平家物語 百七十九 大地震(だいぢしん)
原文
平家みなほろびはてて、西国(さいこく)もしづまりぬ。国は国司(こくし)にしたがひ、庄(しやう)は領家(りやうけ)のままなり。上下安堵(じやうげあんど)しておぼえし程に、 同(おなじき)七月九日(ここのかのひ)の午刻(うまのこく)ばかりに、大地(だいぢ)おびたたしくうごいて良(やや)久し。赤県(せきけん)のうち、白河(しらかは)のほとり、六勝寺(ろくしようじ)皆やぶれくづる。九重(くぢゆう)の塔(たふ)もうへ六重(ろくぢゆう)ふりおとす。得長寿院(とくぢやうじゆゐん)も三十三間(さんじふさんげん)の御堂(みだう)を、十七間(じふしちけん)まで振(ふ)り倒(たふ)す。皇居(くわうきよ)をはじめて、人々の家々、すべて在々所々(ざいざいしよしよ)の神社仏閣、あやしの民屋(みんをく)、さながらやぶれくづる。くづるる音はいかづちのごとく、あがる塵(ちり)は煙(けぶり)のごとし。天(てん)暗うして日の光も見えず。老少共(とも)に魂(たましひ)を消し、朝衆(てうじゆ) 悉(ことごと)く心をつくす。又遠国近国(ゑんごくきんごく)もかくのごとし。大地さけて水わきいで、盤石(ばんじやく)われて谷へまろぶ。山くづれて河をうづみ、 海ただよひて浜をひたす。汀(なぎさ)こぐ船はなみにゆられ、陸(くが)ゆく駒(こま)は足のたてどをうしなへり。洪水(こうずい)みなぎり来(きた)らば、岳(をか)にのぼッてもなどかたすからざらむ。猛火(みやうくわ)もえ来らば、河をへだててもしばしもさんぬべし。ただかなしかりけるは大地震(だいぢしん)なり。鳥にあらざれば空をもかけりがたく、竜(りよう)にあらざれば雲にも又のぼりがたし。白河(しらかは)、六波羅(ろくはら)、京中(きやうぢゆう)にうちうづまれて死ぬる者、いくらといふ数を知らず。
四大種(しだいしゆ)の中に、水火風(すいくわふう) は常に害をなせども、大地においてはことなる変をなさず。こはいかにしつることぞやとて、上下遣戸(じやうげやりど)、障子(しやうじ)をたて、天のなり地のうごくたびごとには、唯今(ただいま)ぞ死ぬるとて、声々(こゑごゑ)に念仏申し、をめきさけぶ事おびたたし。七八十(しちはちじふ)、九十(くじふ)の者も、 世の滅(めつ)するなンどいふ事は、さすが今日(けふ)あすとは思はずとて、大きに驚きさわぎければ、をさなき者共も是(これ)を聞いて、泣きかなしむ事限(かぎり)なし。法皇はその折しも、新熊野(いまぐまの)へ御幸(ごかう)なッて、人多くうちころされ、触穢(しよくゑ)出できにければ、いそぎ六波羅殿(ろくはらどの)へ還御(くわんぎよ)なる。道すがら君も臣も、いかばかり御心をくだかせ給ひけん。主上(しゆしやう)は鳳輦(ほうれん)に召して、池の汀(みぎは)へ行幸(ぎやうがう)なる。法皇は南庭(なんてい)に幄屋(あくや)をたててぞましましける。女院(にようゐん)、宮々は御所ども皆振(ふ)り倒(たふぃ)しければ、或(あるい)は御輿(おんこし)に召し、或(あるい)は御車(おんくるま)に召して出でさせ給ふ。天文博士(てんもんはかせ)ども馳(は)せ参って、「よさりの亥子(ゐね)の刻(こく)には、かならず大地うち返すべし」と申せば、おそろしなンどもおろかなり。
昔文徳天皇(もんどくてんわう)の御宇(ぎよう)、斉衡(さいかう)三年三月八日(やうかのひ)の大地震には、東大寺の仏(ほとけ)の御(み)くしを、ふりおとしたりけるとかや。又天慶(てんきやう)二年四月五日(いつかのひ)の大地震には、主上御殿(ごてん)をさッて、常寧殿(じやうねいでん)の前に五丈の五丈の幄屋(あくや)をたてて、ましましけるとぞ承る。其(それ)は上代の事なれば申すにおよばず。今度の事は、是(これ)より後(のち)もたぐひあるべしともおぼえず。十善帝王(じふぜんていわう)、都を出でさせ給ひて、御身(おんみ)を海底に沈め、大臣公卿大路(だいじんくぎやうおほぢ)をわたして、その頸(くび)を獄門にかけらる。昔より今に至るまで、怨霊(をんりやう)はおそろしき事なれば、世もいかがあらんずらんとて、心ある人の欺きかなしまぬはなかりけり。
