平家物語 百四十四 小宰相身投(こざいしやうみなげ)

原文

越前(ゑちぜん)の三位通盛(さんみみちもり)の卿(きやう)の侍(さぶらひ)に、君太滝口時員(くんだたきぐちときかず)といふ者あり。北の方の御舟(おんふね)に参って申しけるは、「君は湊(みなと)河(がは)のしもにて、かたき七騎が中(なか)にとりこめられて、うたれさせ給ひ候(さうら)ひぬ。 其中(そのなか)にことに手をおろしてうち参らせ候ひしは、近江国(あふみのくに)の住人佐々木(ささき)の木村(きむら)の三郎成綱(さぶろうなりつな)、武蔵国(むさしのくに)の住人玉(たま)の井(ゐ)の四郎資景(しらうすけかげ) とこそ名のり申し候ひつれ。時員も一所(いつしよ)でいかにもなり、最後の御供(おんとも)仕るべう候へども、かねてよりおほせ候ひしは、『通盛いかになるとも、なんぢはいのちをすつべからず。いかにもしてながらへて、御(おん)ゆくゑをもたづね参らせよ』と仰せ候ひしあひだ、かひなきいのち生きて、つれなうこそこれまでのがれ参ッて候へ」と申しけれども、北の方とかうの返事にもおよび給はず、ひきかづいてぞふし給ふ。一定(いちじやう)うたれぬと聞き給へども、もしひが事(こと)にてもやあるらん、生きてかへらるる事もやと、二三日はあからさまに出でたる人をまつ心地(ここち)しておはしけるが、四五日も過ぎしかば、もしやのたのみもよわりはてて、いとど心ぼそうぞなられける。ただ一人(いちにん)付き奉りたりけるめのとの女房(にようぼう)も、同じ枕(まくら)にふし沈みにけり。

