平家物語 百三十六 二度之懸(にどのかけ)

原文

さるほどに、成田五郎(なりたごらう)も出できたり。土肥次郎(とひのじらう)まッさきかけ、其勢七千余騎色々の旗さしあげ、をめきさけンでせめたたかふ。大手生田(いくた)の森にも源氏五万余騎でかためたりけるが、其勢のなかに武蔵国住人(むさしのくにのぢゆうにん)、河原太郎(かはらたらう)、河原次郎といふ者あり。河原太郎弟(おとと)の次郎をようでいひけるは、「大名(だいみやう)は我と手をおろさねども、家人(けにん)の高名をもって名誉す。われらはみづから手をおろさずはかなひがたし。かたきをまへにおきながら、矢一(ひと)つだにも射ずしてまちゐたるが、あまりに心もとなう覚ゆるに、高直(たかなほ)はまづ城(じやう)の内へまぎれ入ッて、一矢(ひとや)射んと思ふなり。されば千万(せんまん)が一つもいきてかへらん事ありがたし。わ殿(どの)はのこりとどまッて、後(のち)の証人にたて」といひければ、 河原次郎涙をはらはらとながいて、「口惜しい事をも宣(のたま)ふ物かな。ただ兄弟二人(ににん)ある者が、あにをうたせておととが一人のこりとどまッたらば、幾程(いくほど)の栄花(えいぐわ)をかたもつべき。所々(ところどころ)でうたれんよりも、一所(ひとところ)でこそいかにもならめ」とて、下人(げにん)どもよび寄せ、最後の有様妻子(さいし)のもとへいひつかはし、馬にも乗らずげげをはき、弓杖(ゆんづゑ)をついて、生田森(いくたのもり)の逆茂木(さかもぎ)をのぼりこえ、城(じやう)のうちへぞ入ッたりける。星あかりに鎧(よろひ)の毛もさだかならず。河原太郎大音声(だいおんじやう)をあげて 、「武蔵国住人(むさしのくにのぢゆうにん)、河原太郎私市高直(かはらたらうきさいちのたかなほ)、同次郎盛直(おなじきじらうもりなほ)、源氏の大手生田森(いくたのもり)の先陣ぞや」とぞなのッたる。平家の方(かた)には是(これ)を聞いて、「東国の武士ほどおそろしかりける者はなし。是程の大勢(おほぜい)の中(なか)へただ二人入ッたらば、何ほどの事をかしいだすべき。よしよししばし愛(あい)せよ」とて、うたんといふ者なかりけり。是等おととい究竟(くつきやう)の弓の上手なれば、さしつめひきつめさんざんに射るあひだ、「にくし、うてや」といふ程こそありけれ、西国にきこえたる強引精兵(つよゆみせいびやう)、備中国住人(びつちゆうのくにのぢゆうにん)、真名辺四郎(まなべのしらう)、真名辺五郎とておとといあり。四郎は一の谷におかれたり。五郎は生田森にありけるが、是を見てよッぴいてひやうふつと射る。河原太郎が鎧のむないたうしろへつッと射ぬかれて、弓杖にすがりすくむところを、おととの次郎はしり寄ッて是を肩にひッかけ、逆茂木(さかもぎ)をのぼりこえんとしけるが、真名辺が二の矢に鎧の草摺(くさずり)のはづれを射させて、同じ枕(まくら)にふしにけり。真名辺が下人おちあうて、河原兄弟(かはらきやうだい)が頸(くび)をとる。是を新中納言(しんぢゆうなごん)の見参(げんざん)に入れたりければ、「あッぱれ剛(かう)の者かな。これをこそ一人当千(いちにんたうぜん)の兵(つはもの)ともいふべけれ。あッたら者どもをたすけてみで」とぞ宣ひける。

