平家物語 百二十六 生(いけ)ずきの沙汰(さた)

■【古典・歴史】メールマガジン
■【古典・歴史】YOUTUBEチャンネル

平家物語巻第九より「生(いけ)ずきの沙汰(さた)」。源義経配下の武将、梶原景季と佐々木高綱の間には、名馬「生ずき」にまつわる因縁があった。

↓↓↓音声が再生されます↓↓

前回「法住寺合戦(ほふぢゆうじかっせん)」からのつづきです。
https://roudokus.com/Heike/HK125.html

これまでの配信
https://roudokus.com/Heike/

あらすじ

寿永三年(1184)の正月が来たが都では昨年暮れの法住寺合戦(「法住寺合戦」)より院の御所を六条西洞院に移していたため、正月の儀式も祝い事も行われなかった。

一方屋島の平家方でも正月らしい祝い事は行わなかつた。平家の人々は都での華やかな暮らしを思い出し、侘しい現状に涙した。

同正月十一日、義仲は平家追討のため西国へ出発する旨を院の御所に奏聞(報告)する。

ところが同十三日、義仲の都での狼藉を鎮めるため鎌倉より頼朝が軍勢を遣わし、既に都近くまで迫っているという情報が入った。驚いた義仲は今井兼平を瀬田橋へ、仁科、高梨、山田の次郎を宇治橋へ差し向ける。

鎌倉より攻め上るのは大手の蒲冠者範頼、からめ手の九郎義経以下六万余騎ということだった。

さてその頃頼朝のもとに生食(いけずき)磨墨(するすみ)という二頭の名馬があった。

梶原源太景季はしきりにいけずきを所望したが、頼朝は断り、代りに磨墨を与えた。

ところが後日佐々木四郎高綱がいけずきを所望したところ、頼朝はあっさりと与えてしまう。

木曾義仲討伐のために鎌倉を出た一行は東海道を京都へ向かう。駿河国浮島が原で梶原源太景季は高いところに上がり、ズラリと並んだ自軍の馬を見下ろしていた。

「俺が賜った磨墨に勝る馬は一頭も無い」と満足げな梶原だったが、。その中に梶原が所望して得られなかった、あのいけずきの姿があった。

「佐々木殿の馬です」と聞いて梶原は不機嫌になり、名誉を傷つけられた上は佐々木と刺し違えて死のうと待ち伏せる。

そこへ何も知らない佐々木四郎高綱がやってきた。梶原のただならぬ様子を見て「そういえば梶原殿もいけずきを所望していたのだ」と思い出す。

佐々木は「どうせもらえないから盗んできたのだ」と、とっさの作り話をして、梶原の妬みをかわした。

原文

寿永(じゆえい)三年正月一日(しやうぐわつひとひのひ)、院の御所は大膳大夫業忠(だいぜんのだいぶなりただ)が宿所、六条西洞院(ろくでうにしのとうゐん)なれば、御所のていしかるべからずとて、礼儀(れいぎ)おこなはるべきにあらねば、拝礼(はいらい)もなし。院(ゐん)の拝礼なかりければ、 内裏の小朝拝(こでうはい)もおこなはれず。平家は識岐国八島(さぬきのくにやしま)の磯(いそ)におくりむかへて、年のはじめなれども、元日元三(ぐわんにちぐわんざん)の儀式事(こと)よろしからず。主上(しゆしやう)わたらせ給へども、節会(せちゑ)もおこなはれず、四方拝(しはうはい)もなし。鰚魚(はらか)も奏(そう)せず、吉野の国栖(くず)も参らず。「世(よ)乱れたりしかども、みやこにてはさすがかくはなかりしものを」とぞ、おのおの宣(のたま)ひあはれける。青陽(せいやう)の春も来(きた)り、浦吹く風もやはらかに、日かげものどかになりゆけど、ただ平家の人々は、いつも氷に閉ぢこめられたる心地(ここち)して、寒苦鳥(かんくてう)にことならず。東岸西岸(とうがんせいがん)の柳(やなぎ)遅速(ちそく)をまじへ、南枝北枝(なんしほくし)の梅開落已(かいらくすで)に異(こと)にして、花(はな)の朝(あした)、月(つき)の夜(よ)、詩歌(しいか)、管絃(くわんげん)、鞠(まり)、小弓(こゆみ)、扇合(あふぎあはせ)、絵合(えあはせ)、草(くさ)づくし、虫(むし)づくし、さまざま興(きよう)ありし事ども、思ひ出でかたりつづけて、永日(えいじつ)をくらしかね給ふぞあはれなる。

