平家物語 百七十六 腰越(こしごえ)

原文

さる程に大臣殿(おほいとの)は九郎大夫(くらうたいふ)の判官(はうぐわん)に具せられて、七日(なぬか)のあかつき、粟田口(あはたぐち)を過ぎ給へば、大内山(おほうちやま)、雲井(くもゐ)のよそにへだたりぬ。関(せき)の清水(しみづ)を見給ひて、泣く泣くかうぞ詠(えい)じ給ひける。

都をばけふをかぎりのせきみづにまたあふさかのかげやうつさむ

道すがらもあまりに心ぼそげにおぼしければ、判官なさけある人にて、やうやうになぐさめ奉る。「あひかまへて今度の命をたすけてたべ」と宣(のたま)ひければ、「とほき国、はるかの島へもうつしぞ参らせ候(さうら)はんずらん。御命(おんいのち)うしなひ奉るまではよも候はじ。たとひさるとも、義経が勲功の賞に申しかへて、御命ばかりはたすけ参らせ候(さうらふ)べし。御心やすうおぼしめされ候へ」と、たのもしげに申されければ、「たとひ蝦夷(えぞ)が千島(ちしま)なりとも、かひなき命だにあらば」と宣ひけるこそろ口惜しけ れ。日数ふれば 同(おなじき)廿四日鎌倉へ下りつき給ふ。

梶原(かぢはら)さきだッて鎌倉殿に申しけるは、「日本国(につぽんごく)は今はのこる所なうしたがひ奉り候。ただし御弟九郎大夫判官殿(おんおとうとくらうたいふのはうぐわんどの)こそ、つひの御敵(おんかたき)とは見えさせ給ひ候へ。そのゆゑは、一(いち)をもッて万(ばん)を察(さつ)すとて、『一の谷をうへの山よりおとさずは、東西の木戸口やぶれがたし。いけどりも死にどりも義経にこそ見すべきに、物のようにもあひ給はぬ蒲殿(かばどの)の方へ見参(げんざん)に入るべき様やある。本三位中将殿(ほんざんみのちゆうじやうどの)こなたへたばじと候はば、義経参 ッて給はるべし』とて、すでにいくさいでき候はんとし候しを、景時(かげとき)が土肥(とひ)に心をあはせて、三位中将殿を土肥次郎(とひのじらう)に預けて後こそしづまり給ひて候ひしか」とかたり申しければ、鎌倉殿うちうなづいて、「今日(けふ)九郎が鎌倉へいるなるに、おのおの用意し給へ」と仰せられければ、大名小名(だいみやうせうみやう)はせあつまッて、ほどなく数千騎(すせんぎ)になりにけり。

金洗沢(かなあらひざは)に関(せき)すゑて、大臣殿父子(おほいとのふし)うけとり奉(たてまつ)ッて、判官をば腰越(こしごえ)へおッかへさる。鎌倉殿は随兵七重八重(ずいびやうななえやえ)にすゑおいて、我身はそのなかにおはしましながら、「九郎はすすどき男(をのこ)なれば、この畳(たたみ)の下(した)よりもはひ出でんずる者なり。ただし頼朝(よりとも)はせらるまじ」とぞ宣ひける。判官思はれけるは、「こぞの正月木曾義仲(きそよしなか)を追討せしよりこのかた、一の谷、壇の浦にいたるまで、命をすてて平家をせめおとし、内侍所(ないしどころ)、璽(しるし)の御箱(おんばこ)、事ゆゑなくかへしいれ奉り、大将軍父子(たいしやうぐんふし)いけどりにして、具してこれまでくだりたらんには、たとひいかなるふしぎありとも、一度はなどか対面なかるべき。凡(およ)そは九(く)国(こく)の惣追捕使(そうづいふくし)にもなされ、山陰(せんおん)、山陽(せんやう)、南海道、いづれにても預け、一方のかためともなされんずるとこそ思ひつるに、わづかに伊予国(いよのくに)ばかりを知行(ちぎやう)すべきよし仰せられて、鎌倉へだにも入れられぬこそ本意(ほい)なけれ。さればこは何事ぞ。日本国をしづむる事、義仲、義経がしわざにあらずや。たとへば同じ父が子で、先に生(むま)るるを兄とし、後に生(むま)るるを弟(おとと)とするばかりなり。誰(たれ)か天下を知らんに知らざるべき。あまッさへ今度見参(げんざん)をだにもとげずして、おひのぼせらるるこそ遺恨(ゐこん)の次第なれ。謝(じや)するところを知らず」とつぶやかれけれども、力(ちから)なし。まッたく不忠なきよし、たびたび起請文(きしやうもん)をもッて申されけれども、景時が讒言(ざんげん)によッて、鎌倉殿用(もち)ゐ給はねば、判官(はうぐわん)泣く泣く一通の状を書いて、広元(ひろもと)のもとへつかはす。