現代語訳

そうするうちに成田五郎も出て来た。土肥次郎は真っ先に駆けて、その軍勢七千余騎がいりいろな色の旗をさしあげ、大声をあげて攻め戦う。大手の生田の森では源氏が五万余騎で固めていたが、その軍の中に武蔵国住人、河原太郎、河原次郎という者がいた。河原太郎が弟の次郎を呼んで言うには、「大名は自分では手を下さないが、家人の手柄を名誉としている。我等は自分で手を下さなければ手柄をたてる事はできまい。敵を前にしながら、矢一つさえ射ずに待っていたが、あまりにも心細く思えるので、高直はまず城の中へ紛れ込んで、矢を一本射ようと思うのだ。だから千万が一生きて帰れたらありがたい、お前はここに残って動かず、後の証人に立て」と言ったので、河原次郎ははらはらと涙を流して「悔しい事をおっしゃるのですね。ただ兄弟二人の者が兄を討たせて弟が一人残ったならば、どれほどの栄華を続けられるでしょうか。別々の所で討たれるよりも同じ所でどうにでもなりましょう」といって、下人共を呼び寄せ、最後の有様を妻子の所へ言い伝え、馬にも乗らず藁草履(わらぞうり)を履き、弓を杖のようにしてついて、生田の森の逆茂木(さかもぎ)を上り越え、城の中へ入ったのだった。星明りは薄暗く鎧の毛もよく見分けられない。河原太郎は大声をあげて、「武蔵国住人、河原太郎私市高直(きさいちのたかなお)源氏の大手の生田森の先陣だぞ」と名乗ったのだ。平家の方ではこれを聞いて、「東国の武士程恐ろし者はない。これほどの大勢の中へたった二人で入って、どれほどの事ができようか。よしよししばらく可愛がってやれ」といって討とうとする者はいなかった。この兄弟は屈強な弓の使い手だったので、矢をつがえては引き、つがえては引き散々に射るので、「憎い奴、討て」というやいなや、西国では名の通った強弓精兵、備中国住人、真名辺四郎(まなべのしろう)、五郎といいう兄弟がいた。四郎は一の谷に置かれていた。五郎は生田の森に控えていたが、これを見て弓を十分に引き絞ってひょうふっと射る。河原太郎が鎧の胸板を後ろへつっと射抜かれて弓杖にすがりすくんだところに、弟の次郎が走り寄ってこれを肩に引っ掛け、逆茂木を上り越えようとしたが、真名辺の二の矢に鎧の草摺りの端を射させて、兄と一緒に倒れこんだ。真名辺の下人が落ち合って、河原兄弟の首を取る。これを新中納言のお目にかけると、「ああすばらしい剛の者よ。これをこそ一人当千の兵とも言うべきだ。惜しい者共を助けて家来として見ないで(残念だ)」と言われた。

原文

其(その)時(とき)下人ども、「河原殿おととい、只今城(ただいまじやう)の内へまッさきかけてうたれ給ひぬるぞや」とよばはりければ、梶原(かぢはら)是を聞き、「私(し)の党の殿(との)原(ばら)の不覚でこそ、河原兄弟をばうたせたれ。今は時よくなりぬ。寄せよや」とて、時をどッとつくる。やがてつづいて五万余騎一度に時をぞつくりける。足軽(あしがる)共に逆茂木(さかもぎ)取りのけさせ、梶原五百余騎をめいてかく。次男平次景高(じなんへいじかげたかたか)、余りにさきをかけんとすすみければ、父の平三(へいざう)使者をたてて、「後陣(ごじん)の勢のつづかざらんに、さきかけたらん者は、勧賞(けんじやう)あるまじき由、大将軍の仰せぞ」といひければ、平次しばしひかへて、

「もののふのとりつたへたるあづさ弓ひいては人のかへすものかは

と申させ給へ」とて、をめいてかく。「平次うたすな、つづけや者ども。景高うたすな、つづけや者ども」とて、父の平三、兄の源太(げんだ)、同(おなじき) 三郎つづいたり。梶原五百余騎、大勢のなかへかけいり、さんざんにたたかひ、わづかに五十騎ばかりにうちなされ、さッとひいてぞ出でたりける。いかがしたりけん、其(その)なかに景季(かげすゑ)は見えざりけり。「いかに源太は、郎等ども」と問ひければ、「ふかいりしてうたれさせ給ひて候(そうらふ)ごさンめれ」と申す。梶原平三是(これ)を聞き、「世にあらんと思ふも子共がため、源太うたせて命いきても何かはせん。かへせや」とてとッてかへす。梶原大音声(だいおんじやう)をあげてなのりけるは、「昔八幡(はちまん)殿(どの)、後(ご)三年(さんねん)の御(おん)たたかひに、出羽国千福金沢(ではのくにせんぶくかなざわ)の城(じやう)を攻めさせ給ひける時、生年(しやうねん)十六歳でまッさきかけ、弓手(ゆんで)の眼(まなこ)を甲(かぶと)の鉢付(はちづけ)の板に射つけられながら、答(たふ)の矢を射て其(その)敵(かたき)を射おとし、後代(こうたい)に名をあげたりし鎌倉権五郎景正(かまくらのごんごらうかげまさ)が未葉(ばちえふ)、梶原平三景時(かじはらへいぞうかげとき)、一人(いちにん)当(たう)千(ぜん)の兵(つはもの)ぞや。我と思はん人々は、景時うッて見参にいれよや」とてをめいてかく。新中納言、「梶原は東国にきこえたる兵ぞ。あますな、もらすな、うてや」とて、大勢のなかに取りこめて攻め給へば、梶原まづ我身のうへをば知らずして、源太はいづくにあるやらんとて、数万騎(すまんぎ)の大勢のなかを、たてさま、よこさま、蛛手(くもで)、十文字(じふもんじ)にかけわりかけまはりたづぬる程に、源太はのけ甲(かぶと)にたたかひなッて、 馬をも射させ、かち立(だち)になり、二丈計(ばかり)ありける岸をうしろにあて、敵(かたき)五人がなかに取籠(とりこ)められ、郎等二人左右(さう)にたてて、面(おもて)もふらず命も惜しまず、ここを最後とふせぎたたかふ。梶原是を見つけて、「いまだうたれざりけり」と、いそぎ馬よりとんでおり、「景時ここにあり。いかに源太、死ぬるとも敵(かたき)にうしろを見すな」とて、親子して五人の敵三人うッとり、二人に手おほせ、「弓矢とりはかくるもひくも折(をり)にこそよれ、いざうれ、源太」とて、かい具してぞ出でたりける。梶原が二度のかけとはこれなり。

