平家物語 百十五 山門御幸(さんもんごかう)

『平家物語』巻第八より「山門御幸(さんもんごこう)」。

平家一門都落ちを前に後白河法皇は御所を脱出。鞍馬から比叡山へうつり、臨時の御所を置く。

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前回「福原落(ふくはらおち)」からのつづきです。
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あらすじ

寿永二年七月二十四日、後白河法皇は平家一門都落ち(「一門都落」「福原落」)に際し難を逃れるため鞍馬へ御幸した。

その鞍馬も都に近く危険だというので比叡山横川(よかわ)を経て比叡山東塔の明雲座主の房へ御幸した。

法皇が比叡山に御幸したと聞き、太政大臣、左大臣、右大臣をはじめ名だたる人々が比叡山に押し寄せる。

同二十八日、法皇は義仲に守護されて都に戻る。都には方々から源氏が押し寄せる。

法皇は義仲、行家に「前内大臣宗盛以下、平家の一族を追討せよ」との院宣を下す。

平家に対しては「主上(天皇)と三種の神器を返還せよ」と院宣を下すが平家は聞き入れない。

高倉院には安徳天皇のほか、三人の皇子があった。二宮は安徳天皇とともに平家に連れ去られたが三の宮、四の宮は都に留まっていた。

まず法皇のもとに三の宮が召されるが、法皇を見てむずがったので退出させられる。

次に四の宮を召すと法皇になつき喜んだので四の宮を即位させることとなった。

母は七条修理大夫信隆卿の娘。建礼門院の元に宮仕えしていた女房である。

さて四の宮を養育していた法勝寺の執行能円法印は平家の都落ちに同行し、都に北の方と四の宮を置きっぱなしであった。

後に都に使者を送り二人を呼び寄せようとしたが、北の方の兄(能円の義兄)紀伊守教光(きのかみ のりみつ)がこれを止めた。

その次の日に法皇より四宮が召し出された。四の宮にとっては教光は大変な奉公をしたわけである。

しかし即位後もたいした恩賞の無いまま長い年月が流れた。思い余った教光はニ首の歌を詠んで昇進したい旨をうったえた。

後鳥羽天皇はこれを見て哀れに思い、教光を正三位に任じた。

原文

寿永(じゆえい)二年七月廿四日夜半(にじふしにちやはん)ばかり、法皇は按察大納言資賢卿(あぜちのだいなごんすけかたのきやう)の子息、右馬頭資時(うまのかみすけとき)ばかり御供(おとも)にて、ひそかに御所を出でさせ給ひ、鞍馬(くらま)へ御幸(ごかう)なる。鞍馬の寺僧(じそう)ども、「是(これ)は尚(なほ)都ちかくて、あしう候(さうら)ひなむ」と申すあひだ、篠(ささ)の峰(みね)、薬王坂(やくわうざか)なンど申すさがしき嶮難(けんなん)を凌(しの)がせ給ひて、横河(よかわ)の解脱谷(げだつだに)、寂場坊(じやくじやうぼう)、御所になる。大衆(だいしゆ)おこッて、「東塔(とうだふ)へこそ御幸あるベけれ」と申しければ、東塔の南谷(みなみだに)、円融房(えんゆうぼう)、御所になる。かかりければ、衆徒(しゆと)も武士(ぶし)も、円融房を守護し奉る。法皇は仙洞(せんとう)を出でて天台山(てんだいさん)に、主上(しゆしやう)は鳳闕(ほうけつ)をさッて西海(さいかい)へ、提政殿(せつしやうどの)は 吉野(よしの)の奥とかや。女院(にようゐん)、宮々(みやみや)は八幡(やはた)、賀茂(かも)、嵯峨(さが)、太秦(うづまさ)、西山(にしやま)、東山(ひがしやま)のかたほとりについて、にげかくれさせ給へり。平家はおちぬれど、源氏はいまだ入りかはらず。既(すで)に此(この)京はぬしなき里にぞなりにける。開闢(かいひやく)よりこのかた、かかる事あるべしともおぼえず。聖徳太子(しやうとくたいし)の未来記(みらいき)にも、今日(けふ)の事こそゆかしけれ。