かくときこえし七日(なぬか)の日(ひ)の暮(くれ)ほどより、十三日の夜まではおきもあがり給はず。あくれば十四日(じふしにち)、八島(やしま)へつかんずるよひうち過ぐるまでふし給ひたりけるが、ふけゆくままに舟の中(うち)もしづまりければ、北の方めのとの女房に宣(のたま)ひけるは、「このほどは、三位(さんみ)うたれぬと聞きつれども、まこととも思はでありつるが、この暮(くれ)ほどより、さもあるらんと思ひさだめてあるぞとよ。人ごとに湊河(みなとがは)とかやの下(しも)にてうたれにしとはいへども、そののち生きてあひたりといふ者は1人(いちにん)もなし。あすうち出でんとての夜、あからさまなる所(ところ)にてゆきあひたりしかば、いつよりも心ぼそげにうちなげきて、『明日(みやうにち)のいくさには、一定(いちじやう)うたれなんずとおぼゆるはとよ。我いかにもなりなんのち、人はいかがし給ふべき』なんどいひしかども、 いくさはいつもの事なれば、一定さるべしと思はざりける事のくやしさよ。それをかぎりとだに思はましかば、などのちの世とちぎらざりけんと、思ふさへこそかなしけれ。ただならずなりたる事をも、日ごろはかくしていはざりしかども、 心強(こころづよ)う思はれじとて、いひいだしたりしかば、なのめならずうれしげにて、『通盛(みちもり)すでに三十になるまで、子といふもののなかりつるに。あはれ男子(なんし)にてあれかし。うき世の忘れがたみにも思ひおくばかり。さて幾月(いくつき)ほどになるやらん。心地(ここち)はいかがあるやらん。いつとなき波の上、舟のうちの住(すま)ひなれば、しづかに身々(みみ)とならん時もいかがはせん』なンどいひしは、はかなかりけるかねことかな。まことやらん、をんなはさやうの時、十(とを)に九(ここの)つはかならず死ぬるなれば、恥ぢがましきめを見て、むなしうならんも心憂し。しづかに身々となってのち、をさなき者をもそだてて、なき人のかたみにも見ばやとは思へども、をさなき者を見んたびごとには、昔の人のみこひしくて、思(おもひ)の数はつもるとも、なぐさむ事はよもあらじ。つひにはのがるまじき道なり。もしふしぎにこの世をしのびすぐすとも、心にまかせぬ世のならひは、思はぬほかのふしぎもあるぞとよ。それも思へば心憂し。まどろめば夢に見え、さむればおもかげにたつぞかし。生きてゐてとにかくに人をこひしと思はんより、ただ水の底へいらばやと思ひさだめてあるぞとよ。そこにひとりとどまつて、なげかんずる事こそ心苦しけれども、わらはが装束(しやょうぞく)のあるをば取ッて、 いかならん僧にもとらせ、なき人の御菩提(ごぼだい)をもとぶらひ、わらはが後生(ごしやう)をもたすけ給へ。書きおきたる文をば都へつたへてたベ」なンど、こまごまと宣(のたま)へば、めのとの女房(にようぼう)涙をはらはらとながして、「いとけなき子をもふりすて、老いたる親をもとどめおき、是(これ)までつき参らせてさぶらふ心ざしをば、いかばかりとかおぼしめされさぶらふらむ。そのうへ今度一の谷にてうたれさせ給ひし人々の北の方の御思(おんおもひ)ども、いづれかおろかにわたらせ給ひさぶらふべき。されば御身(おんみ)一(ひと)つのこととおぼしめすべからず。しづかに身々(みみ)とならせ給ひてのち、をさなき人をもそだて参らせ、いかならん岩木(いはき)のはざまにても、御様(おんさま)をかへ、仏の御名(みな)をもとなへて、なき人の御菩提(ごぼだい)をもとぶらひ参らせ給へかし。かならず一(ひと)つ道へとおぼしめすとも、生(しやう)かはらせ給ひなんのち、六道四生(ろくだうししやう)の間にて、いづれのみちへかおもむかせ給はんずらん。ゆきあはせ給はん事も不定(ふぢやう)なれば、御身(おんみ)を投げてもよしなき事なり。其上(そのうへ)都の事なんどをば、誰(たれ)みつぎ参らせよとて、かやうにはおほせさぶらふやらん。うらめしうも承る物かな」とさめざめとかきくどきければ、北の方此事(このこと)あしうも聞かれぬとや思はれけん、「それは心にかはりてもおしはかり給ふべし。大(おほ)かたの世のうらめしさにも、身を投げんなンどいふ事は常のならひなり。されども思ひたつならば、そこに知らせずしてはあるまじきぞ。夜もふけぬ、いざや寝ん」と宣へば、めのとの女房、この四五日は湯水(ゆみず)をだにはかばかしう御覧(ごらん)じいれ給はぬ人の、かやうに仰せらるるは、まことに思ひたち給へるにこそと悲しくて、「相かまへて思召(おぼしめ)したつならば、千尋(ちひろ)の底までもひきこそ具(ぐ)せさせ給はめ。おくれ参らせてのち、片時(かたとき)もながらふべしともおぼえさぶらはず」なんど申して、御(おん)そばにありながら、ちッとまどろみたりけるひまに、北の方やはらふなばたへおき出でて、漫々(まんまん)たる海上(かいしやう)なれば、いづちを西とは知らねども、月の入るさの山の端(は)を、そなたの空とや思はれけん、しづかに念仏し給へば、沖の白洲(しらす)に鳴く千鳥、天(あま)のとわたる梶(かぢ)の音、折からあはれやまさりけん、しのび声(ごゑ)に念仏百返ばかりとなへ給ひて、「南無西方極楽世界教主(なむさいほうごくらくせかいのけうしゆ)、弥陀如来(みだによらい)、本願(ほんぐわん)あやまたず浄土へみちびき給ひつつ、あかで別れしいもせのなからへ、 必ず一(ひと)つ蓮(はちす)にむかへ給へ」と、泣く泣くはるかにかきくどき、「南無」ととなふる声共(とも)に、海にぞ沈み給ひける。

