平家物語 百五十ニ 横笛(よこぶえ)
平家物語巻第十より「横笛(よこぶえ)」。屋島の陣を出て高野入りした維盛は、旧知の滝口入道を訪ねる。滝口入道(斎藤時頼)が出家した背景には建礼門院の雑仕女、横笛との悲恋があった。
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前回「千手前」からのつづきです。
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あらすじ
小松中将維盛卿は、屋島にありながら都に残してきた妻子のことが気にかかっていたが、遂に死を決意し、家来三人と共に紀伊路へ向かう。
途中、妻子に会いたくなるが、生け捕りになって恥をさらすことを厭い、高野山へ参詣する。
さて高野に維盛と旧知の僧がいた。元は斎藤時頼(さいとうときより)という武士だったが、 建礼門院の雑仕女、横笛と恋仲だった。
しかし親に反対されたことを機に出家し、嵯峨の往生院にこもった。
横笛は滝口を探して往生院へ向かい、滝口のいる僧房をさがしあてた。
滝口は障子の隙間から横笛の姿を見て、心が揺らぐが、結局会わないで帰してしまう。
そして、またこんなことがあると決心が鈍るからと、高野の清浄心院に居を移したのだった。
こういうことがあって横笛も尼になり、奈良の法華寺にこもり、ついに亡くなってしまった。
横笛の死を伝え聞いた滝口はますます修行に励み、ついには「高野の聖」と呼ばれるようになった。
維盛は高野でこの滝口入道に再会した。俗世にいたときとは打って変わった濃き墨染姿を、うらやましいと思ったことだろう。
原文
さる程に、小松(こまつ)の三位中将維盛卿(さんみのちゆうじやうこれもりのきやう)は、身がらは八島(やしま)にありながら、心は都へかよはれけり。故郷(ふるさと)に留(とど)めおき給ひし北の方、をさなき人々の面影(おもかげ)のみ、身にたちそひて、忘るるひまもなかりければ、「あるにかひなきわが身かな」とて、 元暦元年(げんりやくぐわんねん)三月十五日の暁、しのびつつ八島の館(たち)をまぎれ出でて、与三兵衛重景(よさうびやうゑしげかげ)、石童丸(いしどうまる)と云ふ童(わらは)、船に心得たればとて武里(たけさと)と申す舎人(とねり)、是等(これら)三人を召し具して、阿波国結城(あはのくにゆふき)の浦より小船(こぶね)に乗り、鳴戸浦(なるとのうら)を漕ぎとほり、紀伊路(きのぢ)へおもむき給ひけり。和歌(わか)、吹上(ふきあげ)、衣通姫(そとほりひめ)の神とあらはれ給へる玉津島(たまつしま)の明神(みやうじん)、日前(にちぜん)、国懸(こくけん)の御前(おまへ)を過ぎて紀伊(き)の湊(みなと)にこそつき給へ。「是より山づたひに都へのぼッて、恋しき人々を今一度(いちど)見もし見えばやとは思へども、本三位中将(ほんざんみのちゆうじやう)の生取(いけどり)にせられて大路(おほち)をわたされ、京鎌倉、恥をさらすだに口惜しきに、此身さへとらはれて、父のかばねに血をあやさん事も心憂(こころう)し」とて、 千たび心はすすめども、心に心をからかひて、高野(かうや)の御山(おやま)に参られけり。
