平家物語 百三十五 一二之懸(いちにのかけ)

原文

六日(むゆか)の夜半ばかりまでは、熊谷、平山搦手(からめて)にぞ候(さうら)ひける。 熊谷二郎(くまがへのじらう)、子息の小二郎(こじらう)をようでいひけるは、「此手は、悪所をおとさんずる時に、誰(たれ)さきといふ事もあるまじ。いざうれ、これより土肥(とひ)が承ッてむかうたる播磨路(はりまぢ)へむかうて、一の谷のまッさきかけう」どいひければ、小二郎、「しかるべう候。直家(なほいへ)もかうこそ申したう候ひつれ。さらばやがて寄せさせ給へ」と申す。熊谷、「まことや、平山も此手(このて)にあるぞかし。打込(うちごみ)のいくさこのまぬ者なり。平山がやう見て参れ」とて、下人(げにん)をつかはす。案のごとく平山は熊谷よりさきにいで立ッて、「人をば知らず、季重(すゑしげ)においては一(ひと)ひきもひくまじい物を」とひとり言(ごと)をぞしゐたりける。下人が馬をかふとて、「にッくい馬のながぐらひかな」とて、うちければ、「かうなせそ、其(その)馬のなごりもこよひばかりぞ」とて、うッたちけり。下人はしりかヘッて、いそぎ此よし告げたりければ、「さればこそ」とて、やがてこれもうちいでけり。熊谷はかちの直垂(ひたたれ)に、赤革威(あかがはをどし)の鎧(よろひ)着て、紅(くれなゐ)の母衣(ほろ)をかけ、ごんだ栗毛(くりげ)といふ聞ゆる名馬にぞ乗ッたりける。小二郎はおもだかを一(ひと)しほすッたる直垂に、節縄目(ふしなはめ)の鎧着て、西楼(せいろう)といふ白月毛(しらつきげ)なる馬に乗ッたりける。旗さしはきちんの直垂に、小桜(こざくら)を黄にかへいたる鎧着て、黄河原毛(きかはらげ)なる馬にぞ乗ッたりけり。おとさんずる谷をば弓手(ゆんで)にみなし、馬手(めて)へあゆませゆく程に、としごろ人もかよはぬ田井(たゐ)の畑(はた)といふふる道をへて、一の谷の浪(なみ)うちぎはヘぞ出でたりける。一谷(いちのたに)ちかく塩屋(しほや)といふ所に、いまだ夜(よ)ふかかりければ、土肥二郎実平(とひのじらうさねひら)、七千余騎でひかヘたり。熊谷は浪うちぎはより、夜にまぎれて、そこをつッとうちとほり、一谷の西の木戸口(きどぐち)にぞおし寄せたる。その時はいまだ夜ふかかりければ、敵(かたき)の方(かた)にもしづまりかヘッておともせず、御方(みかた)一騎もつづかず。熊谷二郎、子息の小二郎をようでいひけるは、「我も我もと、先に心をかけたる人々はおほかるらん。心せばう直実(なほざね)ばかりとは思ふべからず。すでに寄せたれども、いまだ夜のあくるを相待ッて、此辺(このへん)にもひかへたるらん。いざなのらう」どて、かいだてのきはにあゆませ寄り、大音声(だいおんじやう)をあげて、「武蔵国住人(むさしのくにのぢゆうにん)、熊谷次郎直実(くまがへのじらうなおざね)、子息の小二郎直家、一谷先陣ぞや」とぞ名のッたる。平家の方には、「よし、おとなせそ。敵(かたき)に馬の足をつからかさせよ。矢だねを射つくさせよ」とて、あひしらふ者もなかりけり。

