平家物語 百四十ニ 知章最期(ともあきらさいご)

原文

門脇中納言教盛卿(かどわきのちゆうなごんのりもりのきやう)の末子蔵人大夫業盛(ばつしくらんどのたいふなりもり) は、常陸国住人土屋五郎重行(ひたちのくにのぢゆうにんつちやのごらうしげゆき)にくんでうたれ給ひぬ。修理大夫経盛(しゆりのだいぶつねもり)の嫡子(ちやくし)、皇后宮亮経正(くわうごくうのすけつねまさ)は、たすけ舟に乗らんと汀(みぎは)の方(かた)へ落ち給ひけるが、河越小太郎重房(かはごえのこたらうしげふさ)が手に取籠(とりこ)められてうたれ給ひぬ。若狭守経俊(わかさのかみつねとし)、淡路守清房(あはじのかみきよふさ)、尾張守清貞(をはりのかみきよさだ)、三騎(さんぎ)つれてかたきのなかへかけ入り、さんざんにたたかひ、分捕あまたして、一所(ひつしよ) で討死(うちじに)してンげり。

新中納言知盛卿(しんぢゆうなごんとももりのきやう)は、生田森(いくたのもり)の大将軍(たいしやうぐん)にておはしけるが、其勢(そのせい)みな落ちせて、今は、御子武蔵守知章(おんこむさしのかみともあきら)、侍に監物太郎頼方(けんもつたらうよりかた)、ただ主従(しゆうじゆう)三騎になッて、たすけ舟に乗らんと汀のかたへ落ち給ふ。
ここに児玉党(こだまたう)とおぼしくて、うちはの旗(はた)さいたる者ども十騎計(ばかり)をめいておッかけ奉る。監物太郎は究竟(くつきやう)の弓の上手ではあり、まッさきにすすんだる旗さしがしや頸(くび)の骨をひやうふつと射て、馬よりさかさまに射落とす。そのなかの大将とおぼしき者、新中納言にくみ奉らんと馳(は)せならべけるを、御子武蔵守知章なかにへだたり、おしならべてむずとくんでどうどおち、とッておさへて頸をかき、たちあがらんとし給ふところに、敵(かたき)が童(わらは)おちあうて、武蔵守の頸をうつ。監物太郎おちかさなッて、武蔵守うち奉(たてま)ッたる敵が童をもうッてンげり。其後(そののち)矢だねのある程射つくして、打物(うちもの)ぬいてたたかひけるが、敵あまたうちとり、弓手(ゆんで)の膝口(ひざぐち)を射させて、たちもあがらず、ゐながら討(うち)死(じに)してンげり。

此まぎれに新中納言は、究竟の名馬には乗り給へり、海のおもて廿余町およがせて、大臣殿(おほいとの)の御舟(おんふね)につき給ひぬ。御舟 には人おほくこみ乗って、馬たつべきやうもなかりければ、汀へおッかへす。阿波民部重能(あわはのみんぶしげよし)、「御馬かたきのものになり候(さうら)ひなんず。射ころし候はん」とて、片手矢はげて出でけるを、新中納言、「何(なに)の物にもならばなれ。我命(わがいのち)をたすけたらんものを。あるべうもなし」と宣(のたま)へば、力及ばで射ざりけり。 此(この)馬主(ぬし)のわかれをしたひつつ、しばしは舟をもはなれやらず、 沖の方へおよぎけるが、次第にとほくなりければ、むなしき 汀におよぎかへる。足たつほどにもなりしかば、猶(なほ)舟の方をかへりみて、二三度までこそいななきけれ。其(その)後陸(くが)にあがッてやすみけるを、河越小太郎重房(かはごえのこたらうしげふさ)とッて、院へ参らせたりければ、やがて院の御厩(みむまや)にたてられけり。もとも院の御秘蔵(ごひさう) の御馬にて、一の御厩にたてられたりしを、宗盛公(むねもりこう)、内大臣(ないだいじん)になッて悦申(よろこびまうし)の時、給はられたりけるとぞきこえし。新中納言に預けられたりしを、中納言あまりに 此馬を秘蔵(ひさう)して、馬のいのりのためにとて、毎月朔日(まいぐわつついたち)ごとに泰山府君(たいざんぶくん)をぞまつられける。 其(その)ゆゑにや、馬の命ものび、ぬしの命をもたすけけるこそめでたけれ。この馬は信濃国井上(しなののくにゐのうへ)だちにてありければ、井上黒(ゐのうえぐろ)とぞ申しける。後(のち)には河越がとッて参らせたりければ、河越黒(かはごえぐろ)とも申しけり。

新中納言、大臣殿(おほいとの)の御(おん)まへに参って申されけるは、「武蔵守におくれ候ひぬ。監物太郎うたせ候ひぬ。今は心ぼそうこそまかりなッて候へ。いかなれば子はあッて、親をたすけんと敵(かたき)にくむを見ながら、いかなる親なれば、子のうたるるをたすけずして、かやうにのがれ参ッて候らんと、人のうへで候はばいかばかりもどかしう存じ候べきに、我身の上になりぬれば、よう命は惜しい物で候ひけりと、今こそ思ひ知られて候へ。人々の思はれん心のうちどもこそ恥づかしう候へ」とて、袖をかほにおしあてて、さめざめと泣き給へば、大臣殿これを聞き給ひて、「武蔵守の父の命にかはられけるこそありがたけれ。手もきき心も剛(かう)に、よき大将軍にておはしつる人を。清宗(きよむね)と同年(どうねん)にて、今年(ことし)は十六な」とて、御子衛門督(おんこゑもんのかみ)のおはしけるかたを御覧じて涙ぐみ給へば、いくらもなみゐたりける平家の侍ども、心あるも心なきも、皆鎧(よろひ)の袖(そで)をぞぬらしける。

