平家物語 百九十 大原御幸(おほはらごかう)

原文

かかりし程に、文治(ぶんぢ)二年の春の比(ころ)、法皇(ほうわう)、建礼門院(けんれいもんゐん)大原の閑居(かんきよ)の御住(おんすま)ひ、御覧ぜまほしうおぼしめされけれども、二月(きさらぎ)三月(やよひ)の程は、風はげしく余寒(よかん)もいまだつきせず、峰(みね)の白雪(しらゆき)消えやらで、谷のつららもうちとけず。春過ぎ夏きたッて、北祭(きたまつり)も過ぎしかば、法皇夜(よ)をこめて大原の奥へぞ御幸(ごかう)なる。しのびの御幸なりけれども、供奉(ぐぶ)の人々、徳大寺(とくだいじ)、花山院(くわさんのゐん)、土御門以下公卿(つちみかどいげくぎやう)六人、殿上人(てんじやうびと)八人、北面(ほくめん)少々候(さうら)ひけり。鞍馬(くらま)どほりの御幸なれば、彼清原(かのきよはら)の深養父(ふかやぶ)が補陀落寺(ふだらくじ)、小野(をの)の皇太后宮(くわうだいこくう)の旧跡を叡覧(えいらん)あッて、それより御輿(おんこし)に召されけり。遠山(とほやま)にかかる白雲(しらくも)は、散りにし花の形見なり。青葉(あをば)に見ゆる梢(こずゑ)には、春の名残(なごり)ぞ惜しまるる。比(ころ)は卯月廿日余(うづきはつかあまり)の事なれば、夏草(なつくさ)のしげみが末を分(わ)けいらせ給ふに、はじめたる御幸(ごかう)なれば、 御覧じなれたるかたもなし。人跡(じんせき)たえたる程も、おぼしめし知られて哀れなり。

西の山のふもとに、一宇(いちう)の御堂(みだう)あり。即(すなは)ち寂光院(じやくくわうゐん)是なり。ふるう作りなせる前水(せんすい)、木立(こだち)、よしある様(さま)の所なり。「甍(いらか)やぶれては霧不断(ふだん)の香(かう)をたき、枢(とぼそ)おちては月常住(じやうぢゆう)の灯(ともしび)をかかぐ」とも、かやうの所をや申すべき。庭の若草しげりあひ、青柳(あをやぎ)糸を乱(みだ)りつつ、池の蘋浪(うきくさなみ)にただよひ、錦(にしき)をさらすかとあやまたる。中島の松にかかれる藤(ふぢ)なみの、うら紫(むらさき)にさける色、青葉まじりの遅桜(おそざくら)、初花(はつはな)よりもめづらしく、岸のやまぶき咲き乱れ、八重(やへ)たつ雲のたえまより、山郭公(やまほととぎす)の一声(ひとこゑ)も、君の御幸(みゆき)をまちがほなり。法皇是を叡覧(えいらん)あッて、かうぞおぼしめしつづけける。

池水にみぎはのさくら散りしきてなみの花こそさかりなりけれ

ふりにける岩のたえ間よりおちくる水の音さへ、ゆゑびよしある所なり。緑蘿(りよくら)の墻(かき)、翠黛(すいたい)の山、画(ゑ)にかくとも筆もおよびがたし。

現代語訳

こうして月日が過ぎて行くうちに、文治二年の春の頃、後白河法皇は、建礼門院の大原のわびしい御住まいを、御覧になりたいとお思いになられたが、二月や三月の間は、風が激しく、余寒もまだ厳しくて、峰にはまだ雪が残り、谷のつららも溶けていなかった。春が過ぎ夏が来て賀茂の祭りも過ぎたので、法皇はまだ夜の明けないうちに大原の奥へ御幸になった。御忍びの御幸ではあったが、お供の人々は、徳大寺、花山院(かさんのいん)、土御門(つちみかど)以下の公卿が六人、殿上人が八人で、これに加えて北面の武士どもが少々付き従った。鞍馬街道を通る御幸なので、あの清原の深養父(ふかやぶ)の補陀洛寺(ふだらくじ)や、小野の皇太后宮の旧跡を御覧になって、そこから御輿にお乗りになった。遠山にかかる白雲は、散ってしまった花(花の雲)の形見の様である。花は散り、青葉越しに見える梢には、春の名残が惜しまれる。頃は四月二十日過ぎの事なので、夏草の生い茂った繁みの先を掻き分けて入って行かれると、初めての御幸なので、見慣れておいでになる所もない。人の通う跡もない有様をお察しになって、哀れ深くお思いになった。