さる程に、又うしろに武者こそ一騎つづいたれ。「たそ」と問へば、「季重」とこたふ。「問ふはたそ」。「直実ぞかし」。「いかに、熊谷殿はいつよりぞ」。「直実は宵(よひ)より」とぞこたヘける。「季重もやがてつづいて寄すべかりつるを、成田五郎(なりたごらう)にたばかられて、今まで遅々(ちち)したるなり。成田が、『死なば一所(いつしよ)で死なう』どちぎるあひだ、『さらば』とて、うちつれ寄するあひだ、『いたう、平山殿、さきがけばやりなし給ひそ。先をかくるといふは、御方(みかた)の勢(ぜい)をうしろにおいてかけたればこそ、高名不覚(かうみやうふかく)も人に知らるれ。只一騎大勢の中にかけいッて、うたれたらんは、なんの詮かあらんずるぞ』と制 する間、げにもと思ひ、小坂(こざか)のあるをさきにうちのぼせ、馬の頭(かしら)をくだり様(さま)にひッたてて、御方の勢をまつところに、成田もつづいて出できたり。うちならべていくさのやうをもいひあはせんずるかと思ひたれば、さはなくて、季重をばすげなげにうち見て、やがてつッとはせぬいてとほるあひだ、あッぱれ、此者(このもの)はたばかッて、先かけうどしけるよと思ひ、 五、六段(だん)ばかりさきだッたるを、あれが馬は我馬よりはよわげなる物をと目をかけ、一(ひと)もみもうでおッついて、『まさなうも季重ほどの者をばたばかり給ふものかな』といひかけ、うちすてて寄せつれば、はるかにさがりぬらん。よもうしろかげをも見たらじ」とぞいひける。

現代語訳

六日の夜半頃までは、熊谷次郎直実、平山武者所季重は搦手に控えていた。熊谷次郎が、子息の小次郎を呼んで言ったのは、「この軍は、難所を馬で下ろうとするときに、誰が先かという事もあるまい。さあお前、ここから土肥が引き受けて向った播磨路へ向って、一の谷の真っ先を駆けよう」と言ったので、小次郎は、「それがようございましょう。直家も同じように申しとうございました。ではすぐにお寄せください」と申す。熊谷は、「そうそう、平山もこの軍にいるぞ。入り乱れての戦を好まぬ者だ。平山の様子を見て参れ」といって、下人を向わせる。案の定平山は熊谷より先に支度をしており、「他人は知らないが、季重においては一歩も引くつもりはないものを」と独り言を言っていた。平山の下人が馬に草を食わせようと、「憎い馬の長食らいよ」といって、鞭で打ったので、平山は、「そんなことはするな。その馬の名残も今夜だけだぞ」といって、馬で出発した。熊谷の下人は走って帰り、急いでこの事を報告すると、熊谷は、「思った通りだ」といって、すぐに出発した。熊谷はかちの直垂に、赤革威の鎧を着て、紅の母衣(もろ)をかけ、ごんだ栗毛という名の通った名馬に乗っていた。小次郎は沢潟(おもだか)を一度だけ刷り込んだ直垂に、節縄目(ふしなわめ)の鎧を着て、西楼(せいろう)という白月毛の馬に乗っていた。旗差し物を背負った兵士は麹塵(きちん)の直垂に、小桜を黄色に染め返した鎧を着て、黄河原毛(きかわらげ)の馬に乗っていた。下ろうとする谷を左手に見て、右手へ馬を歩ませていくうちに、最近では人も通わないという田井の畑という旧道を通って、一の谷の波打ち際へ出た。一の谷の近くの塩谷という所に、まだ夜も深かったので。土肥次郎実平は七千余騎で控えていた。熊谷は波打ち際から、夜の闇に紛れて、そこをつっと通り抜け、一の谷の西の木戸口に押し寄せた。その時はまだ夜が深かったので、敵の方でも静まりかえって音一つせず、味方は一騎も続いて来ない。熊谷次郎が子息の小次郎を呼んで言うには、「我も我もと、一番乗りを心掛けている人々は多いであろう。浅はかにも直実だけと思ってはならぬ。すでに寄せはしたが、まだ夜が明けるのを待って、この辺にも待機しているであろう。さあ名乗りをあげよう」といって、掻盾(かいだて)の際に歩み寄り、大音声をあげて、「武蔵国住人、熊谷次郎直実、子息の小次郎直家、一の谷の先陣であるぞ」と名乗りをあげた。平家の方では、「よし、音をたてるな。敵に馬の足を疲れさせよ、矢種を射尽くさせよ」といって、相手になる者もなかった。