現代語訳

さて大臣殿は九郎判官に連れられて、七日の明け方、粟田口をお過ぎになると、皇居は空の彼方に隔たった。関の清水を御覧になって、泣く泣く次のように歌を詠まれた。

都をばけふをかぎりのせきみづにまたあふさかのかげやうつさむ
(都を今日を最後として旅立っていくが、再びこの逢坂に立ち返って関の清水に自分の影を写す事ができるだろうか)

道中でもあまりにも心細そうな様子だったので、判官は情けある人なので、あれこれとお慰めもうしあげた。「大臣殿が、「なんとか工夫して今度の命を助けて下さい」とおっしゃると、「遠い国か遥か遠くの島にお移し申すことでしょう。まさかお命をいただくまでの事はありますまい。たとえそうなったとしても、義経の勲功の賞に申し換えても、お命だけはお助け申します。安心しておられませ」と、頼もしそうに申されたので、「たとえ蝦夷(えぞ)の住む千島であっても、生きていても仕方のない命さえあれば都になるであろう」とおっしゃったのが情けない事であった。日数が経って同月二十四日に鎌倉へお着きになった。

梶原景時が義経の先回りして鎌倉殿に申すには、「わが国は今は残りなく従い申しております。ただし御弟九郎判官義経殿が最後の御敵となりましょう。その理由は、一事をもって万事を察すると言いますが、判官殿が、『一の谷を上の山から、攻め落とさなかったら、東西の木戸口を破るのは難しかった。だから捕虜にした者も、死んだ者も義経に見せるべきだったのに、役にも立たぬ蒲殿(かばどの)へお見せするという事があるか。本三位中将重衡卿殿をこちらへ渡さないということなら、義経が参って頂こう』と言って、いまにも戦が起りそうになりましたのを、景時が土肥と図って、三位中将殿を土肥次郎に預けましたのでようやく治まったのです」と申したところ、鎌倉殿は頷いて、「今日九郎が鎌倉に入るので、それぞれ用心なされよ」と言われると、大名・少名が駆せ集って、まもなく数千騎になった。

頼朝は、金洗沢(かなあらいざわ)に関所を設けて、大臣殿親子を受け取り申し、判官を腰越へ追い返された。鎌倉殿は随兵を七重八重(ずいびょうななえやえ)に取り囲ませて、自分はその中におられながら、「九郎は精悍な男なので、この畳の下からでも這い出ようとする者だ。しかし頼朝はそうはさせぬぞ」と言われた。判官が思われるには、「去年の正月に木曽義仲を追討して以来、一の谷、壇の浦に至るまで、命を捨てて平家を攻め落とし、内侍所(ないしどころ)、璽(しるし)の御箱(おんばこ)を何の問題もなく返し入れ申しあげ、大将軍親子を生け捕って、一緒にここまで下って来たからには、たとえどんな御不審があっても、一度ぐらいどうして対面なさらないのか。本来ならば九州の追捕使(ついほし)にもしてくださり、山陰、山陽、南海道、のいづれでも預けられ、ある一方の守備を任されるかと思っていたが、わずかに伊予国だけを知行すべしと仰せられただけで、鎌倉にさえ入れられないのは不本意なことだ。この仕打ちはいったいどういう事か。日本国を鎮めたのは義仲や義経の働きではないのか。言ってみれば、同じ父親の子でも先に生れた子を兄とし、後で生まれた者を弟にするというだけのことだ。天下を治めようとするなら、誰が治められない事があろうか。あまつさえ、今対面さえできないのに、私を追い払い都へ上らせられるのは全くうらめしいかぎりだ。どう謝ったらよいかわからないのだ」と呟かれたが、力がない。まったく不忠な気持ちは無い事を、たびたび起請文をもって申されたが、景時の讒言によって、鎌倉殿が取りあげられなかったので、判官は泣く泣く一通の手紙を書いて、広元のもとへ届けられた。

