平家物語 百二十七 宇治川先陣(うぢがはのせんぢん)

■【古典・歴史】メールマガジン

平家物語巻第九より「宇治川先陣(うぢがはのせんぢん)」。木曾義仲討伐のため、瀬田方面から蒲冠者範頼が、宇治方面から九郎冠者義経が都に迫る。義経配下の武将、梶原景季と佐々木高綱はともに先陣(戦場への一番乗り)をめざし、宇治川に駆け入る。

↓↓↓音声が再生されます↓↓

前回「生(いけ)ずきの沙汰(さた)」からのつづきです。
https://roudokus.com/Heike/HK126.html

これまでの配信
https://roudokus.com/Heike/

あらすじ

佐々木四郎高綱の馬は生ずき、梶原源太景季の馬はする墨という名の、いずれも劣らぬ名馬だった。

尾張国(現愛知県)より大手、搦手二手に分かれてせめのぼる。

大手の範頼軍三万五千は近江国野路、篠原(瀬田川河口の東)に到着。搦手の義経軍二万五千余騎は宇治橋のつめに押し寄せた。

正月二十日すぎのことで谷の氷が解けだし、宇治川は水かさがましていた。

義経は、配下の武将たちの覚悟を見るためか、迂回するか、水足が治まるのを待つか、意見を求める。

畠山重忠が答えて、いくら待っても水が引くことはない、まず自分が馬を踏み入れ、水深を確かめましょうということを言う。

畠山重忠が一族を集めて馬を整えていると、平等院の東北、橘島のあたりから、二騎の武者が競いながら走ってきた。

梶原源太景季と佐々木四郎高綱である。

以前から互いを意識し張り合っていた二人だが(「生ズキノ沙汰」)、今回も、どちらが先陣を切るか、必死だった。

まず梶原が、次に佐々木が続く。

後ろから佐々木が声をかけて、「馬の腹帯が解けています」というので、梶原馬を止めてが腹帯を調べていると、スッと佐々木が馳せ抜き、宇治川へ乗り込む。

梶原はあわてて後を追うが、はるか下流に流されてしまった。

佐々木は対岸に上がり、高らかに名乗りを上げた。

畠山重忠も、すぐに宇治川を渡った。

烏帽子子の大串次郎が馬を流されてしまったというので、畠山は大串次郎を岸の上へ投げ上げてやる。

大串次郎は徒歩においては自分が先陣を切ったのだと名乗りを上げたので、敵も味方も大笑いした。

畠山重忠は予備の馬に乗って、木曽義仲の家の子、長瀬判官代重綱(ながせのはんがんだい しげつな)を討ち取る。

義仲軍はしばらく持ちこたえるが、義経軍の勢いに押されて後退していく。

原文

佐々木四郎が給はッたる御馬は、黒栗毛(くろくりげ)なる馬の、きはめてふとうたくましいが、馬をも人をもあたりをはらッてくひければ、いけずきとつけられたり。八寸(はつすん)の馬とぞきこえし。 梶原(かぢはら)が給はッたるする墨(すみ)も、きはめてふとうたくましきが、まことに黒かりければする墨とつけられたり。いづれもおとらぬ名馬なり。

尾張国(をはりのくに)より大手(おほて)、搦手二手(からめてふたて)にわかッてせめのぼる。大手の大将軍、蒲御曹司範頼(かばのおんざうしのりより)、あひともなふ人々、武田太郎(たけたのたらう)、加賀美次郎(かがみのじらう)、一条次郎(いちでうのじらう)、板垣三郎(いたがきのさぶらう)、稲毛三郎(いなげのさぶらう)、榛谷四郎(はんがへのしらう)、熊谷次郎(くまがへのじらう)、猪俣小平六(ゐのまたのこへいろく)を先(さき)として、都合其勢(そのせい)三万五千余騎、近江国野路(あふみのくにのじ)、篠原(しのはら)にぞつきにける。搦手の大将軍は九郎御曹司義経(くらうおんざうしよしつね)、同じくともなふ人々、安田三郎(やすだのさぶらう)、大内太郎(おほうちのたらう)、畠山庄司次郎(はたけやまのしやうじじらう)、梶原源太(かぢはらげんだ)、佐々木四郎(ささきしらう)、糟屋藤太(かすやのとうだ)、渋谷右馬允(しぶやのうまのじよう)、平山武者所(ひらやまのむしやどころ)をはじめとして、都合其勢二万五千余騎、伊賀国(いがのくに)をへて宇治橋(うぢはし)のつめにぞおし寄せたる。宇治も勢田も橋をひき、水のそこには乱杭(らんぐひ)うッて大綱(おほづな)はり、逆茂木(さかもぎ)つないでながしかけたり。