現代語訳

越前三位通盛卿の侍に、君太滝口時員(くんだたきぐちときかず)という者がいる。北の方の御舟に参って、「殿は湊川の川下で敵七人の中に取り囲まれてお討たれになりました。その中で特に手を下して討ち申しましたのは、近江国の住人佐々木の木村の三郎成綱(なりつな)、武蔵国の住人玉の井の四郎資景(すけかげ)と名乗り申しておりました。時員も殿と一緒に討たれ、最後の御供仕るべきでございましたが、かねて殿が言っておられましたのは、「通盛がどのようになろうとも、お前は命を捨ててはならぬ。どんなことをしても長生きして、北の方の前途将来の事をもお世話せよ」とおっしゃいますので、生きていても甲斐の無い命を長らえて恥ずかしいとも思わずこれまで逃げて参りました」と申したが、北の方は何も返事なさらず、衣を引き被って、泣き伏された。確かに討たれたとお聞きにはなったが、もしかして間違いかもしれず、生きて帰られる事があるのではなかろうかと、二三日はついちょっと出かけた人を待つ心地でおられたが、四五日も過ぎてしまうと、もしやの望みも薄れ、たいそう心細くなられた。ただ一人お付き申していた乳母の女房も、同じ枕に臥し悲しみに沈んでしまった。

北の方は、道盛が討ち死にしたという知らせのあった七日の日暮れ頃から、十三日の夜までは起き上がりもなさらない。明けると十四日、八島へ着こうとする夜、宵が過ぎるまで横になっておられたが、夜が更けるにつれて舟の中も静まったので、北の方が乳母の女房に言われたのは、「この頃は、三位が討たれたと聞いても、それを事実とは思わずにきたが、今日の暮方から、そういうこともあるだろうと心に決めているのだよ。誰もが、湊川の川下で討たれてしまったとはいうが、その後、通盛が生きていてそれに会ったという者は一人もいない。明日は出陣しようかという前の夜に、軍陣の仮屋に行って逢ったところ、いつもよりも心細そうに嘆いて、『明日の戦では、きっと討たれると思うのだよ。私が死んだら、その後、貴方はどうなさるおつもりか』などと言われたが、戦はいつもの事なので、必ずそのようになるとは思わなかった事が悔しくてならない。それが最後とさえ思ったなら、どうして後の世でもお会いしようと約束しなかったのだろうと、思うにつけて悲しいのです。身籠ってしまったことも、日頃は隠して言わなかったが、気が強いと思われまいと言い出したところ、ひとかたならず嬉しそうに、『通盛はもう三十になるのに、子供を授からなかった。ああ、男の子であればいいが。ただ此の世の忘れ形見にと思っておくばかりだ。ところで、何か月位になるのだろう。気分はどうなのだろうか。いつまでとはわからぬ波の上、舟の中の住いなので、静かに身二つとなるような時、どうすれば良いのだろう』などと言われたのも、今でははかない口約束になってしまったよ。本当だろうか。女は出産の時、十(とお)に九(ここのつ)は必ず死ぬと言うから、恥ずかしい思いをして亡くなるのも悲しい事だ。静かに子を産んだ後、幼い者を育てて、亡き人の形見として見ようとは思うが、幼い者を見るたびに、昔の人のみ恋しくて、思いの数は積っても、慰められることはよもやあるまい。死は最後には逃れられない道である。万が一思いがけずこの世を隠れて暮す事ができたとしても、思い通りにならないのが世の常なので、意外な別の出来事にあうことがあるのですよ。それを思えば心苦しい。まどろむと亡き人が夢に現れ、目が覚めると目の前に姿が見えるのですよ。生きていてあれこれ亡き人を恋しく思うより、ただ水の底へ入ろうと決心しているんですよ。そなたが一人此の世に残って嘆くのは申し訳ないが、私の着物を脱がせて、どんな僧にでも与え、亡き人の菩提を弔い、私の後世をも助けておくれ。書き置きをした手紙を都へ伝えておくれ」などとこまごまとおっしゃると、乳母の女房ははらはらと涙を流して、「幼い子を振り捨て、年老いた親をも都に残したまま、ここまでお仕え申しております私のこころざしをどれほどと思っていらっしゃるのでしょう。そのうえ今度一の谷でお討たれになった人々の北の方への悲しみはひととおりではないでしょう。だから御身一つの事と思ってはなりません。静かに御出産された後、幼い人もお育て申して、どんな辺鄙な所ででも、尼となって、仏の御名を唱えて、亡き人の菩提を弔い申しあげなさいませ。亡き殿と必ず一緒にとお思いになっても、生まれ変わられた後で、六道四生(ろくどうししょう)の間でどの世界へおいでになることでしょうか。再び巡り会われるとも決まってはおらず、御身を投げても仕方ありません。そのうえ、都の事などを誰に見届けよと、このようにおっしゃるのでしょうか。聞くのも怨めしゅう存じます」とさめざめと必死に口説いたので、北の方はこの事を聞かれて悪かったと思われたのか、「そういう事は私の心に代わっておし測っておくれ。世間一通りの恨めしい悲しさにつけても、身を投げようとするのはよくあることです。けれどもそれを思い立ったら、お前に知らせないですることは決してないよ。夜も更けた。さあ寝ましょう」とおっしゃると、乳母の女房は、この四五日は湯水でさえお飲みにならない人が、このように言われるのは、ほんとうに決心なされたのだと悲しくて、「よくよく考えて身投げを決心なされたのなら、千尋の底までも一緒にお連れください。先立たれ申して後は、片時もながらえることができようとも思えません」などと申して、お側にいながら、少しまどろんだ間に、北の方は静かに船端へ起きだして、漫々と水を湛えた海上の事、どちらが西かはわからないが、月の入る方の山の端を、極楽浄土の空と思われたのか、静かに念仏なさると、沖の白洲で鳴く千鳥の声や、海峡を渡る船の梶の音が聞え、折も折、しみじみと哀れを感じる気持ちが勝ったのであろうか、忍び声で、念仏を百遍ほど唱えられて、「南無西方極楽世界教主(なむさいほうごくらくせかいのきょうしゅ)、弥陀如来(みだにょらい)、本願(ほんがん)あやまたず浄土へお導き下さって、飽きもしないうちに別れた仲の私ども夫婦を、 必ず同じ蓮(はす)にお迎えください」と泣く泣く、遥かにかき口説き、「南無」と唱える声とともに、海にお沈みになった。

