聞えし。

現代語訳

故少納言入道信西の子息、宰相脩範(ながのり)は、法皇のいらっしゃる五条の内裏へ参って、「自分は君に申し上げる事がある。開けて通せ」と言われたが、武士どもが許そうとはなさらない。仕方なく、ある小屋に入り、突然髪を剃り落し法師になり、墨染の衣、袴を着て「このうえは何の差支えもあるまい。入れよ」と言われると、その時お許しになられる。御前へ参って、今度お討たれになった、主だった人々の事を詳しく申し上げたので、法皇は御涙をはらはらとお流しになって、「明雲が非業の死を遂げるとは思いもしなかった。今度はただ自分の最後になるはずであった命にかわってくれたのだ」と言われて、御涙をこらえることもおできにならない

木曾は家子・郎等どもを呼び集めて評定を開く。「そもそも義仲は、天下の君に羽向い奉って戦には勝った。天皇になろうか、法皇になろうかと思うが、童の姿になるのもよろしくない。法皇になろうと思うが法師になるのもおかしなことだ。よしよしそれなら関白になろう」と申すと、書記として連れられていた大夫房覚明(だいぶぼうかくめい)が申したのは、「関白は藤原鎌足公の御子孫である藤原氏がおなりになるものです。殿は源氏でいらっしゃるので、それは叶わないでしょう」。「それならば仕方がない」といって、院の御厩(みうまや)の別当(べっとう)に自分からなって、丹後国を所領にした。院が御出家なされたら法皇と申し、主上がまだ御元服に届かないお歳であれば、御童姿でいらっしゃるのを知らなかったのが情けないことだ。前(さきの)関白松殿の姫君を妻にお迎え申して、強引に松殿の婿になる。

同じ十一月二十三日、三条中納言朝方卿(ともかたのきょう)をはじめとして、公卿・宰相・殿上人四十九人の官職を剥奪して押し込め奉る。平家の時は四十三人の役職を留めたのに、これは四十九人なので、平家の悪行を超えたのである。

そうするうちに、木曾の狼藉を鎮めようと、鎌倉の前兵衛佐頼朝は舎弟蒲(かば)の冠者範頼(のりより)、九郎冠者義経を上洛させられていたが、すでに義仲によって法住寺は焼き払われ、院を討取り奉って天下は暗闇になったという事が耳に入ったので、無分別に上って戦をすることもできない。蒲の冠者範頼・九郎冠者義経は、ここから関東へ詳細を報告しようとして、尾張国熱田大宮司の所に留まっておられたが、そこにこの京の事情を訴えようとして、院の北面に仕えていた宮内(くない)判官公朝(きんとも)・藤内(とうない)左衛門時成(ときなり)が尾張の国へ馳せ下り、このことをいちいち順々に訴えたので、九郎御曹司(おんぞうし)、「これは宮内判官殿が関東へ下られるべきです。問われた時不審が残るので詳しい事を知らない私どものような使いは返してください」と言われるので、公朝は鎌倉へ馳せ下る。戦を怖れて下人どもが皆逃げてしまったので、仕方なく嫡子の十五歳になる宮内所公茂(くないどころきんもち)をお連れになった。関東へ参ってこのことを申したところ、兵衛佐(ひょうえのすけ)は大変驚いて、「先ず鼓判官知康がおかしなことを言い出して御所をも焼かれ、高僧・貴僧をも殺されたのはけしからんことだ。知康はもはや天皇の命に背いた者だ。御召し使いになれば又、大変な事が起るであろう」と、都へ早馬を使って申されたところ、鼓判官は釈明しようとして、夜も昼も休まず馳せ下る。兵衛佐は、「そいつに会うな。対面するな」と言われるけれども、毎日兵衛佐の邸(やしき)へ出かける。結局面目を失くして都へ帰っていった。その後、稲荷神社の辺の辺鄙な所で、かろうじて生き長らえて住んでいたという事であった。