法皇天台山(てんだいさん)にわたらせ給ふと聞えさせ給ひしかば、馳(は)せ参らせ給ふ人々、其比(そのころ)の入道殿とは前関白松殿(さきのくわんぱくまつどの)、当殿(たうとの)とは近衛殿(こんゑどの)、太政大臣(だいじやうだいじん)、左右大臣(さうのだいじん)、内大臣、大納言、中納言、宰相(さいしやう)、三位四位五位の殿上人、すべて世に人とかぞへられ、官加階(くわんんかかい)に望(のぞみ)をかけ、所帯所職(しよたいしよしよく)を帯(たい)する程の人の、一人(いちにん)ももるるはなかりけり。円融房(えんゆうばう)には、あまりに人参りつどひて、堂上(たうしやう)、堂下(たうか)、門外(もんぐわい)、門内(もんない)、ひまはざまもなうぞみちみちたる。山門の繁昌(はんじやう)、門跡(もんぜき)の面目(めんぼく)とこそ見えたりけれ。

同(おなじき)廿八日に法皇都へ還御(くわんぎよ)なる。木曾(きそ)五万余騎にて守護し奉る。近江源氏山本(あふみげんじやまもと)の冠者義高(くわんじやよしたか)、白旗(しらはた)さいて先陣(せんぢん)に供奉(ぐぶ)す。この廿余年(にじふよねん)見えざりつる白旗の、今日(けふ)はじめて都へいる。めづらしかりし事どもなり。

さるほどに十郎蔵人行家(じふらうくらんどゆきいへ)、宇治橋(うぢばし)をわたッて都へいる。陸奥新判官義康(みちのくのしんはうぐわんよしやす)が子、矢田判官代義清(やたのはうぐわんだいよしきよ)、大江山(おほえやま)をへて上洛(しやうらく)す。摂津国(つのくに)、河内(かはち)の源氏ども、雲霞(うんか)のごとくに同じく都へ乱れいる。凡(およ)そ京中(きようじゆう)には源氏の勢(せい)みちみちたり。勘解由小路(かでのこうじ)の中納言経房卿(ちゆうなごんつねふさのきやう)、検非違使別当左衛門督実家(けンびゐしのべったうさゑもんのかみさねいへ)、院(ゐん)の殿上(てんじやう)の簀子(すのこ)に候ひて、義仲(よしなか)、行家(ゆきいへ)を召す。木曾は赤地(あかぢ)の錦(にしき)の直垂(ひたたれ)に、唐綾威(からあやをどし)の鎧(よろひ)着て、いか物づくりの太刀をはき、切斑(きりふ)の矢負ひ、滋籐(しげどう)の弓脇(わき)にはさみ、甲(かぶと)をばぬぎ高紐(たかひも)にかけて候。十郎蔵人は紺地(こんぢ)の錦の直垂に、緋威(ひをどし)の鎧着て、こがねづくりの太刀をはき、大中黒(おほなかぐろ)の矢負ひ、塗籠藤(ぬりごめどう)の弓脇(わき)にはさみ、是(これ)も甲をばぬぎ高紐にかけ、ひざまづいて候ひけり。前内大臣宗盛公以下(さきのないだいじんむねもりこういげ)、平家の一族追討(いちぞくついたう)すべきよし仰せ下さる。両人庭上(りやうにんていしやう)に畏(かしこま)ッて承る。おのおの宿所(しゆくしよ)のなきよしを申す。木曾は大膳大夫業忠(だいぜんのたいぶなりただ)が宿所、六条西洞院(ろくでうにしのとうゐん)を給はる。十郎蔵人は法住寺殿(ほふぢゆうじどの)の南殿(みなみどの)と申す萱(かや)の御所をぞ給はりける。法皇は主上外戚(しゆしやうぐわいせき)の平家にとらはれさせ給ひて、西海(さいかい)の浪(なみ)のうへにただよはせ給ふ事を御歎(おんなげき)あッて、主上?(なら)びに、三種神器(さんじゆのじんぎ)、都へ返しいれ奉るべき由、西国へ院宣(ゐんぜん)を下されたりけれども、平家用ゐ奉らず。