現代語訳
平家はみな滅んでしまい、西国も鎮まった。国は国司に従い、荘園は京都の公家の思うままである。身分の上下を問わず皆安堵の思いでいたところに、同年七月九日の正午頃に、大地が激しく振動して、かなり長い間揺れ続けた。京都の内、白河の辺りにあった法勝寺・尊勝寺・円勝寺・景勝寺・成勝寺・延勝寺の六勝寺は皆倒壊した。九重の搭もその上六重が崩れ落ちた。得長寿院も三十三間の御堂を、十七間まで倒された。皇居を始めとして人々の家々、すべての諸方の神社仏閣、身分の低い者の民家がすべて崩壊した。その崩れる音は雷のように響き渡り、舞い上がる塵は煙のようであった。空は暗くなって日の光も見えない。老人も子供も恐れ慄き、朝廷に仕える者も一般民衆もすべて生きた心地がしなかった。又、遠国も近国も同じような有様であった。大地は裂け、水が噴出し、巨大な岩石が割れて谷底へ転んで落ちて行った。山は崩れて川を埋め、海では津波が浜に押し寄せて浜辺を浸した。渚を漕いでいた船は波に揺られ、陸を行く馬は足場を失くして転倒した。洪水が漲(みなぎ)って押し寄せたのなら、岡に上って避難し助かる事ができよう。猛火に襲われたのなら、川を隔てた向うに逃げて少しの間も避けるころができるであろう。ただ悲しかったのは大地震であった。鳥ではないので空を駆ける事もできず、竜でもないので雲に上る事も又できない。白河、六波羅、京中で倒壊したものの下敷きになって死んだ者はおびただしく、どれだけいたかその数もわからない程である。
四大種の中で、水・火・風は常に害をなすが、大地においては違った異変を起す事は無い。これはどうしたことだろうと、みんな引き戸や襖を閉ざし、空が鳴り、大地が動くたびに、今にも死ぬかと、声々に念仏を唱え、おびただしくおめき叫んだ。七八十、九十になる者も、世が滅びるなどと言う事は、さすがに今日明日の事とはさすがに思わなかったと、大いに驚き騒いだので、幼い者共もこれを聞いて、限りなく泣き悲しんだ。後白河法皇はちょうどその時、新熊野へ御幸なさっており、人が大勢打ち殺され、穢(けが)れが出たので、急遽六波羅へお戻りになられた。道中君も臣も、どれほど気を揉まれたことであろうか。天皇は鳳輦にお乗りになって池の汀へ行かれた。法皇は南庭に仮屋を建てて、そこにおられた。女院や宮人達は御所がみな倒壊したので、或いは御輿に乗られ、或いは御車に乗ってお出になっれた。天文博士共が駆け集って、「今夜午後十時ごろから午前零時頃には、必ず大地がひっくり返るでしょうと」と申したので、恐ろしなどということばでは表せない事であった。
昔文徳天皇(もんとくてんのう)の御代、斉衡(さいこう)三年三月八日の大地震では、東大寺の仏像の御首が揺れて落ちたという事である。又天慶(てんぎょう)二年四月五日の大地震では、天皇は御殿を退き、常寧殿(じょうねいでん)の前に五丈の仮屋を建てて、住んでおられたと聞いている。しかし、それは上世の事なので今申すまでもないが、今度の事は、これから後も起る事とは思われない事である。十善の帝王が、都をお出になって、御身を海底に沈め、大臣公卿が大路を引き回されて、その首を獄門にかけられた。昔から今に至るまで、怨霊は恐ろしい事なので、世の中もどうなるのだろうかと、心ある人で歎き悲しまない者はなかった。
■【古典・歴史】メールマガジン