平家物語 百四十一 敦盛最期(あつもりのさいご)

『平家物語』巻第九より「敦盛最期(あつもりのさいご)」。一の谷の合戦のさなか、源氏方熊谷次郎直実(くまがへじろう なおざね)は、汀を船に向かって逃げていく平家の公達をよびとめる。

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前回「重衡生捕」からのつづきです。
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あらすじ

平家は敗北し、一の谷の合戦は終わろうとしていた。源氏の武将熊谷次郎直実は、よい敵を探していた。そこへ舟へ逃げようとする武者(敦盛)の姿を見つける。

熊谷が呼び止めるとその武者は引き返してきた。組み伏せて顔を見るとまだ十七、八歳の若武者だった。

熊谷は我が子小次郎の姿が重なり敦盛を逃がそうとするが、 後ろを見ると源氏の大群が迫っていた。

せめて自分の手で討ち取り、後世を弔おうと、熊谷は泣く泣く敦盛の首を取るのだった。

腰にさしていた笛を見て、その若武者が敦盛とわかった。熊谷は戦場に笛を持参するという敦盛の風流さに感嘆し、これが後に出家するきっかけとなった。

原文

いくさやぶれにければ、熊谷次郎直実(くまがへのじらうなおざね)、「平家の君達(きんだち)たすけ舟に乗らんと、汀(みぎわ)の方(かた)へぞおち給ふらむ。あッぱれ、よからう大将軍(たいしやうぐん)にくまばや」とて、磯(いそ)の方へあゆまするところに、練貫(ねりぬき)に鶴(つる)ぬうたる直垂(ひたたれ)に、萌黄匂(もよぎにほひ)の鎧(よろひ)着て、鍬形(くはがた)うッたる甲(かぶと)の緒しめ、こがねづくりの太刀をはき、切斑(きりふ)の矢負ひ、滋籐(しげどう)の弓もッて、連銭葦毛(れんぜんあしげ)なる馬に黄覆輪(きンぷくりん)の鞍(くら)おいて乗ッたる武者一騎、沖なる舟に目をかけて、海へざッとうちいれ、五六段(たん)ばかりおよがせたるを、熊谷、「あはれ大将軍とこそ見参らせ候(さうら)へ。まさなうも敵(かたき)にうしろを見せさせ給ふものかな。 かへさせ給へ」と扇をあげてまねきければ、招かれてとッてかへす。汀にうちあがらんとするところに、おしならべてむずとくんでどうどおち、とッておさへて頸(くび)をかかんと甲をおしあふのけてみければ、年十六七ばかりなるが、薄化粧(うすげしやう)して、かね黒(ぐろ)なり。我子(わがこ)の小次郎がよはひ程にて、容顔(ようがん)まことに美麗(びれい)なりければ、いづくに刀を立つべしともおぼえず。「抑(そもそも)いかなる人にてましまし候ぞ。名のらせ給へ。たすけ参らせん」と申せば、「汝(なんぢ)はたそ」と問ひ給ふ。「物その者で候はねども、武蔵国住人(むさしのくにのぢゆうにん)、熊谷次郎直実」となのり申す。「さては、 なんぢにあうてはなのるまじいぞ。なんぢがためにはよい敵(かたき)ぞ。名のらずとも頸をとって人に問へ。見知らうずるぞ」とぞ宣ひける。熊谷、「あッぱれ、大将軍や。此人一人(いちにん)うち奉(たてま)ッたりとも、まくべきいくさに勝つべきやうもなし。又うち奉らずとも、勝つべきいくさにまくる事もよもあらじ。小二郎がうす手(で)負うたるをだに、直実は心苦しうこそ思ふに、此殿(このとの)の父、うたれぬと聞いて、いか計(ばかり)かなげき給はんずらん。あはれたすけ奉らばや」と思ひて、うしろをきッと見ければ、土肥(とひ)、梶原(かじはら)五十騎ばかりでつづいたり。熊谷涙をおさへて申しけるは、「たすけ参らせんとは存じ候へども、御方(みかた)の軍兵(ぐんぴやう)雲霞(うんか)のごとく候。よものがれさせ給はじ。人手(ひとで)にかけ参らせんより、同じくは直実が手にかけ参らせて、後(のち)の御孝養(おんけうやう)をこそ仕(つかまつ)り候はめ」と申しければ、「ただとくとく頸(くび)をとれ」とぞ宣(のたま)ひける。熊谷あまりにいとほしくて、いづくに刀をたつべしともおぼえず、目もくれ心もきえはてて、前後(ぜんご)不覚(ふかく)におぼえけれども、さてしもあるべき事ならねば、泣く泣く頸をぞか いてンげる。「あはれ、弓矢をとる身ほど口惜しかりけるものはなし。武芸の家に生れずは、何とてかかるうき目をばみるべき。なさけなうもうち奉るものかな 」とかきくどき、袖をかほにおしあててさめざめとぞ泣きゐたる。良(やや)久しうあッて、さてもあるべきならねば、鎧直垂(よろひひたたれ)をとッて頸をつつまんとしけるに、錦(にしき)の袋にいれたる笛(ふえ)をぞ腰にさされたる。「あないとほし、この暁城(じやう)のうちにて管絃(くわんげん)し給ひつるは、此人々にておはしけり。当時みかたに東国の勢何万騎(なんまんぎ)かあるらめども、いくさの陣へ笛もつ人はよもあらじ。上﨟(じやうらふ)は猶(なほ)もやさしかりけり」とて、九郎御曹司(くらうおんざうし)の見参(げんざん)に入れたりければ、これを見る人涙をながさずといふ事なし。

