平家物語 百二十五 法住寺合戦(ほふぢゆうじかっせん)

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平家物語巻第八より「法住寺合戦(ほふぢゆうじかっせん)」。院方との合戦に勝利した義仲は、公卿殿上人四十九人の官職を停止した。

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前回「鼓判官(つづみほうがん)」からのつづきです。
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あらすじ

院方の近江守仲兼(源蔵人)は法住寺殿の西門を固めて戦っていたが、木曾方山本冠者義高が、院(後白河院)も帝(後鳥羽帝)もよそに移ったことを言うと、ならばと敵の大軍の中に駆け入って戦い、主従八騎となった。

八騎の中に、加賀房という法師武者がいた。馬が乗りにくいことを言うと、源蔵人が自分の馬に乗り換えさせたので、加賀房は敵の中に駆け入り、八騎のうち五騎が討たれ、主従三騎となった。

源蔵人の家の子、信濃次郎仲頼は、源蔵人の馬が敵の中から走り出てきたのを見て、源蔵人が討たれたと思い、敵の中に駆け入って名乗りを上げ、さんざんに戦い討ち死にした。

源蔵人はこうしたことを夢にも知らず、兄の河内守と郎党の主従三騎で南へ向かって落ちていくと、摂政殿(藤原基通)が戦を避けて宇治へ向かうのに、木幡山で追いついた。

摂政殿ははじめ木曾方かと思ったが、院方だったので警護を任せた。それで源蔵人一行は摂政殿を宇治の富家殿までお送りした後、河内へ落ちていった。

翌二十日、義仲が六条河原で討ち取った首を記録させると、六百三十余人であった。その中に明雲大僧正、園城寺の長吏円恵法親王の首もあった。見る人皆涙を流した。義仲の軍勢は鬨の声を三度あげた。

故少納言入道信西の子息、宰相脩範は法皇への拝謁を求めたが警護の武士が許さないので、にわかに髪をおろして法師になり、「これで問題なかろう」といって通された。

脩範が法皇の御前に参って、今回討たれた主だった人々のことをお耳にお入れすると、法皇は御涙をおとどめになることもおできにならなかった。

義仲は家の子郎党を集めて評定し、「合戦に勝ったからには天皇になろうか、法皇になろうか、いや関白に」などと言うが、書紀の覚明は、「関白には藤原氏しかなれません。殿は源氏ですから叶いません」というので、義仲は院の御厩の別当となり丹後国を知行した。

また義仲は前関白松殿(藤原基房)の娘をめとって松殿の婿になった。

同十一月二十三日、義仲は三条中納言朝方卿はじめ公卿殿上人四十九人の官職を停止した。これは平家が停止した四十三人より多かった。
そのうちに、鎌倉の前兵衛佐頼朝は、義仲の狼藉をしずめるべく、弟の蒲の冠者範頼、九郎冠者義経をのぼらせるが、すでに法住寺殿を焼き払い、法皇をお捕らえ申して天下が暗闇になったときこえたので、うかつに上京して合戦することもできない。

ここから関東へ詳細を報告しようと、尾張国熱田大宮司のもとにいたが、そこに院の北面に仕えていた宮内判官公朝、藤内左衛門時成がきて、義仲の狼藉を伝える。

義経は、詳細を知らぬ使では不審が残るからと、公朝を直接、鎌倉へ下らせる。公朝は嫡子の宮内所公茂だけをつれて鎌倉へ下る。

頼朝は事の次第をきいて驚く。鼓判官が法皇によからぬ申し出をしたために、院の御所を焼かせ、高僧・貴僧を滅ぼすことになった非を難じ、都へ早馬をもって伝える。

鼓判官は弁解しようと鎌倉へ下るが頼朝に相手にされず、空しく都へ戻った。後には伏見稲荷のあたりの辺鄙なところに住んだという。

義仲は平家の方に使者を送って、「都へのぼり、共に東国を攻めよう」と持ちかける。大臣殿(宗盛)はよろこんだが、平大納言(時忠)、新中納言(知盛)は、義仲に誘われて都に還ることをよしとしなかった。交渉は決裂した。

松殿入道殿(藤原基房)が義仲を召して、「清盛公は専横なふるまいをしたが大善根をつんだので二十余年、天下を統治できた。悪行だけでは世をたもつことはできない」と前置きし、解官した人々の官職を戻すよう求めたので、義仲は人々の官職を戻した。

松殿の御子師家はまだ中納言中将だったが、義仲のはからいで大臣摂政に昇進させた。ちょうど大臣の空席がなかったので、徳大寺左大将実定が当時内大臣だったのをやめさせ、師家を内大臣にした。