原文

源義経恐(みなもとのよしつねおそれ)ながら申し上げ候意趣者(は)、御代官(おんだいくわん)の其一(そのひと)つに撰(えら)ばれ、勅宣(ちよくせん)の御使(おんつかひ)として、朝敵(てうてき)をかたむけ、会稽(くわいけい)の恥辱(ちじよく)をすすぐ。勲賞(くんしやう)おこなはるべき処(ところ)に、思(おもひ)の外(ほか)に虎口(ここう)の讒言(ざんげん)によッて、莫太(ばくたい)の勲功を黙(もだ)せらる。義経をかしなうして咎(とが)をかうむる。功(こう)あつて誤(あやまり)なしといへども、御勘気(ごかんき)を蒙るあひだ、むなしく紅涙(こうるい)に沈む。讒者(ざんしや)の実否(じつぷ)をただされず、鎌倉中(かまくらぢゆう)へ入れられざる間、素意(そい)をのぶるにあたはず、いたづらに数日(すじつ)をおくる。此時にあたッて、ながく恩顔(おんがん)を拝し奉らず、骨肉同胞(こつにくどうはう)の義すでにたえ、宿運きはめてむなしきににたる歟(か)。將又先世(はたまたぜんぜ)の業因(ごふいん)の感ずる歟(か)。悲しき哉(かな)、此条(このでう)、故亡父尊霊再誕(こぼうぶそんりやうさいたん)し給はずは、誰(たれ)の人か愚意(ぐい)の悲歎(ひたん)を申しひらかん。いづれの人か哀憐(あいれん)をたれられんや。事あたらしき申状(まうしじやう)、述懐(しゆつくわい)に似たりといへども、義経身体髪膚(しんたいはつぷ)を父母(ふぼ)にうけて、いくばくの時節をへず、故頭殿(こかうのとの)御他界の間、みなし子(ご)となり、母の懐(ふところ)のうちにいだかれて、大和国宇多郡(やまとのくにうだのこほり)におもむきしよりこのかた、いまだ一日片時安堵(いちにちへんしあんど)の思(おもひ)に住(ぢゆう)せず。甲斐(かひ)なき命は存すといへども、京都の経廻難治(けいくわいなんぢ)の間、身を在々所々にかくし、辺土遠国(へんどゑんごく)をすみかとして、土民百姓等(どみんはくせいら)に服仕(ぶくじ)せらる。しかれども高慶(こうけい)たちまちに純熟(じゆんじゆく)して、平家の一族追討(いちぞくついたう)のために上洛(しやうらく)せしむる手あはせに、木曾義仲を誅戮(ちゆうりく)の後、平氏(へいじ)をかたむけんがために、或時(あるとき)は峨峨(がが)たる厳石(がんぜき)に、駿馬(しゆんめ)に鞭(むち)うッて、敵(かたき)の為(ため)に命をほろぼさん事を顧(かえりみ)ず、或時は漫々(まんまん)たる大海(だいかい)に、風波の難(なん)をしのぎ、海底に沈まん事をいたまずして、かばねを鯨鯢(けいげい)の鰓(あざと)にかく。しかのみならず、甲冑(かつちう)を枕とし、弓箭(きゆうせん)を業(げふ)とする本意(ほい)、しかしながら亡魂(ばうこん)のいきどほりをやすめ奉り、年来(ねんらい)の宿望(しゆくばう)をとげんと欲(ほつ)する外他事(ほかたじ)なし。あまッさへ義経五位尉(ごいのじよう)に補任(ふにん)の条、当家の重職(ちようじよく)、何事かこれにしかん。しかりといへども、今愁(うれへ)ふかく歎切(なげきせつ)なり。仏神(ぶつじん)の御(おん)たすけにあらずより外(ほか)は、争(いか)でか愁訴(しうそ)を達せん。これによッて諸神諸社(しよじんしよしや)の牛王宝印(ごわうほういん)のうらをもッて、野心(やしん)を挿(さしはさ)まざるむね、日本国中(につぽんこくちゆう)の大小の神祇冥道(じんぎみやうだう)を請(しやう)じ驚かし奉(たてま)ッて、数通(すつう)の起請文(きしやうもん)を書き進ずといへども、猶(なほ)以て御宥免(ごいうめん)なし。我国(わがくに)は神国なり。神は非礼(ひれい)を享(う)け給ふべからず。憑(たのむ)ところ他(た)にあらず、ひとへに貴殿広大(きでんくわうだい)の慈悲(じひ)を仰ぐ。便宜(べんぎ)をうかがひ、高聞(かうぶん)に達せしめ、秘計(ひけい)をめぐらし、あやまりなきよしを宥(いう)ぜられ、放免(はうめん)にあづからば、積善(しやくぜん)の余慶家門(よけいかもん)に及び、栄花をながく子孫につたへん。仍(よつ)て年来(ねんらい)の愁眉(しうび)を開き一期(いちご)の安寧(あんねい)をえん。書紙(しよし) につくさず、併(しか)しながら令省略(せしめせいりやく)候ひ畢(をは)んぬ。義経恐惶謹言(きやうくわうつつしんでまうす)。
元暦(げんりやく)二年六月五日(いつかのひ)                                  源義経(みなもとのよしつね)
進上因幡守殿(しんじやういなばのかうのどの)へ
とぞ書かれたる。

