平家物語 百七十七 大臣殿被斬(おほいとのきられ)

平家物語巻第十一より「大臣殿被斬(おほいとのきられ)」。壇ノ浦合戦で生け捕りになった平家の総帥、平宗盛は鎌倉で源頼朝と面会し、その後、京に帰る途中、近江の篠原で処刑されます。

↓↓↓音声が再生されます↓↓

https://roudokus.com/mp3/HK177.mp3

前回「腰越(こしごえ)」からのつづきです。
https://roudokus.com/Heike/HK176.html

あらすじ

鎌倉殿(源頼朝)と大臣殿(平宗盛)の対面が行われる。頼朝は平家に恨みを持たず、宗盛と対面できた喜びを語る。

宗盛はかしこまりの言葉を述べた。それを見て情けなく思う者もあれば、哀れに思う者もあった。

義経は鎌倉に入れられるようたびたび陳情したが、梶原景時の讒言によって、頼朝は返事をしなかった。頼朝は義経に、宗盛を護送して速やかに京へ上るよう指示した。

大臣殿親子は鎌倉を出発し、都へ帰る道中で処刑の日が迫ることに不安を感じつつも、尾張国内海(源義朝が処刑された場所)を通り過ぎ、近江国篠原の宿に到達した。

判官(義経)は宗盛を安心させようと聖(僧侶)を招き、念仏を勧めた。昨日までは親子で一所にいたが、引き離されたので宗盛は心細く思う。

聖は宗盛に戒をさずげ、仏典の言葉などを引用しながら宗盛を励まし落ち着かせる。

橘右馬允公長(きつううまのじょうきんなが)が刀を抜いて宗盛に迫ると、宗盛は右衛門尉(清宗)はすでに斬られたかと心配する。公長はうしろへ寄って、宗盛の首をはねた。

その後、右衛門督(清宗)にも聖が戒をさずけ、今度は堀弥太郎が斬った。

同月二十三日、大臣殿親子の首は都へ持ち帰られ、大路を渡して獄門で首を晒された。三位以上の者の首を大路に渡して獄門にかけることは先例がなく、平家が初めてこのような運命を辿った。

宗盛は生きて六条を引き回され、死んで三条を引き回され、大変な恥辱に晒された。

無料ダウンロード

■学生時代、歴史の授業はさっぱり面白くなかった
■しかし大人になってから歴史に興味がわいてきた

という方のための歴史解説音声です。
https://history.kaisetsuvoice.com/DL/

「仏教の伝来」「清少納言と紫式部」など、58の日本史の名場面を、一回10分程度でわかりやすく語っています。

3日間のみ、無料でダウンロードしていただけます。
↓↓
https://history.kaisetsuvoice.com/DL/

原文

さる程に、鎌倉殿、大臣殿に対面あり。おはしける所、庭を一つへだてて、むかへなる屋にすゑ奉り、簾(すだれ)のうちより見いだし、比企藤四郎能員(ひきのとうしらうよしかず)を使者で申されけるは、「平家の人人に別(べち)の意趣思ひ奉る事、努々候(ゆめゆめさうら)はず。其上池殿(そのうへいけどの) の尼御前(あまごぜん)いかに申し給ふとも、故入道殿(こにふだうどの)の御(おん)ゆるされ候はずは、頼朝(よりとも)いかでかたすかり候(さうらふ)べき。流罪(るざい)になだめられし事、ひとへに入道殿の御恩(ごおん)なり。されば廿余年までさてこそ罷(まか)り過ぎ候ひしかども、朝敵となり給ひて、追討(ついたう)すべき由(よし)、院宣(ゐんぜん)を給はる間、さのみ王地(わうぢ)にはらまれて、詔命(ぜうめい)をそむくべきにもあらねば、 力不及(ちからおよばず)。か様(やう)に見参(げんざん)に入り候ひぬるこそ本意(ほんい)に候へ」と申されければ、能員(よしかず)この由申さんとて、御(おん)まへに参りたりければ、ゐなほり畏(かしこま)り給ひけるこそうたてけれ。国々の大名小名(だいみやうせうみやう)なみゐたる其(その)なかに、京の者どもいくらもあり、平家の家人(けにん)たりし者もあり。みなつまはじきをして申しけるは、「ゐなほり畏り給ひたらば、御命(おんいのち)のたすかり給ふべきか。西国(さいこく)でいかにもなり給ふべき人の、いきながらとらはれて、これまでくだり給ふこそ理(ことわり)なれ」とぞ申しける。或(あるい)は涙をながす人もあり。其なかにある人の申しけるは、「『猛虎(もうこ)深山にある時は、百獣(はくじう)ふるひおづ。檻穽(かんせい)のうちにあるに及ンで、尾を動かして食(じき)をもとむ』とて、猛(たけ)い虎(とら)のふかい山にある時は、百(もも)の獣(けだもの)おぢおそるといへども、とッて檻(おり)のなかにこめられぬる時は、尾をふッて人にむかふらんやうに、いかにたけき大将軍(たいしやうぐん)なれども、か様(やう)になッて後(のち)は心かはる事なれば、大臣殿もかくおはするにこそ」と申しける人もありけるとかや。

