平家物語 百四十六 内裏女房(だいりにようぼう)

平家物語巻第十より「内裏女房(だいりにようぼう)」。

捕虜になった平重衡は、六条通を引き回された末、軟禁状態に置かれる。そこへ重衡が長年めしつかっていた侍、木工右馬允知時がたずねてきた。重衡は長年情を通わせていた女房のことが気になり、知時に女房への手紙をたくす。

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あらすじ

寿永三年(1184)二月十四日、捕虜の本三位中将重衡卿は六条通を東へ引き回された。土肥次郎実平が車のそばにつきそった。人々は重衡の運命を気の毒がり、悲しみあった。

六条河原まで引き回されて、それから戻って故中御門中納言家成卿の、八条堀河にあった御堂に入れて、土肥次郎実平が警護にあたる。

院の御所から、御使として蔵人左衛門権佐定長が、八条堀河に出向いた。定長は「三種の神器を返還するなら八島に帰してやろう」という院(後白河院)のご意向を重衡に伝える。重衡は気がすすまないが、院宣をそのまま突き返すのも恐縮なので、八島にこの件を伝えることにする。

重衡の使いは平三左衛門重国、院宣の御使いは御坪の召次の花方ということであった。私的な手紙はゆるされないので、平家の人々へは口頭で伝言した。北の方大納言佐殿に対しても、後世で生まれ変わってお目にかかりたい旨を泣く泣く伝言した。

重衡が長年召使っていた侍に、木工右馬允知時(むくうまのじょうともとき)という者がいた。その時、八条の女院に仕えていたが、土肥次郎のもとに出向いて、今一度お目にかかりたいと重衡への面会を求めた。土肥次郎は刀を預かって中に入れた。

重衡と知時は涙ながらに対面した。昔や今の物語をして、やがて重衡がかつて知時を介して言い寄っていた女房の話になる。重衡はこの女房に手紙をやりたいというので、知時は承知し、重衡はすぐに手紙を書いて知時にたくした。

守護の武士たちが手紙の内容をいぶかしがったが、女への文だったので許された。

知時はこの手紙をもって内裏へ参り、女房の局近くに行くと、件の女房が重衡の話をしているのを聞いたので、声をかけ、重衡の手紙を女房にわたす。

そこには生け捕りになった経緯、今日明日とも知れぬわが身の将来などがこまごまと書かれ、歌が記されてあった。

女房はこれを読んで泣き、返事を書いて知時に託した。知時は返事をもってもどると、ふたたび警護の武士どもの検閲を受けてから、重衡に見せた。

これを見て重衡は感にたえず、土肥次郎実平に、件の女房との対面を願い出る。実平は情けある男で、これをゆるした。

重衡はよろこんで、人から車を借りて女房のもとに迎えにやると、女房はすぐに来た。

重衡は車の簾に顔だけ入れて、女房と手に手をとりあい顔に顔を押し当てて、しばらくは泣くばかりだった。

しばらくして重衡は長い間消息がとだえていたことを詫び、思いがけず捕虜になったのはふたたび巡り合う運命だったのだろうと語る。

夜中になって女房を帰した。別れ際にも歌をよみあい、涙ながらの別れであった。

そうして女房は内裏へ帰った。その後は警護の武士どもが許さなかったので、時々手紙を通じるだけだった。この女房は、民部卿入道親範の娘である。顔かたちがすぐれ、情の深い人である。