現代語訳

源義経が恐れながら申し上げます趣旨は、義経は鎌倉殿の御代官の一人に選ばれ、勅撰の追討使として、朝敵を滅ぼし、父祖の恥辱をすすぎましうた。この事で勲章が行われるべきところ、思いもよらぬ恐ろしい中傷の言葉によって、莫大な勲功を黙殺され、何の罪も無いのに処罰を受けました。勲功はあっても何の過失もないのにもかかわらず、ご勘気を蒙りましたので、空しく悲嘆の涙にかきぬれております。讒言者の言葉の真為も確かめられず、鎌倉の中へ入れてもらえもしないので、私の本心を申し上げる事もできず、いたずらに数日を送りました。この期に及んでも、長い間いつくしみ深い顔を拝し申し上げられず、骨と肉を分け合った血のつながりのある兄弟としてのよしみはすでに絶え、此の世に兄弟として生まれる事に前世から決まっていた運命が、空しくなっていしまったのかとも思われます。それとも、前世の悪行の報いを我身に受けているのでしょうか。悲しい事です。この事は、亡き父の霊がこの世に生まれ変わって来られぬ限りは、誰が私の心の悲しみを弁明してくれるでしょうか。又誰が同情してくれるでしょうか。今さら改まって愚痴を述べるようですが、母の懐に抱かれて大和国宇多郡に赴いて以来、いまだ一日片時たりとも、心が休まった事はありません。ふがいない命を保っているとはいえ、京都を出歩くことが困難だったので、あちらこちらに身を隠し、僻地や遠国を住み家として地方の農民たちに召し使われました。けれども機が熟し幸運がたちまちに巡って来て、平家一族追討の為に上洛せしぬる最初の合戦で、木曽義仲を亡ぼした後、平氏を滅ぼすために或時はけわしく聳えたった岩山を駿馬に鞭打って疾駆し、敵の為に命を奪われる事を顧みず、或時は、漫々と水を湛えた大海で、荒い風や波を犯して漕ぎ渡り、海底に沈むことも厭わず、死骸を大魚に食われる覚悟で行動しました。それだけではなく甲冑を枕として野山に臥し、弓矢を持つことを本業とする武士としての本心、そっくりそのまま亡魂の憤りを休め申し上げ、年来の平家追討の宿願を遂げようとする他に願いはありません。あまつさえ義経が五位尉に任命されたという事は当家にとっての重職で何事が是に勝りましょうか。しかしながら、今、私は、愁いは深く歎きは切実でございます。仏神のご加護による以外は、どうして私の嘆願をお耳に入れる事ができましょうか。これによって諸神・諸社の厄除けの護符をもって、まったく野心はない旨、日本国中の大小の神々や霊界の仏たちの来臨をお願いし、真実を訴え、数通の起請文を書き送っても、猶以て御許しがありません。我国は神の国であります。神は非礼をお受けにはなりません。お頼みすることは外にはございません、ひとえに貴殿の広大なお慈悲を仰ぐばかりです。良い機会を探して、兄頼朝のお耳に入れ、秘かな手立てをめぐらせて、誤りがない事を聞き届けられ、お許しをいただけたならば、善行を積み重ねた家に、その善い報いが一門の人々の上に及び、栄花を長く子孫に伝えることになるでしょう。これによって長年の私の心配事も無くなり、一生の安らぎを得られるでしょう。紙の上に書き尽くせず、他のすべてを省略致しました。義経が謹んで申し上げます。
元暦二年六月五日
源義経
進上 因幡守殿(大江広元)へ
とお書きになった。

朗読・解説:左大臣光永