高野に年ごろ知り給へる聖(ひじり)あり。三条の斎藤左衛門大夫以頼(さいとうさゑもんのたいふもちより)が子に、斎藤滝口時頼(さいとうたきぐちときより)といひし者なり。もとは小松殿の侍(さぶらひ)なり。十三の年本所(ほんじよ)へ参りたりけるが、建礼門院(けんれいもんゐん)の雑仕横笛(ざふしよこぶえ)といふをんなあり。滝口是(これ)を最愛(さいあい)す。父是をつたへ聞いて、「世にあらん者のむこ子になして、出仕なんどをも心やすうせさせんとすれば、世になき者を思ひそめて」と、あながちにいさめければ、滝口申しけるは、「西王母(せいわうぼ)ときこえし人、昔はあッて今はなし。東方朔(とうほうさく)といッし者も、名をのみ聞きて目には見ず。老少不定(らうせうふぢやう)の世の中は、石火(せきくわ)の光にことならず。たとひ人長命(ひとちやうめい)といヘども、七十八十をば過ぎず。そのうちに身のさかむなる事は、わづかに廿余年なり。夢まぼろしの世の中に、みにくき者をかた時も見て何かせん。思はしき者を見むとすれば、父の命(めい)をそむくに似たり。是善知識(ぜんちしき)なり。しかじ、うき世を厭(いと)ひ、まことの道に入りなん」とて、十九のとしもとどりきッて、嵯峨(さが)の往生院(わうじやうゐん)におこなひすましてぞゐたりける。横笛これをつたへきいて、「われをこそすてめ、様(さま)をさへかへけむ事のうらめしさよ。たとひ世をばそむくとも、などかかくと知らせざらむ。人こそ心強(こころづよ)くとも、たづねて恨みむ」と思ひつつ、ある暮(くれ)がたに都を出でて、嵯峨の方へぞあくがれゆく。ころはきさらぎ十日(とをか)あまりの事なれば、梅津(うめづ)の里の春風に、よその匂(にほひ)もなつかしく、大井河(おほゐがは)の月影も霞(かすみ)にこめておぼろなり。一方(ひとかた)ならぬ哀れさも、誰(たれ)ゆゑとこそ思ひけめ。往生院とは聞きたれども、さだかにいづれの坊とも知らざれば、ここにやすらひかしこにたたずみ、たづねかぬるぞむざんなる。住みあらしたる僧坊に、念誦(ねんじゆ)の声しけり。滝口入道が声と聞きなして、「わらはこそ是(これ)までたづね参りたれ。様(さま)のかはりておはすらんをも、今一度(いちど)見奉らばや」と、具したりける女をもッていはせければ、滝口入道むねうちさわぎ、障子のひまよりのぞいてみれば、まことに尋ねかねたるけしきいたはしうおぼえて、いかなる道心者(だうしんじや)も心よわくなりぬべし。やがて人を出(いだ)して、「まッたく是にさる人なし。門(かど)たがへでぞあるらむ」とて、つひにあはでぞかへしける。横笛なさけなううらめしけれども、力なう涙をおさへて帰りけり。滝口入道、同宿(どうじゆく)の僧にあうて申しけるは、「是もよにしづかにて 念仏の障碍(しやうげ)は候はねども、あかで別れし女に此住(すま)ひを見えて候へば、たとひ一度は心強くとも、又もしたふ事あらば、心もはたらき候ひぬべし。暇(いとま)申して」とて、嵯峨をば出でて高野(かうや)へのぼり、清浄心院(しやうじやうしんゐん)にぞ居たりける。横笛も様(さま)をかへたるよし聞えしかば、滝口入道一首の歌を送りけり。
そるまではうらみしかどもあづさ弓まことの道にいるぞうれしき
横笛が返(かへり)ことには、
そるとてもなにかうらみむあづさ弓ひきとどむべきこころならねば
横笛はその思(おもひ)のつもりにや、奈良の法花寺(ほつけじ)にありけるが、いくほどもなくて、遂(つひ)にはかなくなりにけり。滝口入道、かやうの事を伝へ聞き、弥(いよいよ)ふかくおこなひすましてゐたりければ、父も不孝(ふけう)をゆるしけり。したしき者共もみな用ひて、高野の聖(ひじり)とぞ申しける。
