平家物語 百七十八 重衡被斬(しげひらのきられ)

原文

本三位中将重衡卿者(ほんざんみのちゆうじやうしげひらのきやうは)、狩野介宗茂(かののすけむねもち)に預けられて、去年(こぞ)より伊豆国(いづのくに)におはしけるを、南都の大衆(だいしゆ)頻(しき)りに申しければ、「さらばわたせ」とて、源三位入道頼政(げんざんみにふだうよりまさ)の孫、伊豆蔵人大夫頼兼(いづのくらんどのたいふよりかね)に仰せて、遂(つひ)に奈良へぞつかはしける。都(みやこ)へは入れられずして、大津より山科(やましな)どほりに、醍醐路(だいごぢ)をへてゆけば、日野(ひの)はちかかりけり。此(この)重衡卿の北の方と申すは、鳥飼(とりかひ)の中納言伊実(ちゆうなごんこれざね)の娘(むすめ)、五条大納言邦綱卿(ごでうのだいなごんくにつなのきやう)の養子(やうじ)、先帝の御めのと大納言佐殿(だいなごんのすけどの)とぞ申しける。三位中将、一谷(いちのたに)でいけどりにせられ給ひし後も、先帝につき参らせておはせしが、壇の浦にて海にいらせ給ひしかば、もののふのあらけなきにとらはれて、旧里(きうり)にかへり、姉(あね)の大夫三位(だいぶざんみ)に同宿(どうじゆく)して、日野といふ所におはしけり。中将の露の命、草葉(くさば)の末にかかッてきえやらぬと聞き給へば、夢ならずして、今一度見もし見えもする事もやと思はれけれども、それもかなはねば、泣くより外(ほか)のなぐさめなくて、あかしくらし給ひけり。

現代語訳

本三位中将重衡卿(ほんざんみのちゅうじょうしげひらのきょう)は、狩野介宗茂(かののすけむねもち)に預けられて、去年から伊豆国のおられたのを、南都の大衆が身柄を引き渡すよう頻りに頼朝殿に申し入れたので、「それでは渡せ」と言って、源三位中将頼政の孫の伊豆蔵人大夫頼兼(いづのくらんどのたいふよりかね)に仰せられて。遂に奈良へ遣わしになった。都へは入れられずに、大津から山科を通って、醍醐路を経て行くと、日野は近くになった。この重衡卿の北の方と申す人は、鳥飼の中納言伊実(これざね)の娘で、五条大納言邦綱卿の養子でもあり、先帝の御乳母の大納言佐殿(すけどの)と申した。三位中将が一の谷で生け捕りになられた後も、先帝にお付き参らせておられたが、先帝が壇の浦で海にお入りになったので、武士の荒々しい者に捕われて、旧里へ帰り、姉の大夫三位と同宿して、日野という所におられた。中将の露のようにはかない命が、草葉の端にかかってまだ消えてはおらぬとお聞きになると、夢ではなく、もう一度会えることもあるかもと思われたが、それもできないので、泣くほかには慰めようもなく、泣き明かして暮しておられた。

