平家物語 百十七 緒環(をだまき)

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『平家物語』巻第八より「緒環(をだまき)」。

九州に落ち延びた平家一門の前に、豊後(大分県)の豪族、緒方維義(おがた これよし)が立ちふさがる。この緒方維義は、異形の者の子孫だった。

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あらすじ

都落ちした平家一門は筑前国太宰府に入った。

筑紫(筑前・筑後)では内裏を作るべきだと决定がなされたが、まだ都も定められない。

天皇は岩戸の少卿・原田種直の宿所を臨時の御所とした。

一門はまず宇佐八幡宮(現大分県宇佐)に参詣する。

七日目の朝、大臣殿(宗盛)の夢に、宇佐八幡のお告げがあった。平家の行く末を悲観するものだった。

九月十三日は、見事な月だつたが、平家の人々は都を思う心細さに包まれ、歌を詠んだ。

都より豊後国へ平家追討の命令が下り、 代官の頼経は、緒方三郎維義(おがたのさぶろう これよし)にその任を負わせた。

この緒方三郎維義の先祖について伝承がある。

昔、備後国の片山里にある女のもとに、よなよな男が通っていた。

女の腹が大きくなったのを母があやしんで問うと、「どこに帰っていくのかわからない」というので、男が朝帰りするとき、狩衣の襟に針をさし糸巻をつけて、その糸をたどっていくと、 姥岳山の麓の岩屋に入っていった。

女が呼ぶと、中から大蛇が現れた。狩衣の袖に刺したと思った針は、大蛇の喉笛に刺さっていたのだった。

女はほどなく、丈夫な男の子を産んだ。夏も冬も手足にあかがり(あかぎれ)があったので、「あかがり大夫」と呼ばれた。

この大蛇は、日向国高千穂の明神の神体であったということだ。

緒方三郎維義は、このあかがり大夫から五代目の子孫である。

原文

さる程に、筑紫(つくし)には内裏(だいり)つくるべきよし沙汰(さた)ありしかども、いまだ都も定められず。主上(しゆしやう)は岩戸(いはど)の少卿大蔵(せうきやうおほくら)の種直(たねなお)が宿所(しゆくしよ)にわたらせ給ふ。人々の家々は野中(のなか)、田中(たなか)なりければ、麻(あさ)の衣(ころも)はうたねども、十市(とをち)の里ともいッつべし。内裏は山のなかなれば、かの木(き)の丸(まる)殿(どの)もかくやとおぼえて、なかなか優(いう)なる方もありけり。まづ宇佐宮(うさのみや)へ行幸(ぎやうがう)なる。大宮司公通(だいぐうじきんみち)が宿所、皇居(くわうきよ)になる。社頭(しやとう)は月卿雲客(げつけいうんかく)の居所(きよしよ)になる。廻廊(くわいらう)には五位六位の官人(くわんにん)、庭上(ていしやう)には四国鎮西(しこくちんぜい)の兵(つはもの)ども、甲冑弓箭(かつちゆうきゆうせん)を帯(たい)して雲霞(うんか)のごとくになみゐたり。ふりにしあけの玉垣(たまがき)、ふたたびかざるとぞ見えし。七日参籠(しちにちさんらう)のあけがたに、大臣殿(おほいとの)の御(おん)ために夢想(むさう)の告(つげ)ぞありける。御宝殿(ごほうでん)の御戸(みと)おしひらき、ゆゆしくけだかげなる御声(おんこゑ)にて、

世のなかのうさには神もなきものをなにいのるらむ心づくしに
大臣殿うちおどろき、むねうちさわぎ、

さりともと思ふ心もむしの音(ね)もよわりはてぬる秋のくれかな
といふふる歌をぞ、心ぼそげに口ずさみ給ひける。さて太宰府(だざいふ)へ還幸(くわんこう)なる。

さる程に、九月も十日あまりになりにけり。萩(をぎ)の葉むけの夕嵐(ゆふあらし)、ひとりまろねの床(とこ)のうへ、かたしく袖(そで)もしをれつつ、ふけゆく秋のあはれさは、いづくもとはいひながら、旅の空こそ忍びがたけれ。九月十三夜は名をえたる月なれども、其(その)夜は都を思ひいづる涙に、我からくもりてさやかならず。九重(きうちよう)の雲のうへ、久方(ひさかた)の月に思(おもひ)をのべしたぐひも、今の様(やう)におぼえて、薩摩守忠度(さつまのかみただのり)、