比(ころ)は正月廿日(むつきはつか)あまりの事なれば、比良(ひら)のたかね、志賀(しが)の山(やま)、 昔ながらの雪もきえ、谷々の氷うちとけて、水はをりふしまさりたり。白浪(はくらう)おびたたしうみなぎりおち、灘枕(せまくら)おほきに滝なッて、さかまく水もはやかりけり。夜はすでにほのぼのとあけゆけど、河霧(かはぎり)ふかく立ちこめて、馬の毛も鎧(よろひ)の毛もさだかならず。ここに大将軍九郎御曹司、河のはたにすすみ出で、水のおもてを見わたして、人々の心をみんとや思はれけん。「いかがせむ、淀(よど)、一ロ(いもあらひ)へやまはるべき、水のおち足をやまつべき」と宣(のたま)べば、畠山、其比(そのころ)はいまだ生年(しやうねん)廿一になりけるが、すすみ出でて申しけるは、「鎌倉にてよくよく此(この)河の御沙汰(ごさた)は候ひしぞかし。しろしめさぬ海河(うみかは)の、俄(にはか)にできても候(さうら)はばこそ。此(この)河は近江(あふみ)の水海(みずうみ)の末なれば、まつともまつとも水ひまじ。橋をば又誰(たれ)かわたいて参らすべき。沿承(ぢしよう)の合戦(かつせん)に、足利又太郎忠綱(あしかがのまたたらうただつな)は鬼神(おにかみ)でわたしけるか。重忠瀬(しげただせ)ぶみ仕らん」とて、丹(たん)の党(たう)をむねとして、五百余騎ひしひしとくつばみをならぶるところに、平等院(びやうどうゐん)の丑寅(うしとら)、橘(たちばな)の小島(こじま)が崎(さき)より武者二騎ひッかけひッかけ出できたり。一騎は梶原源太景季、一騎は佐々木四郎高綱なり。人目には何(なに)とも見えざりけれども、 内々(ないない)は先に心をかけたりければ、梶原は佐々木に一段(いつたん)ばかりですすんだる。佐々木四郎、「此河は西国一(さいこくいち)の大河(だいが)ぞや。腹帯(はるび)ののびて見えさうは。しめ給へ」といはれて梶原さもあるらんとや思ひけん、 左右(さう)の鐙(あぶみ)をふみすかし、手綱(たづな)を馬のゆがみにすて、腹帯をといてぞしめたりける。

現代語訳

佐々木四郎が拝領した御馬は、黒栗毛の馬で、よく太ってたくましく、馬であろうと人であろうと噛みついて側に寄せ付けなかったので、生食(いきずき)とつけられたのだった。肩の高さまで四尺八寸の馬ということであった。梶原が拝領したする墨も、よく太ってたくましかったが、実に黒かったのでする墨とつけられたのだった。どちらも劣らぬ名馬である。

尾張国から大手・搦手に別れて攻め登る。大手の大将軍は蒲御曹司範頼で、お供をする人々、武田太郎、加賀美次郎、一条次郎、板垣三郎、稲毛(いなげの)三郎、榛谷四郎(はんがえのしろう)、熊谷次郎(くまがえのじろう)、猪俣小兵六を先駆けとして、合計その勢三万五千余騎が近江国野路(おうみのくにのじ)の篠原に着いた。搦手の大将軍は九郎御曹司義経、同じくお供する人々、安田三郎宇、大内太郎、畠山庄司次郎、梶原玄太、佐々木四郎、糟屋藤太、渋谷右馬允(うまのじょう)平山の武者所季重(すえしげ)をはじめとして、合計その勢二万五千余騎が伊賀国を経て宇治橋の端に押し寄せた。宇治も勢田も橋板を取り払い、水の底に乱杭を打ち込んで、大綱を張っており、逆茂木を繋いで流れに任せて流しかけていた。