重衡が奈良へ送られ斬られたときくと、すぐに出家して重衡の後世菩提を弔ったのは感慨深いことであった。

原文

同十四日(おなじきじふしにち)、いけどり本三位中将重衡卿(ほんざんみのちゆうじやうしげひらのきょう)、六条を東へわたされけり。小八葉(こばちえふ)の車に先後(ぜんご)の簾(すだれ)をあげ、左右(さう)の物見(ものみ)をひらく、土肥次郎実平(とひのじらうさねひら)、木蘭地(むくらんぢ)の直垂(ひたたれ)に小具足(こぐそく)ばかりして、 随兵(ずいびやう)卅余騎、車の先後にうちかこんンで守護し奉る。京中の貴賤(きせん)是を見て、「あないとほし、いかなる罪のむくひぞや。いくらもまします君達(きんだち)のなかに、かくなり給ふ事よ。入道殿(にふだうどの)にも二位殿(にゐどの)にもおぼえの御子(おんこ)にてましまいしかば、御一家(ごいつか)の人々も重き事に思ひ奉り給ひしぞかし。院へも内へも参り給ひし時は、老いたるも若きも所をおきて、もてなし奉り給ひし物を。是は南都をほろぼし給へる伽藍(がらん)の罰(ばち)にこそ」と申しあへり。河原(かはら)までわたされて、かヘッて故中御門藤中納言家成卿(こなかのみかどのとうちゆうなごんいえなりのきやう)の、八条堀河(はつでうほりかは)の御堂(みだう)にすゑ奉(たてま)ッて、土肥次郎守護し奉る。

院御所(ゐんのごしよ)より御使(おつかひ)に蔵人左衛門権佐定長(くらんどのさゑもんのごんのすけさだなが)、八条堀河へむかはれけり。赤衣(せきい)にて剣笏(けんしやく)をぞ帯(たい)したりける。三位中将(さんみのちゆうじやう)は紺村滋(こむらご)の直垂に、立烏帽子(たてえぼし)ひきたてておはします。日比(ひごろ)は何(なに)とも思はれざりし定長を、今は冥途(めいど)にて罪人(ざいにん)共が冥官(みやうくわん)にあへる心地ぞせられける。「仰せ下されけるは、『八島へかへりたくは、一門の中(なか)へいひおくッて、三種(さんじゆ)の神器(じんぎ)を都へ返し入れ奉れ。しからば八島へかへさるべし』との御気色(ごきしよく)で候」と申す。三位中将申されけるは、「重衡千人万人(せんにんまんにん)が命にも、三種の神器をかへ参らせんとは、内府以下(だいふいげ)一門の者共一人もよも申し候はじ。もし女性(によしやう)にて候へば、母儀(ぼぎ)の二品(にほん)なんどやさも申し候はんずらむ。さは候へども、居ながら院宣(ゐんぜん)をかへし参らせむ事、其恐(そのおそれ)も候へば、申し送ッてこそ見候はめ」とぞ申されける。三位中将の使は平三左衛門重国(へいざうざゑもんしげくに)、院宣の御便(おつかひ)は御坪(おつぼ)の召次花方(めしつぎはなかた)とぞ聞えし。私の文はゆるされねば、人々のもとへも詞(ことば)にてことづけ給ふ。北の方大納言佐殿(だいなごんのすけどの)へも御詞にて申されけり。「旅の空にても人はわれになぐさみ、我は人になぐさみ奉りしに、引別(ひきわか)れてのち、いかにかなしうおぼすらん。『契(ちぎり)は朽ちせぬ物』と申せば、後の世にはかならず生(むま)れ逢ひ奉らん」と泣く泣くことづけ給へば、重国も涙をおさへてたちにけり。

現代語訳

同月十四日、生け捕りにされた本三位中将重衡卿が六条通りを東へ引き回された。小八葉の車に乗せられ、前後の簾をあげ、左右の物見を開く。土肥次郎実平が、木蘭地の直垂に小具足だけを身につけ、従う兵士三十余騎が、車の前後を取り囲んで守護し申し上げる。京都中の人々がこれを見て、「ああ、可哀想に。どんな罪の報いなのか。何人もいらっしゃる公達の中でこのようにおなりになった事よ。入道殿にも二位殿にもお気に入りの御子でいらっしゃったので、ご一家の人々も大変な事にお思いになっているだろう。院へも内裏へも参られた時は、老いた者も若い者も場所を開けて、お世話申しあげたものを。これは南都を亡ぼされた伽藍の罰であろう」と言い合っていた。六条河原まで引き回されて、それから戻って故中御門藤中納言家成卿の、八条堀河の御堂(みどう)にお入れ申して、土肥次郎が守護申し上げる。