西の山の麓に、一棟の御堂がある。すなわち寂光院がこれである。古く作りなされた庭前の池の水や木立が由緒ありそうな趣のある所である。「屋根瓦が破れて、堂内に流れ込む霧は。絶え間なく炊き続ける香の様でもあり、扉が落ちては、月の光が室内に差し込み、いつまでも消えない灯火を掲げているようだ」と言うのもこのような所を申すのであろうか。庭の若草が茂り合い、青柳の長い枝は風に吹き乱れ、池の浮草が波間に漂うさまは、錦を水にさらしているかと、見間違うばかりである。池の中島の松にかかった藤の花が、紫に咲いた色も美しく、青葉混じりの遅桜が初花よりも珍しく、岸の山吹は咲き乱れ、雲の隙間から聞えて来る山郭公の一声も、君の御幸(みゆき)を待っているようである。法皇はこれを御覧になって、つぎのように思い続けられた。

池水にみぎはのさくら散りしきてなみの花こそさかりなりけれ
(池の水に水際の桜が散り広がって、波の上が今は花盛りだ)

古びた岩の間から落ちて来る水の音まで由緒ありそうな趣のある所である。緑の蔦(つた)かずらの垣の向こうに緑の眉墨のような山が望まれ、画に書いたとしても絵筆ではとうてい描き尽せないような景色である。

原文

女院(にようゐん)の御庵室(ごあんじつ)を御覧ずれば、軒(のき)には蔦槿(つたあさがほ)はひかかり、信夫(しのぶ)まじりの忘草(わすれぐさ)、「瓢箪(へうたん)しばしばむなし、草顔淵(がんゑん)が巷(ちまた)にしげし。藜(れい)でうふかく鎖(さ)せり、雨原憲(げんけん)が枢(とぼそ)をうるほす」ともいッつべし。杉の葺目(ふきめ)もまばらにて、時雨(しぐれ)も霜もおく露も、もる月影にあらそひて、たまるべしとも見えざりけり。うしろは山、前は野辺(のべ)、いざき小笹(をざさ)に風さわぎ、世にたたぬ身のならひとて、うきふししげき竹柱(ちくばしら)、都の方(かた)のことづては、まどほに結(ゆ)へるませがきや、わづかに事とふ物とては、峰に木(こ)づたふ猿(さる)の声、賤(しづ)が爪木(つまぎ)の斧(をの)の音、これらが音信(おとづれ)ならでは、正木(まさき)のかづら青つづら、くる人まれなる所なり。

法皇、「人やある、人やある」と召されけれども、おンいらへ申す者もなし。はるかにあッて、老い衰へたる尼一人(あまいちにん)参りたり。「女院はいづくへ御幸(ごかう)なりぬるぞ」と仰せければ、 「この上(うへ)の山へ、花つみにいらせ給ひてさぶらふ」と申す。「さやうの事に、つかへ奉るべき人もなきにや。さこそ世を捨つる御身(おんみ)といひながら、御(おん)いたはしうこそ」と仰せければ、此尼(このあま)申しけるは、「五戒十善(ごかいじふぜん)の御果報(おんくわほう)つきさせ給ふによッて、今かかる御目(おんめ)を御覧ずるにこそさぶらへ。捨身(しやしん)の行(ぎやう)に、なじかは御身を惜しませ給ふべき。因果経(いんぐわきやう)には、『欲知過去因(よくちくわこいん)、見其現在果(けんごげんざいくわ)、欲知未来果(よくちみらいくわ)、見其現在因(けんごげんざいいん)』ととかれたり。過去未来(くわこみらい)の因果をさとらせ給ひなば、つやつや御歎(おんなげき)あるべからず。悉達太子(しつだたいし)は十九にて伽耶城(かやじやう)を出で、壇特山(だんとくせん)のふもとにて、木(こ)の葉(は)をつらねてはだへをかくし、嶺(みね)にのぼりて薪(たきぎ)をとり、谷にくだりて水をむすび、難行苦行(なんぎやうくぎやう)の功(こう)によって、遂(つひ)に成等正覚(じやうとうしやうがく)し給ひき」とぞ申しける。此尼(このあま)の有様(ありさま)を御覧ずれば、きぬ、布(ぬの)のわきも見えぬ物をむすびあつめてぞ着たりける。あの有様にても、かやうの事申す不思議さよとおぼしめし、「抑(そもそも)汝(なんぢ)はいかなる者ぞ」と仰せければ、さめざめと泣いて、しばしば御返事(おんへんじ)にも及ばす。良(やや)あッて涙をおさへて申しけるは、「申すにつけても憚(はばかり)おぼえさぶらへども、故少納言入道信西(こせうなごんにふだうしんぜい)が娘、阿波(あは)の内侍(ないし)と申しし者にてさぶらふなり。母は紀伊(き)の二位、さしも御(おん)いとほしみふかうこそさぶらひしに、御覧じ忘れさせ給ふにつけても、身のおとろへぬる程も思ひ知られて、今更(いまさら)せんかたなうこそおぼえさぶらへ」とて、袖をかほにおしあてて、しのびあへぬ様(さま)、目もあてられず。法皇も、「されば汝は、阿波の内侍にこそあんなれ。今更御覧じ忘れける。ただ夢とのみこそおぼしめせ」とて、御涙(おんなみだ)せきあへさせ給はず。供奉(ぐぶ)の公卿殿上人(くぎやうてんじやうびと)も、「ふしぎの尼かなと思ひたれば、理(ことわり)にてありける」とぞ、おのおの申しあはれけり。