現代語訳

寿永二年七月二十四日の夜半、後白河法皇は按察(あぜち)大納言資賢卿(すけかたのきょう)の子息、右馬頭資時(うまのかみすけとき)だけをお供に連れて、秘かに御所をお出になり、鞍馬へ御幸された。鞍馬の寺僧共が、「ここはまだ都に近いので良くないでしょう」と申すので、篠(ささ)の峰、薬王坂という危険で険しい難所をお越えになって、横河(よかわ)の解脱谷(げだつたに)にある寂場坊(じゃくじょうぼう)が一時的に御所になったが、衆徒が大勢で、「東搭へ御幸なさるべきでしょう」と申したので東搭の南谷にある円融坊が御所になる。そういうことで、衆徒も武士も、円融坊をお守りする。法皇は院の御所を出て、比叡山に、主上は天子の御所を去って西海へ、摂政殿は吉野の奥へお逃げになったそうである。女院(にょういん)・宮方は八幡(やはた)・賀茂(かも)・嵯峨(さが)・太秦(うずまさ)・西山・東山の片田舎に身を寄せてお逃げ隠れになった。平家は落ちてしまったが源氏はまだ都には入らず入れ替わらない。もはやこの京は主のいない里になってしまった。開闢(かいびゃう)以来、このような事があろうとは思いもつかない。聖徳太子の未来記にも、今日の事がどのように書かれているか見たいものだ。

法皇が比叡山にいらしゃるという噂がたったので、次のような人々が参集した。その頃の入道殿と言われた前関白松殿、当殿と言われた近衛殿、太政大臣、左右の大臣、内大臣、大納言、中納言、宰相、三位・四位・五位の殿上人などすべてが世に人として知られており、官位があがることに望みをかけ、所帯所職を有する程の人が一人も漏れる事は無かった。円融坊には、あまりに多くの人が集まって、堂上、堂下、門の外、門内は隙間もない程の人が満ち溢れた。山門は繁昌し、比叡山の明雲座主は面目を施したのであった。

同じ二十八日に法皇は都へお帰りになる。木曾の軍勢が五万余騎でお守りする。近江源氏山本((おうみのげんじやまもと)の冠者義高が白旗を掲げて先陣でお供をする。この二十余年見た事がなかった白旗が、今日初めて都へ入る、すばらしい事であった。

さて、十郎蔵人行家は宇治橋を渡って都へ入る。陸奥新判官義康の子、矢田判官代義清は大江山を越えて上洛する。摂津国、河内の源氏共も雲霞の如く同じく都へ乱入する。およそ京中には源氏の軍勢が満ち満ちたのであった。勘解由小路(かでのこうじ)の中納言経房卿(つねふさのきょう)、検非違使別当左衛門督実家(けびいしのべっとうさえもんのかみさねいえ)は院の御所の殿上の間の簀子に控えて、義仲・行家を呼ぶ。木曾は赤地の錦の直垂に、唐綾威の鎧を着て、いかめしい作りの太刀をはき、切斑(きりふ)の矢を負い、滋籐(しげどう)の弓を脇(わき)にはさみ、甲を脱いで高紐にかけて控える。十郎蔵人は、紺地の錦の直垂に、緋威(ひおどし)の鎧を着て、黄金作りの太刀をはき、大中黒の矢を負い、塗籠藤の弓を脇に挟んで、これも同じように甲を脱いで高紐にかけ、ひざまづいて控えた。法皇は前内大臣宗盛公以下の平家一族を追討するよう命令をお下しになる。両人は庭の上に畏まって承る。それぞれ宿所が無い事を申す。木曾は大膳大夫業忠(だいぜんのだいぶなりただ)の宿所である、六条の西洞院(にしのとういん)をいただく。十郎蔵人は法住寺殿の南殿と申す萱の御所をいただいたのであった。法皇は主上が外戚の平家にお捕われになって、西海の波の上で漂われていることをお嘆きになって、主上ならびに、三種の神器を都へ返し入れるよう、西国へ院宣を下されたが平家は聞き入れなかった。