同年十二月十日、法皇は五条内裏をお出になって、大膳大夫業忠の邸、六条西洞院にお移りになる。同年十三日、歳末の御修法があった。そのついでに叙位除目が行われ、義仲の思うままに人々の官位が決められた。

平家は西国に、頼朝は東国に、義仲は都に勢力を張っていた。前漢・後漢の間に王莽が十八年間天下を治めたごとくであった。

四方の関所をみな閉じたので、朝廷への貢物も献上されず、個人への年貢もとどかないので、京中の人々は、ただ少ない水の中の魚と同じである。

年が暮れて寿永も三年となった。

原文

院方(ゐんがた)に候(さうら)ひける近江守仲兼(あふみのかみなかかね)、其勢五十騎(そのせいごじつき)ばかりで法住寺殿の西の門をかためてふせぐ処(ところ)に、近江源氏山本冠者義高(やまもとのくわんじやよしたか)馳(は)せ来たり。「いかにおのおのは、誰(たれ)をかばはんとて軍(いくさ)をばし給ふぞ。御幸(ごかう)も行幸(ぎやうがう)も他所(たしよ)へなりぬとこそ承はれ」と申せば、「さらば」とて、敵(かたき)の大勢(おほぜい)のなかへをめいてかけいり、さんざんに戦ひ、かけやぶッてぞとほりける。主従(しゆうじゆう)八騎にうちなさる。八騎がうちに河内(かはち)の日下党(くさかたう)、加賀房(かがぼう)といふ法師武者(ほふしむしや)ありけり。白葦毛(しらあしげ)なる馬の、きはめて口こはきにぞ乗ッたりける。「此(この)馬があまりひあひで乗りたまるべしともおぼえ候はず」と申しければ、蔵人(くらんど)、「いでさらばわが馬に乗りかへよ」とて、栗毛(くりげ)なる馬の下尾(したを)白いに乗りかへて、根井(ねのゐ)の小弥太(こやた)が二百騎ばかりでささへたる川原坂(かはらざか)の勢(ぜい)の中(なか)へをめいて懸けいり、そこにて八騎が五騎はうたれぬ。ただ主従三騎にぞなりにける。加賀房はわが馬のひあいなりとて、主の馬に乗りかへたれども、そこにてつひにうたれにけり。

源蔵人(げんくらんど)の家の子に、信濃次郎蔵人仲頼(しなののじらうくらんどなかより)といふ者あり。敵におしへだてられて、蔵人のゆくゑを知らず。栗毛なる馬の下尾白いがはしり出でたるを見て、下人(げにん)をよび、「ここなる馬は源蔵人の馬とこそ見れ。はやうたれけるにこそ。死なば一所(いつしよ)で死なむとこそ契りしに、所々(ところどころ)でうたれん事こそかなしけれ。どの勢の中へかいると見つる」。「川原坂の勢のなかへこそ懸けいらせ給ひ候ひつるなれ。やがてあの勢の中より御馬(おんま)も出できて候」と申しければ、「さらば汝(なんぢ)はとうとう是(これ)より帰れ」とて、最後の有様(ありさま)故郷へいひつかはし、只(ただ)一騎敵のなかへ懸けいり、大音声(だいおんじやう)あげて名のりけるは、「敦実親王(あつみのしんわう)より九代(くだい)の後胤(こういん)、信濃守仲重(しなののかみなかしげ)が次男、信濃次郎蔵人仲頼、生年(しやうねん)廿七歳。我と思はん人々は寄りあへや、見参せん」とて、竪様(たてさま)、 横様(よこざま)、くも手(で)、十文字(じふもんじ)に懸けわり懸けまはり戦ひけるが、敵あまた打ちとッてつひに打死(うちじに)してンげり。蔵人是をば夢にも知らず、兄の河内守(かはちのかみ)、郎等(らうどう)一騎打具(うちぐ)して、主従三騎南をさして落ち行くほどに、摂政殿(せつしやうどの)の都をば軍(いくさ)におそれて、宇治(うぢ)へ御出(ぎよしゆつ)なりけるに、木幡山(こはたやま)にて追ッ付き奉る。木曾が余党かとおぼしめし、御車(おんくるま)をとどめて、「何者ぞ」と御尋(おんたづ)ねあれば、「仲兼」「仲信(なかのぶ)」となのり申す。「こはいかに。北国の凶徒(きやうと)かなンどおぼしめしたれば、神妙(しんべう)に参りたり。ちかう候ひて守護仕(つかまつ)れ」と仰せければ、畏ッて承り、宇治の富家殿(ふけどの)までおくり参らせて、軈(やが)て此人どもは河内へぞ落ちゆきける。