月を見しこぞのこよひの友のみや都にわれを思ひいづらむ
修理大夫経盛(しゆりのだいぶつねもり)、

恋しよこぞのこよひの夜もすがらちぎりし人のおもひ出(で)られて
皇后宮亮経正(くわうごくうのすけつねまさ)、

わけてこし野辺の露ともきえずして思はぬ里の月をみるかな

豊後国(ぶんごのくに)は刑部卿三位頼輔卿(ぎやうぶきやうざんみよりすけのきやう)の国なりけり。子息頼経朝臣(しそくよりつねのあつそん)を代官(だいくわん)におかれたり。京より頼経のもとへ、「平家は神明(しんめい)にもはなたれ奉り、君にも捨てられ参らせて、帝都(ていと)を出で浪(なみ)のうへにただよふ落人(おちうど)となれり。しかるを、鎮西(ちんぜい)の者どもがうけとッて、もてなすなるこそ奇怪(きつくわい)なれ。当国(たうごく)においてはしたがふべからず。一味(いちみ)同心して追出(ついしゆつ)すべき」よし、宣(のたま)ひつかはされたりければ、頼経朝臣、是(これ)を当国(たうごく)の住人緒方三郎惟義(をがたのさぶらうこれよし)に下知(げぢ)す。

現代語訳

そのうちに、九州では内裏を造るべきだという評決がなされたが、まだ都も決められない。天皇は岩戸の少卿大蔵の種直の宿所にいらっしゃる。人々の家は野の中、田の中なので、麻の衣は打たないが都から遠く離れた十市(とおち)の里ともいえる。内裏は山の中なので、あの木の丸殿もこのようであったのではと思われて、かえって優雅な趣もあった。先ず宇佐神宮へ行幸なる。大宮司公通の宿所が皇居になる。社殿の辺りは公卿・殿上人の宿所に充てられる。廻廊には五位・六位の役人、庭の中には四国・鎮西の武士どもが、甲冑・弓箭を帯して雲霞のように並んでいる。古びた朱色の玉垣を再び飾り立てているように見えた。七日に及ぶ参籠の明け方に、大臣殿の為に夢のお告げがあった。御宝殿の御戸を押し開き、神聖で畏れ多く気高そうな御声で、

世のなかのうさには神もなきものをなにいのるらむ心づくしに
(世の中の辛い事には神は何もできないが、心を込めて何を祈っているのだ)

大臣殿はたいそう驚いて、胸騒ぎがして、

さりともと思ふ心もむしの音もよわりはてぬる秋のくれかな
(そうは言ってもと思う心も虫の音も弱り果ててしまった秋の暮れであることよ)

という古い歌を、心細そうにお口ずさみになられた。そして太宰府へお帰りになる。

そのうちに九月も十日過ぎになってしまった。萩の葉に向かって吹く夕方の強い風、独り着の身着のままで寝る床の上、毎夜旅装のままの袖も涙でしおれつつ、更けゆく秋の哀れさは何処も同じとはいっても、旅の空では忍び難かった。九月十三夜は有名な名月ではあるが、その夜は都を思い出る涙に、自ら曇って明るく見えない。宮中において月を愛でて歌に思いを述べたのも、今の様に思われて、薩摩守忠度(さつまのかみただのり)、

月を見しこぞのこよひの友のみや都にわれを思ひいづらむ
(月を眺めた去年の今夜の友だけであろうか、都で私の事を思い出しているのは)
修理大夫経盛(しゅりのだいぶつねもり)、