語句

■寿永二年七月廿四日 巻七「主上都落」法皇遷幸の記事から直接つづく。 ■資賢卿 底本「資方」より改め。 ■篠の峰 比叡山横川にある峰。 ■薬王坂 鞍馬と静原をむすぶ坂。剣難な裏道。比叡山延暦寺と鞍馬寺との最短ルート上にある。やこうざか・やっこうざか。伝教大師最澄が鞍馬で薬王如来の像を作り比叡山に戻る途中、この坂で薬王如来があらわれたことにちなむ。 ■横河の解脱谷 横川六谷の一。 ■寂場坊 横川にあったの僧坊。横川鐘楼の北東。 ■円融房 比叡山東塔にあった僧坊。現在の大原三千院のルーツ。伝教大師最澄が比叡山根本中堂を建てた時、比叡山東塔南谷の梨の大木の下にお堂を建てたのが始まり。応徳3年(1086)、東坂本梶井(大津市坂本)にお堂を建て、堀河天皇皇子・最雲法親王が住持となる。以後、代々皇室が住持を務める門跡寺院となり、梶井宮・梨本門跡といわれた。明治時代に大原に移され三千院と呼ばれる。 ■天台山 比叡山。中国浙江省の天台宗の根本道場、天台山になぞらえる。 ■摂政殿 藤原基通。巻七「主上都落」には「北山の知足院へいらせ給ふ」とあった。知足院は現日蓮宗常徳寺。 ■女院 八条院暲子と上西門院統子。 ■八幡 京都市八幡。石清水八幡宮がある。 ■聖徳太子の未来記 聖徳太子が未来を予言したとされる書。実物は発見されておらず、『愚管抄』『野守鏡』『太平記』などに書名が出てくる。 ■前関白松殿 藤原基房。「殿下乗合事件」の人(巻一「殿下乗合」)。治承三年(1179)流罪、出家(巻三「大臣流罪」)。 ■当殿 今の摂政関白殿。藤原(近衛)基通。 ■太政大臣 当時の太政大臣は闕官。『玉葉』に比叡山登山のようすは詳しい。 ■すべて世に… 以下「もるるはなかりけり」まで巻三「御産」に同文がある。 ■門跡 ここでは比叡山あるいは天台座主をいう。 ■廿八日 七月二十七日に蓮華王院に還御(玉葉、吉記)。 ■山本の冠者義高 山本義高。錦織(にしごり)冠者と称した(巻四「源氏揃」)。 ■廿余年 平治の乱(平治元年)以来、二十四年間。 ■陸奥新判官代義康 源義家の孫。義国の子。下野国足利に住み足利氏の祖となる。 ■矢田判官代義清 京都府亀岡市矢田町の住人。 ■大江山 京都市西京区大枝。丹波へ超える坂道。老の坂、大枝山とも。明智光秀が本能寺の変のとき通ったルート。 ■勘解由小路の中納言経房卿 藤原高藤の子孫。光房の子。『吉記』の作者。元暦元年(1184)権中納言。当時は参議左大弁。 ■検非違使別当左衛門督実家 藤原(徳大寺)公能の次男。実定の弟。 ■業忠 底本「成忠」。平信業の子。 ■法住寺殿 後白河法皇の御所。京都市東山区三十三間堂の東南あたり。