原文

ーの谷より八島(やしま)へおしわたる夜半(やはん)ばかりの事なれば、舟の中(うち)しづまつて人是(これ)を知らざりけり。その中(なか)に楫取(かんどり)の一人(いちにん)寝ざりけるが、見つけ奉ッて、「あれはいかに、あの御舟(おふね)より、よにうつくしうまします女房(にようぼう)の、ただいま海へいらせ給ひぬるぞや」とよばはりければ、めのとの女房打ちおどろき、そばをさぐれどもおはせざりければ、「あれよあれ」とぞあきれける。人あまたおりて、とりあげ奉らんとしけれども、 さらぬだに春の夜のならひにかすむ物なるに、四方(よも)の村雲(むらくも)うかれきて、かづけどもかづけども、月おぼろにて見えざりけり。ややあッてとりあげたてまつたりけれども、はや此世(このよ)になき人となり給ひぬ。練貫(ねりぬき)の二衣(ふたつぎぬ)に白き袴(はかま)を着(き)給へり。かみも袴もしほたれて、とりあげたれどもかひぞなき。めのとの女房手に手をとりくみ、かほにかほをおしあてて、「などや是(これ)程におぼしめしたつならば、千尋(ちひろ)の底までもひきは具(ぐ)せさせ給はぬぞ。さるにても今一度、もの一言葉(ひとことば)おほせられて聞かせさせ給へ」と、もだえこがれけれども、一言(いちげん)の返事にもおよばず。わづかにかよひつる息も、はやたえはてぬ。