原文

三位中将守護(しゆご)の武士に宣(のたま)ひけるは、「この程、事にふれてなさけふかう芳心(はうじん)おはしつるこそ、ありがたううれしけれ。同じくは最後に芳恩かうぶりたき事あり。我は一人(いちにん)の子なければ、この世に思ひおく事なきに、年来(としごろ)相具(あひぐ)したりし女房(にようぼう)の、日野といふ所にありと聞く。いま一度対面して、後生(ごしやう)の事を申しおかばやと思ふなり」とて、片時(へんし)の暇(いとま)をこはれけり。武士どもさすが岩木ならねば、おのおの涙をながしつつ、「なにかは苦しう候(さうらふ)べき」とてゆるし奉る。中将なのめならず悦びて、「大納言佐殿の御局(おんつぼね)は、これにわたらせ給ひ候やらん。本三位中将殿の、只今(ただいま)奈良へ御(おん)とほり候が、立ちながら見参(げんざん)に入らばやと仰せ候」と、人をいれていはせければ、北の方聞きもあへず、「いづらやいづら」とてはしり出でて見給へば、藍摺(あゐずり)の直垂(ひたたれ)に折烏帽子(をりえぼし)着たる男(をのこ)の、やせ黒みたるが、縁に寄りゐたるぞそなりける。北の方御簾(みす)のきはちかく寄ッて、「いかに、夢かやうつつか。これへ入り給へ」と宣ひける御声(おんこゑ)を聞き給ふに、いつしか先立つ物は涙なり。大納言佐殿、 目もくれ心もきえはてて、しばしは物も宣はず。三位中将、 御簾うちかづいて泣く泣く宣ひけるは、「こぞの春、一の谷でいかにもなるべかりし身の、せめての罪のむくひにや、いきながらとらはれて、大路(おほち)をわたされ、京、鎌倉、恥をさらすだに口惜しきに、はては奈良の大衆(だいしゆ)の手へわたされて、きらるべしとてまかり候。いかにもして今一度御(おん)すがたを見奉らばやと思ひつるに、今は露ばかりも思ひおく事なし。出家して、形見(かたみ)にかみをも奉らばやと思へども、ゆるされなければ力及ばず」とて、額(ひたひ)のかみをすこしひきわけて、口のおよぶ所をくひきッて、「これを形見に御覧ぜよ」とて奉り給ふ。 北の方は、日来(ひごろ)おぼつかなくおぼしけるより、今一(ひと)しほかな しみの色をぞまし給ふ。「まことに別れ奉りし後は、越前三位(ゑちぜんのさんみ)の上(うへ)の様(やう)に、水の底にも沈むべかりしが、まさしうこの世におはせぬ人とも聞かざりしかば、もし不思議にて、今一度かはらぬすがたを見もし見えもやすると思ひてこそ、うきながら今までもながらへてありつるに、けふをかぎりにておはせんずらんかなしさよ。今までのびつるは、もしやと思ふたのみもありつる物を」とて、昔今(むかしいま)の事ども宣ひかはすにつけても、ただつきせぬ物は涙なり。「あまりに御(おん)すがたのしをれてさぶらふに、奉りかへよ」とて、あはせの小袖(こそで)に浄衣(じやうえ)をいだされたりければ、三位中将これを着かへて、もと着給へる物どもをば、「形見(かたみ)に御覧ぜよ」とておかれけり。北の方、「それもさる事にてさぶらへども、はかなき筆の跡こそながき世の形見にてさぶらへ」とて、御硯(おんすずり)をいだされたりければ 、中将泣く泣く一首の歌をぞ書かれける。

せきかねて泪(なみだ)のかかるからころも後(のち)の形見にぬぎぞかへぬる。

女房(にようぼう)聞きもあへず、

ぬぎかふるころももいまはなにかせんけふをかぎりの形見と思へば

「契(ちぎり)あらば後世(のちのよ)にてはかならず生(むま)れあひ奉らん。一(ひと)つ蓮(はちす)にといのり給へ。日もたけぬ。奈良へもとほう候。武士のまつも心なし」とて出で給へば、北の方袖(そで)にすがッて、「いかにやいかに、しばし」とてひきとどめ給ふに、中将、「心のうちをばただおしはかり給ふべし。されどもつひにのがれはつべき身にもあらず。又こん世にてこそ見奉らめ」とて出で給へども、まことに此世にてあひみん事はこれぞかぎりと思はれければ、今一度たちかへりたくおぼしけれども、心よわくてはかなはじと、思ひきッてぞ出でられける。北の方御簾(みす)のきはちかくふしまろび、をめきさけび給ふ御声(おんこゑ)の門(かど)の外(ほか)まではるかにきこえければ、駒(こま)をもさらにはやめ給はず。涙にくれてゆくさきも見えねば、なかなかなりける見参(げんざん)かなと、今はくやしうぞ思はれける。大納言佐殿(だいなごんのすけどの)やがてはしりついてもおはしぬべくはおぼしけれども、それもさすがなれば、ひきかづいてぞふし給ふ。