原文

木曾左馬頭、平家の方(かた)へ使者を奉ッて、「都へ御のぼり候へ。一つになッて東国(とうごく)せめむ」と申したれば、大臣殿(おほいとの)はよろこばれけれども、平(へい)大納言(だいなごん)、新中納言(しんぢゆうなごん)、さこそ世すゑにて候とも、義仲にかたらはれて都へ帰りいらせ給はん事、しかるべうも候はず。十善帝王(じふぜんていわう)、三種神器(さんじゆのじんぎ)を帯してわたらせ給へば、『甲(かぶと)をぬぎ弓をはづいて、降人(かうにん)に是へ参れ』とは仰せ候べし」と申されければ、此様を御返事(おんへんじ)ありしかども、木曾用ゐ奉らず。松殿入道殿(まつどのにふだうどの)の許(もと)へ木曾を召して、「清盛公(きよもりこう)はさばかりの悪行人(あくぎやうにん)たりしかども、希代(きたい)の大善根(だいぜんこん)をせしかば、世をもおだしう廿余年たもッたりしなり。悪行ばかりで世をたもつ事はなき物を。させるゆゑなくとどめたる人々の官(くわん)ども、皆ゆるすべき」よし仰せられければ、ひたすらのあらえびすのやうなれども、したがひ奉ッて、解官(げくわん)したる人々の官どもゆるし奉る。松殿の御子師家(おんこもろいへ)の殿の、其時(そのとき)はいまだ中納言中将(ちゆうなごんちゆうじやう)にてましましけるを、木曾がはからひに、大臣摂政(だいじんせつしやう)になし奉る。をりふし大臣あかざりければ、徳大寺左大将実定公(とくだいじのさだいしやうしつていこう)の、其頃内大臣(そのころないだいじん)でおはしけるをかり奉(たてまつ)ッて、内大臣になし奉る。いつしか人の口なれば、新摂政殿(しんせつしやうどの)をば、「かるの大臣(だいじん)」とぞ申しける。

同(おなじき) 十二月十日(とをかのひ)、法皇は五条内裏を出でさせ給ひて、大膳大夫業忠(だいぜんのたいぶなりただ)が宿所(しゆくしよ)、六条西洞院(ろくでうにしのとうゐん)へ御幸なる。同(おなじき)十三日、歳末(さいまつ)の御修法(みしほ)ありけり。其次(そのついで)に叙位除目(じよゐぢもく)おこなはれて、木曾がはからひに、人々の官ども思ふ様(さま)になしおきけり。平家は西国に、兵衛佐は東国に、木曾は都にはりおこなふ。前漢(ぜんかん)、後漢(ごかん)の間(あひだ)、王莽(わうまう)が世をうちとッて十八年をさめたりしがごとし。
四方(しはう)の関々(せきぜき)皆閉(と)ぢたれば、おほやけの御調物(みつきもの)をも奉らず。私の年貢(ねんぐ)ものぼらねば、京中の上下の諸人(しよにん)、ただ少水(せうすい)の魚(うを)にことならず。あぶなながらとし暮れて、寿永(じゆえい)も三年(みとせ)になりにけり。

現代語訳

木曾左馬頭は平家へ使者をお送り申し上げて、「都へお上り下さい。一緒になって東国を攻めましょう」と申したところ、大臣殿は喜ばれたが、平中納言・新中納言は、「それこそ世は末だと申しても、義仲に誘われて都へお帰りになられる事は、してはなりません。十善大王が三種の神器をお持ちになっていらっしゃるので、『甲を脱ぎ、弓を外して、降服してここへ参れ』と言われるべきです」と申されたので、大臣殿は此の事を御返事為されたが、木曾は聞き入れない。松原入道殿が木曾を呼んで、「清盛公はあれほど権力を嵩にきて好き勝手に振舞われたが、世にもまれな大善行を施されたので、穏やかな世を二十余年も保(た)もたれたのである。悪行ばかりで世を保つことはない物を。大した理由も無いのに取り上げTた人々の官位を元にもどすべきであろう」と言われたところ、全くの荒夷(あらえびす)のような義仲であったが、この言葉に従い申して官位を解いた人々を再びお許しになった。松殿の御子師家(もろいえ)の殿は、その時はまだ中納言中将でいらっしゃったが、木曾の計らいによって、大臣摂政(だいじんせっしょう)にしてさしあげる。たまたま大臣に空きがなかったので、徳大寺左大将実定公(しっていこう)が、そのころは内大臣でいらっしゃったのを、お借り申して内大臣にしてさしあげる。いつしか人の口の事、新摂政殿を、「かるの大臣」と申した。

同じ十二月十日、法皇は五条内裏をお出になり、大善大夫業忠(だいぜんのたいふのりただ)の宿所である六条西洞院(ろくじょうにしのとういん)へお移りになる。同じ十三日歳末の御修法が行われた。そのついでに叙位除目が行われて、木曾の計らいで、人びとの官職を思い通りに決めた。平家は西国に、兵衛佐は東国に、木曾は都に勢力を張る。前漢、後漢の間、王莽(おうもう)が世の中を奪い取って十八年間治めていたのと同じである。周りの関々を皆閉じたので、諸国からの朝廷への貢ぎ物も献上されない。個人の年貢も届けられないので、京中の人々は身分の上下を問わず、ただ水の少ない所にいる魚と同じである。危ない状況のまま年が暮れて、寿永も三年となった。

朗読・解説:左大臣光永

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