さる程に春の夜の月も雲井(くもゐ)にかたぶき、かすめる空も明けゆけば、名残(なごり)はつきせず思へども、さてしもあるべき事ならねば、うきもやあがり給ふと、故三位殿(こさんみどの)の着背長(きせなが)の一両のこりたりけるにひきまとひ奉り、つひに海にぞ沈めける。めのとの女房、今度はおくれ奉らじと、つづいていらんとしけるを、人々やうやうに取りとどめければ、力およばず。せめてのせんかたなさにや、手づからかみをはさみおろし、故三位殿の御(おん)おとと、中納言律師忠快(ちゆうなごんのりつしちゆうくわい)にそらせ奉り、泣く泣く戒(かい)たもつて、主(しゆう)の後世(ごせ)をぞとぶらひける。昔より男におくるるたぐひおほしといへども、様(さま)をかふるは常のならひ、身を投ぐるまではありがたきためしなり。忠臣は二君(じくん)につかへず、貞女は二夫(じふ)にまみえずとも、かやうの事をや申すべき。

此(この)女房(にようばう)と申すは、頭(とう)の刑部卿憲方(ぎやうぶきやうのりかた)の娘(むすめ)、上西門院(しやうせいもんゐん)の女房(にようばう)、宮中一の美人、名をば小宰相殿(こざいしやうどの)とぞ申しける。此女房十六と申しし安元(あんげん)の春のころ、女院法勝寺(にようゐんほつしようじ)へ花見の御幸(ごかう)ありしに、 通盛(みちもり)の卿(きやう)、其時はいまだ中宮(ちゆうぐう)の亮(すけ)にて供奉(ぐぶ)せられたりけるが、此女房をただ一目みて、あはれと思ひそめけるより、そのおもかげのみ身にひしとたちそひて、忘るるひまもなかりければ、はじめは歌をよみ文(ふみ)をつくし給へども、玉章(たまづさ)のかずのみつもりて、とりいれ給ふ事もなし。すでに三年(みとせ)になりしかば、 通盛の卿いまをかぎりの文を書いて、小宰相殿のもとへつかはす。をりふしとりつたへたる女房にもあはずして、使(つかひ)むなしくかへりけるみちにて、小宰相殿は折(をり)ふし我里より御所へぞ参り給ひける。使むなしうかへり参らん事の本意(ほい)なさに、御車のそばをつッとはしりとほるやうにて、通盛の卿の文を小宰相殿の車の簾(すだれ)の中(うち)へぞ投げいれける。ともの者共(ものども)に問ひ給へば、「知らず」と申す。さて此文(このふみ)をあけて見給へば、通盛の卿の文にてぞありける。車におくべきやうもなし、大路(おほち) にすてんもさすがにて、袴(はかま)の腰にはさみつつ、御所へぞ参り給ひける。さて宮づかへ給ふほどに、所しもこそおほけれ、御前(ごぜん)に文をおとされたり。女院是(これ)を御覧じて、いそぎとらせおはしまし、御衣(ぎよい)の御(おん)たもとにひきかくさせ給ひて、「めづらしき物をこそもとめたれ。此主(このぬし)は誰(だれ)なるらん」とおほせければ、御前の女房たち、よろづの神仏(かみほとけ)にかけて、「知らず」とのみぞ申しあはれける。その中(なか)に小宰相殿はかほうちあかめて、物も申されず。女院も、通盛の卿の申すとは、かねてよりしろしめされたりければ、さて此文をあけて御覧するに、 妓炉(ぎろ)のけぶりのにほひことになつかしく、筆のたてどもよの常ならず、「あまりに人の心強(づよ)きもなかなか今はうれしくて」なんど、こまごまと書いて、おくには一首の歌ぞありける。