あくる廿日(はつかのひ)、木曾左馬頭六条川原(きそのさまのかみろくでうかわら)にうッたッて、昨日きるところの頸(くび)どもかけならべて記(しる)いたりければ、六百卅余人なり。其中(そのなか)に明雲大僧正(めいうんだいそうじやう)、寺の長吏円恵法親王(ゑんけいほつしんわう)の御頸(おんくび)もかからせ給ひたり。是(これ)を見る人、涙をながさずといふ事なし。木曾其勢七千余騎、馬の鼻を東(ひんがし)へむけ、天も響き大地(だいぢ)もゆるぐ程に、時をぞ三ヶ度(さんがど)つくりける。京中又さわぎあへり。但(ただ)し是は悦(よろこび)の時とぞきこえし。

現代語訳

院方にお仕え申し上げていた近江守仲兼が、その軍勢五十騎ほどで法住寺殿の西の門を固め防いでいるところに、近江源氏山本冠者義高が駆けて来て、「どうしたのだ、おのおの方は誰を庇(かば)おうとして戦をしておられるのか。御幸も行幸も他の場所になったと承りました」と申すので、「それならば」といって、大勢の敵の中へ叫んで駆け入り、散々戦い、駆け破って通った。その時、主従は八騎までに討ち果たされた。八騎のなかに河内(かわち)の日下党(くさかとう)、加賀房(かがぼう)といふ法師武者(ほうしむしゃ)がいた。白葦毛(しらあしげ)で非常に顎が強く手綱を引きにくい馬に乗っていた。「この馬はあまりに危険で乗りこなせるとも思われません」と申したところ、蔵人仲兼は、「さあそれなら自分の馬に乗り換えろ」といって、栗毛で尾の先が白い馬に乗り換えて、根井(ねのい)の小弥太が二百騎ほどで支えていた川原坂(かわらざか)の軍勢の中に大声をあげながら駆け入り、そこで八騎のうちの五騎は討たれた。ただ主従三騎になってしまった。加賀坊は自分の馬は危険だと、主人の馬に乗り換えたけれども、その場で遂に討たれてしまった。

源蔵人(げんくらんど)の家子(いえのこ)に、信濃次郎蔵人仲頼(なかより)という者がいた。敵に押され蔵人とは離れ離れになり、蔵人の行方がわからない。栗毛で下尾の白い馬が敵陣の中から走り出たのを見て、下人を呼び、「この馬は源蔵人の馬と見る。はや討たれてしまったのだな。死ぬ時は一緒に死のうと誓ったのに、別々の所で討たれれるという事は悲しい事だ。どの軍勢の中に居ると見たか」。「川原坂の軍勢の中へ駆け入られました。まもなくあの軍勢の中から御馬も出てまいりました」と申したところ、「ではお前は早くここから帰れ」と、最後の様子を故郷へ言い伝えさせ、たった一騎敵のなかに駆け入り、大声をあげて名乗ったのは、「敦実(あつざね)親王から数えて九代目の後胤(こういん)、信濃守仲重(なかしげ)の次男、信濃次郎蔵人仲頼(なかより)、生年(しょうねん)二十七歳。我こそと思う人々は寄って来い。お相手しよう」といって、縦様・横様・蜘蛛手・十文字に駆け破り駆けまわって戦ったが敵を大勢討取った後ついに討死してしまった。蔵人仲兼はこれを夢にも知らず、兄の河内守は郎等一騎を引き連れて、主従三騎が南に向かって落ちて行くうちに、摂政殿が戦を怖れて都を離れ、宇治へおい出になったのに木幡山で追いつき申す。摂政殿は、木曾の余党かとお思いになり、御車を止めて、「何者か」と尋ねられるので、「仲兼」「仲信」と名乗り申す。「これはどうしたことだ。北国の凶徒かなどと思ったが神妙に参った。近くに寄って守護せよ」と言われたので、畏まって承り、宇治の富家殿(ふけどの)までお送り申し、すぐにこの人々は河内へ落ちて行った。

次の二十日、木曾左馬頭義仲は六条河原に立って、昨日斬った首を掛け並べて記録したところ、六百三十余人である。そのなかに、明雲大僧正、寺の長史円恵法親王の御首も掛けられていた。これを見た人が涙を流さないということはなかった。木曾はその軍勢七千余騎、馬の鼻を東へ向けて、天にも響き大地も揺るがず程、鬨の声を三度上げたのだった。京中また戦かと騒ぎ合っている。しかしこれは勝利の喜びの鬨の声ということであった。