そうしているうちに、又後ろに武者一騎が続いてきた。「誰だ」と聞くと、「季重(すえしげ)」と答える。「聞くのは誰か」。「直実だ」。「どうした、熊谷殿は何時(いつ)からおられるか」。「直実は宵からだ」と答えた。「季重もすぐに続いて寄せるべきであったが、成田五郎に騙(だま)されて、今まで遅れてしまったのだ。成田が、「死ぬ時には同じ所で死のう」と約束するので、『それならば』と言って、連れ添って寄せるうちに、『平山殿、あまり一番乗りをしようとはやりなさるな。一番乗りをすると言うのは、味方の軍を後ろに置いて駆けたからで、手柄や失敗も人に知られるのだ。只一騎大勢の敵の中に駆け入って討たれてしまうなら、何の甲斐があろうか』と引き止めるので、なるほどと思い、小さい坂がある所を先に上(のぼ)り、馬の頭を下に向けて、味方の軍を待つところに、成田も続いてやって来た。馬首を並べて合戦の場で、ふたりでどのように振舞うか、手はずを取り決めようと思ったが、そうではなくて、季重をを不愛想に見て、すぐにつっと追い抜いて通るので、ああ、こいつは私を騙して一番乗りをしようとしているのだなと思い、五、六段ほど先に進んでいたので、あれの馬は私の馬よりは弱そうだと見て、馬に一鞭当てて追いついて、『卑怯にも季重ほどの者をお騙しになられたな』と言葉をかけ、あとに残して攻め寄せたので、成田の馬ははるか後に遅れただろう。よもや後姿も見てはおるまい」と言った。