院の御所からの使いとして蔵人左衛門権佐定長(くらんどのさえもんのすけさだなが)が、八条堀河へ向われた。赤色の衣を着て、剣を帯び、笏(しゃく)をお持ちであった。三位中将は紺村滋(こむらご)の直垂に、立烏帽子をまっすぐかぶっておいでになる。日頃は何とも思わなかった定長を、今は冥途で罪人共が閻魔庁の役人に会ったような心地になっておられた。「申し下されたのは、『八島へ帰りたくば一門の中へ言い送って、三種の神器を都へ返し申し上げよ。そうすれば八島へ返されるであろう』との御気持ちでいらっしゃる」と申す。三位中将は、「千人万人の重衡の命と三種の神器を替えさせようとは、内大臣宗盛以下一門の者共が誰も決して申しますまい。もし女性(にょしょう)であれば、母の二位の尼などがもしかしてそんな事を申すかもしれません。そうは言っても、何もせずそのまま院宣を返し参らせる事は、畏れ多い事、ひとまず八島へ申し送ってみましょう」と申された。三位中将の使いは平三左衛門重国(へいぞうざえもんしげくに)、院宣のお使いは御坪(おつぼ)の召次(めしつぎ)の花方(はなかた)ということであった。私的な手紙は許されないので、人々のもとへも言葉でことづけなさる。北の方の大納言佐殿(すけどの)へもお言葉で申された。「旅の空でも貴方は私の慰めとなり、私は貴方を慰め申しましたが、別れた後、どんなに悲しくお思いでしょう。『契りは朽ちない物』と言いますが、後の世には必ず又生れ、又巡り会い申しあげましょう」と泣く泣く言づけられると、重国も涙を抑えて出発した。

語句

■十四日 寿永三年(1184)二月九日(玉葉)。 ■小八葉 網代車に八葉の紋をあしらったもの。 ■物見 車の中から外を見るための窓。 ■木蘭地 黒みががった黄赤色。黄土色。 ■小具足 小手・脛当・脇楯。 ■随兵 付き添いの武士。 ■二位殿 清盛の妻、二位尼平時子。 ■おぼえの お気に入りの。 ■ましまいしかば 「ましまししかば」の音便。 ■所をおきて 場所を譲って。 ■故中御門藤中納言家成卿 藤原家成。家が中御門の北にあった(巻一「殿上闇討」)。 ■八条堀河 八条の南、堀河の東。平家一門の「西八条第」よりやや東。 ■左衛門権佐定長 正しくは「右衛門権佐」(玉葉・二月十日条)。養和元年(1181)十一月蔵人、寿永元年(1182)十二月右衛門権佐兼任(巻四「源氏揃」)。 ■赤衣 五位の者が着る赤い衣。 ■剣笏 剣を帯び笏を持ち正装した姿。 ■紺村滋 紺の村濃(滋)。村濃は薄色の地のところどころを濃く染めたもの。 ■冥官 冥土の役人。 ■御気色 後白河院の御意向。 ■内府 内大臣平宗盛。 ■二品 二位尼平時子。重衡の母。 ■御坪の召次 院の坪庭にお仕えして雑用を行う者。 ■大納言佐 重衡の妻。五条大納言藤原邦綱の娘。佐は典佐侍(ないしのすけ)(巻十一「重衡被斬」)。 ■契は朽ちせぬ物 夫婦の契は朽ちないもの。出典があるらしいが不明。 

