平家物語 百四十三 落足(おちあし)

平家物語巻第九より「落足(おちあし)」。一の谷の合戦は平家方の敗北に終わった。東の生田の森も、西の一谷も総崩れとなり、安徳天皇以下、残った者たちは舟に乗ってほうぼうへ落ちていく。

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前回「知章最後」からのつづきです。
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あらすじ

備中守師盛(びっちゅうのかみ もろもり)は舟で撤退するところだったが、味方の侍に呼び止められ舟に乗ろうとしたところ舟がひっくり返り、海に投げ出された。そこを源氏に引上げられ、首を刎ねられた。

越前三位通盛(えちぜんのさんみ みちもり)は味方から分断され、弟の能登殿(教経)ともはぐれ、敵七騎に囲まれ討たれた。

この合戦で平家の主だった人々のうち十人が命を落とした。

安徳天皇以下、残った者たちはそれぞれ舟で落ち延びていく。

原文

小松殿(こまつどの)の末子(ばつし)、備中守師盛(びつちゆうのかみもろもり)は、主従(しゆうじゆう)七人小船(こぶね)に乗ッておち給ふところに、新中納言の侍清衛門公長(せいゑもんきんなが)といふ者馳(は)せ来(きた)ッて、「あれは備中守殿(びつちゆうのかうのとの)の御舟(おんふね)とこそ見参らせ候(さうら)へ。参り候はん」と申しければ、舟を汀(みぎは)にさし寄せたり。大(だい)の男(をのこ)の鎧(よろひ)着ながら、馬より舟へがはと飛び乗らうに、なじかはよかるべき。 舟はちひさし、くるりとふみかへしてンげり。備中守うきぬ沈みぬし給ひけるを、畠山(はたけやま)が郎等本田次郎(らうだうほんだのじらう)、十四五騎で馳せ来(きた)り、熊手(くまで)にかけてひきあげ奉り、遂(つひ)に頸(くび)をぞかいてンげる。 生年(しやうねん)十四歳とぞ聞えし。

越前三位通盛卿(ゑちぜんのさんみみちもりのきやう)は、山手(やまのて)の大将軍(たいしやうぐん)にておはしけるが、其日の装束には赤地(あかぢ)の錦(にしき)の直垂(ひたたれ)に、唐綾威(からあやをどし)の鎧着て、黄河原毛(きかはらげ)なる馬に白覆輪(しろぷくりん)の鞍(くら)おいて乗り給へり。内甲(うちかぶと)を射させて、敵(かたき)におしへだてられ、おとと能登殿(のとどお)にははなれ給ひぬ。しづかならん所にて自害せんとて、東にむかっておち給ふ程に、近江国住人佐々木(あふみのくにのぢゆうにんささき)の木材三郎成綱(きむらのさぶらうなりつな)、武蔵国住人玉井四郎資景(むさしのくにのぢゆうにんたまのゐのしらうすけかげ)、かれこれ七騎がなかに取りこめられて、つひにうたれ給ひぬ。其時までは侍一人(いちにん)つき奉ッたりけれども、それも最後の時はおちあはず。

凡(およ)そ東西の木戸ロ(きどぐち)、時をうつす程なりければ、源平かずをつくいてうたれにけり。矢倉(やぐら)のまへ、逆茂木(さかもぎ)の下(した)には、人馬(じんば)のししむら山のごとし。一谷(いちのたに)の小篠原(をざさはら)、緑(みどん)の色をひきかへて、薄紅(うすぐれなゐ)にぞなりにける。一谷、生田森(いくたのもり)、山の岨(そは)、海の汀(みぎは)にて射られきられて死ぬるは知らず、源氏のかたにきりかけらるる頸ども二千余人なり。今度うたれ給へるむねとの人々には、 越前三位通盛、弟蔵人大夫業盛(おととくらんどのたいふなりもり)、薩摩守忠度(さつまのかみただのり)、武蔵守知章(むさしのかみともあきら)、 備中守師盛、尾張守清貞(おはりのかみきよさだ)、淡路守清房(あはぢのかみきよふさ)、修理大夫経盛嫡子皇后宮亮経正(しゆりにだいふつねもりのちやくしくわうごくうのすけつねまさ)、弟若狭守経俊(おととわかさのかみつねとし)、其弟大夫敦盛(そのおととたいふあつもり)、以上十人とぞきこえし。