原文

熊谷、平山、かれこれ五騎でひかへたり。さる程に、しののめやうやうあけゆけば、熊谷は先になのッたれども、平山が聞くになのらんとや思ひけん、又かいだてのきはにあゆませ寄り、大音声をあげて、「以前になのッつる武蔵国の住人、熊谷二郎直実、子息の小二郎直家、一の谷の先陣ぞや。われと思はん平家の侍共は直実におちあへや、おちあへ」とぞののしッたる。是(これ)を聞いて、「いざや、夜もすがらなのる熊谷親子ひッさげてこん」とて、すすむ平家の侍誰々(たれたれ)ぞ、越中二郎兵衛盛嗣(ゑつちゆうのじらうびやうゑもりつぎ)、上総五郎兵衛忠光(かずさのごらうびやうゑただみつ)、悪七兵衛景清(あくしちびやうゑかげきよ)、後藤内定経(ごとうないさだつね)、これをはじめてむねとのつはもの廿余騎、木戸をひらいてかけ出でたり。ここに平山、滋目結(しげめゆひ)の直垂(ひたたれ)に緋威(ひをどし)の鎧(よろひ)着て、二引両(ふたつひきりやう)の母衣(ほろ)をかけ、目糟毛(めかすげ)といふきこゆる名馬にぞ乗ッたりける。旗さしは、黒革威(くろかはをどし)の鎧に、甲猪首(かぶとゐくび)に着ないて、さび月毛(つきげ)なる馬にぞ乗ッたりける。「保元平治(ほうげんへいぢ)両度の合戦に先かけたりし武蔵国住人(むさしのくにのぢゆうにん)、平山武者所季重(ひらやまのむしやどころすゑしげ)」となのッて、旗さしと二騎、馬の鼻をならべてをめいてかく。熊谷かくれば平山つづき、平山かくれば熊谷つづく。たがひにわれおとらじと入れかへ入れかへ、もみにもうで、火いづる程ぞせめたりける。平家の侍ども手いたうかけられてかなはじとや思ひけん、城(じやう)のうちヘざッとひき、敵をとざまにないてぞふせぎける。 熊谷は馬の太腹(ふとばら)射させてはぬれば、足をこえており立ッたり。 子息の小二郎直家も、「生年(しやうねん) 十六歳」となのッて、かいだてのきはに馬の鼻をつかする程、責め寄せてたたかひけるが、弓手(ゆんで)のかひなを射させて馬よりとびおり、父とならンでたッたりけり。「いかに小二郎、手負うたか」。「さン候」。「常に鎧づきせよ、うらかかすな。錣(しころ)をかたぶけよ、内甲(うちかぶと)射さすな」とぞをしへける。熊谷は鎧にたッたる矢どもかなぐりすてて、城(じやう)の内をにらまへ、大音声(だいおんじやう)をあげて、「こぞの冬の比(ころ)鎌倉を出でしより、命をば兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)に奉り、かばねをば一谷(いちのたに)でさらさんと、思ひきッたる直実ぞや。室山(むろやま)、水島二ヶ度(みずしまにかど)の合戦(かつせん)に高名(かうみやう)したりとなのる越中次郎兵衛はないか、上総五郎兵衛、悪七兵衛はないか、能登殿はましまさぬか。高名も敵(かたき)によッてこそすれ。人ごとにあうてはえせじものを。直実におちあへや、おちあへ」とののしッたる。是を聞いて、越中次郎兵衛、このむ装束なれば、紺村濃(こむらご)の直垂に赤威(あかをどし)の鎧着て、 白葦毛(しらあしげ)なる馬に乗り、熊谷に目をかけてあゆませ寄る。熊谷親子は、なかをわられじとたちならんで、太刀を額(ひたひ)にあて、うしろヘー(ひと)ひきもひかず、いよいよまへへぞすすみける。越中次郎兵衛叶はじとや思ひけん、とッてかへす。熊谷これを見て、「いかに、あれは越中次郎兵衛とこそ見れ。敵にはどこをきらふぞ。直実におしならべてくめやくめ」といひけれども、「さもさうず」とてひッかへす。悪七兵衛是(これ)を見て、「きたない殿原のふるまひやうかな」とて、すでにくまんとかけいでけるを、鎧の袖をひかへて、「君の御大事(おんだいじ)是にかぎるまじ。あるべうもなし」と制せられてくまざりけり。其後(そののち)熊谷は乗りがへに乗ッてをめいてかく。平山も熊谷親子がたたかふまぎれに、馬の息やすめて、是も又つづいたり。平家のかたには馬に乗ッたる武者はすくなし、矢倉(やぐら)のうへの兵(つはもの)ども、「矢さきをそろへて雨のふるやうに射けれども、敵(かたき)はすくなし、みかたはおほし、勢(せい)にまぎれて矢にもあたらず。「ただおしならべてくめやくめ」と下知(げぢ)しけれども、平家の馬は乗る事はしげく、かふ事はまれなり。舟にはひさしうたてたり 、よりきッたる様(やう)なりけり。熊谷、平山が馬は、かひにかうたる大(だい)の馬どもなり、一(ひと)あてあてばみな蹴倒(けたふ)されぬべきあひだ、おしならべてくむ武者一騎もなかりけり。平山は身にかへて思ひける旗さしを射させて、かたきのなかへわッていり、やがて其敵をとッてぞ出でたりける。熊谷も分捕(ぶんどり)あまたしたりけり。熊谷さきに寄せたれど、木戸をひらかれねばかけいらず、平山後(のち)に寄せたれど、木戸をあけたればかけ入りぬ。さてこそ熊谷、平山が一二のかけをばあらそひけれ。