原文

三位中将の年ごろ召しつかはれける侍に、木工右馬允知時(むくうまのじようともとき)といふ者あり。八条(はつでう)の女院(にようゐん)に候ひけるが、土肥次郎(とひのじらう)がもとにゆきむかッて、「是(これ)は中将殿に先年召しつかはれ候ひし、某(それがし)と申す者にて候が、西国(さいこく)へも御供(おんとも)仕るべき由存じ候ひしかども、八条の女院に兼(けん)参(ざん)の者にて候間、力およばでまかりとどまッて候が、今日大路(けふおほぢ)で見参らせ候へば、目もあてられず、いとほしう思ひ奉り候。しかるべう候はば、 御(おん)ゆるされを蒙(かうぶ)りて、ちかづき参り候ひて、今一度見参(いちどげんざん)にいり、昔語(むかしがたり)をも申してなぐさめ参らせばやと存じ候。させる弓矢とる身で候はねば、いくさ合戦の御供(おんとも)を任(つかま)ッたる事も候はず、ただ朝夕祗候(あさゆしこう)せしばかりで候ひき。さりながらなほおぼつかなうおぼしめし候はば、腰の刀を召しおかれて、まげて御ゆるされを蒙り候はばや」と申せば、土肥次郎なさけある男(をのこ)にて、「御一人(ごいちにん)ばかりは何事か候べき。さりながらも」とて、腰の刀をこひとッていれてンげり。右馬允なのめならず悦(よろこ)びて、いそぎ参ッて見奉れば、誠に思ひいれ給へるとおぼしくて、御姿(おんすがた)もいたくしをれかヘッて居給へる御有様を見奉るに、知時涙もさらにおさへがたし。三位中将(さんみのちゆうじやう)も是(これ)を御覧じて、夢に夢みる心地して、とかうの事も宣(のたま)はず。只泣くより外(ほか)の事ぞなき。やや久しうあッて、昔今(むかしいま)の物語共し給ひて後、「さても汝(なんぢ)して物いひし人は未(いま)だ内裏(だいり)にとや聞く」。「さこそ承り候へ」。「西国へ下りし時、文をもやらず、今いひおく事だになかりしを、世々のちぎりはみな偽(いつはり)にてありけりと思ふらんこそはづかしけれ。文をやらばやと思ふは。尋ねて行きてんや」と宣へば、「御文(おんふみ)を給はッて参り候はん」と申す。

中将なのめならず悦(よろこ)びて、やがて書いてぞたうだりける。守護の武士共、「いかなる御文にて候やらむ。いだし参らせじ」と申す。 中将、「見せよ」と宣へば、見せてンげり。「苦しう候まじ」とてとらせけり。知時もッて内裏へ参りたりけれども、ひるは人目のしげければ、其(その)へんちかき小屋(せうをく)にたち入りて日を待ち暮し、局(つぼね)の下口(しもぐち)へんにたたずンで聞けば、此人の声とおぼしくて、「いくらもある人のなかに、三位中将しも生取(いけどり)にせられて、大路(おほぢ)をわたさるる事よ。人はみな奈良を焼きたる罪のむくひといひあへり。中将もさぞいひし。『わが心に おこッては焼かねども、悪党(あくたう)おほかりしかば、手々(てんで)に火をはなッて、おほくの堂塔(だうたふ)を焼きはらふ。末(すゑ)のつゆ本(っもと)のしづくとなるなれば、われ一人(いちにん)が罪にこそならんずらめ』といひしが、げにさとおぼゆる」とかきくどき、さめざめとぞ泣かれける。右馬允、是にも思はれける物をと、いとほしう覚えて、「もの申さう」どいへば、「いづくより」と問ひ給ふ。「三位の中将殿より御文の候」と申せば、年ごろは恥ぢて見え給はぬ女房(にようぼう)の、せめての思ひのあまりにや、「いづらや、いづら」とてはしり出でて、手づから文をとッて見給へば、西国よりとられてありし有様、今日(けふ)あすとも知らぬ身のゆくゑなンど、こまごまと書きつづけ、おくには一首の歌ぞありける。