さる程に、九郎大夫判官(くらうたいふのはうぐわん)やうやうに陳じ申されけれども、景時(かげとき)が讒言(ざんげん)によッて、鎌倉殿さらに分明(ふんみやう)の御返事もなし。「いそぎのぼらるべし」と仰せられければ、同(おなじき)六月九日(ここのかのひ)、 大臣殿父子具し奉(たてま)ッて、都へぞかへりのぼられける。大臣殿は今すこしも日数(ひかず)ののぶるをうれしき事に思はれけり。道すがらも、「ここにてや、ここにてや」とおぼしけれども、 国々宿々(くにぐにしゆくしゆく)うち過ぎうち過ぎとほりぬ。尾張国内海(おはりのくにうつみ)といふ処(ところ)あり。ここは故左馬頭義朝(こさまのかみよしとも)が誅(ちゆう)せられし所なれば、これにてぞ一定(いちぢやう)と思はれけれども、それをも過ぎしかば、大臣殿すこしたのもしき心いできて、「さては命のいきんずるやらん」と宣ひけるこそはかなけれ。右衛門督(うゑもんのかみ)は、「なじかは命をいくべき。か様(やう)にあつきころなれば、頸(くび)の損ぜぬ様(やう)にはからひて、京ちかうなッてきらんずるにこそ」と思はれけれども、大臣殿のいたく心ぼそげにおぼしたるが心苦しさに、さは申されず、ただ念仏をのみぞ申し給ふ。

現代語訳

さて、鎌倉殿は、大臣殿と対面なさった。頼朝のおられた所から、庭一つを隔てた、向いの屋に留め申して、簾の内から見て、比企藤四郎能員(ひきのとうしろうよしかず)を使者に立てて申されるには、「平家の人々に特別な恨みを申し上げる事は、決してございません。その上池殿の尼御前がどのように申して庇われようとも、故入道殿の御許しがなければ、どうして助かる事ができたでしょう。死罪を免れて、流罪に減刑された事、ひとえに入道殿の御恩でございます。それで二十余年までそのままこの関東で過ごしておりましたが、平家が朝敵となったことで、追討すべしという院宣を給わりましたので、主上の治め給ふ王地に生れた身としては、そうむやみに勅命に背くわけには参りませんので、どうしようもございません。このように対面できた事が、せめても満足とするところです」と、申されたところ、能員はこの事を大臣殿に申し伝えようとして御前に参ったところ、大臣殿が、居直り、畏まって聞かれたのは全く情けない事であった。国々の大名・小名が並んで座っているその中には、京の住民供が何人もいた。又、平家の家人だった者もいた。皆が爪はじきをして申すには、「居直って畏まったなら、御命は助かるのだろうか。西国で亡くなるはずの人が、捕虜になって、ここまでお下りになったのは道理である」と申した。或いは涙を流す人もいる。その中のある人が申すには、『猛虎が山奥にいる時は、百獣が震え恐れるが、檻の中にいたり、落とし穴に落ちると、尾を振って食い物を欲しがる』というように、猛獣の虎が深い山の中にいる時は、百の獣が怖気付き畏れるといっても、捕えられて檻の中に閉じ籠められた時は、尾を振って人に対するというように、どんなに勇猛な大将軍といえども、このようになった後は、その心も変るので、大臣殿もこのようにしておられるに違いない」と申した人もあったという。