現代語訳

三位中将が、守護する武士に申されるには、「今回、事ある事に情け深く親切に接してくれている事はありがたく嬉しいことだ。同じように最後にあなた方の御親切を蒙りたいことがある。私は一人の子も持ってないので、この世に思い残すこともないが、長年連れ添った女房が、日野という所にいると聞いている。もう一度対面して、私が死んだ後の事を申しておかねばと思っているのだ」と言って、少しの暇(いとま)を請われた。武士どもはさすがに岩木ではないので、それぞれ涙を流しながら、「何のさしつかえがありましょう」と言って許し申しあげる。中将はひとかたならず喜んで、「大納言佐殿の御局(おつぼね)は、ここにおいででしょうか。本三位中将殿が只今奈良へお通りですが、立ったままで少し逢いたいと言われております」と、人を介して言わせたところ、北の方はそれを聞くや否や、「どこですか、どこです」と言って走り出て御覧になると、藍摺(あいずり)の直垂(ひたたれ)に折烏帽子(おりえぼし)を着た男の、痩せて黒ずんだ姿の者が、縁によりかかって座っており、それが中将であった。北の方は御簾の際に近寄って、「どういうこと。夢か現(うつつ)か。こちらへお入りください」と言われた御声をお聞きになるに、何時しか先立つものは涙である。大納言佐殿は目もくらみ正気もすっかりなくなって、しばらく物もおっしゃらない。中将殿が御簾を被るようにして泣く泣く言われるには、「去年の春、一の谷で死ぬはずの身があまりの罪の報いからであろうか、生きながら捕われて、大路を引き回され、京都、鎌倉で恥をさらすのさえ悔しいのに、最後には奈良の大衆の手に渡されて、斬られるべきということで奈良へ向っております。どうにかしてもう一度御姿を拝見せねばと思いましたが、こうして会った今は露ほども思い残す事はありません。出家して、形見に髪をさしあげようと思いましたが、それも許されないので仕方がない」と言って、額の髪を少し引き分け、口の届く所を食いきって、「これを形見に御覧になって下さい」といってさしあげられる。北の方は日頃心細く思われていたので、尚一層悲しみの色がお増しになられた。「ほんとうにお別れ申した後は、越前三位の北の方のように、水の底にも沈むげきでしたが、まさしく此の世におられぬ人とも聞かなかったので、もし思いがけない事に、もう一度変わらない姿を拝見したいと思ったからこそ、辛くても今まで永らえておりましたのに、今日が最後でいらっしゃることが悲しい。今まで延びたので、もしやと思う頼みもあった物を」と言って、昔今の事等を言い交されるにつけても、ただ尽きない物は涙である。北の方が「あまりにしおれた御姿をなさっているので、お召し替えなさい」と言って、合せの小袖の浄衣を出されたので、三位中将はこれに着替えて、もと着ておられた物共を、「形見にしてくれ」と言って置かれたのだった。北の方は、「それも尤もな事でございますが、はかない筆の跡こそが長い世の形見にございます」と言って、御硯を出されたので、中将は泣く泣く、一首の歌をお書きになった。

せきかねて泪のかかるからころも後の形見にぬぞかへぬる
(悲しみで流れる涙を押さえかねて、涙に濡れた唐衣を後の形見として着替えました)

女房はそれを聞くや否や

ぬぎかふるころももいまはなにかせんけふをかぎりの形見と思へば
(せっかく脱ぎ替えて下さった衣も今となっては何になりましょうか、今日が最後の形見と思えば悲しさに耐えられません)

と返された。
「仏縁があったならば後の世で必ず生れ会い申しましょう。極楽浄土の同じ蓮の上に生れるようにとお祈りください。日も暮れました。奈良へもまだ遠いのです。武士をそのまま待たせておくのも思いやりがない。といってお出になると、北の方は袖にすがって、「ねえ、もし、しばらく」と言って引き留められるので、中将は、「心の中をただ推し量って下さい。そうは言っても最後には死から逃れる事ができる身でもない。又生れて来る次の世で会いましょう」といって出られたが、本当にこの世で会い見る事はこれが最後と思われたので、もう一度立ち帰りたく思われたが、心弱くてはいけないのだと、思い切って出られた。北の方が御簾の際近くで横になって、転げまわり、おめき叫ばれる御声が門の外まで遠くまで聞えたので、馬をさらに早めようとはなさらない。 悲しみのため、泣き続けて行く先も見えないので、かえってしなければよかった対面だったかなと、今は悔しく思われた。大納言佐殿もすぐに走って追いかけようかとも思われたが、それも、やはりできなかったので、引き返して俯された。

原文

南都の大衆(だいしゆ)うけとって僉議(せんぎ)す。「抑此重衡卿者(そもそもこのしげひらのきやうは)、大犯(だいぼん)の悪人たるうへ、三千五刑(けい)のうちにもれ、修因感果(しゆいんかんくわ)の道理極上(だうりごくじやう)せり。仏敵法敵(ぶつてきほふてき)の逆臣(げきしん)なれば、東大寺興福寺(とうだいじこうふくじ)の大垣(おほがき)をめぐらして、鋸(のこぎり)にてやきるべき、堀頸(ほりくび)にやすべき」と僉(せん)議(ぎ)す。老僧どもの申されけるは、「それも僧徒(そうと)の法に穏便(をんびん)ならず。ただ守護(しゆご)の武士にたうで、木津(こつ)の辺(へん)にてきらすべし」とて、武士の手へぞかへしける。武士これをうけとッて、木津河(こつがは)のはたにてきらんとするに、数千人(すせんにん)の大衆見る人、いくらといふかずを知らず