いくさやぶれにければ、主上(しゆしやう)をはじめ奉って、人々みな御舟(おふね)に召して出で給ふ心のうちこそ悲しけれ。塩にひかれ風に随(したが)ッて、紀伊路(きのぢ)へおもむく舟もあり。葦屋(あしや)の沖に漕(こ)ぎ出でて 浪(なみ)にゆらるる舟もあり。或(あるい)は須磨(すま)より明石(あかし)の浦(うら)づたひ、泊(とまり)さだめぬ梶枕(かぢまくら)、かたしく袖もしをれつつ、朧(おぼろ)にかすむ春の月、 心をくだかぬ人ぞなき。或は淡路(あはぢ)の瀬戸(せと)を漕ぎとほり、絵島(えしま)が磯(いそ)にただよへば、波路(なみぢ)かすかになきわたり、友まよはせるさ夜鵆(よちどり)、是も我身のたぐひかな。行くさきいまだいづくとも 思ひ定めぬかとおぼしくて、一谷の沖にやすら舟もあり。かやうに風にまかせ、浪に随ひて、浦々島々(うらうらしまじま)にただよへば、 互(たがひ)に死生(ししやう)も知りがたし。国をしたがふる事も十四箇国(かこく)、勢(せい)のつく事も十万余騎、都へちかづく事も纔(わず)かにに一日(いちにち)の道なれば、今度はさりともとたのもしう思はれけるに、一谷をもせめおとされて、人々みな心ぼそうぞなられける。

現代語訳

小松殿の末っ子、備中守師盛(もろもり)は、主従七人で小舟に乗って逃げようとなさったが、新中納言の侍清衛門公長(せいえもんきみなが)という者が駆けて来て、「それは備中守殿の御舟とお見受けいたします。その舟に私も参ります」と申したところ、舟を汀に漕ぎ寄せた。大の男が鎧を着たまま、馬から舟へぱっと飛び乗ろうとしたが、どうしていいことがあろうか。舟は小さいし、足を下した途端舟はくるりとひっくり返ってしまった。備中守が浮いたり沈んだりされていたのを、畠山の郎等本田次郎が、十四五騎で駆けて来て、熊手にかけてお引き上げ申し、遂には首を斬ったのだった。生年十四歳ということであった。

越前三位通盛卿は、山手の大将軍であられたが、その日の装束は、赤地の錦の直垂に、唐綾威(からあやおどし)の鎧を着て、黄河原毛(きかわらげ)の馬に白覆輪(しろぷくりん)の鞍を置いてお乗りになっていた。甲の中迄射通され、敵に割り込まれて、弟の能登殿と別れ別れになった。静かな所で自害しようと、東に向って逃げられたが、近江国の住人佐々木の木村三郎成綱、武蔵国の住人玉井四郎資景(すけかげ)の兵士、かれこれ七騎の中に取り囲まれて、遂にお討たれになった。その時までは侍が一人付き申していたが、それも最後の時には居合わせなかった。

およそ東西の木戸口では、戦いが二時間ほど続いたので、源平の兵士どもが数多く討たれていた。矢倉の前、逆茂木(さかもぎ)の下には切り取られた人馬の肉塊が山のようになっていた。一の谷の小篠原(おざさわら)は、緑の色に代わって薄紅(うすくれない)に染まっていた。一の谷、生田の森、山の斜面、海の汀で射られ、死んだ者はわからないが、源氏方に斬られ、晒し首にされた者は二千余人である。今度お討たれになった主だった人々は、越前三位通盛、弟蔵人大夫業盛(なりもり)、薩摩守忠度(さつまのかみただのり)、武蔵守知章(むさしのかみともあきら)、 備中守師盛(もろもり)、尾張守清貞(きよさだ)、淡路守清房(きよふさ)、修理大夫経盛(しゅうりだいふつねもり)の嫡子皇后宮亮経正(こうごうぐうのすけつねまさ)、弟若狭守経俊(つねとし)、其弟大夫敦盛(あつもり)、以上十人ということであった。