季節は正月二十日過ぎの事なので、比良の高嶺(たかね)、志賀の山には昔ながらの雪も消え、谷々の氷も解けて水は丁度増えていた。白波が相当量で溢れ落ち、瀬に点在する岩石がたくさんあり、その間を流れる水は滝となって、逆巻く波の流れも速かった。夜はすでにほのぼのと明けていったが、川を覆う霧は深く立ち込めて、馬の毛も鎧の毛も見分けがつかない。ここで大将軍九郎御曹司義経は川の岸辺に進み出て、水面を見渡して人々の気持ちを読もうと思われたのだろうか、「どうしよう。淀あるいは一口(いちあらい)へ回るべきか、それともここにいて水の流れが弱まるのを待つべきか」とおっしゃると、畠山そのころはまだ生年二十一になったのが、進み出て申したことは、「鎌倉で十分この川について御指示がありましたぞ。御曹司の御存じで無い海や河が急にできたのであればですが、そうではないのだから、この川は近江の湖から流れ出た川なので、いくら待っても水は引かないでしょう。橋を又誰が架けることができましょう。治承の合戦に、足利又太郎忠綱(あしかがのまたたろうただつな)は鬼神でここを渡ったというのか。重忠が川に入り実地に流れの速さを測ったり川底の状態を探ってみましょう」といって、丹の党を中心に、五百余騎が隙間もなくくつばみを並べているところに、平等院の北東、橘の小島が埼から武者二人が先陣を争って急いで出て来た。一騎は梶原玄太景季、一騎は佐々木四郎高綱である。人の目には何とも見えなかったが、二人とも内々では先を争う気持ちがあったので、梶原は佐々木に一段程進んだ。佐々木四郎は、「この川は西国一の大河だぞ。腹帯が伸びて見えるが締めなされ」と言われて梶原はそうかもしれんと思ったのか、左右の鐙を踏んで馬腹との間に隙間を作り、手綱を馬のたてがみに投げかけ、腹帯を解いて締めたのだった。

語句

■黒栗毛 黒みがかった栗毛。 ■あたりをはらッてくひければ 「あたりをくってはらひければ」と同意。 ■いけずき 「すき」は「すく」(食うの意)の連用形の名詞化したもの。 ■八寸 馬の丈は足元から肩まで。標準が四尺でそれより大きい度合いによって一寸、ニ寸…と数える。 ■大手・搦手二手 愛知県稲沢市から街道が二つに分かれた。一方は美濃・近江を経て瀬田へ。一方は伊賀・大和を経て宇治へ。 ■武田太郎 「甲斐国には…武田太郎信義、…」(巻四・源氏揃)。 ■加賀美次郎 底本「鏡美次郎」より改め。加賀美二郎遠光。 ■稲毛三郎 重成。畠山重能の弟。小山田有重の子。 ■熊谷次郎 直実。桓武平氏。武蔵国熊谷の人。 ■猪俣小平六 則綱(範綱)。武蔵国児玉郡猪俣の人。 ■野路、篠原 近江国栗田郡野路(滋賀県草津市野路町)と同野洲郡野洲町。西に瀬田川が、東に野洲川が流れるあたり。 ■糟屋藤太 有季。藤原元方の子孫。相模国大住郡糟屋庄の人。 ■渋谷右馬允 思資。武蔵国豊多摩郡渋谷の人。 ■平山武者所 季重。武蔵七党の一。武蔵国南多摩郡平山の人。 ■乱杭 杭を無造作に打ち込む。 ■比良のたかね 比良山地。次の志賀の山も琵琶湖西岸の連山。 ■昔ながら 「昔ながら」に「長等」をかける。長等山は園城寺背後、志賀山に連なる山。弘文天皇陵がある。 ■灘枕 流れる水が水中の岩などによって盛り上がって見えるところ。瀬枕。水中を寝床に見立てるて枕にあたる部分。 ■淀 京都市伏見区淀。桂川・宇治川・木津川の合流点。 ■一口 いもあらひ。木津川と淀川の合流点。京都府久世郡久御山町あたり。長岡京から淀川をはさんだ対岸。 ■候はばこそ 打ち消しの意。海河が急にできたならだが、そうではないのだから。 ■治承の合戦 治承四年(1180)、高倉宮挙兵の際の合戦で、平家方の足利又太郎忠綱が馬筏を作って宇治川を渡った件(巻四「橋合戦」)。 ■瀬ぶみ 川の中に入り、流れや川底のようすを調べること。 ■丹の党 武蔵七党の一。 ■ひしひしと 隙間なくびっしり並んでいるさま。 ■橘の小島 宇治橋の中洲にあった小島。 ■ひッかけ 「ひッ」は接頭語「引き」の音便。「かく」は「駆く」。ニ騎が猛烈な勢いで駆けてくるさま。 ■一段 一段は約六間(11メートル)。 ■ふみすかし 「すかす」は隙間をあける。左右の鐙を馬の腹から少し離すのである。 ■ゆがみ 結髪。馬のたてがみ。 

