平家物語 百八十 紺掻之沙汰(こんかきのさた)
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原文
同(おなじき)八月廿二日、鎌倉(かまくら)の源二位頼朝卿(げんにゐよりとものきやう)の父、故左馬頭義朝(こさまのかみよしとも)のうるはしきかうべとて、高雄(たかを)の文覚上人(もんかくしやうにん)頸(くび)にかけ、鎌田兵衛(かまだびやうゑ)が頸をば弟子が頸にかけさせて、鎌倉へぞ下られける。去治承(さんぬるぢしょう)四年のころとりいだして奉(たてま)ッたりけるは、まことの左馬頭のかうべにはあらず、謀反(むほん)をすすめ奉らんためのはかりことに、そぞろなるふるいかうべを、白い布につつんで奉(たてま)ッたりけるに、謀反をおこし世をうちとッて、一向(いつかう)父の頸と信ぜられけるところへ、又尋ね出(いだ)してくだりけり。是は年ごろ義朝の不便(ふびん)にして召しつかはれける紺かきの男、年来(ねんらい)獄門にかけられて、後世(ごせ)とぶらふ人もなかりし事をかなしんで、時の大理(だいり)にあひ奉り、申し給はりとりおろして、「兵衛佐殿流人(るにん)でおはすれども、すゑたのもしき人なり。もし世に出でてたづねらるる事もこそあれ」とて、東山円覚寺(ゑんがくじ)といふ所に、ふかうをさめておきたりけるを、文覚聞き出して、かの紺かきの男共に相具(あひぐ)して下りけるとかや。けふ既に鎌倉へつくと聞えしかば、源二位片瀬河(かたせがは)まで迎(むかひ)におはしけり。それより色の姿になりて、泣く泣く鎌倉へ入り給ふ。聖(ひじり)をば大床(おほゆか)にたて、我身は庭に立ッて、父のかうべをうけとり給ふぞ哀れなる。 是を見る大名小名、みな涙をながさずといふ事なし。石厳(せきがん)のさがしきをきりはらッて、新(あらた)なる道場(だうぢやう)を造り、父の御為(おんため)と供養(くやう)じて、勝長寿院(しようぢやうじゆゐん)と号(かう)せらる。公家(くげ)にもかやうの事を哀れと思食(おぼしめ)して、故左馬頭義朝の墓へ、内大臣正二位(ないだいじんじやうにゐ)を贈らる。勅使(ちよくし)は左大弁兼忠(さだいべんかねただ)とぞきこえし。頼朝卿武勇(よりとものきやうぶゆう)の名誉長(ちやう)ぜるによッて、身をたて家をおこすのもならず、亡父聖霊贈官贈位(ぼうぶしやうりやうぞうくわんぞうゐ)に及びけるこそ目出たけれ。
現代語訳
同年八月二十二日、鎌倉の源二位頼朝卿の父、故左馬頭義朝の正真正銘の首だとして、高雄の文覚上人が自分の首に掛け、鎌田兵衛の首を、弟子の首に掛けさせて、鎌倉へ下られた。去る治承四年の頃取り出して差し上げたのは、本物の左馬頭の頭ではなく、謀叛をすすめ奉ろうとする謀(はかりごと)のために、無関係な古い頭を、白い布に包んで差し上げたのだが、謀叛を起し、世の実権を奪い取って、いちずに父の首だと信じられているところへ、又尋ねて下られた。これは長年義朝が可愛がって召し使っておられた紺掻きの男が、長い間義朝の首が獄門に掛けられたままで、後世を弔う人もなかった事を悲しんで、当時の検非違使別当に会って、願い出てその首をいただき、獄門から下して、「兵衛佐殿は流人でいらっしゃるが、末は頼もしい人である。ひょっとして出世して尋ねられることもあるかもしれぬ」といって、東山円覚寺という所に、深く納めておいたのを、文覚が聞き出して、その紺掻き男を共に引き連れて下ったという事である。今日はもう鎌倉に着くという話が伝わったので、源二位頼朝は片瀬川まで迎えにいらっしゃった。そこから喪に服する鈍色の衣に着替えて、泣く泣く鎌倉へお入りになる。聖(文覚上人)を大床に立たせ、自分は庭に立って父の頭を受け取られたのは哀れである。これを見る大名・小名はみな涙を流さないという事は無かった。岩石のけわしい所を切り払って、新たに道場を作り、父の御為と供養して勝長寿院(しょうちょうじゅいん)と名付けられる。朝廷でもそのような事を哀れと思われて、故左馬頭義朝の墓へ、内大臣正二位を贈られる。勅使は左大弁兼忠ということだった。頼朝卿の武勇の名誉が勝れていたことから、身を立て家を興しただけではなく亡父の聖霊が贈官贈位にまでなったのは目出度い事である。