恋しよこぞのこよひの夜もすがらちぎりし人のおもひ出(で)られて
(恋しいことであることよ。去年の今夜、夜もすがら契り合った人が思い出されて)
皇后宮亮経正(こうごうのすけつねまさ)、

わけてこし野辺の露ともきえずして思はぬ里の月をみるかな
(踏み分けて来た野辺の露としても消えずに思いがけず里の月を見るものかな)

豊後国は刑部卿三位頼輔卿(よりすけのきょう)の領地であった。子息の頼経朝臣(よりつねあっそん)を代官として置かれていた。京都から頼経のもとへ、「平家は神にも見放され申し、君にも捨てられ申して、帝都を出て波の上を漂う落人となった。それなのに、九州の者共が迎えて、世話をするのはけしからん。貴方の国では従ってはならぬ。一味の者心を一つにして追い出せ」ということを、言い遣わされたので、頼経朝臣は、当国の住人緒方三郎惟義(これよし)にその旨命令する。

語句

■少卿 底本「諸境」より改め。 ■十市の里 「更けにけり山の端近く月冴えて十市の里に衣打つ声」(新古今・秋下 式子内親王)。「秋のよをねざめて聞けば風寒み十市の里に衣打つなり」(続詞花・秋下 済円)。十市の里は奈良県橿原市十市町。遠地をかける。 ■木の丸殿 天智天皇が皇太子時代、母斉明天皇に随行して九州に下った際の御所。丸木を削っただけの簡素が御所だったため。「朝倉や木の丸殿にらわれをれば名のりをしつつゆくはたが子ぞ」(新古今・雑中 天智天皇)。この部分は『方丈記』の記述に酷似。「内裏は山の中なれば、かの木の丸殿もかくやと、なかなかやうかはりて、優なるかたも侍り」。 ■宇佐宮 大分県宇佐市の宇佐八幡宮。 ■大宮司公通 底本「大郡司公道」より改め(巻六「飛脚到来」)。 ■世のなかの… 「うさ」は「宇佐」と「憂さ」を、「つくし」は「尽くし」と「筑紫」をかける。 ■さりともと… 『千載集』秋下にある藤原俊成の歌。詞書に「保延(1135-41)のころほひ身をうらむる百首の歌よみ侍りける時、虫の歌とてよめる」。 ■さて太宰府へ還幸なる 太宰府から宇佐へ行幸し、ふたたび太宰府へ戻ったのである。宇佐から太宰府へは山中の道を通って100キロ弱。 ■九月も十日あまり 底本「九月十日」。 ■荻の葉むけの夕嵐 荻の葉を一方になびかせる夕方の風。「夕されば荻の葉むけを吹く風にことぞともなく涙落ちけり」(新古今・秋上 藤原実定)。 ■まろね 着物を着たまま寝ること。 ■かたしく袖 袖の片方を頭の下にしくこと。一人寝の寂しさの象徴。「きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに衣かたしき一人かも寝む」(新古今集・秋下 摂政太政大臣、小倉百人一首九十一番)。 ■いづくも 「さびしさに宿を立ち出でてながむればいづくも同じ秋の夕暮れ」(後拾遺・秋上 良暹法師、小倉百人一首七十番)。 ■名をえたる名月 宇多法皇が九月十三夜を賞して以来、九月十三夜を名月と定めた(『中右記』保延元年(1135)九月十三日条)。 ■月を見し… 「月を見て田舎なる男を思い出でて遣はしける 中宮内侍/こよひ君いかなる里の月を見て都にわれを思ひ出づらむ」(拾遺・恋三)。 ■恋しとよ… 延慶本・長門本は四句「月みし友の」。 ■頼輔卿 底本「頼資」より改め。藤原忠教の四男。蹴鞠の家、飛鳥井家の祖。 ■頼経 頼輔の子。治承四年(1180)、子の宗長が豊後守。宗長は祖父頼輔の養子。 ■奇怪 けしからんこと。 ■緒方三郎維義 豊後国大野郡緒方庄(大分県大野市緒方町)の人。本姓は大神(おおみわ)。三輪の明神(大物主神)の子孫と伝える。 