語句

■近江守仲兼 宇多源氏。源光遠の子。巻六「小督」の源仲国の弟。 ■義高 錦織(にしごり)冠者と称した。兄義弘は山本判官代と称した(巻四「源氏揃」) ■河内の日下党 日下は大阪府東大阪市日下。生駒山西麓。そこにいた武士の集団と思われる。 ■口こはき 気が強くて手綱を取るのが難しいの意。 ■ひあひ 「非愛」か。無愛想の意から転じて、危ないこと。 ■乗りたまる 「乗り堪る」。乗りこなすの意。 ■蔵人 近江守仲兼。後の「源蔵人」も。 ■下尾 尾の先。 ■根井の小弥太 所謂「木曾四天王」の一人。 ■川原坂 京都市東山区。智積院の東。阿弥陀ヶ峰の南から山科に通じる道。一行は法住寺から西へ、山科方面に移動した。 ■敦実親王 宇多天皇の皇子。仲頼は宇多源氏ということだが詳細不明。 ■竪様、横様、くも手、十文字 敵のただ中で奮戦するさま。くも手は蜘蛛の手足のように四方八方に駆け回ること。巻四「橋合戦」に類句。 ■摂政殿 藤原基通。「摂政未ダ合戦セザル前ニ、宇治之方ニ逃レラレ了ンヌ」(玉葉)。 ■木幡山 コワタヤマ。宇治市木幡の山。京都と宇治の途中。藤原氏代々の墓がある。 ■富家殿 もと藤原忠文邸。通基の祖父忠実の別荘となり富家殿とよばれた。忠実自身も富家殿と称す。平等院の西300メートル、JR宇治駅南あたり。 ■あくる廿日 「院中輩ノ首百十一、五条河原ニ懸ク、義仲監臨シ、軍呼ブコト三度」(百錬抄・十一月二十日条)。 ■明雲大僧正 『徒然草』に明雲が戦火で亡くなることが予言されていた話が見える(徒然草・百四十六段)。

原文

故少納言入道信西(こせうなごんにふだうしんせい)の子息宰相脩範(さいしやうながのり)、法皇のわたらせ給ふ五条内裏(ごでうだいり)に参って、「是は君に奏すべき事があるぞ。あけてとほせ」と宣(のたま)へども、武士どもゆるし奉らず。力及ばで、ある小屋(せうおく)にたちいり、俄(にはか)に髪そりおろし法師になり、墨染(すみぞめ)の衣(ころも)、袴(はかま)着て、「此上(このうへ)は何か苦しかるべき、いれよ」と宣へば、其時ゆるし奉る。御前(ごぜん)へ参ッて、今度うたれ給へるむねとの人々の事ども、つぶさに奏聞(そうもん)しければ、法皇御涙(おんなみだ)をはらはらとながさせ給ひて、「明雲は非業(ひごふ)の死(しに)すべきものとはおぼしめさざりつる物を。今度はただわがいかにもなるべかりける御命(おんいのち)にかはりけるにこそ」とて、御涙(おんなみだ)せきあへさせ給はず。

木曾、家子郎等(いへのこらうどう)召しあつめて評定(ひやうぢやう)す。「抑義仲(そもそもよしなか)、一天(いつてん)の君にむかひ奉りて軍(いくさ)には勝ちぬ。主上(しゆしやう)にやならまし、法皇(ほふわう)にやならまし。主上にならうど思へども、童(わらは)にならむもしかるべからず。法皇にならうど思へども、法師にならむもをかしかるべし。よしよしさらば関白(くわんぱく)にならう」ど申せば、手書(てかき)に具せられたる大夫房覚明(たいぶぼうかくめい)申しけるは、「関白は大織冠(だいしよくわん)の御末(おんすゑ)藤原氏(ふじはらうぢ)こそならせ給へ。殿(との)は源氏でわたらせ給ふに、それこそ叶(かな)ひ候まじけれ」。「其上は力およばず」とて、院の御厩(みまや)の別当におしなッて、丹後国(たんごのくに)をぞ知行(ちぎやう)しける。院の御出家(ごしゆつけ)あれば法皇と申し、主上のいまだ御元服もなき程は、御童形(ごとうぷぎやう)にてわたらせ給ふを知らざりけるこそうたてけれ。前関白松殿(さきのくわんぱくまつどの)の姫君とり奉(たてま)ッて、軈(やが)て松殿の聟(むこ)におしなる。

同(おなじき)十一月廿三日、三条中納言朝方卿(さんでうのちゆうなごんともかたのきやう)をはじめとして、 卿相雲客(けいしやううんかく)四十九人が官職をとどめておッこめ奉る。平家の時は四十三人をこそとどめたりしに、是は四十九人なれば、平家の悪行には超過(ていくわ)せり。