涙河(なみだがは)うき名をながす身なりともいま一(ひと)たびのあふせともがな

現代語訳

三位中将に長年召し使われていた侍に、木工右馬允知時(むくうまのじょうともとき)という者がいた。八条の女院に仕えていたが、土肥次郎のところへ行き、向き合って、「私は中将殿に長年召し使われておりました、何々と申す者でございますが、西国へもお供仕るべきとは存じますが、八条の女院にもかねてからお仕えしていた者なので、仕方なく留まっておりました。今日大路で見申しましたところ、目も当てられず、余りにも痛々しく気の毒に思います。できることなら、許しを得て、近付き、もう一度お目にかかって昔話などをして慰め申そうと思います。たいした弓矢を取る身でもないので、合戦のお供をしたこともございません。ただ朝夕謹んでお側近くでお仕えしただけでございました。そうはいってもそれでも心細くお思いになっておられるのなら、腰の刀をお取りあげになって、ぜひお許しをいただきたいと思います」と申すと、土肥次郎は情け深い男で、「ひとりだけなら何のさしさわりもなかろうが、念のため腰の刀を預け置かれよ」と言って、腰の刀を預り取って、内に入れた。右馬允(うまのじょう)はどうしようもなく喜んで、急いで参ってお目にかかると、ほんとうに思い詰めていらっしゃるように思われて、お姿もたいそう萎れ返って座っておられるご様子を拝見するにつけ、知時はどうしても涙も抑えることができない。三位中将もこれを御覧になって夢の中でも夢を見ているような心地がして、何もおっしゃらない。ただ泣くより他にすることがない。ややしばらくたってから、昔や今の事をお話になった後、「それにしてもお前を通して物を言った人はまだ内裏に居られるのではと聞いている」。「そのように聞いております」。「西国へ下った時、手紙もやらず、言い残す事もさえもなかったのに、現世から後世へかけての約束はみんな偽りであったのかと思われるのが恥ずかしい。手紙を書こうと思うが。尋ねて行ってくれないか」とおっしゃると、「お手紙を預かって参りましょう」と申す。中将はひとかたならずお喜びになり、すぐに書いて預けられた。守護の武士どもが、「どんな内容の手紙でしょうか。内容を見るまではお出しできません」と申す。中将が、「見せよ」とおっしゃるので、知時はその手紙を守護の武士どもに見せた。それを見て武士どもは「さしつかえあるまい」といって戻した。知時はその手紙を持って内裏へ参ったが、昼は人目が多いので、そのあたりの近くの小屋に入って日中は待ち暮し、局(つぼね)の裏口辺りに佇んで聞くと、この人の声と思われて、「大勢いる中で、どういうわけか三位中将だけが生け捕りにされて、大路を引き回されるとは。人はみな奈良を焼いた罪の報いと言い合っている。中将もそう言っている。『自分で思いついて焼いたのではないが、乱暴な連中が多かったので、手に手に火を放って、多くの堂搭を焼き払った。多くの部下の過失は大将軍の過失となるので、自分一人の罪にきっとなることだろう』と言ったが、本当にそうだと思う」と繰り返しおっしゃってさめざめとお泣きになった。右馬允は、この女房の方でも思われていたのだなと、気の毒に思って、「ごめんください」と言うと、「どちらから」とお尋ねになる。「三位中将殿からお手紙がございます」と申すと、数年来、恥じ入ってお見えにならない女房が、痛切な思いのあまりであろうか、「どこに、どこ」と言って走り出て、自ら手紙を取って御覧になると、西国から捕われたときの様子、今日明日とも知れぬ身の行方など、こまごまと書いてあり、奥には一首の歌があった。

涙河(なみだがは)うき名をながす身なりともいま一(ひと)たびのあふせともがな
(悲しみの涙が流れて良くない評判をたてられる身とはなったが、もう一度会う機会を得たいものだと願っている)

語句

■三位中将の 以下「候ひけるが」まで巻十一「重衡被斬」に同文。 ■木工右馬允 木工允(木工寮の三等官)と右馬允(右馬寮の三等官)を兼任している者。 ■八条の女院 八条院。鳥羽天皇皇女。二条天皇准母。建暦元年(1211)没。七十五歳。 ■兼参 八条女院にもお仕えしているの意。 ■しかるべう候はば そうしてよいのならば。 ■祗候 おそばにお仕えする。 ■汝して物いひし人 お前を仲介に情を交わした人は。知時が重衡と女房の間で手紙のなかだちをしていたのである。 ■世々のちぎり 現世と来世の契り。 ■文をやらばやと思ふは 「は」は感動・詠嘆。 ■たうだりける 「給(た)びたりける」の音便。お与えになった。 ■奈良を焼きたる罪 巻五「奈良炎上」。 ■わが心におこッては焼かねども 自分で心に決めて焼いたのではないが。 ■悪党 乱暴な仲間。 ■末のつゆ本のしづくとなるなれば 葉末の露が集まってもとの木の雫となるというので。部下たちの責任は大将軍であった自分一人にかかってくるの意。「末の露もとの雫や世の中の後れ先立つためしなるらん」(和漢朗詠集下・無常、新古今・哀傷 僧正遍照)。 ■是にも この女房も。 ■せめての 痛切な。 ■涙河… 涙が流れることを河にたとえる。「うき」は「浮き」と「憂き」を掛ける。「浮き」「流す」「瀬」は河の縁語。 