原文

高倉院(たかくらのゐん)の皇子(わうじ)は、主上の外三所(ほかみところ)ましましき。二宮(にのみや)をば儲君(まうけのきみ)にし奉らむとて、平家いざなひ参らせて、西国へ落ち給ひぬ。三四は都にましましけり。同(おなじき)八月五日(いつかのひ)、法皇この宮たちをむかへ寄せ参らせ給ひて、まづ三の宮の五歳(ごさい)にならせ給ふを、「是へ是へ」と仰せければ、法皇を見参らッさせ給ひて、 大きにむつからせ給ふあひだ、「とうとう」とて出(いだ)し参らッさせ給ひぬ。其(その)後(のち)四の宮の四歳にならせ給ふを、「是へ」と仰せければ、すこしもはばからせ給はず、やがて法皇の御膝(ひざ)のうへに参らせ給ひて、よにもなつかしげにてぞましましける。 法皇御涙をはらはらとながさせ給ひて、「げにもすぞろならむ者は、かやうの老法師(おいぼふし)を見て、なにとてかなつかしげには思ふべき。是ぞ我(わが)まことの孫にてましましける。故院(こゐん)のをさなおひに、すこしもたがはせ給はぬ物かな。かかる忘れがたみを今まで見ざりける事よ」とて、御涙せきあへさせ給はず。 浄土寺(じやうどじ)の二位殿(にゐどの)、そのときはいまだ丹後殿(たんごどの)とて御前(ごぜん)に候はせ給ふが、「さて御ゆづりは、此(この)宮にてこそわたらせおはしましさぶらはめ」と申させ給へば、法皇、「子細(しさい)にや」とぞ仰せける。内々御占(ないないみうら)ありしにも、「四の宮位(くらゐ)につかせ給ひては、百王(はくわう)まで日本国(にッぽんこく)の御(おん)ぬしたるべし」とぞかんがへ申しける。

御母儀(おぼぎ)は七条修理大夫信隆卿(しつでうのしゆりのだいぶのぶたかのきやう)の御娘(おんむすめ)なり。建礼門院(けんれいもんゐん)のいまだ中宮(ちゆうぐう)にてましましける時、その御方(おかた)に宮づかひ給ひしを、 主上常は召されける程に、うちつづき宮あまたいできさせ給へり。信隆卿、御娘あまたおはしければ、いかにもして女御(にようご)、后(きさき)にもなし奉らばやとねがはれけるに、人の白い鶏(にはとり)を千かうつれば、其家(そのいへ)に必ず后(きさき)いできたるといふ事ありとて、鶏の白いを千そろへてかはれたりける故にや、此御娘(このおんむすめ)、皇子(わうじ)あまたうみ参らせ給へり。信隆卿内々(ないない)うれしうは思はれけれども、平家にもはばかり、中宮にもおそれ参らせて、もてなし奉る事もおはせざりしを、入道相国の北の方、八条(はちでう)の二位殿(にゐどの)、「苦しかるまじ。われそだて参らせて、まうけの君にし奉らむ」とて、御(おん)めのとどもあまたつけて、そだて参らせ給ひけり。

中にも四の宮は、二位殿のせうと、法勝寺執行能円法印(ほつしようじのしうぎやうのうゑんほういん)のやしなひ君にてぞましましける。法印平家に具せられて、西国(さいこく)へ落ちし時、あまりにあわてさわいで、北の方をも宮をも京都(きやうと)にすておき参らせて下られたりしが、西国よりいそぎ人をのぼせて、「女房(にようぼう)、宮(みや)具し参らせて、とくとくくだり給ふべし」と申されたりければ、北の方なのめならず悦(よろこ)び、宮いざなひ参らせて、西七条(にしのしつでう)なる所まで出(いで)られたりしを、女房のせうと紀伊守範光(きのかみのりみつ)、「是(これ)は物のついてくるひ給ふか、此宮の御運(ごうん)は只今(ただいま)ひらけさせ給はんずる物を」とて、とりとどめ参らせたりける次(つぎ)の日ぞ、法皇より御(おん)むかへの車は参りたりける。何事もしかるべきと事と申しながら、四の宮の御(おん)ためには、紀伊守範光奉公(ほうこう)の人とぞ見えたりける。されども四の宮位(くらゐ)につかせ給ひて後(のち)、そのなさけをもおぼしめしいでさせ給はず、朝恩(てうおん)もなくして歳月(ちしつき)をおくりけるが、せめての思(おもひ)のあまりにや、二首の歌をようで、禁中(きんちゆう)に落書(らくしよ)をぞしたりける。

一声(ひとこえ)は思ひ出(いで)てなけほととぎすおいその森の夜半(よは)のむかしを
籠(こ)のうちもなほうらやまし山がらの身のほどかくすゆふがほの宿(やど)