原文

そのまに佐々木はつッとはせぬいて、河ヘざッとぞうちいれたる。梶原たばかられぬとや思ひけん、やがてつづいてうちいれたり。「いかに佐々木殿、高名(かうみやう)せうどて不覚し給ふな。水の底には大綱(おほづな)あるらん」 といひければ、佐々木太刀(たち)をぬき、馬の足にかかりける大綱どもをばふつふつとうちきりうちきり、いけずきといふ世一(よいち)の馬には乗ったりけり、宇治河はやしといへども、一文字(いちもんじ)にざッとわたいて、むかへの岸にうちあがる。梶原が乗ッたりけるする墨は、河なかより篦撓形(のためがた)におしなされて、はるかの下(しも)よりうちあげたり。佐々木鐙(あぶみ)ふンばりたちあがり、大音声(だいおんじやう)をあげて名のりけるは、「宇多天皇(うだのてんわう)より九代(くだい)の後胤(こういん)、佐々木三郎秀義(ささきさぶらうひでよし)が四男(しなん)、佐々木四郎高綱(ささきしらうたかつな)、宇治河(うぢかは)の先陣ぞや。われと思はん人々は高綱にくめや」とて、をめいてかく。

畠山(はたけやま)五百余騎でやがてわたす。むかへの岸より山田次郎(やまだのじらう)がはなつ矢に、畠山馬の額を篦深(のぶか)に射させて、よわれば、河なかより弓杖(ゆんづゑ)をついておりたッたり。岩浪甲(いはなみかぶと)の手さきヘざッとおしあげけれども、事ともせず、水の底をくぐッて、むかへの岸へぞつきにける。あがらんとすれば、うしろに者こそむずとひかへたれ。「たそ」と問へば、「重親(しげちか)」とこたふ。 「いかに大串(おほくし)か」。「さン候(ざうらふ)」。大串次郎(おほくしのじらう)は畠山には烏帽子子(ゑぼしご)にてぞありける。「あまりに水がはやうて、馬はおしながされ候ひぬ。力およばでつき参らせて候」といひければ、「いつもわ殿原(とのばら)は、重忠がやうなる者にこそたすけられむずれ」といふままに、大串をひッさげて、岸のうへへぞ投げあげたる。 投げあげられ、ただなほッて、「武蔵国(むさしのくに)の住人、大串次郎重親、宇治河の先陣ぞや」とぞなのッたる。敵(かたき)も御方(みかた)も是(これ)を聞いて、一度にどッとぞわらひける。其後(そののち)畠山乗りがへに乗ッてうちあがる。魚綾(ぎよりよう)の直垂(ひたたれ)に緋威(ひをどし)の鎧(よろひ)着て、連銭葦毛(れんぜんあしげ)なる馬に黄覆輪(きンぷくりん)の鞍(くら)おいて乗ッたる敵の、まッさきにすすんだるを、「ここにかくるはいかなる人ぞ、なのれや」といひければ、「木曾殿の家(いへ)の子(こ)に、長瀬判官代重綱(ながせのはんぐわんだいしげつな)」となのる。畠山、 「今日(けふ)の軍神(いくさがみ)いははん」とて、おしならべてむずととッて引きおとし、頸(くび)ねぢきッて、本田二郎(ほんだのじらう)が鞍のとッつけにこそつけさせけれ。これをはじめて、木曾殿の方より宇治橋かためたる勢(せい)ども、しばしささへてふせぎけれども、東国の大勢みなわたいてせめければ、散々(さんざん)にかけなされ、木幡山(こはたやま)、伏見(ふしみ)をさいてぞおち行きける。勢田(せた)をば稲毛三郎重成(いなげのさぶらうしげなり)がはからひにて、田上供御(たなかみのぐご)の瀬をこそわたしけれ。

現代語訳

その間に、佐々木はつっと馳せ抜いて、川へざっと打ち入れたのだった。梶原は騙されたと思ったのか、すぐに続いて打ち入れた。「なんだ佐々木殿、高名を挙げようとて失敗しなさるな。川底には大綱が張られているであろう」と言ったので、佐々木は太刀を抜き、馬の足に掛かった大綱どもをぶつぶつと打ち切り打ち切り、いけずきという日本一の馬に乗っていた。宇治川の流れが速いとはいっても、まっすぐにざっと渡って向いの岸に乗り上げた。梶原が乗ったする墨は、川中から撓めた矢竹のような曲線状に押し流され、遥か下の向う岸へ乗り上げた。佐々木は鐙を踏ん張って立ち上がり、大きな声を上げて名乗った。「宇多天皇から九代目の後胤(こういん)、佐々木三郎秀義(ひでよし)の四男、佐々木四郎高綱、宇治川の先陣である。我はと思う人々は、高綱と組めや」といって、大きな声をあげながら駆けて行く。