さる程に、木曾が狼籍(らうぜき)しづめんとて、鎌倉の前兵衛佐頼朝(さきのひやうゑのすけよりとも)、舎弟蒲(かば)の冠者範頼(くわんじやのりより)、九郎冠者義経(くらうくわんんじやよしつね)をさしのぼらせけるが、既に法住寺殿焼きはらひ、院うちとり奉ッて天下くらやみになッたるよし聞えしかば、左右(さう)なうのぽッて軍(いくさ)すべき様(やう)もなし。是(これ)より関東へ子細(しさい)を申さんとて、尾張国熱田大宮司(をはりのくにあつたのだいぐんじ)が許(もと)におはしけるに、此事(このこと)うッたへんとて、北面(ほくめん)に候ひける 宮内判官公友(くないはうぐわんきんとも)、藤内左衛門時成(とうないざゑもんときなり)、尾張国に馳(は)せ下り、此由 一々(いちいち)次第にうッたヘければ、九郎御曹司(くらうおんざうし)、「是は宮内判官の関東へ下らるべきにて候ぞ。子細知らぬ使(つかひ)はかへし問はるるとき不審の残るに」と宣(のたま)へば、公朝(きんとも)鎌倉へ馳せ下る。軍(いくさ)におそれて下人(げにん)ども皆落ちうせたれば、嫡子(ちやくし)の宮内所公茂(くないどころきんもち)が十五になるをぞ具したりける。関東に参ッて此よし申しければ、兵衛佐(ひやうゑのすけ)大きにおどろき、「まづ鼓判官知康(つづみのはうぐわんともやす)が不思議事(ふしぎのこと)申し出(いだ)して御所をも焼かせ参らせ、高僧貴僧をもほろぼし奉ッたるこそ奇怪(きッくわい)なれ。知康においては既に違勅(ゐちよく)の者なり。召しつかはせ給はば、かさねて御大事(おんだいじ)出でき候ひなむず」と、都へ早馬をもッて申されければ、鼓判官陳(ちん)ぜんとて、夜を日についで馳せ下る。兵衛佐、「しゃつにめな見せそ。あひしらひなせそ」と宣へども、日ごとに兵衛佐の館へむかふ。つひに面目(めんぼく)なくして、都へ帰りのぼりけり。後(のち)には稲荷(いなり)の辺(へん)なる所に、命ばかりいきてすごしけるとぞ聞えし。

現代語訳

故少納言入道信西の子息、宰相脩範(ながのり)は、法皇のいらっしゃる五条の内裏へ参って、「自分は君に申し上げる事がある。開けて通せ」と言われたが、武士どもが許そうとはなさらない。仕方なく、ある小屋に入り、突然髪を剃り落し法師になり、墨染の衣、袴を着て「このうえは何の差支えもあるまい。入れよ」と言われると、その時お許しになられる。御前へ参って、今度お討たれになった、主だった人々の事を詳しく申し上げたので、法皇は御涙をはらはらとお流しになって、「明雲が非業の死を遂げるとは思いもしなかった。今度はただ自分の最後になるはずであった命にかわってくれたのだ」と言われて、御涙をこらえることもおできにならない

木曾は家子・郎等どもを呼び集めて評定を開く。「そもそも義仲は、天下の君に羽向い奉って戦には勝った。天皇になろうか、法皇になろうかと思うが、童の姿になるのもよろしくない。法皇になろうと思うが法師になるのもおかしなことだ。よしよしそれなら関白になろう」と申すと、書記として連れられていた大夫房覚明(だいぶぼうかくめい)が申したのは、「関白は藤原鎌足公の御子孫である藤原氏がおなりになるものです。殿は源氏でいらっしゃるので、それは叶わないでしょう」。「それならば仕方がない」といって、院の御厩(みうまや)の別当(べっとう)に自分からなって、丹後国を所領にした。院が御出家なされたら法皇と申し、主上がまだ御元服に届かないお歳であれば、御童姿でいらっしゃるのを知らなかったのが情けないことだ。前(さきの)関白松殿の姫君を妻にお迎え申して、強引に松殿の婿になる。

同じ十一月二十三日、三条中納言朝方卿(ともかたのきょう)をはじめとして、公卿・宰相・殿上人四十九人の官職を剥奪して押し込め奉る。平家の時は四十三人の役職を留めたのに、これは四十九人なので、平家の悪行を超えたのである。