現代語訳

熊谷、平山はおよそ五騎で控えていた。そうしているうちに、夜明けの空が東方から次第に明けていくと、熊谷は先に名乗りをあげたが、平山が聞いているので再度名乗りを上げようと思ったのか、又掻盾(かいだて)の際に歩み寄り、大音声をあげて、「前に名乗った武蔵国の住人、熊谷次郎直実、子息の小次郎直家、一の谷の先陣である。我はと思う平家の侍共は直実に立ち向え。立ち向え」と罵(ののし)った。これを聞いて、「いざ、夜通し名乗っている熊谷親子を引っ提げて来よう」といって、進む平家の侍は誰々ぞ、越中二郎兵衛盛嗣(もりつぎ)、上総五郎兵衛忠光、悪兵衛景清、後藤内定経(ごとうないさだつね)、これを初めとして主だった武士二十余騎が木戸を開いて駆け出て来た。ここに平山は滋目結(しげめゆい)の直垂(ひたたれ)に緋威(ひおどし)の鎧を着て、二引両の母衣(ほろ)をかけ、目糟毛(めかすげ)という有名な名馬に乗っていた。旗さしは、黒革威(くろかわおどし)の鎧に、甲を首が短く見えるように着こなして、赤褐色の月毛馬(つきげうま)に乗っていた。「保元・平治の二度の合戦で先駆けをした武蔵国住人、平山武者所季重(ひらやまのむしゃどころすえしげ)」と名乗って、旗さしの武士と二騎で馬の鼻を並べて大声を上げて駆けて行く。熊谷が駆けると平山が続き、平山が駆けると熊谷が続く。互いに我劣らじと入れ替りたち替り、激しく馬に鞭を当てて急がせ、火が出るぐらいに激しく攻めた。平家の武士どもは手厳しく駆けられて敵わないと思ったのか、城の中へざっと引き、敵を城の外に置くようにして防いだ。熊谷は馬が腹を射られて跳ねるので、跳ねている馬の足を越えるようにして降り立った。子息の小次郎直家も、「生年十六歳」と名乗って、掻盾の際に馬の鼻が付くぐらいに、攻め寄せて戦ったが、左の腕を射られて馬から飛び下り、父と並んで立ったのだった。「どうした小次郎、傷を負うたか」。「負いました」。「いつも鎧を揺すれ、鎧の裏まで射抜かせるな。錣(しころ)を下げて鎧に密着させるようにせよ、甲の中を射さすな」と教えた。熊谷は鎧に突き立った矢どもをかなぐり捨てて、城の中を睨(にら)み、大音声をあげて、「去年の冬の頃鎌倉を出て以来、命を兵衛佐殿に差し出し、屍(かばね)を一の谷で晒(さら)そうと覚悟を決めている直実だぞ。室山、水島の二度の合戦で名を挙げたという越中次郎兵衛はいないか、上総五郎兵衛、悪七兵衛はいないか、能登殿はおられぬか、手柄も敵が誰かによって決まるものだ。誰とでも戦って得られるものではない。直実に向きあえや、向きあえ」と罵った。是を聞いて、越中次郎兵衛は、好みの装束なので紺村濃(こむらご)の直垂に赤威(あかおどし)の鎧を着て、白葦毛の馬に乗り、熊谷目がけて馬をゆっくりと進ませて近づく。熊谷親子は、間を裂かれまいと立ち並んで、太刀を額に当て、後ろへは一歩も引かず、少しづつ前へ進んだ。越中次郎兵衛は敵わぬと思ったのか、すぐに引き返す。熊谷はこれを見て、「どうした、あれは越中次郎兵衛と見たが、敵の何処を嫌うのか。直実と押し並んで組めや組め」と言うと、「とんでもない」といって引き返す。悪七兵衛はこれを見て、「卑怯な奴等の振舞だな」といって、すぐに組もうと駆けだしたのを、越中次郎兵衛が鎧の袖を引っ張って、「主君(能登守教径)の一大事はこの相手だけではあるまい。おやめなされ」と引き止められたので組まなかった。その後熊谷は馬を乗り替え、大声をあげて駆けて行く。平山も熊谷親子が戦っている間に、馬を休息させ、これも又熊谷親子に続いて駆けた。平家の方では馬に乗った武者は少なく、矢倉の上に乗った兵士どもが、矢先を揃えて雨のように射たが、敵は少なく、味方は多く、大勢に紛れて熊谷等は矢にも当らない。「ただ押し並べて組めや組め」と命令を下したが、平家の馬は乗り回す事は多く、飼葉をやることが少ない。舟にも長く乗せていたので、疲れ切って動かずただ突っ立っているようであった。熊谷、平山の馬は大事に飼い慣らした大きな馬である。源氏の馬に一鞭当てれば平家の馬にぶつかって皆蹴倒されそうなので、押し並べて組む武者は一騎もなかった。平山は自分の身に変えてもと大事に思っていた旗差しを射抜かれたが、敵の中へ割って入り、すぐにその敵を倒して出たのだった。熊谷も分捕りをたくさんした。熊谷が先に攻め寄せたが、平家が木戸を開かないので駆け入れない、平山は後で攻め寄せたが、木戸を開けたので駆け入った。そこで、熊谷、平山が一番乗り、二番乗りの先駆けを争ったのだった。

朗読・解説:左大臣光永

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