現代語訳

その時下人どもが、「河原殿兄弟がたった今城の中へ一番乗りをされてお討たれになったぞ」と叫び続けたので、梶原は是を聞いて、「私の党の殿方の不覚によって、河原兄弟を討たせてしまった。今は時が熟した、寄せろ」といって、鬨の声をどっとあげる。すぐに続いて五万余騎の軍が一斉に鬨の声を上げる。足軽共に平家が準備した逆茂木を取り除かせ、梶原の率いる五百余騎の軍勢が大声をあげて駆けて行く。次男平次景高が一番乗りを果たそうとあまりにも先へ進んだので、父の平三は使者をたてて、「後陣の軍が続いていないのに、先駆けたした者には、ご褒美は与えぬという大将軍の仰せだ」と言ったので、平次はしばらく控えて、

「もののふのとりつたへたるあづさ弓ひいては人のかへすものかはと申させ給へ」
「(武士が先祖から伝えた梓弓(あずさゆみ)を引いた上は、それが元に元に戻らないように引き返すものか)と言わせてください)」

と言って、大声をあげて駆ける。「平次を討たすな、続け者共、景高討たすな、続け者共」と、父の平三、兄の源太、同じく三郎が続いた。梶原は五百余騎で、大勢の敵の中へ駆け入り、さんざんに戦い、わずかに五十騎ほどまでに討ち破られ、さっと引いて敵陣から出た。どうしたのか、その中に景季は見えなかった。「どうした源太は、郎等ども」と聞いたところ、「深入りしてお討たれになったようでございます」と申す。梶原平三はこれを聞いて、「生きていようと思うのも子供の為、源太を討たせて長生きしても仕方がない。引き返せ」と引き返す。梶原が大声をあげて名乗ったのは、「昔八幡太郎義家殿が、後三年の戦いで出羽国千福金沢の城をお攻めになった時、生年十六歳で真っ先を駆け、左の眼を甲の鉢付の板に射付けられながら、返し矢を射て、その敵を射落とし、後代に名を上げた鎌倉権五郎景正の子孫、梶原平三景時だ。一人当千の武士であるぞ。我はと思う人々は、景時を討ってお見せしろ」と言って大声をあげて進んでいく。新中納言は、「梶原は東国で名のある武士だ。余すな、漏らすな、討ち取れ」と言って、大勢の中に取り囲んでお攻めになると、梶原は第一に我身の事を顧みるという事はしないで、源太は何処にいるのだろうと、数万騎の大勢の敵の中を、縦に、横に、蛛手(くもで)、十文字に駆けまわり、駆けまわりながら尋ねるうちに、源太は戦ううちにのけ甲になり、馬も射られ、徒歩になって、二丈ぐらいある崖を背にして、五人の敵の中に取り囲まれ、郎等二人を左右に立てて懸命になって脇見もせず命も惜しまず、ここが最後と防ぎ戦う。梶原はこれを見つけて、「まだ討たれていなかったか」と、急いで馬から飛び降り、「景時がここにいるぞ。どうした源太。死んでも敵に背を見せるな」と言って、親子で五人の敵を討取り、二人に手傷を負わせ、「弓矢取りは進むも引くも時によるのだ。さあ乗れ源太」と言って、源太を自分の馬に担ぎ上げ、親子そろって敵の中を退いた。梶原の「二度の駆け」というのはこの事である。

次の章「平家物語 百三十七 坂落(さかおとし)
朗読・解説:左大臣光永

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