現代語訳

法皇が、女院の御庵室を御覧になると、軒には蔦や朝顔が這いかかって、シノブ草混じりの忘れ草が生えて、「しばしば一瓢(いっぴょう)の飲物・一箪(たん)の食物も空になることのあった貧しい顔淵(がんえん)のあばら家のあたりには草がぼうぼうと生い茂っている。あかざが繁茂して原憲(げんけい)の家の前を覆い、雨がその家の扉を濡らしている」ともいうような景色である。屋根を葺いた杉の皮も詰まっていなくて、時雨も霜も草葉の上に下りた露も、屋根から漏れて家の中に射し込む月の光に負けず劣らず漏れて来て、とてもそれを防ぎ留めようとも見えなかった。後は山、前は野原、わずかな小笹に風が吹いてザワザワと音を立て、俗世から隠遁している身の常として、辛い悲しい事が多く、竹の節の多い竹柱の粗末な住居に住み、都の方からの便りも間遠(まどほ)で、目を粗く結った垣根をめぐらしてはいるが、その垣根を尋ねて来る物といっては、わずかに峰の木から木へ飛び回る猿の声や、卑しい樵(きこり)が薪(たきぎ)を切る斧(おの)の音だけで、これらの音が無ければ、ていかかずらや青つづらふじが生い茂っているばかりで、尋ねて来る人もまれな所である。

後白河法皇は、「だれかいないか、誰かいないか」と御呼びかけになったが、お返事申す者もない。長い間待っていると、老い衰えた尼が一人参った。法皇が、「女院はどこへおいでになったのだ」と仰せられると、「この山の上へ花摘みにいらっしゃいました」と申す。「そんな事に、奉仕する者もいないのだろうか。世捨て人の身の上とは言いながら、まことにいたわしいことだ」と仰せられたので、この尼が申すには、「五戒十善の御果報は尽きられましたので、今このような目にあわれているのです。肉身を捨て、仏道を求める修行をするのに、どうして御身を惜しまれることがございましょう。因果経には、『欲知過去因(よくちかこいん)、見其現在果(けんごげんざいか)、欲知未来果(よくちみらいか)、見其現在因(けんごげんざいいん)』と説かれています。過去・未来の原因と結果をお悟りになれば、まったく嘆かれるべきではありません。悉達太子(しっだたいし)は十九で伽耶城(かやじょう)を出て、壇特山(だんとくさん)の麓で木の葉を綴り合せた物を着て、肌を隠し、嶺に上っては薪を取り、谷に下っては水を汲み、難行苦行の功によって、最後には悟りを開き成仏なさいました」と申した。この尼の有様を御覧になると、衣とも布とも区別もつかない物を結び合わせて着ていた。あんな様子でも、こんな事を言うのは不思議な事だと思われ、「そもそもお前はどういう者だ」と仰せられたところ、尼はさめざめと泣いて、しばらくは御返事もしない。少し時が経った後、涙を抑えて申すには、「こんなことを申すにつけてもはばかり多く思われますが、故少納言信西の娘で阿波の内侍と申した者でございます。母は紀伊の二位です。以前はあんなに深く可愛がっていただきましたのに、お見忘れなさっているのにつけても、我身の衰えの程が思い知られまして、今更どうにもいたしかたなく存じます」と言って、袖を顔に押し当ててがまんできずに泣く様はとても見ていられないほどである。法皇も、「ではお前は、阿波の内侍であったのだな。今はすっかり見忘れていたが、ただ夢のように思われることだ」と言って、涙を抑える事がおできにならない。お供の公卿・殿上人も「不思議な尼だと思っていたが誠に尤もな事だった」と、各々話し合っておられた。