さて、九郎大夫判官は様々に申したてられたが、景時の讒言によって、鎌倉殿はまったくはっきりした返事をなさらない。「急いで上りなさい」と仰せられたので、同年六月九日に大臣殿親子をお連れ申して、都へ帰って行かれた。大臣殿は今少しでも処刑の日が延びるのを嬉しく思われた。道すがらでも、「此処で殺されるのか、此処が死に場所か」と何度も思われたが国々や宿々を何度も通り過ぎた。尾張の国内海という所がある。ここは左馬頭義朝が斬られた所なので、ここが間違いない死に場所かと思われたが、それも通り過ぎたので、大臣殿は少し将来に希望を持つ心が出て、「さては生き延びれるかも」と言われたのはまことに浅はかで哀れである。右衛門尉は、「どうして命長らえられるものか。こんなに熱い時期なので、首が痛まないように計らって、京都近くになってから斬ろうとしているのだろう」と思われたが、大臣殿がたいそう心細そうになさっているのを見る心苦しさに。そうは申されず、ただ念仏だけ唱えておられる。

原文

日数(ひかず)ふれば都もちかづきて、近江国篠原(あふみのくにしのはら)の宿(しゆく)につき給ひぬ。判官なさけふかき人なれば、三日路(みつかぢ)より人を先だてて、善知識(ぜんちしき)のために、大原の本性房湛豪(ほんじやうばうたんがう)といふ聖(ひじり)を請(しよう)じ下されたり。 昨日(きのふ)までは親子一所(おやこいつしよ)におはしけるを、今朝(けさ)よりひきはなッて、別(べち)の所にすゑ奉(たてまつ)りければ、「さては今日(けふ)を最後にてあるやらん」と、いとど心ぼそうぞ思はれける。大臣殿涙をはらはらとながいて、「そもそも右衛門督はいづくに候やらん。手をとりくんでも終(をは)り、たとひ頸(くび)はおつとも、むくろは一(ひと)つ席(むしろ)にふさんとこそ思ひつるに、いきながらわかれぬる事こそかなしけれ。十七年が間、一日片時(いちにちへんし)もはなるる事なし。海底に沈まで、うき名をながすも、あれゆゑなり」とて泣かれければ、 聖(ひじり)もあはれに思ひけれども、我さへ心よわくてはかなはじと思ひて、涙おしのごひ、さらぬていにもてないて申しけるは、「いまはとかくおぼしめすべからず。最後の御有様(おんありさま)を御覧ぜむにつけても、たがひの御心のうちかなしかるべし。生(しやう)をうけさせ給ひてよりこのかた、たのしみさかへ、昔もたぐひすくなし。御門(みかど)の御外戚(ごぐわいせき)にて丞相(しようじやう)の位にいたらせ給へり。今生(こんじやう)の御栄花一事(ごえいぐわいちじ)ものこるところなし。いま又かかる御目(おんめ)にあはせ給ふも、先世(ぜんぜ)の宿業(しゆくごふ)なり。世をも人をも恨みおぼしめすべからず。大梵王宮(だいぼんわうぐう)の深禅定(じんぜんぢやう)のたのしみ、思へば程なし。いはんや電光朝露(でんくわうてうろ)の下界(げかい)の命においてをや。刀利天(たうりてん)の億千歳(おくせんざい)、ただ夢のごとし。卅九年をすぐさせ給ひけむも、わづかに一時(いちじ)の間なり。誰(たれ)か嘗(な)めたりし、不老不死の薬。誰かたもちたりし、東父西母(とうぶせいぼ)が命。秦(しん)の始皇(しくわう)の奢(おごり)をきはめしも、遂(つひ)に驪山(りさん)の墓(つか)にうづもれ、漢(かん)の武帝(ぶてい)の命を惜しみ給ひしも、むなしく杜陵(とりよう)の苔(こけ)にくちにき。『生(しやう)あるものは必ず滅す。釈尊(しやくそん)いまだ栴檀(せんだん)の煙(けぶり)をまぬかれ給はず。楽しみ尽きて悲しみ来る、天人尚五衰(てんにんなをごすい)の日にあへり』とこそ承れ。されば仏は、『我心自空(がしんじくう)、罪福無主(ざいふくむしゆ)、観心無心(くわんじんんむしん)、法不住法(ほふぶぢゆうほふ)』とて、善も悪も空(くう)なりと観(くわん)ずるが、まさしく仏の御心(おんこころ)にあひかなふ事にて候なり。いかなれば、弥陀如来(みだによらい)は、五劫(ごこふ)が間思惟(しゆい)して発(おこ)しがたき願を発(おこ)しましますに、いかなる我等なれば、億億万劫(おくおくまんこふ)が間、生死(しやうじ)に輪廻(りんゑ)し、宝(たから)の山に入ッて手を空(むな)しうせん事、恨(うらみ)のなかの恨、愚(おろか)かなるなかの口惜(くちを)しい事に候はずや。ゆめゆめ余念(よねん)をおぼしめすべからず」とて、戒(かい)たもたせ参り、念仏すすめ申す。大臣殿(おほいとの)しかるべき善知識(ぜんちしき)かなとおぼしめし、忽(たちま)ちに妄念翻(まうねんひるがへ)して、西にむかひ手をあはせ、高声(かうしやう)に念仏し給ふところに、橘右馬允公長(きつうまのじようきんなが)、太刀をひきそばめて、左のかたより御(おん)うしろに立ちまはり、すでにきり奉らんとしければ、大臣殿念仏をとどめて、「右衛門督(うゑもんのかみ)もすでにか」と宣(のたま)ひけるこそ哀れなれ。公長うしろへ寄るかと見えしかば、頸(くび)はまへにぞ落ちにける。 善知識の聖(ひじり)も涙に咽(むせ)び給ひけり。たけきもののふも、争(いか)でかあはれと思はざるべき。ましてかの公長は、平家重代(ぢゆうだい)の家人(けにん) 、新中納言(しんぢゆうなごん)のもとに朝夕祗候(あさゆふしこう)の侍(さぶらひ)なり。「さこそ世をへつらふといひながら、無下(むげ)になさけなかりける者かな」とぞ、みな人慚愧(ざんぎ)しける。