主上(しゆしやう)是を叡覧(えいらん)あッて、「あなむざんや、さればいまだ世にながらへてありけるな。今日(けふ)までこれをおぼしめしよらざりけるこそおろかなれ」とて、朝恩(てうおん)かうぶり、正三位(じやうざんみ)に叙せられけるとぞきこえし。

現代語訳

高倉院の皇子には、安徳天皇の外に三人の方がおられた。二宮を皇太子にし奉ろうと、平家がお誘いして、西国へ落ちられた。三宮、四宮は都にいらっしゃった。同じ八月五日、法皇はこの宮たちをお迎え寄せられて、まず三宮で五歳におなりになるのを、「是へ是へ」と仰せられたところ、三の宮は、法皇を御覧になって、たいそう嫌がってお泣きになったので、「さっさと帰りなさい」と言って、お出しになった。その後、四の宮の四歳におなりになるのを、「これへ」と仰せられたところ、三の宮とは違ってすこしも御遠慮なさらず、すぐに法皇の御ひざの上にお乗りになって、いかにも懐かしそうにしていらしゃった。法皇は御涙をはらはらとお流しになって、「まさにかかわりのない者が、このような老法師を見て、どうしてなつかしく思うだろうか。これこそ私の本当の孫でいらっしゃるのだ。故院の幼い頃の様子に少しも違ってはいらっしゃらぬ。こんな忘れ形見を今まで見たことはなかったよ」と言って、御涙が落ちるのをこらえようともなさらない。浄土寺の二位殿、その時はまだ丹後殿といって御前にお仕えになっていたが、「さて、天皇位については、この宮にお譲りになられるおつもりでしょうか」と申されると、法皇は、「言うまでもない。もちろんだ」と仰せられた。ないないに御占いもなされたが、占い師は、「四の宮が位にお着きになられたら、その後百代までの代々の天皇は日本国の主であるでしょう」という考えを申し上げた。

四の宮の御母君は七条修理大夫信隆卿の御娘である。建礼門院がまだ中宮でいらっしゃった時、その御方に宮仕えしていらっしゃったのを、天皇(高倉天皇)がいつもお側に呼んでおられるうちに、続いて多くの宮がお生まれになった。信隆卿は御娘をたくさんお持ちだったので、どうにかして女御や后にさせようと願われ、人が白い鶏を千羽飼えば、その家には必ず后が現れるという事があるのだと、白い鶏を千羽揃えて飼われたからであろうか、この御娘は皇子をたくさんお産みになった。信隆卿は内心では嬉しく思われていたが、平家にも遠慮され、中宮にも畏れ多いと申されて、この若君たちのお世話をなさらなかったが、入道相国の北の方、八条の二位殿が、「苦しゅうない。私がお育て申して皇太子にしてさしあげよう」といって、御乳母どもを多く付けて、お育てなさった。

なかでも四の宮は、二位殿の舅(しゅうと)、法勝寺の執行能円法印がお育てになった皇子でいらっしゃる。法印が平家と共に西国へ落ちたとき、余りにも慌て騒いで、北の方をも宮をも京都に捨て置き申し上げて下られたのであったが、西国より急いで人を上らせ、「女房や宮をお連れ申して早くお下りください」と申されたので、北の方はひとかたならずお喜びになり、宮をお誘いして、西七条という所までお出になったのを、女房の舅、紀伊守範光が、「これは物が憑いてお狂いなされたのか、この宮の御運は今開かれたのに」と言って、押し留め申し上げた次の日、法皇より御迎えの車が参ったのである。何事も運命であるとはいいながら、四の宮の御為にとって、紀伊守範光は功績のある人だと見えたのであった。しかし、四の宮が天皇におなりになった後、紀伊守の恩に報いる情けをおかけになることもなさらず、朝廷からの褒美もなく年月を送ったが、せめてもの思いのあまりであろうか、二首の歌を詠んで、禁中に落書きをしたのであった。

