平家物語 百五十一 千手前(せんじゆのまへ)

原文

兵衛佐(ひやうゑのすけ)、いそぎ見参(げんざん)して申されけるは、「抑(そもそも)君の御いきどほりをやすめ奉り、父の恥(はぢ)をきよめんと思ひたちしうへは、平家をほろぼさんの案の内に候へども、まさしく見参(げんざむ)にいるべしとは存ぜず候ひき。この定(ぢやう)では、八島(やしま)の大臣殿(おほいとの)の見参にも入りぬと覚え候。抑(そもそも)南都をほろぼさせ給ひける事は、故太政入道殿(こだいじやうにふだうどの)の仰せにて候ひしか、又時にとッての御(おん)ばからひにて候ひけるか。以(もつ)ての外(ほか)の罪業(ざいごふ)にてこそ候なれ」と申されければ、三(さん)位(みの)中(ちゆう) 将(しやう)宣(のたま)ひけるは、「まづ南都炎上(なんとえんしやう)の事、故入道の成敗(せいばい)にもあらず、重衡(しげひら)が愚(ぐ)意(い)の発起(ほつき)にもあらず。衆徒(しゆと)の悪行(あくぎやう)をしづめむがためにまかりむかッて候ひし程に、不慮に伽藍滅亡(がらんめつばう)に及び候ひし事、力及ばぬ次第なり。昔は源平左右(げんぺいさう)にあらそひて、朝家(てうか)の御(おん)かためたりしかども、近比(ちかごろ)は源氏の運かたぶきたりし事は、事あたらしう初めて申すべきにあらず。当家(たうけ)は保元平治(ほうげんへいぢ)より以来(このかた)、度々(どど)の朝敵をたひらげ、勧賞(けんじやう)身にあまり、かたじけなく一天の君の御外戚(ごぐわいせき)として、一族(いちぞく)の昇進(しようじん)六十余人、廿余年(にじふよねん)の以来(このかた)は、たのしみさかえ申すはかりなし。今又運つきぬれば、重衡とらはれて是(これ)まで下り候ひぬ。それについて、帝王の御かたきをうッたる者は、七代まで朝恩(てうおん)うせずと申す事は、きはめたるひが事(こと)にて候ひけり。まのあたり故入道は君の御(おん)ためにすでに命をうしなはんとすること度々(どど)に及ぶ。されどもまとか纔(わづ)かに其身一代の幸(さいはい)にて、子孫かやうにまかりなるべしや。されば運つきて都を出でし後(のち)は、かばねを山野(さんや)にさらし、名を西海の浪(なみ)にながすべしとこそ存ぜしか。これまでくだるべしとは、かけても思はざりき。唯先世(ぜんぜ)の宿業(しゆくごふ)こそ口惜(くちを)しう候へ。但(ただ)し、『殷湯(いんたう)は夏台(かたい)にとらはれ、文王は?里(いうり)にとらはる』と云ふ文(ふみもん)あり。上古(しやうこ)なほかくのごとし。況(いはん)や末代(まつだい)においてをや。弓矢をとるならひ、敵(かたき)の手にかかッて命を失う事、まッたく恥にて恥ならず。只芳恩(はうおん)には、とくとくかうべをはねらるべし」とて、其後(そののち)は物も宣(のたま)はず。景(かげ)時(とき)これを承って、「あッぱれ大将軍や」とて涙をながす。其座になみ居たる人々、みな袖をぞぬらしける。兵衛佐も、「平家を別して私(わたくし)のかたきと思ひ奉る事、ゆめゆめ候はず。ただ帝王の仰せこそ重う候へ」とぞ宣ひける。南都をほろぼしたる伽藍(がらん)のかたきなれば、大衆定めて申す旨あらんずらんとて、伊豆国住人狩野介宗茂(いづのくにのぢゆうにんかののすけむねもち)に預けらる。其体(そのてい)、冥途(めいど)にて娑婆世界(しやばせかい)の罪人(ざいにん)を、七日七日(なぬかなぬか)に十王の手にわたさるらんも、かくやとおぼえて哀れなり。