原文

女房これを見給ひて、とかうの事も宣(のたま)はず、文をふところに引入(ひきい)れて、ただ泣くより外(ほか)の事ぞなき。やや久しうあッて、 さてもあるべきならねば、御(おん)かへり事(こと)あり。心苦しういぶせくて二年(ふたとせ)をおくりつる心の中(うち)を書き給ひて、

君ゆゑにわれもうき名をながすともそこのみくづとともになりなむ

知時(ともとき)もッて参りたり。守護の武士共、又、「見参らせ候はん」と申せば、見せてンげり。「苦しう候まじ」とて奉る。 三位中将是を見て、いよく思(おもひ)やまさり給ひけん、土肥次郎(とひのじらう) に宣ひけるは、「年来相具(としごろあひぐ)したりし女房に、 今一度(いちど)対面して申したき事のあるは、いかがすべき」と宣へば、実平(さねひら)なさけある男(をのこ)にて、「誠に女房なンどの御事にてわたらせ給ひ候はんは、なじかは苦しう候べき」とてゆるし奉る。中将なのめならず悦(よろこ)びて 人に車かッてむかへにつかはしたりければ、女房とりもあへず是に乗ッてぞおはしたる。縁(えん)に車をやり寄せて、かくと申せば、中将車寄(くるまよせ)に出でむかひ給ひ、「武士共の見奉るに、おりさせ給ふべからず」とて、車の簾(すだれ)をうちかづき、手に手をとりくみ、顔に顔をおしあてて、しばしは物も宣はず、只泣くより外(ほか)の事ぞなき。稍(やや)久しうあッて、中将宣ひけるは、「西国(さいこく)へくだりし時、今一度見参らせたう候ひしかども、おほかたの世のさわがしさに、申すべきたよりもなくてまかりくだり候ひぬ。其後(そののち)はいかにもして御文をも参らせ、御(おん)かへり事(こと)をも承りたう候ひしかども、心にまかせぬ旅のならひ、明暮(あけくれ)のいくさにひまなくて、むなしく年月(としつき)をおくり候ひき。 今又人知れぬ有様を見候は、二(ふた)たびあひ奉るべきで候ひけり」とて、袖を顔におしあててうつぶしにぞなられける。たがひの心のうち、おしはかられてあはれなり。かくてさ夜(よ)もなかばになりければ、「此比(このごろ)は大路(おほち)の狼籍(らうぜき)に候に、とうとう」とてかへし奉る。車やりいだせば、中将別(わかれ)の涙をおさへて、 泣く泣く袖をひかへつつ、

逢(あ)ふことも露の命ももろともにこよひばかりやかぎりなるらむ

女房泪(なみだ)をおさへつつ、

かぎりとて立ちわかるれば露の身の君よりさきにきえぬべきかな

さて女房は内裏(だいり)へ参り給ひぬ。其後は守護の武士共ゆるさねば、力およばず時々御文ばかりぞかよひける。此女房と申すは民部卿入道親範(みんぶのきやうにふだうしんぱん)の娘(むすめ)なり。みめ形(かたち)世にすぐれなさけふかき人なり。されば中将、南都へわたされて、きられ給ひぬと聞えしかば、やがて様(さま)をかへ、こき墨染(すみぞめ)にやつれはて、彼後世菩提(かのごせぼだい)をとぶらはれけるこそ哀れなれ。

現代語訳

女房はこれを御覧になって、何もおっしゃらず、手紙を懐に入れて、ただお泣きになるばかりであった。少し時間が経ってから、そうもしてはいられないので、お返事を書かれた。心苦しく憂鬱な思いで二年を送った胸の内をお書きになって、