後(のち)に聞けば、修理大夫経盛(しゆりのだいぶつねもり)の子息に大夫敦盛(だいふあつもり)とて、生年(しやうねん)十七にぞなられける。それよりしてこそ熊谷が発心(ほつしん)の思(おもひ)はすすみけれ。件(くだん)の笛はおほぢ忠(ただ)盛(もり)笛の上手にて、鳥羽院(とばのゐん)より給はられたりけるとぞきこえし。経盛相伝(さうでん)せられたしを、敦盛器量たるによッて、もたれたりけるとかや。名をばとぞ小枝(こえだ)とぞ申しける。狂言綺語(きやうげんきぎよ)の理(ことわり)といひながら、遂(つひ)に賛仏乗(さんぶつじよう)の因(いん)となるこそ哀れなれ。

現代語訳

平家が戦に負けたので、熊谷次郎直実は、「平家の公達が助け舟に乗ろうと汀の方へ落ちられるであろう。ああ、身分の高い大将軍と会って組みたいものだ」と言って、磯の方へ馬を進ませているところに、練貫(ねりぬき)に鶴を縫い付けた直垂に、萌黄匂(もえぎにおい)の鎧を着て、鍬形(くわがた)を打ち付けた甲の緒を締め、黄金づくりの太刀を佩き、切斑(きりふ)の矢を負い、滋籐(しげどう)の弓を持って、連銭葦毛(れんぜんあしげ)の馬に黄覆輪(きんぷくりん)の鞍(くら)を置いて乗った武者が一騎、沖の船を目指して、海へざっと打ち入れ、五六段ほど泳がせたのを、熊谷は、「ああ、そこにおられるのは大将軍とお見受けいたす。卑怯にも敵に後をお見せになられるか。お戻りくだされ」と扇を上げて招いたので、招かれて引き返す。汀に打ち上がろうとするところへ、押し並べてむんずと組んでどんと落ち、取り押えて首を斬ろうと甲を押し上げて見ると、年は十六七ほどの者が、薄化粧をして、お歯黒姿である。我が子の小次郎ほどの年齢で、幼顔がとても美しかったので、どこに刀をたてていいかわからない。「そもそもどのような方でございますか。お名乗り下され。お助けします」と言うと、「お前は誰だ」とお尋ねになられる。「人としてその者というほどの者ではございませんが、武蔵国住人、熊谷次郎直実」と名乗り申す。「それでは、お前に向っては名乗るまい。お前にとってはよい敵だ。名乗らずとも首を斬って人に聞け。知っているであろう」とおっしゃた。熊谷は、「ああ、立派な大将軍だ。この人一人をお討ち申したとしても、負けるはずの戦に勝つこともなかろう。又お討ち申さなくとも、勝つはずの戦に負ける事もなかろう。小次郎が軽く傷を負ったのでさえ、直実は心苦しく思ったのに、この殿の父上は、討たれたと聞いて、どれほどお歎きになるだろう。ああ、お助け申さなくては」と思って、後ろをさっと見たところ、土肥、梶原が五十騎ばかりで続いて来ていた。熊谷は涙を抑えて、「お助けしようと思いましたが、味方の軍兵が雲霞のように近づいております。よもや逃れる事はできないでしょう。人の手におかけ申すより、同じ事なら直実の手におかけ申して、後で死後の供養をしてさしあげましょう」と申したところ、「ただ、早く首をとれ」とおっしゃった。熊谷はあまりにも可哀想で、何処に刀を立てていいかわからず、目の前も真っ暗になり、心も沈んで、前後不覚に思われたが、そうしてばかりもいられないので、泣く泣く首を斬ったのだった。「ああ、弓矢をとる身程悔しいものはない。武芸の家に生れなかったら、どうしてこんな悲しい目を見る事があろう。情けなくもお討ち申したものだなあ」と掻き口説き、袖を顔に当ててさめざめと泣いていた。かなり長い時間が経って、いつまでもそうしているわけにもいかず、鎧直垂を取って首を包もうとしたところ、錦の袋に入れた笛を腰にさされていた。「ああ、可哀想に。今日の明け方に城の中で管弦をなさっていたのはこの人達であったか。今、味方には東国の勢力が何万騎もいるだろうが、戦の陣に笛を持つ人はいない。身分の高い人はやはり優雅なものだ」と言って、九郎御曹司にお見せしたところ、これを見る者は誰も涙を流さないという事は無い。