されども狩野介なさけある者にて、いたくきびしうもあたり奉らず。やうやうにいたはり、湯殿(ゆどの)しつらひなンどして、 御湯(おゆ)ひかせ奉る。道すがらの汗(あせ)いぶせかりつれば、身をきよめてうしなはんずるにこそと思はれけるに、よはひ廿(にじふ)ばかりなる女房の、色白(じろ)うきよげにて、まことに優(いう)にうつくしきが、目結(めゆひ)の帷(かたびら)に染付(そめつけ)の湯巻(ゆまき)して、湯殿の戸をおしあけて参りたり。又しばしあって、十四五ばかりなる女(め)の童(わらは)の、紺村濃(こむらご)のかたびら着て、かみはあこめだけなるが、楾盥(はんざふたらひ)に櫛(くし)いれてもッて参りたり。此女房介錯(かいしやく)してやや久しうあみ、髪(かみ)洗ひなンどしてあがり給ひぬ。さてかの女房暇(いとま)申してかへりけるが、「男(をとこ)なンどはこちなうもぞおぼしめす。なかなかをんなは苦しからじとて、参らせられてさぶらふ。『何事でもおぼしめさん御事をば承ッて申せ』とこそ兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)は仰せられ候ひつれ」。中将、「今は是程の身となッて、何事をか申し候べき。 ただ思ふ事とては出家ぞしたき」と宣ひければ、帰り参って 此よしを申す。兵衛佐、「それ思ひもよらず。頼朝(よりとも)が私のかたきならばこそ。朝敵としてあづかり奉(たてま)ッたる人なり。努々(ゆめゆめ)あるべうもなし」とぞ宣ひける。三位中将、守護の武士に宣ひけるは、「さても唯今の女房は優(いう)なりつる物かな。名をば何といふやらん」と問はれければ、「あれは手(て)越(ごし)の長者(ちやうじや)が娘で候を、みめ形(かたち)、心ざま、優にわりなき者で候とて、此二三年召しつかはれ候が、 名をば千手の前と申し候」とぞ申しける。

その夕(ゆふべ)雨すこしふッて、よろづものさびしかりけるに、件(くだん)の女房、 琵琶(びは)、琴(こと)もたせて参りたり。狩野介酒(しゆ)をすすめ奉る。我身も家子郎等(いへのこらうどう)十余人引具(ひきぐ)して参り、御(おん)まへちかう候ひけり。千手の前酌(しやく)をとる。三位中将すこしうけて、いと興(きよう)なげにて おはしけるを、狩野介申しけるは、「かつきこしめされてもや候らん。鎌倉殿の、『相構へてよくよくなぐさめ参らせよ。 懈怠(けだい)にて頼朝うらむな』と仰せられ候。宗茂(むねもち)はもと伊豆国(いづのくに)の者にて候間、鎌倉では旅にて候へども、心の及び候はんほどは、奉公仕り候べし。何事でも申して、すすめ参らッさせ給へ」と申しければ、千手前(せんじゆのまへ)酌(しやく)をさしおいて、「羅綺(らき)の重衣(ちようい)たる、情(なさけ)ない事を機婦(きふ)に妬(ねた)む」といふ朗詠(らうえい)を一両返(いちりようへん)したりければば、三位中将宣ひけるは、「此朗詠せん人をば、北野の天神 一日(いちにち)に三度かけッてまぼらんとちかはせ給ふなり。されども重衡(しげひら)は、此生(このしやう)にてはすてられ給ひぬ。助音(じよいん)しても何かせん。 罪障軽(ざいしやうかろ)みぬべき事ならばしたがふべし」と宣(のたま)ひければ、千手前(せんじゆのまへ)やがて、「十悪といへども引摂(いんぜふ)す」と云ふ朗詠をして、「極楽ねがはん人はみな、弥陀(みだ)の名号(みやうがう)唱ふべし」といふ今様(いまやう)を四五返うたひすましたりければ、其時盃(さかづき)をかたぶけらる。 千手前給はッて、狩野介にさす。宗茂がのむ時、琴をぞひきすましたりける。三位中将宣ひけるは、「此楽(このがく)をば普通には五常楽(ごしやうらく)といへども、重衡が為には、後生(ごしやう)楽(らく)とこそ観ずべけれ。やがて往生(わうじやう)の急(きふ)をひかん」とたはぶれて、琵琶をとり転手(てんじゆ)をねぢて、皇?(わうじやう)の急をぞひかれける。夜(よ)やうやうふけて、よろづ心のすむままに、「あら思はずや、あづまにもこれ程優(いう)なる人のありけるよ。何事にても今一声(ひとこゑ)」と宣ひければ、千手前又、「一樹の陰に宿りあひ、同じ流(ながれ)をむすぶも、みな是先世(ぜんぜ)のちぎり」と云ふ白拍子(しらびやうし)を、まことにおもしろくかぞへすましたりければ、中将も、「灯闇(ともしびくら)うしては数行虞氏(すかうぐし)が涙(なんだ)」。といふ朗詠をぞせられける。たとへば此朗詠の心は、昔もろこしに、漢高祖(かんのかうそ)と楚項羽(そのかうう)と位をあらそひて合戦する事七十二度、たたかひごとに項羽かちにけり。されどもつひには項羽 たたかひまけてほろびける時、騅(すい)といふ馬の、一日に千里をとぶに乗ッて、虞(ぐ)氏(し)と云ふ后(きさき)と共に逃げさらんとしけるに、馬いかが思ひけん、足をととのへてはたらかず。項羽涙(なみだ)をながいて、「わが威勢(ゐせい)すでにすたれたり。今はのがるべき方なし。敵(かたき)のおそふは事の数ならず、此后(このきさき)に別れなん事の悲しさよ」とて、夜(よ)もすがらなげきかなしみ給ひけり。灯闇(ともしびくら)うなりければ、心ぼそうて虞氏涙をながす。夜(よ)ふくるままに軍兵(ぐんぴやう)四面に時(とき)を作る。此心を橘相公(きつしやうこう)の賦(ふ)につくれるを、三位中将思ひ出でられたりしにや。いとやさしうぞ聞えける。