三位中将、是に尋ねあひて見給へば、都に候ひし時は布衣(ほうい)に立烏帽子(たてえぼし)、衣文(えもん)をつくろひ、鬢(びん)をなで、花やかなりし男なり。出家の後は今日(けふ)はじめて見給ふに、未(いま)だ卅(さんじふ)にもならぬが 老僧姿にやせ衰へ、こき墨染(すみぞめ)に同じ袈裟(けさ)、思ひいれたる道心者、うらやましくや思はれけむ。晋(しん)の七賢(しちげん)、漢(かん)の四晧(しかう)がすみけむ商山(しやうざん)、竹林の有様も、是(これ)には過ぎじぞと見えし。
現代語訳
さて、小松三位中将維盛卿は、身体は八島にありながら、心は妻子のいる都との間を行きつ戻りつしていた。故郷に残しておかれた北の方や幼い子等の面影だけが維盛の身から離れず、忘れる事ができなかったので、「生きていても仕方のない我身であることよ」といって、元暦元年三月十五日の明け方、秘かに八島の館を抜け出して、与三兵衛重景(よさのひょうえしげかげ)、石童丸という少年、舟を漕ぐ心得のある武里(たけさと)と申す舎人(とねり)、これら三人を召し連れて、阿波国(あわのくに)結城(ゆうき)の浦から小舟に乗り、鳴門の浦を通り、紀伊路へ向われた。和歌、吹上、衣通姫(そとおりひめ)が神として現れられた玉津島の明神、日前(にちぜん)、国県(こくけん)両宮の前を過ぎて紀伊の湊へお着きになる。「ここから山伝いに都へ上って、恋しい人々にもう一度逢いたいと思うが、本三位中将が生け捕りにされて大路を引き回され、京・鎌倉で恥をさらしたのでさえ悔しいのに、この身までも捕われて死んだ父の名を辱めるのも情けない」といって、何度も何度も都へ行きたいという思いにかられたが、都へ行きたいという気持ちとそれを制する気持ちが争って結局高野のお山へおいでになった。
高野には長年の知り合いの聖がいた。三条の斎藤左衛門大夫以頼(さいとうさえもんのたいふもちより)の子で、斎藤滝口時頼という者である。もとは小松殿の侍である。十三の年に滝口の陣へ参ったが、建礼門院の雑仕に横笛という女がいて、滝口はこの女を寵愛した。父の以頼(もちより)はこれを人伝に聞き、「時めいている者の婿にして、出仕なども気安くさせようとしたが、身分の低い者に思いを寄せて残念だ」と、むきになって諫めたので、滝口が申したことには、「西王母と聞えた人も昔はおられましたが今はおられません。東方朔といった人も、名前だけは聞きますが目に見た事はございません。老人が先に死ぬか少年が先に死ぬかわからない世の中では、人の命は、火打石が放つ一瞬の光と違いは無く短いものです。たとえ、人は長生きだといっても、七十、八十を過ぎる事はありません。その中で身体が健康でいられるのは、纔かに二十余年に過ぎません。夢幻のはかない世の中に、気に染まない醜い女を片時でも妻としたとて何になりましょう。気に入った女性と連れ添おうとすると、父の命に背くことになります。これこそ仏道に入るよい機会です。辛い浮世を嫌って、真の仏道に入るにこしたことはございません」といって、十九の年に髻(もとどり)を切って出家し、嵯峨の往生院で仏道修行に励まれていた。横笛はこれを伝え聞いて、「自分を捨てるのはともかくとして、姿までも変えたという事がほんとに恨めしい。例え、世の中に背を向けるとも、どうしてこうしているのと知らせてくれないのだろうか、あの人が気は強くつれなくても、尋ねて行って恨み言を言おう」と思いながら、ある日の暮方に都を出て、嵯峨の方へふらふらと出て行った。頃は二月十日過ぎの事なので、梅津の里の春風にどこからともなく匂ってくる梅の匂いも懐かしく、大井川に映る月影も霞に籠って朧(おぼろ)である。