そうするうちに、木曾の狼藉を鎮めようと、鎌倉の前兵衛佐頼朝は舎弟蒲(かば)の冠者範頼(のりより)、九郎冠者義経を上洛させられていたが、すでに義仲によって法住寺は焼き払われ、院を討取り奉って天下は暗闇になったという事が耳に入ったので、無分別に上って戦をすることもできない。蒲の冠者範頼・九郎冠者義経は、ここから関東へ詳細を報告しようとして、尾張国熱田大宮司の所に留まっておられたが、そこにこの京の事情を訴えようとして、院の北面に仕えていた宮内(くない)判官公朝(きんとも)・藤内(とうない)左衛門時成(ときなり)が尾張の国へ馳せ下り、このことをいちいち順々に訴えたので、九郎御曹司(おんぞうし)、「これは宮内判官殿が関東へ下られるべきです。問われた時不審が残るので詳しい事を知らない私どものような使いは返してください」と言われるので、公朝は鎌倉へ馳せ下る。戦を怖れて下人どもが皆逃げてしまったので、仕方なく嫡子の十五歳になる宮内所公茂(くないどころきんもち)をお連れになった。関東へ参ってこのことを申したところ、兵衛佐(ひょうえのすけ)は大変驚いて、「先ず鼓判官知康がおかしなことを言い出して御所をも焼かれ、高僧・貴僧をも殺されたのはけしからんことだ。知康はもはや天皇の命に背いた者だ。御召し使いになれば又、大変な事が起るであろう」と、都へ早馬を使って申されたところ、鼓判官は釈明しようとして、夜も昼も休まず馳せ下る。兵衛佐は、「そいつに会うな。対面するな」と言われるけれども、毎日兵衛佐の邸(やしき)へ出かける。結局面目を失くして都へ帰っていった。その後、稲荷神社の辺の辺鄙な所で、かろうじて生き長らえて住んでいたという事であった。

語句

■宰相脩範 底本「長教」から『尊卑分脈』等により改め。宰相は参議の唐名。後白河近臣。二十日出家(吉記)。 ■非業の死 思いがけない災害で死ぬこと。 ■いかにもなるべかりける 「死ぬ」の婉曲表現。 ■童にならむも 後鳥羽天皇はこの時四歳。童形であった。そのため義仲は「天皇は童形であるもの」と勘違いしていたと。 ■大夫房覚明 義仲の側近の学問僧。その経歴は巻七「願書」にくわしい。 ■大織冠の御末 藤原氏。「大織冠」は初代藤原(中臣)鎌足が天智天皇から賜った特別の称号。 ■院の御厩の別当 院の厩の長官。院の牛馬を管理する。 ■松殿 藤原基房。巻一「殿下乗合」にくわしい。 ■十一月廿三日 実際は二十八日。『吉記』『玉葉』によれば解官された人数は四十三。義仲の悪行を強調するため人数を増やしたか。 ■四十三人 清盛が太政大臣以下の公卿・殿上人四十三人の官職を止めた件(巻三「大臣流罪」)。 ■前兵衛佐頼朝 頼朝は寿永二年(1183)十月九日に兵衛佐に復職しているので法住寺合戦の時点では「前兵衛佐」でなく「兵衛佐」である。 ■蒲の冠者範頼 義朝の子。頼朝の腹違いの弟。遠江国蒲御厨(現・静岡県浜松市)で生まれ育ったため蒲冠者(かばのかじゃ)と称す。 ■九郎冠者義経 義朝の末子。頼朝の腹違いの弟。 ■尾張国熱田大宮司 熱田神宮の神職の長。頼朝の母は大宮司季範の娘(由良御前)で、頼朝と熱田神宮はつながりが強い。 ■宮内判官公朝 『玉葉』寿永二年十二月一日条に、十一月二十一日、院の北面下臈公友らが伊勢にて義仲の乱逆ら頼朝に告げことを記す。 ■御曹司 源家嫡流の子息の意。 ■宮内所公茂 底本「宮内ところ公茂」より改め。 ■不思議の事 とんでもないこと。思いもよらぬこと。公家でありながら武士に戦いをいどむこと。 ■しやつ そいつ。目の前の者をさげずんで呼ぶ呼び方。 ■めなみせそ 「目を見す」は対面すること。 ■面目なくして 名誉をつぶされて。 ■稲荷 京都市伏見区の伏見稲荷。 ■命ばかり生きて ただ生きているだけという状況。 