現代語訳

こうして日数も経ち、都も近づいて、近江国篠原の宿にお着きになった。判官は情け深い人なので、都へ三日程の行程ぐらいの所から、人を都へ先立たせて、仏道・悟りに導き入れようと、大原の本性坊湛豪(ほんじょうぼうたんごう)という聖を招き下しておられた。昨日までは親子は同じ所に居られたが、今朝からは引き離して別々に据え置かれたので「さては、今日が最後になるのであろう」と、とても心細く思われた。大臣殿は涙をはらはらと流して、「いったい右衛門尉はどこにいるのでしょう。手を繋ぎあって終焉を迎え、たとえ首は落ちても、骸(むくろ)は同じ筵の上で伏そうと思っていたが、生きながら別れた事は悲しい事だ。十七年の間、一日片時でも離れた事は無い。海底に沈みもせず、汚名を流すのも、あれゆえである」と言って泣かれたので、聖も哀れに思ったが、自分が心弱くしていては仕方ないと思って、涙を拭い、何気ない風を装って申すには、「いまはいろいろ思いをめぐらされるべきではございません。最後の御様子を御覧になるにつけても、互いの御心の内で悲しく思われるでしょう。貴方は此の世に生を受けて以来、楽しみを多く持ち栄えて来られて、昔も例は少ないのです。帝の御外戚として大臣の位にまで上られました。この世の栄華は一つも残るところはありません。今又こんな目に遭われるのも前世からの宿業でございます。世間をも人をも恨みに思われてはなりません。大梵天が、その宮殿で深い瞑想の境地に入られる楽しみも考えてみると短い時間でございます。まして稲妻や朝露のように短くはかない人間界の命においては言うまでもありません。刀利天で億千歳も長寿を保てると言いますが、それもただ夢のようにはかないものでございます。三十九年を過ごされましたが、それもわずかに一時の間なのです。誰が不老不死の薬を舐めたのでしょう。誰が東父西母の命を保ち事がっできたのでしょう。秦の始皇帝が驕りを窮めましたが、最後には驪山(りさん)の墓(つか)に埋もれ、漢の武帝は命を惜しんで長生きを望まれましたが、むなしく杜陵(とりよう)の苔(こけ)に朽ちてしまいました。『生ある者は必ず滅す、釈尊でもまだ栴檀(せんだん)をもって火葬にされる事から免れられません。楽しみ尽きて悲しみ来る、天人もやはり五衰の日にあうのだ」と承っている。だから仏は、『我心時空(がしんじくう)、罪福無主(ざいふくむしゅ)、観心無心(かんじんむしん)、法不住法(ほうぶじゅうほう)』といって善も悪も空なりと見ておられるが、まさしく仏の御心に叶う事なのです。どういうわけで阿弥陀如来は、五劫(ごこう)という長い間、思い考えて衆生を救おうというこの上ない大願を起しておられるのに、我々がどんな人間だというので、億々万劫の間、生死を繰り返して生れ変り、人間に生れながら、仏教に会えず、悟りを開くことができないのは、恨みの中の恨み、愚かな事の中の悔しい事ではありませんか。決して往生を願う以外他の事をお考えになってはいけません」と言って、戒をお授け申し上げ、念仏を勧め申す。大臣殿はいかにもふさわしい禅知識だとお思いになり、忽ち妄念を翻して、西に向い手を合わせ、声高に念仏をなさっているところに、橘右馬允公長(きつううまのじょうきんなが)が太刀を引きつけ横たえて、左の方から御後ろに立ち回って、お斬り申しあげようとしたところ、大臣殿は念仏を止めて、「右衛門尉ももう斬られたか」と言われたのは哀れである。公長が後ろへ近寄ったと見えたが、首は前に落ちた。禅知識の聖も涙に咽ばれた。勇猛な武士もどうして哀れと思わない事があろうか。ましてこの公長は、平家に何代も仕えた家人であり、新中納言(知盛)の所に朝夕伺候していた侍である。「いくら世にへつらうと言いながら、全く情けないものだな」と、人は皆恥ずかしく思った。