尋常ではない恋い慕う思いも誰のためにと思ったのだろう。時頼のせいなのだ。往生院とは聞いていたがはっきりどこの坊とも知らないので、此処に立ち寄り、あそこに佇み、尋ねる事もできずにいるのは痛ましい事であった。そうこうするうちに、ある住み荒らした僧坊に、念仏を唱える声がした。滝口入道の声と聞き知って、「私がここまで尋ねて参りました。出家姿でおられるのを、もう一度拝見したいのです」と、連れて来た女を通して言わせたので、滝口入道は胸が高鳴って、襖の隙間から覗いて見ると、ほんとに尋ねかねた様子がいたわしく思えて、どんなに強い気持ちで仏道に励む者でも心が折れそうである。間もなく中から人を出して、「全くここにそんな人はおりません。お門違いでござろう」と言って、ついに会わずに帰してしまった。横笛は情けなく恨めしく思ったが、力なく涙を抑えて帰って行った。滝口入道が同宿の僧に会って申したことは、「ここもまったく静かで念仏を唱えるに障害はありませんが、嫌になったのではないのに別れた女にこの住いを見られましたので、たとえ一度は気強く追い返しても、再度慕ってくることがあれば、気持ちも動くことになりましょう。失礼をして」と言って、嵯峨を出て高野山へ上り、清浄心院(しょうじょうしんいん)に身を置いたのだった。横笛も出家したという噂を聞いたので、滝口入道は一首の歌を送った。
そるまではうらみしかどもあづさ弓まことの道にいるぞうれしき
(貴方が尼になるまでは私の事を恨んでいたが、その貴方も仏道に入ったと聞いてうれしい)
横笛の返事には、
そるとてもなにかうらみむあづさ弓ひきとどむべきこころならねば
(尼になったとはいっても何で貴方を恨みましょう。とても引き留めることのできるような貴方の決心ではないのですから)
横笛はその思いが積もったせいであろうか、奈良の法花寺(ほっけじ)にいたが、間もなく亡くなってしまった。滝口入道はこの話しを人伝に聞いて、ますます深く仏道修行に励んでいたので、父も不幸を許したのだった。親しい物共も皆滝口入道を尊敬して、高野の聖と申したのだった。
三位中将が滝口入道に会って御覧になると、都にいた時は布衣姿に立烏帽子を被り、衣服をきちんと着て、鬢を撫で、優美な男であった。出家後はきょう初めて御覧になられたが、まだ三十にもならない男が、老僧姿に痩せ衰え、濃い墨染に同じ袈裟を着て、深く仏の道に心を入れた修行者になっており、羨ましく思われたことであろう。普(しん)の七賢、漢の四晧(しこう)が住んだという商山(しょうざん)や竹林の有様も、これ以上ではあるまいと思われた。
語句
■八島 屋島。 ■元暦元年 寿永三年(1184)四月十六日、元暦と改元。 ■与三兵衛重景 父は与三左衛門景康で重盛に仕えた。 ■舎人 下人。 ■結城の浦 徳島県海部郡由岐町の海岸。ただし讃岐の屋島からわざわざ阿波を経て海に出た意味がわからない。 ■鳴門浦 鳴門海峡。 ■和歌、吹上 和歌の浦と吹上の浦。いずれも古歌に詠まれた名所。 ■衣通姫 允恭天皇の娘。肌が美しかったのでその輝きが衣の外から透けて見えたことから。 ■玉津島の明神 和歌の浦にある神社。稚日女命(わかひるめのみこと)を祀る。衣通姫を祀ると言い伝える。和歌の神として知られる。 ■日前、国懸 和歌山市秋山にある日前神宮・國懸神宮。 ■紀伊の湊 紀ノ川の河口。