君ゆゑにわれもうき名をながすともそこのみくづとともになりなむ
(貴方のために私も良くない評判をたてられても、海に身を投げ貴方と一緒に死にましょう)

知時が、その手紙を持って参った。守護の武士どもが、又、「拝見しましょう」と言うので、見せたのだった。「差し支えあるまい」というので、その手紙を三位中将に差し上げる。三位中将はこの手紙を見て、ますます思いがつのったのであろうか、土肥次郎に、「長年ともに連れ添った女房に、もう一度対面して申したい事があるが、どうすればよいか」とおっしゃると、実平は情けのある男だったので「本当に女房などの事であれば問題はないでしょう」といって許し申し上げる。中将はひとかたならず喜んで、人に車を借りて迎えに遣わしたところ、女房は取る物も取りあえず、この車に乗っていらっしゃった。濡れ縁に車を近づけて、かくかくと申すと、中将は車寄せに出てお迎えになり、「武士どもが見ているので、降りさせてはならぬ」と言って、車の簾を引き被り、手に手を取り、顔に顔を押し当てて、しばらくは物もおっしゃらず、只泣くことより他にする事がなかった。しばらくしてから、中将がおっしゃったのは、西国へ下った時、もう一度拝見しとうございましたが、おしなべて世間が騒がしかったために、申し伝えるべき手蔓もなく、まかり下りました。その後はどのようにしても手紙を差し上げ、お返事をいただきとうございましたが、思ひ通りにはならない旅の習い、戦で明け暮れ暇がなく、むなしく年月を送って参りました。今又、捕虜というような思いもよらぬ情けない目を見ましたのは、再びお目にかかるべき巡り会わせなのでした」といって、袖を顔に押し当ててうつむけになられた。お互いの心の内が推察されて哀れである。こうして夜も半ばになったので、「この頃は大路で狼藉が横行しており、危ないので早く早く」といってお帰し申しあげる。車が動き出すと、中将は別れの涙を抑えて、泣く泣く女房の袖を抑えつつ、歌を一首送られる。

逢(あ)ふことも露の命ももろともにこよひばかりやかぎりなるらむ
(逢う事も露のようなはかない命も、共に今夜だけが最後となるだろう)

女房は涙を抑えながら、お返しの歌を詠まれる。

かぎりとて立ちわかるれば露の身の君よりさきにきえぬべきかな
(今夜が最後だと言って別れてしまえば、露のようにはかない私の身が貴方よりも先に消えてしまいそうです)

そうして女房は内裏へお帰りになった。其後は守護の武士どもが許さないので、どうしようもなく、時々手紙だけを交換なさった。この女房と申すのは民部卿入道親範(みんぶのきょうにゅうどうしんぱん)の娘である。姿形は、とても美しく又情け深い人である。それで中将が、奈良へ連れていかれて、斬られなさったという噂が伝わってきたので、すぐに出家して、濃い墨染の衣を身に着け、すっかりやつれた姿になって、三位中将の後世の菩提を弔われたのは哀れなことであった。

語句

■君ゆゑに… 重衡の前の歌を受けて、ともに川底の水屑となりましょう=死にましょうとよびかける。 ■かッて 「借りて」の音便。 ■車寄 車を寄せて乗り降りするところ。 ■車の簾をうちかづき 車の簾の中に頭だけ入れて。 ■おほかたの世のさわがしさに おしなべて世間が騒がしかったので。 ■人知れぬ有様 思いもよらない、とんでもない事態。捕虜になったこと。 ■狼藉 物騒であること。 ■逢ふことも… 「露の命」は露のようにはかない命。「こよひばかりやかぎりなるらむ」は、今夜が最後かと。 ■かぎりとて 前歌の「かぎりなるらむ」を受ける。 ■親範 平親範。承安四年(1174)出家(巻三「城南之離宮」)。 ■されば中将… 巻十一「重衡被斬」。 ■御世菩提 死後の安楽。

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朗読・解説:左大臣光永