我(わが)こひは細谷河(ほそたにがは)のまろ木ばしふみかへされてぬるる袖(そで)かな

現代語訳

一の谷から八島へ渡る余半ほどの事なので、舟の中は静まり返って、誰もこれに気づかなかった。其中で舵取りの一人が眠らないでいて、これを見つけ申して、「あれはどうしたのだ。あの御舟から非常に美しい女房が、たったいま海へ入られたぞ」と大声で叫んだので、乳母の女房が驚き、側を探ってもおられなかったので、「あれあれ」と呆然としていた。人が大勢海に降りて、引き揚げ申そうとしたが、そうでなくてさえ、春の夜の事、霞がかかり、四方の雲が浮き漂って来て、潜っても潜っても、月は朧で周囲は暗くて見えなかった。すこししてお引き揚げ申したが、早くもこの世に無い人とおなりになっていた。練貫の二衣に白い袴を着られていた。髪も袴も海水でひどく濡れており、引き上げたけれどもどうしようもない。乳母の女房は小宰相の手を握り、顔に顔を押し当てて「どうしてこれ程思いつめておられたなら、千尋の底まで私を引き連れなさらないのか。それにしてももう一度、一言おっしゃってお聞かせください」と悶え焦がれたが、一言も返事なさらない。わずかに弱々しくなっていた息も、もう聞えない。

そうしているうちに春の夜の月も雲のなかに隠れ、霞んだ空も明けていったので、名残は尽きなかったが、いつまでもそうしているわけにもいかず、浮かび上がられるかもしれないと、故三位殿の着背長(鎧)が一両残っていたのに、結び付け申して、遂に海に沈めた。乳母の女房が、今度は遅れ申さないぞと、続いて海に入ろうとしたのを、人々がやっとのことで引き止めたので果たせなかった。何ともしようがなく、せめてこれだけはと思ったのか、自分の手で長い髪を鋏で短く切り落し、故三位殿の御弟中納言律師忠快(おんおとうとちゅうなごんのりっしちゅうかい)に髪をお剃らせ申し、泣く泣く仏の戒をうけて主人の後世を弔った。昔から女が男に先立たれる例は多いとはいうが、出家して尼になるのはよくあること、身を投げるというのはめったにないことである。忠臣は二君に仕えず、貞女は二夫にまみえずというのも、このような事を申すのであろうか。

この女房と申すのは、頭(とう)の刑部卿憲方(ぎょうぶのきょうのりかた)の娘、上西門院(じょうせいもんいん)の女房、宮中一の美人で、その名を小宰相殿と申した。この女房が十六歳だった安元の春の頃、女院(にょういん)が法勝寺へ花見のため御幸されたが、通盛の卿、その時はまだ中宮の亮(すけ)でお供をされていたが、この女房をただ一度見て、愛おしく思われた時から、その面影だけが目に浮かんで、忘れる暇もなかったので、始めは歌を詠み、手紙をたくさん書いて何度も送られたが、手紙の数が増えるだけで、お取入れになる事もない。もはや三年が経ったので、通盛卿はこれが最後という手紙を書いて、小宰相殿のところへ送る。ちょうどその時取次いだ女房にも会えないで、使いがむなしく帰る途中、小宰相殿はちょうど自分の里から御所へお戻りになられていた。使いの者が、むなしく帰って行く事の情けなさに。御車のそばをつっと走り抜けるようにして、通盛の卿の手紙を小宰相殿の車の簾の中へ投げ入れた。小宰相殿が共の者に手紙の主をお尋ねになるが、「わかりません」と答える。さてこの手紙を開けて御覧になると、通盛卿からの手紙だった。車に置くわけにもいかず、大路に捨てるのもさすがにためらわれて、袴の裾に挟んで御所へお戻りになられた。それから宮仕えをなさっていると、よりによって、御前にこれを落とされた。女院はこれを御覧になって、急いでお取らせになり、御衣(ぎょい)の御袂(おんたもと)にお隠しになって、「珍しい物を求めたぞ。この主は誰であろうか」とおっしゃると、御前の女房達は、万の神仏にかけて、「知りません」とだけ申し合われた。その中で小宰相殿は顔を赤くして、物も申されない。女院も、通盛の卿が手紙などで言い寄っているのを御存じだったので、この手紙を開けて御覧なさると、岐炉(きろ)の煙の匂いが特に気持ちよく、筆の使い方も巧みで、「あまりに貴方が気丈なのも今は嬉しくて」などと、こまごまと書いて、奥には一首の歌があった。