原文

彼(かの)惟義はおそろしき者の末なり。たとへば豊後国の片山里(かたやまざと)に昔をんなありけり。或人(あるひと)のひとり娘(むすめ)、夫(をつと)もなかりけるがもとへ、母にも知らせず、男よなよなかよふ程に、とし月もかさなる程に、身もただならずなりぬ。母是をあやしむで、「汝(なんぢ)がもとへかよふ者は何者ぞ」と問へば、「くるをば見れども、帰るをば知らず」とぞいひける。「さらば男の帰らむとき、しるしを付けて、ゆかむ方(かた)をつないで見よ」とをしへければ、娘、母のをしへにしたがッて、朝帰(あさがへり)する男の水色(みづいろ)の狩衣(かりぎぬ)を着たりけるに、狩衣の頸(くび)かみに針をさし、しづの緒環(をだまき)といふものをつけて、へてゆくかたをつないでゆけば、豊後国にとッても日向(ひうが)ざかひ、優婆岳(うばだけ)といふ嵩(だけ)の裾(すそ)、大きなる岩屋(いはや)のうちへぞつなぎいれたる。をんな岩屋のくちにたたずんで聞けば、おほきなる声(こえ)してによひけり。「わらはこそ是(これ)まで尋ね参りたれ。見参(げんざん)せむ」といひければ、「我は是(これ)人のすがたにはあらず。汝すがたを見ては、肝(きも)たましひも身にそふまじきなり。とうとう帰れ。汝がはらめる子は男子(なんし)なるべし。弓矢打物(うちもの)とッて九州二島(きうしうじたう)にならぶ者もあるまじきぞ」とぞいひける。女重ねて申しけるは、「たとひいかなるすがたにてもあれ、此日來(このひごろ)のよしみ何とてか忘るべき。互(たがひ)にすがたをも見もし見えむ」といはれて、「さらば」とて、岩屋の内より臥(ふし)だけは五六尺、跡枕(あとまくら)べは十四五丈もあるらむとおぼゆる大蛇(だいじや)にて、動揺(どうえう)してこそはひ出でたれ。狩(かり)衣(ぎぬ)のくびかみにさすと思ひつる針は、すなはち大蛇ののゥぶえにこそさいたりけれ。女是を見て、肝(きも)たましひも身にそはず。ひきぐしたりける所従十余人(しよじゆうじふよにん)倒(たふ)れふためき、をめきさけむでにげさりぬ。女帰りてほどなく産(さん)をしたれば、男子(なんし)にてぞありける。母方(ははかた)の祖父太大夫(おほぢだいたいふ)そだてて見むとてそだてたれば、いまだ十歳にもみたざるに、せいおほきにかほながく、たけたかかりけり。七歳にて元(げん)服(ぷく)せさせ、母方(ははかた)の祖父(おほぢ)を太大夫といふ間、是をば大太(だいた)とこそつけたりけれ。夏も冬も手足(てあし)におほきなるあかがりひまなくわれければ、あかがり大太とぞいはれける。件(くだん)の大蛇は日向国(ひうがのくに)にあがめられ給へる高知尾(たかちを)の明神(みやうじん)の神体(しんたい)なり。此緒方(このをかた)の三郎(さぶらう)は、あかがり大太には五代の孫(そん)なり。かかるおそろしき者の末なりければ、国司(こくし)の仰(おほ)せを院宣(ゐんぜん)と号(かう)して、九州二島(きうしうじたう)にめぐらしぶみをしければ、しかるべき兵(つはもの)ども惟義(これよし)に随ひつく。