さる程に夜(よ)も明けければ、武士ども暇(いとま)申してまかりいづ。千手前(せんじゆのまへ)も帰りにけり。其朝兵衛佐(そのあさひやうゑのすけ)、折ふし持仏堂(ぢぶつだう)に法花経(ほけきやう)ようでおはしけるところへ、千手前参りたり。佐殿(すけどの)うちゑみ給ひて、千手に、「夜部(よべ)は中人(ちゆうじん)は面白うしたる物を」と宣へば、斎院次官親能(さいゐんのしくわんちかよし)、をりふし御前(ごぜん)に物書いて候ひけるが、「何事で候ひけるやらん」と申す。「あの平家の人々は、甲冑弓箭(かっちうきゆうせん)の外(ほか)は他事(たじ)なしとこそ日来(ひごろ)は思ひたれば、この三位中将の琵琶(びは)の撥音(ばちおと)、口ずさみ、夜もすがらたち聞いて候に、優(いう)にわりなき人にておはしけり」。親能申しけるは、「誰も夜部(よべ)承るべう候ひしが、折ふしいたはる事候ひて、承らず候。此後(こののち)は常にたち聞き候べし。平家はもとより代々(だいだい)の歌人才人達(かじんさいじんたち)で候なり。先年この人々を花にたとへ候ひしに、此三位中将をば牡丹(ぼたん)の花にたとへて候ひしぞかし」と申されければ、「誠に優なる人にてありけり」とて、琵琶の撥音、朗詠のやう、後(のち)までも有難(ありがた)き事にぞ宣(のたま)ひける。千手前はなかなかに物思(ものおもひ)のたねとやなりにけん。されば中将南都へわたされて、きられ給ひぬと聞えしかば、やがて様(さま)をかへ、こき墨染(すみぞめ)にやつれはて、信濃国善光寺(しなののくにぜんくわうじ)におこなひすまして、彼後世菩提(かのごせぼだい)をとぶらひ、わが身もつひに往生(わうじやう)の素懐(そくわい)をとげけるとぞきこえし。