現代語訳

門脇中納言教盛卿(かどわきのちゅうなごんののりもりのきょう)の末っ子蔵人大夫業盛(くらんどのたいふなりもり)は、常陸国住人土屋五郎重行と組んでお討たれになった。修理大夫経盛(つねもり)の嫡子(ちゃくし)、皇后宮亮経正(こうごうぐうのすけつねまさ)は、助け舟に乗ろうと汀(みぎわ)の方へお逃げになったが、、河越小太郎重房の軍勢に取り囲まれてお討たれになった。若狭守経俊(つねとし)、淡路守清房(きよふさ)、尾張守清貞(きよさだ)は三騎づれで敵の軍勢の中へ駆け入り、散々戦い、分捕りをたくさんして、同じ所で討死したのだった。

新中納言知盛卿(とももりきょう)は、生田の森の大将軍であられたが、その軍勢は皆逃げ失せて、今は御子武蔵守知章(ともあきら)、侍に監物太郎頼方(よりかた)のただ主従三騎になって、助け舟に乗ろうと汀の方へお逃げになる。ここに児玉党と思われる、軍配団扇(ぐんぱいだんせん)の旗を挿した者どもが十数騎程大きな声をあがて追いかけ申す。監物太郎は大変な弓の上手ではあり、真っ先に進んだ旗挿しの、首の骨をひょうふっと射て、馬から逆さまに射落す。その中の大将と思われる者が新中納言に組み申そうと馳せ並べたのを、御子の武蔵守知章が間(あいだ)に割り込んで押し並べ、むんずと組んでどしんと落ち、取り押さえて首をとり、立ち上がろうとなさる所に、敵の童子がやって来て、武蔵守の首を討つ。監物太郎は落ち重なって、武蔵守を討ち申した敵の童子をも討ったのだった。その後、矢種があるだけ射尽して、刀を抜いて戦い、敵を大勢討取ったが、左足の膝の関節を射られて立ち上がる事もできず、座ったままで討ち死にしたのだった。

この騒動の間に新中納言は、非常な名馬にお乗りになっており、海面を二十余町泳がせて、大臣殿(おおいどの)の御舟にお着きになった。御舟は人がたくさん乗って混み合っており、馬が立てるような所も無かったので、馬を汀へ追い返す。阿波民部重能(しげよし)は、「御馬は敵の物になるでしょう。射殺しましょう」と言って、一本の矢をつがえて出て来たが、新中納言は、「誰の物にでもなるならなっていい。私の命を助けてくれたものだのに。射殺してはならぬ」と言われたので、どうしようもなく射なかった。この馬は主人との別れを惜しんで、しばらくは舟を離れかねて、沖の方へ泳いだが、次第に舟が遠ざかったので、主人のいない海岸へ向って泳ぎ帰って行った。足が立つほどになったので、猶も舟の方を振り返って、二三度までいなないた。その後、陸に上がって休んでいたのを、河越小太郎重房が捕えて、院に献上したので、すぐに院の御厩(みうまや)に繋がれた。もともと院の御秘蔵の御馬で、一の御厩に繋がれていたのを、宗盛公が内大臣になって、それへの御礼を申し上げられた時、頂かれたのだという。新中納言に預けられたのに、中納言があまりにもこの馬を可愛がって育て、馬の無事を祈って毎月一日に泰山府君(たいさんぶつくん)を祀られた。そのためであろうか馬の寿命も延び、主人の命をも助けたことは目出度い事であった。この馬は信濃国井上育ちだったので、井上黒(いのうえぐろ)と申した。後には河越が捕えて献上したので、河越黒(かわごえぐろ)とも申した。

新中納言が、大臣殿の前へ来て申されるには、「武蔵守に先立たれました。監物太郎は討たれました。今は心細くなってしまいました。どういうわけで子がいて、親を助けようと敵に組むのを見ながら、どんな親なら、子が討たれるのを助けないで、このように逃げて來たのだろうかと、他人事(ひとごと)であればどれほどかもどかしく思うところでしょうが、自分の事になると、よくよく命は惜しい物であったよと、今こそ思い知らされました。人々がどう思われるのかその心の内を考えると恥ずかしゅうございます」といって、袖を顔に押し当てて、さめざめとお泣きになられるので、大臣殿はこれを聞いて、「武蔵守が父の代りに命を失くされたのは世にも希なすばらしい事だ。腕もきき、心も強く、良い大将軍であられた人を。清宗と同い年で、今年は十六とな」といって、御子衛門督清宗(おんこえもんのかみきよむね)がいらっしゃる方を御覧になって涙ぐまれると、大勢並んでいた平家の侍共は、心ある者も心無い者も、皆鎧の袖を濡らしたのであった。

次の章「平家物語 百四十三 落足(おちあし)

朗読・解説:左大臣光永

【古典・歴史】メールマガジンはこちら