現代語訳

あの惟義は恐ろしい者の子孫であった。というのは、昔豊後国の片田舎の山里に女が住んでいた。ある人のひとり娘で、夫もいなかったがその女の所へ、母にも知らせず、男が夜な夜な通っているうちに、年月も重なって、女は身籠ってしまった。母は是を不審に思って「お前の所へ通ってくるのは何者か」と問うと、「来るのは見ますが、帰るのは見た事がありません」と言った。「では男が帰ろうとする時、印(しるし)を付けて、糸などを使って行き先をたどって見よ」と教えたので、娘は母の教えに従って、朝帰りする男の水色の狩衣の首元に針を刺し、倭文(しず)の緒環(おだまき)というものを付けて、超えて行く方角へ糸を紡いでいくと豊後国の中でも日向との境、優婆岳(うばだけ)という山の麓の大きな岩屋の中へ糸は入っている。女が岩屋の入り口に佇んで中の様子を尋ねると、大き声で呻(うめ)いている。「私はここまで尋ねて参りました。お顔をお見せください」と言ったところ、「自分は人の姿ではない。お前が私の今の姿を見ればびっくり仰天するだろう。とっとと帰れ。お前が孕んでいる子は男子であろう。弓矢、刀を持たせれば九州、壱岐・対馬の二島には並ぶ者もあるまい」と言った。女が重ねて、「たとえどんな姿であっても、日頃の親しい交わりをどうして忘れられましょう。互いに姿を見もし、見せもしましょう」と言われて、「では」と言って、岩屋の中から臥した姿だけでは五六尺、全身の長さは十四五尺もあろうかと思われる大蛇で、体を揺すりながら這い出した。狩衣の首元に刺したと思った針は、すなわち大蛇の喉笛に刺していたのだ。女はこれを見てびっくり仰天する。引き連れていた家来たち十四五人は倒れふためき、わめき叫んで逃げ去った。女が帰ってまもなくお産をしたところ男子であった。母方の祖父太大夫が育ててみようと言って育てたところ、まだ十歳にもならないのに、背は高く、顔は長く、身体は大きかった。七歳で元服させ、母方の祖父を太大夫というので、この子を大太と名付けた。夏も冬も手足には大きなあかぎれが隙間もないほどたくさんできたので、あかがり大太と言われていた。例の大蛇は日向の国に崇め奉られている高知尾(こうちお)の明神の神体である。この緒方の三郎はあかがり大太にとっては五代目の子孫に当るのである。このような恐ろしい者の子孫だったので、国司の仰せを院宣と号して、九州、壱岐・対馬の二島に廻状を回したので、相当な兵士武士どもが惟義に随い付いたのであった。

語句

■彼維義は… 以下の逸話は『古事記』にある三輪の大物主神が活玉依毘売(いくたまよりびめ)のもとに通った記事と同じ。酒天童子の出生を語った息吹弥三郎伝説を語った『息吹童子』とも似る。 ■つないで 跡をつけていって。 ■頸かみ 狩衣の頸を包むように作った襟の部分。 ■しづの緒環 「倭文」は赤・青などの糸で編んだ布。「緒環」は糸を輪に巻いたもの。 ■とッても 中でも。 ■優婆岳 現祖母山。豊後・日向・肥後の境にある山。その北に姥岳神社があり、豊玉毘売を祭る。 ■によひけり 「によふ」はうめく。うなる。 ■肝たましひも身にそふまじき 肝も魂も体についてはいないだろう。ひどく驚くこと。 ■九州ニ島 九州および壱岐・対馬のニ島。 ■いはれて 大蛇が女に言われて。 ■臥だけ 臥した時の長さ。うずくまった時の長さ。 ■跡枕べ 寝た時の頭の先から尾までの長さ。 ■のゥぶえ 底本「のふゑ」より改め。「喉笛」の転。 ■あかがり あかぎれ。父の大蛇の鱗を思わせる。 ■高知尾の明神 宮崎県西臼杵郡高千穂町にある高千穂神社。天孫降臨の神話にまつわる。「高千穂の夜神楽」で有名。

……

豊後の豪族、緒方三郎維義の出自についての伝承ですが、『古事記』崇神天皇条にある三輪山伝説とまったく同じです。三輪山を優婆岳に、大物主神を高千穂の神に置き換えたようになっています。

朗読・解説:左大臣光永

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