現代語訳

兵間佐頼朝はさっそく対面して申された、「そもそも君の御怒りを鎮め申し、父の恥を雪ごうと思い立った以上、平家を滅ぼすのはたやすいことだと思っておりましたが、現実にこうしてお目にかかることになるとは思いませんでした。この調子では、八島の大臣(宗盛)殿にお目にかかることになるに違いないと思います。そもそも南都を滅ぼされたのは、故太政入道殿の命令であったのか、またはその時の状況を好転させるための計画であったのか。以ての外の罪業でござるぞ」と申されたところ、三位中将が言われたのは、「まず南都炎上の事、故入道殿の裁断ではなく、重衡の愚かな考えで思い立ったことでもありません。衆徒の悪行を懲らしめるために出向きましたが、思いがけず神社仏閣の消滅に至った事は私の力では止める事の出来なかった不慮の事故でございます。昔は源平がしかたなく争って朝廷をお守りしておりましたが、最近は源氏の運が傾いたことは、新たに初めて申し上げるまでもありません。当家は保元平治よりこのかた、たびたび朝敵をたいらげ、身に余るご褒美をいただき、忝(かたじけな)くも天皇の御外戚として、一族の昇進六十余人、二十余年の間の繁栄は言葉で言い表しようもありません。しかし、今は平家の運も尽きたので、重衡が捕らえられてここまで下って参りました。それにつけても、帝王の御敵を討った者は、七代まで朝恩失せずと申す事は、とんでもない嘘でありました。実際に故入道が君の御為(おんため)にほとんど命を失おうとしたことは数回に及びます。しかし纔かにその身一代の幸いだけで、子孫がこのようになるということがありましょうか。それゆえ運が尽きて都を出た後は、屍を山野にさらし、名は西海の海に流さねばと思っておりましたのに、ここまで下るとはいささかも思っておりませんでした。ただ先祖の悪行の報いが残念でございます。但し、『殷(いん)の湯王(とうおう)は夏台(かだい)に捕われ、文王は悠里(いうり)に捕われた』という古代の書き物があります。大昔の聖王迄このように捕えられることがあるのです。いわんや末代においてはなおさらの事でしょう。弓矢取の運命(さだめ)、敵の手にかかって命を失う事はまったく恥の様で恥ではございません。ただ恩を以て速やかに首を刎ねてください」と言って、その後は物もおっしゃらない。景時はこれをお聞きしてあっぱれな大将軍であることよ」といって涙を流した。その場に並んでいた人々も皆袖に涙を流した。兵衛佐頼朝も、「平家を特に私にとって敵と思ったことはけしてございません。ただ天皇の仰せこそが重いのです」とおっしゃった。南都を滅ぼした伽藍の敵なので、大衆はきっと申す事があるだろうと、伊豆国住人狩野介宗茂(いずのくにんのじゅうにんかののすけむねもち)にお預けになった。その有様は冥途で娑婆世界の罪人を、七日七日に十王の手に渡されるのも、こんな状況であろうかと思われて哀れであった。

そうはいっても狩野介は情けある者だったので、たいそう厳しくも当たらない。徐々に労り、湯殿を準備するなどして、お湯に入れ申しあげる。道中での汗がうっとうしかったので、身を清めてから殺そうとするのだなと思われたところ、年は二十歳ほどで、色は白く清潔な身なりをした、実に美しい女房が目結の帷子に染付の湯巻をして、湯殿の戸を開けて入って来た。又しばらくして、紺村濃(こむらご)のかたびらを着て、髪は腰のあたりまで伸ばしている、十四五ほどの童女が、楾盥(はんぞうたらい)に櫛を入れて持って来た。この女房は付き添って世話をし、少し長い間湯浴みをし、髪を洗ったりなどしてお上りになる。さてその女房はお別れの挨拶をして帰っていったが、「男などは無作法で不快にもお思いになるに違いない。かえって女ならさしつかえなかろうと、私が行かされました。『どんなことでも思っておられることをお聞きして報告せよ』と兵衛佐殿がおっしゃいました」。中将が、「今はこんな身になって何も申す事はありません。ただ出家したいだけです」とおっしゃると、帰って来て、この事を申す。兵衛佐は、「それは思いもよらぬ事だ。頼朝の個人の敵だったら考えても良いが、朝敵として預かり申した人だ。決してそのようなことがあってはならぬ」とおっしゃった。三位中将が、守護の武士におっしゃったのは、「それでも唯今の女房は美しかったな。名は何というのだろう」問われたところ、「あれは手越の長者の娘でございますが、見目形、心ざま、優雅ですばらしいので、この二三年召し使われていますが、名を千手(せんじゅ)の前と申します」と申した。