我(わが)こひは細谷河のまろ木ばしふみかへされてぬるる袖かな
(私の恋は、細い谷川に架かった丸木橋のようなもの。人々に何度も踏み返されて水に濡れるように、文を返されて悲しくなり、着物の袖が涙で濡れているのだよ)

原文

女院、「これはあはぬをうらみたる文や。あまりに人の心強きもなかなかあたとなる物を」。中比小野小町(なかごろをののこまち)とて、みめかたち世にすぐれ、なさけのみちありがたかりしかば、見る人聞く者肝(きも)たましひをいたましめずといふ事なし。されども心強き名をやとりたりけん、はてには人の思(おもひ)のつもりとて、風をふせぐたよりもなく、雨をもらさぬわざもなし。やどにくもらぬ月星(つきほし)を、涙にうかべ、野べの若菜(わかな)、沢の根芹(ねぜり)をつみてこそ、つゆの命をばすぐしけれ。女院、「是はいかにも返しあるべきぞ」とて、かたじけなくも御硯(おんすずり)召し寄せて、身づから御返事(おんへんじ)あそばされけり。

ただたのめ細谷河のまろ木橋ふみかへしてはおちざらめやは

むねのうちの思(おもひ)は富士(ふじ)のけぶりにあらはれ、袖のうへの涙は清見(きよみ)が関(せき)の波なれや。みめは幸(さいはひ)のはななれば、三位(さんみ)此女房(このにようばう)を給はって、たがひに心ざしあさからず。されば西海の旅の空、舟の中(うち)、波の上の住(すま)ひまでもひき具して、つひに同じみちへぞおもむかれける。

門脇(かどわき)の中納言(ちゆうなごん)は、嫡子越前(ちやくしゑちぜん)の三位、末子業盛(ばつしなりもり)にもおくれ給ひぬ。今たのみ給へる人とては、能登守教経(のとのかみのりつね)、僧には中納言の律師忠快ばかりなり。故三位殿(こさんみどの)のかたみとも此女房をこそ見給ひつるに、それさへかやうになられければ、いとど心ぼそうぞなられける。

現代語訳

女院は、「この手紙は会えない事を恨んでいる手紙であろう。あまりにも貴方が気丈なのも仇となる物を」。中頃小野小町(おののこまち)といって、見た目、姿形が世間でも評判の美しさで、情けも深かったので、見る人、聞く者、皆誰でも思いを寄せ心を悩ませないという事は無い。しかし、気が強く、容易にはなびかないという評判を取ったのであろうか、最後には人の思いが積もった報いで、風を防ぐ便宜もなく、雨洩りを凌ぐ手段もない廃屋に住み、破れた屋根から家の中まで差し込んだ月星の光を涙を浮べて眺め、野辺の若奈や沢の根芹を摘んで、露のようにはかない命を繋いでいた。女院は、「これは必ず返事をしなければならないよ」と、かたじけなくも近くの者に命じて御硯を取り寄せ、自ら御返事を書かれた。

ただたのめ細谷河のまろ木橋ふみかへしてはおちざらめやは
(ひたすら細い谷川の丸木橋を頼っていなさい。何度も踏むなら落ちない事があろうか。きっと落ちるはずだ。返書を出したなら相手は靡(なび)くに違いない)

胸の内の思いは富士山の煙のように立ち上り、袖の上の涙は清見が関の波のようにいつも乾く事は無い。女性の見た目の美しさは男性の幸せの元なので、三位はこの女房を頂いて、互いに思いは浅くはない。それで西海の旅の空、舟の中、波の上での住いにまで引き連れて、最後には同じ道へ赴かれたのだった。

門脇の中納言は、嫡子越前の三位、末子業盛(なりもり)にも先立たれた。今頼りになさる人としては、能登守教経(のりつね)、僧では中納言忠快(ちゅうかい)だけである。故三位殿の形見ともこの女房を見ておられたのに、その人までもがこのようになられたので、たいそう心細くなられた。

朗読・解説:左大臣光永

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