原文

木曾左馬頭、平家の方(かた)へ使者を奉ッて、「都へ御のぼり候へ。一つになッて東国(とうごく)せめむ」と申したれば、大臣殿(おほいとの)はよろこばれけれども、平(へい)大納言(だいなごん)、新中納言(しんぢゆうなごん)、さこそ世すゑにて候とも、義仲にかたらはれて都へ帰りいらせ給はん事、しかるべうも候はず。十善帝王(じふぜんていわう)、三種神器(さんじゆのじんぎ)を帯してわたらせ給へば、『甲(かぶと)をぬぎ弓をはづいて、降人(かうにん)に是へ参れ』とは仰せ候べし」と申されければ、此様を御返事(おんへんじ)ありしかども、木曾用ゐ奉らず。松殿入道殿(まつどのにふだうどの)の許(もと)へ木曾を召して、「清盛公(きよもりこう)はさばかりの悪行人(あくぎやうにん)たりしかども、希代(きたい)の大善根(だいぜんこん)をせしかば、世をもおだしう廿余年たもッたりしなり。悪行ばかりで世をたもつ事はなき物を。させるゆゑなくとどめたる人々の官(くわん)ども、皆ゆるすべき」よし仰せられければ、ひたすらのあらえびすのやうなれども、したがひ奉ッて、解官(げくわん)したる人々の官どもゆるし奉る。松殿の御子師家(おんこもろいへ)の殿の、其時(そのとき)はいまだ中納言中将(ちゆうなごんちゆうじやう)にてましましけるを、木曾がはからひに、大臣摂政(だいじんせつしやう)になし奉る。をりふし大臣あかざりければ、徳大寺左大将実定公(とくだいじのさだいしやうしつていこう)の、其頃内大臣(そのころないだいじん)でおはしけるをかり奉(たてまつ)ッて、内大臣になし奉る。いつしか人の口なれば、新摂政殿(しんせつしやうどの)をば、「かるの大臣(だいじん)」とぞ申しける。

同(おなじき) 十二月十日(とをかのひ)、法皇は五条内裏を出でさせ給ひて、大膳大夫業忠(だいぜんのたいぶなりただ)が宿所(しゆくしよ)、六条西洞院(ろくでうにしのとうゐん)へ御幸なる。同(おなじき)十三日、歳末(さいまつ)の御修法(みしほ)ありけり。其次(そのついで)に叙位除目(じよゐぢもく)おこなはれて、木曾がはからひに、人々の官ども思ふ様(さま)になしおきけり。平家は西国に、兵衛佐は東国に、木曾は都にはりおこなふ。前漢(ぜんかん)、後漢(ごかん)の間(あひだ)、王莽(わうまう)が世をうちとッて十八年をさめたりしがごとし。
四方(しはう)の関々(せきぜき)皆閉(と)ぢたれば、おほやけの御調物(みつきもの)をも奉らず。私の年貢(ねんぐ)ものぼらねば、京中の上下の諸人(しよにん)、ただ少水(せうすい)の魚(うを)にことならず。あぶなながらとし暮れて、寿永(じゆえい)も三年(みとせ)になりにけり。

現代語訳

木曾左馬頭は平家へ使者をお送り申し上げて、「都へお上り下さい。一緒になって東国を攻めましょう」と申したところ、大臣殿は喜ばれたが、平中納言・新中納言は、「それこそ世は末だと申しても、義仲に誘われて都へお帰りになられる事は、してはなりません。十善大王が三種の神器をお持ちになっていらっしゃるので、『甲を脱ぎ、弓を外して、降服してここへ参れ』と言われるべきです」と申されたので、大臣殿は此の事を御返事為されたが、木曾は聞き入れない。松原入道殿が木曾を呼んで、「清盛公はあれほど権力を嵩にきて好き勝手に振舞われたが、世にもまれな大善行を施されたので、穏やかな世を二十余年も保(た)もたれたのである。悪行ばかりで世を保つことはない物を。大した理由も無いのに取り上げTた人々の官位を元にもどすべきであろう」と言われたところ、全くの荒夷(あらえびす)のような義仲であったが、この言葉に従い申して官位を解いた人々を再びお許しになった。松殿の御子師家(もろいえ)の殿は、その時はまだ中納言中将でいらっしゃったが、木曾の計らいによって、大臣摂政(だいじんせっしょう)にしてさしあげる。たまたま大臣に空きがなかったので、徳大寺左大将実定公(しっていこう)が、そのころは内大臣でいらっしゃったのを、お借り申して内大臣にしてさしあげる。いつしか人の口の事、新摂政殿を、「かるの大臣」と申した。

同じ十二月十日、法皇は五条内裏をお出になり、大善大夫業忠(だいぜんのたいふのりただ)の宿所である六条西洞院(ろくじょうにしのとういん)へお移りになる。同じ十三日歳末の御修法が行われた。そのついでに叙位除目が行われて、木曾の計らいで、人びとの官職を思い通りに決めた。平家は西国に、兵衛佐は東国に、木曾は都に勢力を張る。前漢、後漢の間、王莽(おうもう)が世の中を奪い取って十八年間治めていたのと同じである。周りの関々を皆閉じたので、諸国からの朝廷への貢ぎ物も献上されない。個人の年貢も届けられないので、京中の人々は身分の上下を問わず、ただ水の少ない所にいる魚と同じである。危ない状況のまま年が暮れて、寿永も三年となった。