同(おなじき)正月十一日、木曾左馬頭義仲院参(きそのさまのかみよしなかゐんざん)して、平家追討のために西国(さいこく)へ発向(はつかう)すべきよし奏聞(そうもん)す。同(おなじき)十三日、既に門出(かどいで)ときこえし程に、東国(とうごく)より前兵衛佐頼朝(さきのひやうゑのすけよりとも)、木曾が狼籍(らうぜき)しづめ んとて、数万騎(すまんぎ)の軍兵(ぐんぴやう)をさしのぼせられけるが、すでに美濃国(みののくに)、伊勢国(いせのくに)につくときこえしかば、木曾大きにおどろき、宇治(うぢ)、勢田(せた)の橋をひいて、軍兵どもをわかちつかはす。折ふし、勢(せい)もなかりけり。勢田の橋は大手(おほて)なればとて、今井四郎兼平(いまゐのしらうかねひら)八百余騎でさしつかはす。宇治橋(うぢはし)へは、仁科(にしな)、高梨(たかなし)、山田(やまだ)の次郎(じらう)五百余騎でつかはす。一口(いもあらひ)へは伯父(をぢ)の信太(しだ)の三郎先生義憲(さぶらうせんじやうよしのり)三百余騎でむかひけり。東国よりせめのぼる大手の大将軍(たいしやうぐん)は、蒲(かば)の御曹司範賴(おんざうしのりより)、搦手(からめて)の大将軍は九郎御曹司義経(くらうおんざうしよしつね)、むねとの大名三十余人、都合其勢六万余騎とぞ聞えし。

其比鎌倉殿(そのころかまくらどの)にいけずき、する墨(すみ)といふ名馬あり。いけずきをば梶原源太景季(かぢはらげんだかげすゑ)しきりに望み申しけれども、鎌倉殿、「自然(しぜん)の事のあらん時、物具(もののぐ)して頼朝が乗るべき馬なり。する墨 もおとらぬ名馬ぞ」とて、梶原にはする墨をこそたうだりけれ。佐々木四郎高綱(ささきしらうたかつな)が暇(いとま)申しに参ッたりけるに、鎌倉殿いかがおぼしめされけん、「所望(しよもう)の者はいくらもあれども、存知(ぞんぢ)せよ」とて、いけずきを佐々木にたぶ。佐々木畏(かしこま)ッて申しけるは、「高綱この御馬で宇治河(うぢがは)のまッさきわたし候(さうらふ)べし。宇治河で死にて候ときこしめし候はば、人にさきをせられてンげりとおぼしめし候へ。いまだいきて候ときこしめされ候はば、さだめて先陣はしつらん物をとおぼしめされ候へ」とて、御前(おんまへ)をまかりたつ。参会(さんくわい)したる大名(だいみやう)、小名(せうみやう)みな、「荒涼(くわうりやう)の申しやうかな」とささやきあへり。

現代語訳

寿永三年正月一日、院の御所は大膳大夫業忠(だいぜんのだいぶなりただ)の宿所、六条西洞院(とういん)なので、御所の体裁をなしていないということで、儀式を行える状況ではないので、拝礼もない。院の拝礼が無かったので、内裏の小朝拝も行われない。平家は讃岐の八島の磯で年末を過ごし正月を迎えて、年の初めではあるが、元日から三が日の儀式も事が整わないので、天皇はおられるが、節会も行われず、四方拝もない。鱒魚(はらか)を天皇に献上することもなければ、吉野の奥に住む国栖も参らない。「世は乱れてしまったが、都ではさすがにこれほどではないであろうに」と、おのおの語り合われた。春も来て、浦に吹く風も柔らかに、日陰ものどかになってはいくが、ただ平家の人々は、いつも氷に閉じこめられたよう心地がして寒苦鳥(かんくちょう)と違いはない。東岸と西岸では柳の芽の遅咲き、早咲きのものが混じり合い、南の枝と北の枝とでは梅の花の咲く、散るの違いがあって、花の咲く朝や、月の美しい夜には、詩歌、管弦、鞠(まり)、小弓(こゆみ)、扇合(おうぎあわせ)、絵合(えあわせ)、草づくし、虫づくしなど様々な楽しみがあった事など、思い出して語り続けて、長い春の一日を暮しかねておられるのは、哀れなことである。