一声(ひとこえ)は思ひ出(いで)てなけほととぎすおいその森の夜半(よは)のむかしを
(ほととぎすよ一声鳴いてくれ、老蘇の森で鳴いた夜半の昔を思い出して)
籠(こ)のうちもなほうらやまし山がらの身のほどかくすゆふがほの宿(やど)
(狭い籠の中であってもうらやましい。夕顔の咲く貧しい家に身分を隠している山がらにとっては)

天皇はこれを御覧になって、「ああ気の毒なことをした。ではまだ長生きしておるのだな。今日までこの男の事に思いつかなかったのは愚かな事だ」と言って、朝廷からの御褒美を下され、正三位に叙せられたということであった。

語句

■高倉院 高倉上皇。第八十代天皇。後白河の子。安徳の父。 ■三所 ニ宮は守貞親王(後高倉院・後堀河天皇父)・三宮は惟明親王。四宮は尊成親王(後鳥羽天皇)。 ■儲の君 皇太子。東宮。 ■むつからせ給ふ 「むつかる」は嫌がって泣く。 ■すぞろならむ者 関係のない者。赤の他人。 ■故院のおさなおひ 故高倉院の幼い頃。 ■浄土寺のニ位殿 高階栄子。後白河の女房で寵愛を受けた。丹波殿、丹後殿とも。 ■子細にや 下に「及ぶ」などを省略。あれこれ細かいことを言うまでもないの意。 ■御占ありしにも 「三宮・四宮ナルヲ法皇ヨビ参ラセテ見参ラセラレケルニ、四宮五ヲモギラヒモナクヨビヲハシマシケリ。又御ウラニモヨクヲハシマシケレバ、四宮ヲ寿永二年八月廿日御受禅行ハレニケリ」(愚管抄・五)。『玉葉』には義仲が高倉宮の遺児、北陸宮を推し、丹後殿は四宮を推し、何度かの占いを経て四宮に決まったとある。『平家物語』には義仲が北陸宮を推した経緯はまったく省かれている。 ■百王 代々の多くの天皇。 ■七条修理大夫信隆卿 邸が七条坊城にあつたため坊門信隆とも(巻一「吾身栄花」)。 ■御娘 七条院殖子(しょくし/たねこ)。二宮=後高倉院(守貞親王)と四宮=後鳥羽天皇の母。 ■人の白い鶏を… 出典不明。 ■能円法印 藤原顕憲の子。平時忠・時子の異父兄。 ■養い君 養子として養育されていた。 ■北の方 藤原範子。刑部卿藤原範兼の娘。 ■女房、宮 女房は七条院殖子。宮は四宮尊成親王(後の後鳥羽天皇)。 ■西七条 西の京の七条あたり。平安京は左京(東部)が栄え、右京(西部、西の京)はさびれていた。 ■女房 ここは藤原範子のこと。 ■紀伊守範光 底本「教光」。幼少の尊成親王(後の後鳥羽院)も平家一門とともに西国へ連れ去られるところだったが、紀伊守範光によってそれが阻まれた。まことに後鳥羽天皇が世に出られたのは範光のおかげであるという話。 ■法皇より御むかへの車 後白河法皇より四宮尊成親王(後の後鳥羽天皇)を迎える車。 ■しかるべき事 そうなるべき事。運命。 ■奉公の人 功績のある人。 ■四の宮位につかせ給ひて 後鳥羽天皇の践祚は寿永二年(1183)八月二十日、即位は元暦元年(1184)七月二十八日。 ■落書 風刺・皮肉をきかせた文言を宮中など人目につくところに貼り付けたり落としておくもの。 ■一声は 昇進を願う歌。『新古今集』夏。正治ニ年(1200)初度百首の詠。上の句「郭公(ほととぎす)なほ一声は思ひ出でよ」。老蘇の森は滋賀県蒲生郡安土町の歌枕。奥石神社内。「東路の思ひ出にせむ郭公おいその森の夜半の一声」(後拾遺・夏)が本歌。 ■籠のうちも… 『玉葉集』雑三 寂蓮法師。「籠のうち」は宮中をさす。出仕への望みを歌う。「夕顔の宿」は粗末な家のこと(『源氏物語』夕顔巻)。 ■正三位 建仁ニ年(1202)範光、正三位。

朗読・解説:左大臣光永

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