原文

其後右衛門督をも、聖前(さき)のごとくに戒(かい)たもたせ奉り、念仏すすめ申す。「大臣殿の最後、いかがおはしましつる」と問はれけるこそいとほしけれ。「目出たうましまし候ひつるなり。御心(おんこころ)やすうおぼしめされ候へ」と申されければ、涙をながし悦びて、「今は思ふ事なし。さらばとう」とぞ宣ひける。今度は堀弥太郎(ほりのやたらう)きッてンげり。頸をば判官もたせて都へいる。 むくろをば公長が沙汰(さた)として、親子(おやこ)一つ穴にぞうづみける。さしも罪ふかくはなれがたく宣ひければ、かやうにしてんげり。
同廿三日(おなじきにじふさんにち)、大臣殿父子のかうべ都へいる。検非違使(けびいし)ども、三条河原(さんでうかはら)に出で向ッてこれをうけとり、大路(おほぢ)をわたして、左の獄門の樗(あふち)の木にぞかけたりける。昔より三位以上の人の頸、大路をわたして獄門にかけらるる事、異国には其例(そのれい)もやあるらん、吾朝(わがてう)にはいまだ先蹤(せんじよう)を聞かず。されば平治(へいぢ)に信頼(のぶより)はさばかりの悪行人(あくぎやうにん)たりしかば、かうべをばはねられたりしかども、獄門にはかけられず。平家にとッてぞかけられける。西国(さいこく)よりのぼッては、いきて六条を東(ひんがし)へわたされ、東国(とうごく)よりかへッては、死んで三条を西へわたされ給ふ。いきての恥、死んでの恥、いづれもおとらざりけり。

現代語訳

その後右衛門尉も、聖が前のように戎をお授け申し上げ、念仏を勧め申す。「大臣殿の最後はどんな具合でしたか」と聞かれたのは、いじらしい事であった。「立派な御最後でございました。心安くお考えになられませ」と申されたところ、涙を流し喜んで、「今は思い残す事は無い。それでは早く斬ってくれ」と言われた。今度は堀弥太郎が斬ったのであった。首を判官が持たせて都へ入った。骸は公長の指図で、親子を一つの穴に埋めた。さすがに宗盛が最後まで子への愛情を断ち切れず、清宗と離れ難い思いを口走ったので、このようにしたのだった。

同月二十三日、大臣殿親子の頭(こうべ)が都へ入る。検非違使共が三条河原に出向ってこれを受け取り、大路を引き回して、左の獄門の樗(あふち)の木にかけ晒し首にした。昔から三位以上の人の首が大路を引き回されて獄門にかけられる事、外国ではその例もあるだろうが、わが国ではまだ先例がない。だから平治に信頼はあれほど悪事を働いたので、頭をはねられたが、獄門にはかけられない。今、平家のなってはじめてかけられたのだった。西国より上っては、生きたまま六条を東へ引き回され、死んで三条を西へ引き回されなさる。生きての恥、死んでの恥、どちらも劣らぬ大変な恥であった。

朗読・解説:左大臣光永

■【古典・歴史】メールマガジン
【古典・歴史】YOUTUBEチャンネル