■見もし見えばや 自分が妻子を見て、妻子に自分を見られようの意。会いたい気持の慣用表現。 ■父のかばねに血をあやさん 父の死骸に血をしたたらせる。死んだ父を辱めること。 ■心に心をからかひて 心に心を争わせて。上京して妻子に会いたい気持と、捕まるからそれはまずいという気持が維盛の中で争っている。 ■斉藤左衛門大夫以頼 藤原利仁の子孫。以成(疋田左衛門)の子、左衛門尉従五位下以頼。建永ニ年(1207)九月十日没、七十三歳(尊卑分脈)。 ■滝口 武者所の武士。武者所は宮中警護をつとめた北面の武士。定員は10-30名。清涼殿の北東、御溝水(みかわみず)が落ちるあたりの「滝口の陣」に詰所があった。 ■本所 武者所、滝口の陣。 ■雑仕 雑仕女。下女。 ■世にあらん者 しかるべき立派な家柄の相手。 ■むこ子 婿に同じ。 ■あながちに むきになって。ひどく。 ■西王母 中国の仙女。漢の武帝に三千年たって実る桃を献じたという(西王母伝、漢武帝内伝)。 ■東方朔 漢の武帝に伝えた仙術者(巻三【御産】)。 ■石火の光 石を打つときに出る火の光。一瞬で散ってしまうはかないもの(時間)のたとえ。「蝸牛角上何事ヲカ争フ、石火光中此身ヲ寄ス」(和漢朗詠集下・無常 白氏文集)。 ■善知識 人を仏道に導く高僧。 ■入りなん 「入りなんには」が本来の形。 ■十九のとし 養和元年(1181)十一月二十日法輪寺で出家、十八歳(吉記)。 ■往生院 京都市右京区嵯峨。平安時代末、法然の弟子良鎮による創建。二尊院の北。滝口寺・祇王寺はともに往生院の子院。 ■心強くとも 強情でも。滝口が横笛に対して冷淡でも、の意。 ■あくがれゆく さまよって行く。 ■梅津 右京区四条の末、桂川東岸。平安時代は貴族の別荘地であった。参考「夕されば門田の稲葉おとづれて 蘆のまろ屋に秋風ぞ吹く 大納言経信」(小倉百人一首七十一番 大納言経信)。梅津で詠まれた歌。 ■よその匂ひ どこからともなく漂ってくる梅の香。 ■大井川 大堰川。桂川の上流。 ■誰ゆゑ 参考「陸奥のしのぶもぢずりたれゆえに乱れそめにしわれならなくに」(小倉百人一首十四番 河原左大臣)。 ■念誦 心に仏を念じ、口に仏の御名や経文を唱えること。 ■同宿の僧 同じ僧坊に住む僧。 ■あかで別れし女 もっと一緒にいたいと、未練が残っている女。 ■清浄心院 高野山蓮華谷の宿坊。喜多坊。弘法大師の創建。 ■そるまでは 「そる」に「剃る」と「反る」を、「いる」に「入る」と「射る」をかける。これらは「梓弓」の縁語。天草本では横笛の歌とする。横笛の歌とみたほうが合点がいく。延慶本では横笛が自ら髪をそぎ、「剃ルマデハ浦見シ物ヲアヅサ弓誠ノ道ニイルゾウレシキ」とよむ。 ■そるとても… 前の歌と同じく、「そる」「いる」は「梓弓」の縁語。延慶本・天草本では時頼の歌とする。 ■法花寺 法華寺。奈良市法華寺町にある国分尼寺。藤原不比等の邸宅跡と伝わる。俊寛の娘もこの寺に入る(巻三「僧都死去」)。延慶本では東山清岸寺に住み、後桂河に入水。 ■用ひて 親類縁者も滝口入道時頼を尊重して。 ■布衣 六位の者が着る無文の狩衣。 ■衣文 衣の襟を胸で合わせたところ。転じて衣類。 ■鬢をなで 気取った態度。 ■思ひいれたる道心者 仏の道に深く心をいれた修行者。 ■七賢 竹林の七賢。中国晋代に、俗世間をのがれ竹林で清談にふけった阮籍はじめ七人。 ■四晧 商山の四晧。秦の始皇帝のとき、乱を避けて陝西省商山に隠棲した四人。四人とも眉が白かったため四晧という。
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