後で聞くと、修理大夫経盛(しゅうりのだいぶつねもり)には子息がおられ、大夫敦盛(だいぶあつもり)といって、生年十七になられていた。この事件を契機として熊谷の出家の志は強くなっていったのだった。その笛は祖父忠盛が笛の名手であり、鳥羽院から頂戴なさったということであった。経盛が先祖から受け継がれたものを、敦盛に笛の才覚があったので持たれていたということである。笛の名を小枝と申した。狂言綺語(きょうげんきぎょ)でも仏道に入る道理があるとはいいながら、笛の事が遂に直実が仏門に入る原因となったのは哀れである。

語句

■練貫 生糸を縦に、練糸を横にして織った織物。練糸は絹をやわらかくして糸によったもの。 ■萌黄匂 「萌黄」は鮮やかな黄緑。「匂」は色を上が白で下にいくにつれて濃くしたもの。 ■鍬形うッたる… 以下「黄覆輪の鞍おいて乗ッたる」まで巻七「実盛」とほぼ同文。 ■黄覆輪の鞍 鞍の端の覆輪のまわりを金色で縁取ったもの。 ■五六段 一段は六間。約1.1メートル。 ■まさなうも 「正無し」は不当だ。よくない。みっともない。あってはならない。 ■かね黒 歯を黒く染めていること。 ■物その者で候はねども 人数に入るほどの者ではないが。これというほどの者ではないが。 ■なのるまじいぞ 熊谷が低い身分の者だから名乗らなかったか。 ■小ニ郎がうす手負うたるをだに 巻九「一ニ之懸」において負傷した小ニ郎を、熊谷は心配している。 ■後の御孝養 死後に菩提を弔うこと。 ■目もくれ 視界が暗くなって見えなくなるようす。 ■前後不覚 前も後ろもわからないようす。 ■さてしもあるべきならねば そうてしてばかりもいられないので、慣用句。 ■かきくどき あれこれ恨み言を言うこと。 ■上﨟 貴人。 ■経盛 忠盛の三男。経盛の長男は琵琶の名手・経正(巻七「竹生島詣」巻七「経正都落」)。 ■器量たるによって 技量がすぐれているため。 ■狂言綺語 でたらめ事、いい加減な言葉。文学作品全般を仏教の観点から否定的にいったもの。「願ハクハ今生世俗文字ノ業、狂言綺語ノ誤リヲ以テ、翻シテ当来世々讃仏乗ノ因、転法輪ノ縁とセム」(和漢朗詠集下・仏事 白楽天)による。ここでは笛のこと。 ■讃仏乗 仏の功徳をたたえ衆生を悟りに導くこと。

朗読・解説:左大臣光永

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