平家は合戦に敗れたので、安徳天皇を初め申して、人々は皆御舟に乗って海へ漕ぎだされたが、その心の中は悲しみでいっぱいだった。潮に流され、風の吹くまま紀伊方面へ向う舟もある。芦屋の沖に漕ぎ出して、波に揺られる舟もある。或は須磨から明石の海岸に添って流され、寝る所も決まらず、梶を枕にして寝たり、片袖だけを敷いての独り寝に袖も萎れ、朧に霞む春の月を眺めては、心を痛めない人はいなかった。或いは淡路の瀬戸を漕ぎ通り、絵島の磯に漂うと、波路をかすかに鳴き渡り、友にはぐれた小夜千鳥(さよちどり)を見ては、これも自分と同じ境遇にあるなと思う。何処へ行くとも決まっていないと思われて、一の谷の沖で休んでいる舟もある。このように風に吹かれるまま、潮の流れに乗って、浦々島々を漂っていると互いの生死もわからない。国を従える事十四か国、軍勢の付く事も十万余騎、都に近付く事もわずか一日の道程(みちのり)の事なので、今度はいくら何でもと頼もしく思っておられたのに、一の谷まで攻め落とされて、人々は皆心細くなられた。

語句

■小松殿 平重盛。 ■備中守師盛 重盛の末子。維盛の弟。 ■清衛門公長 伝未詳。 ■備中守殿 師盛のこと。 ■がはと 擬音。急に飛び乗ったさま。 ■うきぬ沈みぬ 浮いたり沈んだり。 ■本田次郎 伝未詳。 ■通盛 底本「道盛」から改め。以下同。 ■白覆輪 鞍の前輪(まえわ)・後輪(しりえわ)を銀で覆ったもの。銀覆輪。 ■佐々木の木村三郎成綱 宇多源氏。佐々木氏の一族。近江国蒲生郡佐々木庄(滋賀県栗東市)木村に居住。 ■玉井四郎資景 武蔵国幡羅郡玉井村(埼玉県熊谷市玉井)の人。 ■東西の木戸口 東は生田の森の、西は一の谷の木戸口。 ■小笹原 笹の生えた原。地名ではない。 ■岨 山の切り立った斜面。読みはソワ。 ■ニ千余人 「関東両将、摂津国ヨリ飛脚ヲ京都ニ進ム、昨日一谷ニ於テ合戦ヲ遂ゲ、大将軍九人梟首、其ノ外誅戮千余輩ニ及ブノ由之ヲ申ス」(『吾妻鏡』寿永三年二月八日条)。 ■清貞 底本「清定」より改め。 ■須磨より明石の浦づたひ 「浦づたふ磯のとま屋の楫枕聞きもならはぬ浪の音かな」(千載・羇旅 藤原俊成)を引くか。 ■梶枕 舟の楫を枕に寝ること。船旅をいう。 ■かたしく袖 片方の袖をしいて寝ること。独り寝をいう。 ■淡路の瀬戸 明石と淡路島の間の海峡。明石海峡。参考「淡路島通ふ千鳥の鳴く声にいく夜寝覚めぬ須磨の関守」(小倉百人一首七十八番 源兼昌) ■絵島 淡路島北部。兵庫県津名郡淡路町岩屋の海岸近くにうかぶ島。歌枕。 ■友まよはせる 「夕されば佐保の河原の川霧に友まどはせる千鳥鳴くなり」(拾遺・冬 紀友則)。 ■さ夜鵆 千鳥。「さ」は接頭語。 ■やすらふ ぐずぐずしている。躊躇している。 ■十四箇国 「都合十四箇国をうちしたがへて召さるるところの軍兵なり」(巻九「樋口被討罰」)。 ■さりとも いくらなんでも勝利して都に帰れるだろう。

朗読・解説:左大臣光永

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