その夜は雨が少し降って、なにごとも物寂しく感じられる頃、件の女房が琵琶、琴を召し使いの者に持たせて中将の許にやって来た。狩野介が酒をお勧めする。自身も家子郎等十数人を連れて来て、中将の御前近くに控えた。千手の前が酌をする。三位中将は少し受けて、それほど興味もなさそうにしておられたが、狩野介が申したことには、「前もってお聞きでしょうが、鎌倉殿は、『しっかり気を配ってお慰め申しあげよ。いい加減に慰めてお咎めを受けて頼朝を恨むなよ』と言われました。宗茂(むねもち)はもと伊豆国の者で、鎌倉では旅先でありますが、思い付く限りは、御奉仕申し上げます。何なりと歌って御酒をお勧め申しなさい」と申したので、千手の前は酌をさしおいて、「羅綺(らき)の重衣(ちようい)たる、情(なさけ)ない事を機婦(きふ)に妬(ねた)む」という朗詠を一二遍歌ったので、三位中将がおっしゃったことには、「この朗詠をする人を、北野の天神が一日に三度空高く駆けて来て守ろうとお誓いになったという。されど重衡は、此の人生で棄てられ申した。二句目から歌ってもどうしようもない。罪が軽くなるというなら助音もしよう」とおっしゃると、千手前はやがて、「たとえ十悪を犯した者でも、阿弥陀仏は極楽浄土へ迎え取って下さいます」という朗詠をして、「極楽を願う人は皆、弥陀の名号を唱えなさい」という今様を四五遍心を澄まして歌わられたので、その時中将ははじめて盃を傾け酒を飲まれる。千手前は盃を頂いてそれを狩野介にさす。宗茂(むねもり)が飲む時、琴を弾き澄まされた。三位中将が言われるには、「この楽を普通には五常楽というが、重衡のためには、後生楽というのだと深く思い知ったぞ。すぐに極楽往生を急ごう」と戯れて、琵琶を取り、転手を捩じって、皇?(わうじやう)の急を弾かれた。夜は次第に更けて、何事も心の澄むままに、「ああ、考えもしなかった。東国にもこんな優雅な人があったのかと。どんな曲でもいいからもう一曲」とおっしゃると、千手前は又、「一樹の陰に宿りあい、同じ流れを結ぶも、みな是先世のちぎり」という白拍子を、たいそう面白く歌い澄ませると、中将も、「灯闇(ともしびくら)うしては数行虞氏(すかうぐし)が涙(なんだ)」という朗詠をなさった。詳しく説明すると、この朗詠の意味は、昔中国に、漢(かん)の高祖(こうそ)と楚(そ)の項羽(こうう)が位を争って合戦する事七十二回、戦いごとに項羽が勝った。しかし、最後には項羽が戦いに負けて滅びる時、騅(すい)という馬の一日に千里を飛ぶのに乗って、虞氏という后と共に逃げ去ろうとしたが、馬がどう思ったのか、足を揃えて動こうとしない。項羽は涙を流して、「私の威勢はもう廃れてしまった。いまとなっては逃れる術(すべ)もない。敵が襲ってくるのは問題ではないが、この后と別れるのは悲しいことだ」といって、一晩中歎き悲しまれた。暗くなってくると、心細くて虞氏は涙を流す。夜が更けて来るに従い敵の軍兵(ぐんぴやう)のあげる鬨の声が周囲に聞えてくる。

そうこうするうちに夜も明けたので、武士どもは別れを言って退出する。千手前も帰って行った。その翌朝、兵衛佐がたまたま持仏堂(じぶつどう)で法華経(ほけきょう)を読んでおられたところへ、千手前がやって来た。佐殿は笑われて、千手に、「昨夜はお前たちの粋な仲人をしたものよ」と言われると、斎院次官親能(さいいんじかんちかよし)がたまたま御前で何か書いていたが、「何事でございましょうか」と申す。佐殿は、「あの平家の人々は、戦いの事以外の事は考えてはいないと日頃思っていたが、この三位中将の琵琶の撥音や詩歌などを思いのままに朗詠するのを、一晩中立ち聞きしていたが、まことに優雅な人であられたよ」とおっしゃる。親能が言った事には、「私も昨夜うかがうはずでしたが、たまたま具合が悪く、うかがいませんでした。この後はいつも立ち聞き致しましょう。平家は元来代々歌人才人たちの集まりでございます。先年この人達を花に例えました時、この三位中将を牡丹の花に例えていましたよ」と申されたところ、「実に優雅な人であったことよ」といって、琵琶の撥音、朗詠の様子、後々までもめったにない事のように言われた。千手前はかえって重衡を思慕する気持のきっかけとなったのであろうか、中将が南都へ引き渡されて斬られたことを噂にお聞きになると、すぐさま剃髪して尼になり濃い墨染の衣に身をやつしきって、信濃国善光寺に身を置いて一心に修行し、重衡の後世の往生を祈念し、我身もついに極楽往生をしたという事であった。

朗読・解説:左大臣光永

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