同年正月十一日に、木曾左馬頭義仲が院の御所へ参って、平家追討の為に西国へ出陣するつもりであるということを申し上げる。同月十三日、義仲が既に出発したという噂が伝わったので、東国から前兵衛佐頼朝が、木曾の狼藉を鎮めようと、数万騎の軍勢を上らせられた。その軍勢がすでに美濃国、伊勢国に着くという事だったので、木曾は仰天して、宇治、勢田の橋板を外して軍勢を分けて向かわせる。丁度、軍勢も無かった。勢田の橋は正面になるからといって、今井四郎兼平を八百余騎で向かわせる。宇治橋へは、仁科(にしな)、高梨、山田の次郎五百余騎で向かわせる。一口(いちあらい)へは伯父の信太(しだ)の三郎先生義憲(さぶろうせんじょうよしのり)が三百余騎で向かった。東国から攻め上る正面の大将軍は、蒲(かば)の御曹司範頼(おんぞうしのりより)、裏手の大将軍は九郎御曹司義経、主だった大名三十余人、合せてその軍勢は六万余騎ということであった。

その頃、鎌倉殿はいけずき、する墨という二頭の名馬を飼われていた。いけずきを梶原源太景季(かじわらげんたかげすえ)がしきりに欲しがったが、鎌倉殿は、「万一の事があった時、武装して頼朝が乗る馬である。する墨も劣らず名馬である」といって、梶原にはする墨をお与えになった。佐々木四郎高綱が出陣の挨拶をしに来た時、鎌倉殿は何を思われたのか、「欲しがる者は大勢いるが、それをよく心得ておけ」といって、いけずきを佐々木にお与えになる。佐々木が畏まって申したのは、「高綱はこの御馬で宇治川を真っ先に渡りましょう。もしも宇治川で死んだとお聞きになられたら、人に先んじられたのだとお思い下さい。まだ生きているとお聞きになられたら、きっと先陣で宇治川を渡ったのだとお思い下さい」といって、御前から退出する。参会した大名、小名は皆、「大口をたたいたものだな」と囁きあった。

原文

おのおの鎌倉をたッて、足柄(あしがら)をへてゆくもあり。箱根(はこね)にかかる人もあり。思ひ思ひにのぼるほどに、駿河国浮島(するがのくにうきしま)が原(ばら)にて、梶原源太景季高き所にうちあがり、しばしひかへておほくの馬どもを見ければ、思ひ思ひの鞍(くら)おいて、色々の鞦(しりがい)かけ、或(あるい)は乗口(のりくち)にひかせ、或(あるい)は諸口(もろくち)にひかせ、幾千万(いくせんばん)といふ数を知らず。引きとほし引きとほししける中にも、景季が給はッたるする墨にまさる馬こそなかりけれと、うれしう思ひて見る処(ところ)に、いけずきとおぼしき馬こそ出で来たれ。黄覆輪(きンぷくりん)の鞍おいて、小総(こぶさ)の鞦(しりがい)かけ、白泡(しらあわ)かませ、舎人(とねり)あまたついたりけれども、なほひきもためず、をどらせて出できたり。梶原源太うち寄って、「それはたが御馬ぞ」。「佐々木殿の御馬候(ざうらふ)」。其時梶原、「やすからぬ物なり。同じやうに召しつかはるる 景季を佐々木におぼしめしかへられけるこそ遺恨(ゐこん)なれ。みやこへのぼッて、木曾殿の御内(みうち)に四天王ときこゆる今井(いまゐ)、樋口(ひぐち)、楯(たて)、根井(ねのゐ)にくんで死ぬるか、しからずは西国へむかうて、一人当千(いちにんたうぜん)ときこゆる平家の侍(さぶらひ)どもといくさして死なんとこそ思ひつれども、此御気色(このごきそく)ではそれもせんなし。ここで佐々木にひッくみさしちがへ、よい侍二人(ににん)死ンで、兵衛佐殿に損とらせ奉らむ」とつぶやいてこそ待ちかけたれ。佐々木四郎はなに心もなくあゆませて出できたり。梶原、おしならべてやくむ、むかう様(さま)にやあておとすと思ひけるが、まづ詞(ことば)をかけけり。「いかに佐々木殿、いけずきたまはらせ給ひてさうな」といひければ、佐々木、「あッぱれ、此仁(このじん)も内々(ないない)所望すると聞きし物を」と、きッと思ひいだして、「さ候へばこそ。此御大事にのぼりさうが、定めて宇治(うぢ)、勢田(せた)の橋をばひいて候らん。乗ッて河わたすべき馬はなし。いけずきを申さばやとは思へども、梶原殿の申されけるにも、御(おん)ゆるされないと承る間、まして高綱が申すとも、よも給はらじと思ひつつ、後日(ごにち)にはいかなる御勘当(ごかんだう)もあらばあれと存じて、暁たたんとての夜(よ)、舎人(とねり)に心をあはせて、さしも御秘蔵(ごひさう)候いけずきをぬすみすまいて、のぼりさうはいかに」といひければ、梶原この詞(ことば)に腹がゐて、「ねッたい、さらば景季もぬすむべかりける物を」とて、どッとわらッてのきにけり。