語句

■木曾左馬頭、平家の方へ使者を… 「伝聞、義仲使ヲ差(つかは)して平氏之許(播磨国室泊ニ在リ云々)ニ送リ、和親ヲ乞フト云々」(玉葉・寿永二年十二月二日条)、「義仲使ヲ差シテ同意スベキノ由平氏ニ示ス云々、平氏承引セズ云々」(同五日条)。 ■十善帝王 前世で十悪を犯さなかったため帝王として生まれた方。安徳天皇のこと。 ■松殿入道 藤原基房。治承三年(1179)出家。 ■大善根 よい果報を招くための善行。高野の大塔建立、厳島明神の修復(巻三・大塔建立)、経の島築塔(巻六・築島)が挙げられている。平家によって酷い目にあわされた基房(巻一・殿上乗合)が清盛を擁護している。それほど木曾がひどいということが強調される。 ■ひたすらの まったくの。 ■大臣摂政になし奉る 『公卿補任』によれば寿永二年(1183)十一月ニ十一日。 ■かり奉ッて 実定が内大臣であったのをやめさせ、師長を内大臣にしたことを「借り」といった。 ■かるの大臣 「借(かるの)大臣」。昔迦留(軽)大臣が遣唐使として中国に渡ったが、皇帝から頭に燭台を打ち付けられて灯台鬼となった説話をふまえる(長門本・盛衰記・宝物集)。 ■業忠 底本「成忠」より改め。法皇の近臣である平信業の子。 ■六条西洞院 義仲が宿所としたところ(巻八・山門御幸)。 ■歳末の御修法 年末に宮中で行われる仏事。 ■はりおこなふ 「張り行ふ」。勢力をはり、とり行う。 ■前漢、後漢の間 前漢末、紀元5年、王莽が平帝を殺し国号を新と称したが、紀元23年、劉秀に倒された。25年、劉秀が漢を復興して以降が後漢。「遠く異朝をとぶらへば、秦の趙高、漢の王莽、梁の周伊、唐の禄山…」(巻一・祇園精舎)。 ■少水の魚 「是ノ日已ニ過グレバ、命則チ随ツテ減ズ、少水ノ魚ノ如シ、斯ニ何ノ楽シミカ有ラム」(法句経)。

ゆかりの場所

法住寺

永祚元年(989)藤原為光が、息女怟子と婦人の菩提を弔うために建立したのが始まり。当時は、北は七条通、南は八条通り、東は東山山麓、西は大和大路におよんだが、火事で焼失した。

保元三年(1158)後白河法皇が法住寺の地を院御所と定め、上皇としてすまわれた。その後、寺域に蓮華王院や長講堂が造営された。

明治維新後、後白河天皇陵が宮内庁管轄となったことに伴い、御陵と寺域を分けて大興徳院と号したが、昭和30年、法住寺の号にもどった。

・身代わり不動尊
本尊の不動明王像は身代わり不動尊とよばれ、寿永2年(1183)11月19日の法住寺合戦で木曽義仲が院の御所「法住寺殿」に攻め込んだ時、時の天台座主明雲が法皇のかわりに矢に討たれて亡くなったことに由来。

・後白河天皇陵
後白河天皇陵は東山に背を向け、西(西方極楽浄土)に向い、一千一体の観音像と相対する形である。

・法皇像
法華堂内には運慶作と伝わる後白河院御像がある。平成3年の後白河院八百年御忌に御前立ち像が造られ、現在、毎年5月1日から7日に御開帳されている。

・浅野内匠頭長矩 大石内蔵助はじめ四十七士義士木造
大石内蔵助が山科に隠棲していた頃、身代不動明王に大願成就を祈願したということから、浅野内匠頭および四十七士の木造が安置されている。

・親鸞聖人御自刻 山刀作阿弥陀如来 そばくい御真影
建仁元年(120)29歳の親鸞聖人が無量壽院の住寺をつとめていた頃、毎夜比叡山から下って六角堂に参詣し、ついに95日目に聖徳太子のお告げを受けました。その間、御真影がこの寺を守り、天台座主に召されて他の僧たちとともに蕎麦を召されると、親鸞聖人その人のように食べたと伝説される。

・今様合の会
毎年10月第2日曜日開催

朗読・解説:左大臣光永

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