現代語訳

南都の大衆が本三位中将の身柄を受け取って協議をする。「いったいこの重衡卿は、大悪人であるうえに、五刑に所属する三千の刑の中にも見えない、大変な罪を犯しており、その要因によって悪い結果を受ける道理は、至極当然のことだ。仏敵法敵の逆臣なので、東大寺興福寺の大垣を引き回して、鋸で切るべきか、それとも堀首にすべきか」と議論する。老僧どもが申されるには、「それも僧徒の法では穏便ではない。ただ守護の武士に与えて、木津の辺りで斬らせるべきだ」と言って、武士の手に返した。武士はこれを受け取って、木津川の端で斬ろうとするのに、数千人の大衆が集まって見物する人はどれぐらいいるかわからないほどであった。

原文

三位中将のとしごろ召しつかはれける侍(さぶらひ)に木工右馬允知時(もつくうまのじようともとき)といふ者あり。八条女院(はちでうのにようゐん)に候ひけるが、最後を見奉らんとて、鞭(むち)をうッてぞ馳(は)せたりける。すでに只今(ただいま)きり奉らむとするところにはせついて、千万(せんばん)立ちかこうだる人のなかをかきわけかきわけ、三位中将のおはしける御(おん)そばちかう参りたり。「知時こそただ今御最後の御有様(おんありさま)見参らせ候はんとて、是(これ)まで参りてこそ候へ」と泣く泣く申しければ、中将、「まことに心ざしのほど神妙(しんべう)なり。仏ををがみ奉(たてま)ッてきらればやと思ふは、いかがせんずる。あまりに罪ふかうおぼゆるに」と宣(のたま)へば、知時、「やすい御事候(おんことざうらふ)や」とて、守護の武士に申しあはせ、そのへんにおはしける仏を一体(いつたい)むかへ奉(たてま)ッて出できたり。幸(さいはい)に阿弥陀(あみだ)にてぞましましける。河原(かはら)のいさごの上(うへ)に立て参らせ、やがて知時が狩衣(かりぎぬ)の袖のくくりをといて、仏の御手(みて)にかけ、中将にひかへさせ奉る。これをひかへ奉り、 仏にむかひ奉ッて申されけるは、「つたへきく、調達(でうたつ)が三逆(ぎやく) をつくり、八万蔵(ざう)の聖教(しやうげう)をほろぼしたりしも、遂(つひ)には天王如来(てんわうによらい)の記?(きべつ)にあづかり、所作(しよさ)の罪業(ざいごふ)まことにふかしといへども、 聖教に値遇(ちぐ)せし逆縁(ぎやくえん)くちずして、かヘッて得道(とくだどう)の因となる。いま重衡が逆罪(ぎやくざい)ををかす事、まッたく愚意(ぐい)の発起(ほつき)にあらず、只世に随(しやが)ふ理(ことわり)を存ずる計(ばかり)なり。命をたもつ者、誰(たれ)か王命を蔑如(べつじよ)する。生(しやう)をうくる者、誰か父の命(めい)をそむかん。かれといひ、これといひ、辞(じ)するにところなし。理非仏陀(りひぶつだ)の照覧(せうらん)にあり。抑(そもそも)罪報たちどころにむくひ、運命只今をかぎりとす。後悔千万(こうくわいせんばん)、かなしんでもあまりあり。ただし三宝(さんぽう)の境界(きやうがい)は慈悲(じひ)を心として、済度(さいど)の良縁(りやうえん)まちまちなり。『唯円教意(ゆいゑんげうい)、逆即是順(ぎゃくそくぜじゆん)』、 此文肝(このもんきも)に銘(めい)ず。一念弥陀物(いちねんみだぶつ)、即滅無量罪(そくめつむりやうざい)、願はくは逆縁をもッて順縁(じゆんえん)とし、只今の最後の念仏によッて、九品託生(くほんたくしやう)をとぐベし」とて、高声(かうしやう)に十念となへつつ、頸(くび)をのべてぞきらせられける。日来(ひごろ)の悪行(あくぎやう)はさる事なれども、今の有様を見奉るに数千人(すせんにん)の大衆(だいしゆ)も守護の武士も、みな涙をぞながしける。その頸をば般若寺大鳥井(はんにやじおほどりゐ)の前に釘(くぎ)づけにこそかけたりけれ。治承(ぢしやう)の合戦の時、ここにうッたッて伽藍(がらん)をほろぼし給へる故(ゆゑ)なり。