現代語訳

それぞれの武士たちが鎌倉を出発して、足柄を経て行く者もあり、箱根に向かう人もある。思い思いに上るうちに、駿河国浮島が原で、梶原源太景季(かげすえ)は高い場所に上ってしばらく留まって多くの馬を見たところ、思い思いの鞍を置いて、色々な鞦(しりがい)をかけ、或は手綱で馬を引く者もおり、或は馬の左右から諸口にとって引かせる者もあり、幾千万ともわからない程の数である。馬を引きながら通る人を見ると、その中では、自分が殿より頂いたする墨より優れた馬はいないと、嬉しくなって見ているところに、いけずきと思われる馬が出て来た。黄覆輪(きんぷくりん)の鞍を置いて、小総(こぶさ)の鞦(しりがい)をかけ、白い泡を口から吹かせ、下人が大勢付いていたが、なおも馬の力が強くなかなか抑えきれず、暴れながら出て来た。梶原源太はそこへ近づいて「それは誰の馬か」。「佐々木殿の御馬でござる」。その時梶原は、「けしからんことだ。同じようにお仕えしている景季なのに佐々木に御心を移されたのが恨めしい。都へ上って、木曾殿の家来で四天王と言われる今井、樋口、盾、根井と組み合って死のうか、そうでなければ西国へ向って、一人当千と言われる平家の侍共と戦って死のうと思ったが、こういう殿のお気持ちでは仕方がない。この場で佐々木と組んで刺し違え、勝れた武士二人が死んで、兵衛佐殿に損害をお与えしよう」とつぶやいて待ち受けていた。佐々木四郎は何も考えずに乗馬を歩かせて出て来た。梶原は、馬同士を並べて組もうか、まともに馬をぶつけて落馬させようかと思っていたが、先ずは言葉をかけた。「やあ佐々木殿、いけずきを殿から頂戴なさったたそうですな」と言ったところ、佐々木は、「ああ、この人も内々は欲しがっていたと聞いていたものを」と、とっさに思い出して、「そのことです。この御大事に都に上りますが、きっと宇治、勢田の橋板は引かれて無くなっている事でしょう。それなのに乗って川を渡れるような馬はございません。いけずきを申し受けようと思いましたが、梶原殿が所望なさったのに、殿はお許しにならなかったと伺いました。ましてや高綱が申し受けようとしても、よもやいただけはしないだろうと思いましたので、後日(ごじつ)どのようにか主従の縁を切られるなら切られろと思いまして、明け方に出発しようとする前夜、下人と心を合せて、あれほど御秘蔵なされているいけずきをまんまと盗みおおせて、都に上りますがどうですか」と言ったところ、梶原はこの言葉に腹が立ったのが治まって、「憎らしい。それならば景季も盗めばよかったものを」といって、大声で笑って立ち去った。

朗読・解説:左大臣光永

■【古典・歴史】メールマガジン
【古典・歴史】YOUTUBEチャンネル