畠山が五百余騎で続いて渡る。向いの岸から山田次郎が放った矢で、畠山は馬の額を深々と射られ、馬が弱ったので川の中から弓を杖にして下り立った。岩に砕けた波が甲の手先へざっと押し上げたが、気にもせず、水の底を潜って、向いの岸へ着いたのだった。上がろうとすると、後ろに何者かがむずとしがみついていた。「誰だ」と問うと、「重親(しげちか)と答える。「どうした大串か」。「そうでございます」。大串次郎は畠山の烏帽子子(えぼしご)であった。「あまりに水が速くて、馬は押し流されてしまいました。しかたなく貴方にしがみ付いたのでございます」と言ったので、「いつもお前達は、重忠のような者に助けられるのだな」と言うやいなや、大串を引っ下げて、岸の上へ投げ上げたのだった。大串次郎は投げ上げられ、開き直って「武蔵国の住人、大串次郎重親、宇治川の先陣である」と名乗ったのだった。敵も味方もこれを聞いて、一度にどっと笑った。その後畠山は乗換の馬に乗って打ち上がる。漁綾(ぎょりょう)の直垂に緋威の鎧を着て、連銭葦毛の馬に黄覆輪(きんぷくりん)の鞍を置いて乗った敵が、真っ先に進んで來るのを見て、「ここに駆けて来るのは何者か。名乗れ」と言ったところ、「木曾殿の家の子にて、長瀬判官代重綱」と名乗る。畠山は、「今日の軍神に供え物として献上しよう」といって、並んでむんずと掴んで引き落とし、首を捩じ切って、本田二郎の鞍の取っ付けに結び付けさせた。これを初めとして、木曾殿の陣で宇治橋を固めていた軍勢が、しばらくは支えて防いだが、東国の大軍が皆渡って攻めたので、散々に蹴散らされ、木幡山、伏見を目指して逃げて行った。一方、勢田では稲毛三郎重成(しげなり)の計略によって田上の供御(ぐご)の瀬を渡った。

語句

■不覚 失敗。 ■世一 この世で一番の。 ■むかへの岸 「むかへ」は「むかひ」に同じ。平等院側(宇治川左岸)から宇治神社側(宇治川右岸)に渡るのである。 ■篦撓形 矢竹をたわめて弓を張ったような曲線状に。 ■篦深に 篦(矢竹)を深く射こまれた状態。 ■弓杖 弓を杖としたもの。 ■甲の手さき 甲の吹き返しの外側。 ■重親 大串次郎孝保の子。次郎重親。武蔵七党の一横山党に属す。武蔵国比企郡吉見町大串の人。 ■さン候 「さに候」の転。 ■烏帽子子 武士の元服の際、烏帽子をかぶらせるのが烏帽子親。かぶらせられるのが烏帽子子。畠山が烏帽子親で大串が烏帽子子。 ■乗りがへに乗ッて 馬を乗り換えて。 ■魚綾 麹塵色。くすんだ緑。あるいは波に魚の紋のある綾織とも。 ■長瀬判官代重綱 信濃国小県(ちいさがた)郡長瀬(長野県上田市長瀬)の住人か。 ■軍神いははん この敵を討ち取って、戦神への供え物にしようの意。 ■本田二郎 畠山の郎党。 ■とッつけ 鞍の後輪についた紐。敵の首の髻をこの紐にくくりつける。 ■木幡山 コワタヤマ。宇治市木幡の山。京都と宇治の途中。藤原氏代々の墓がある。 ■田上供御の瀬 田上は瀬田川東岸のち名。供御の瀬は瀬田橋下流約一里で大戸川(田上川)が合流する所。氷魚を朝廷に献上した場所なので供御の地名がある。  ■わたしけれ 瀬田川東岸から西岸へ。

……

一度でも宇治を歩いたことがある方はまざまざと絵がうかぶ場面だと思います。もっとも当時の宇治橋は現在の宇治橋よりかなり下流にあったそうで、橘島(たちばなじま)も今のとはようすが違ったようですが。

現在、宇治川中洲の橘島に「宇治川先陣の碑」が立ちます。工事の関係でしょうか、何年か撤去されてましたが、いまはもとの位置に碑がもどっています。

梶原景季と佐々木高綱の宇治川先陣争いの場面を思い浮かべながら、このあたり歩いてみるのもいいんじゃないでしょうか。

朗読・解説:左大臣光永


■【古典・歴史】メールマガジン