現代語訳

三位中将が長年召し使われていた侍に、木工右馬允智人記(むくうまのじょうともとき)という者がいた。八条女院(鳥羽天皇の皇女、暲子内親王))に仕えていたが、三位中将の最期を拝見しようと、馬に鞭を打って駆けつけた。もはや今斬り申しあげようとするところに駆けつけて、何千何万という大勢の人が囲んだ中を掻き分け掻き分け、三位中将がおられた御側近くに参った。「知時が今御最後の様子を見参らせ申そうと、ここまで参りましたぞ」と泣く泣く申したところ、中将は、「まこと心遣いの程神妙である。仏を拝み申してから斬られようと思うがどうだ。このまま死んだら余りに罪深いと思えるので」と言われると、知時は、「お安い事でございますよ」と言って、守護の武士と相談して、その辺りの寺にあった仏の像を一体迎え申して出て来た。幸いにもそれは阿弥陀如来でいらっしゃった。それを河原の砂の上にお立て申し、すぐに知時の狩衣の袖のくくりを解いて、仏の御手にかけ、その片方を中将の手に握らせる。中将をこれをお取り申し上げ、仏に向い奉って申されるには、「伝え聞くところによると、提婆達多が三逆、を作り、八万の教法を蔵した経典を滅ぼしたが、その提婆も最後には仏から天王如来になることを認められた。それまでの罪業はたいそう深かったが仏教に出会った逆縁は朽ちず、かえって悟りを開く原因になったのだ。今重衡が大罪を犯した事は、まったく私の考えではなく、只世間に従うという道理を考えたのだ。生きている者が、誰が天皇の命令を軽蔑しようか。生まれた者が、誰が父の命に背こうか。王命といい、父命といい、生きている者、生れた者がけっして断ることはできない。道理か否か、事の善悪は仏陀が御覧になっている。いったい犯した罪の報いはたちどころに現れ、私の運命は今が最後になった。後悔すること限りなく、悲しんでも悲しみきれない。しかしながら仏の世界は慈悲を第一として衆生を救済する機縁は様々です。『唯円教意(ゆいえんきょうい)、逆即是順(ぎゃくそくぜじゅん)』というこの句は深く心に刻まれております。一念弥陀物(いちねんみだぶつ)、即滅無量罪(そくめつむりょうざい)、願わくば逆縁を順縁として、今の最後の念仏によって、九品の浄土に生れられるように」と言って、大声で念仏を十回唱えながら、首を差し延べてお斬らせになった。日頃の悪業はさることながら、今の有様を拝見すると、数千人の大衆も警護の武士も、皆涙を流した。その首は般若寺の大鳥居の前に釘で打ち付け懸けられたのだった。治承の合戦の時、ここに立って寺院を焼き滅ぼされたからである。

原文

北の方大納言佐殿(だいなごんのすけどの)、かうべをこそはねられたりとも、むくろをばとり寄せて孝養(けうやう)せんとて、輿(こし)をむかへにつかはす。げにもむくろをばすておきたりければ、とッて與にいれ、日野(ひの)へかいてぞかへりける。これをまちうけ見給ひける北の方の心のうち、おしはかられて哀れなり。昨日(きのふ)まではゆゆしげにおはせしかども、あつきころなれば、いつしかあらぬ様(さま)になり給ひぬ。さてもあるべきならねば、其(その)辺(へん)に法界寺(ほふかいじ)といふ処(ところ)にて、さるべき僧どもあまたかたらひて孝養あり。頸をば大仏(だいぶつ)の聖俊乗房(ひじりしゆんじやうばう)にとかく宣へば、大衆にこうて日野へぞつかはしける。頸もむくろも煙になし、骨(こつ)をば高野(かうや)へおくり、墓(はか)をば日野にぞせられける。北の方も様(さま)をかへ、かの後世(ごせ)菩提(ぼだい)をとぶらはれけるこそ哀れなれ。

現代語訳

北の方、大納言佐殿は、頭がはねられたとはいっても、せめて骸は引き取って供養しようと、輿を迎えに遣わした。なるほど骸は捨て置かれていたので、取って輿に入れ、日野へかついで帰った。これを待ち受けて御覧になった北の方の心の内が推測されて哀れであった。昨日までは立派でおられたが、暑い頃でもあるので早くも腐りかけて異様な姿におなりになっていた。いつまでもそうしているわけにもいかないので、その辺りにあった法界寺という所で、相当な僧共大勢に頼んで供養を行った。首を、大仏の聖、俊乗房(しゅんじょうぼう)に何かと頼まれたので、大衆に願って首を譲り受け日野へ遣わされた。そこで首も骸も焼却して、骨を高野へ送り、墓を日野に建てられた。北の方も尼に姿を変え、夫重衡の後世菩提を弔われたのは哀れであった。

朗読・解説:左大臣光永

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