原文

こなたかなたを叡覧(えいらん)あれば、庭の千種(ちくさ)露重(おも)く、籬(まがき)に倒(たふ)れかかりつつ、そともの小田(をだ)も水こえて、鴫(しぎ)たつひまも見えわかず。御庵室(ごあんじつ)にいらせ給ひて、障子(しやうじ)を引きあけて御覧ずれば、一間(ひとま)には来迎(らいかう)の三尊(さんぞん)おはします。中尊(ちゆうぞん)の御手(みて)には五色(ごしき)の糸をかけられたり。左(ひだん)には普賢(ふげん)の画像(ゑざう)、右には善導和尚(ぜんだうくわしやう)並びに先帝の御影(みえい)をかけ、八軸(はちぢく)の妙文(めうもん)、九帖(くでふ)の御書(ごしよ)もおかれたり。蘭麝(らんじや)の匂(にほひ)に引きかへて、香(かう)の煙(けぶり)ぞ立ちのぼる。かの浄名居士(じやうみやうこじ)の方丈(はうぢやう)の室(しつ)の内に、三万二千の床(ゆか)をならべ、十方(じつぱう)の諸仏(しよぶつ)を請(しやう)じ奉り給ひけんも、かくやとぞおぼえける。障子には、諸経(しよきやう)の要文(えうもん)共、色紙(しきし)に書いて、所々(ところどころ)におされたり。其(その)なかに大江(おほえ)の定基法師(さだもとぼつし)が、清涼山(しやうりやうぜん)にして詠(えい)じたりけん、「笙歌(せいが) 遥(はるかに)聞(きこゆ) 孤雲上(こうんのうへ)、聖衆来迎(しやうじゆらいかう) 落日前(らくじつのまへ)」とも書かれたり。すこしひきのけて、女院(にようゐん)の御製(ぎよせい)とおぼしくて、

おもひきや深山(みやま)のおくにすまひして雲ゐの月をよそに見んとは

さてかたはらを御覧ずれば、御寝所(ぎよしんじよ)とおぼしくて、竹の御さをに麻の御衣(おんころも)、紙の御衾(おんふすま)なンどかけられたり。さしも本朝漢土(ほんてうかんど)の妙(たへ)なるたぐひ数をつくして、綾羅錦繍(りようらきんしう)の粧(よそほひ)も さながら夢になりにけり。供奉(ぐぶ)の公卿殿上人(くぎやうてんじやうびと)も、おのおの見参らせし事なれば、今のやうにおぼえて、皆袖(そで)をぞしぼられける。

さる程に上の山より、こき墨染(すみぞめ)の衣(ころも)着たる尼二人(あまににん)、岩のかけぢをつたひつつ、おりわづらひ給ひけり。法皇是(ほうわうこれ)を御覧じて、「あれは何者ぞ」と御尋(おんたづ)ねあれば、老尼(らうに)涙をおさへて申しけるは、「花がたみひぢにかけ、岩つつじとり具してもたせ給ひたるは、女院にてわたらせ給ひさぶらふなり。爪木(つまぎ)に蕨(わらび)折り具してさぶらふは、鳥飼(とりかひ)の中納言伊実(ちゆうなごんこれざね)の娘(むすめ)、五条大納言邦綱卿(ごでうのだいなごんくにつなのきやう)の養子(やうじ)、先帝(せんてい)の御(おん)めのと、大納言佐(だいなごんのすけ)」と申しもあへず泣きけり。法皇もよにあはれげにおぼしめして、御涙(おんなみだ)せきあへさせ給はず。女院は、「さこそ世を捨つる御身(おんみ)といひながら、いまかかる御有様(おんありさま)を見え参らせむずらん恥づかしさよ。消えもうせばや」とおぼしめせどもかひぞなき。宵々(よひよひ)ごとのあかの水、結ぶたもともしをるるに、暁(あかつき)おきの袖の上、 山路(やまぢ)の露もしげくして、しぼりやかねさせ給ひけん、山へもかへらせ給はず、御庵室(ごあんじつ)へもいらせ給はず、御涙(おんなみだ)にむせばせ給ひ、あきれてたたせましましたる処(ところ)に、内侍(ないし)の尼(あま)参りつつ、 花がたみをば給はりけり。

現代語訳

あちらこちらを御覧になると、庭の千草にはしっとりと下りた露が重くかかり、垣根に倒れ掛かかっている。その垣根の外の田圃(たんぼ)は水が溢れて、鴫(しぎ)の下り立つ隙間も見分けられない。法皇が女院の御庵室にお入りになって、襖を開けて御覧になると、一間には阿弥陀仏・観世音菩薩・勢至菩薩の来迎の三尊が置かれている。中央の阿弥陀仏の御手(みて)には五色の糸をおかけになっておられる。左には普賢菩薩の画像、右には善導和尚並びに先帝の御影(みえい)をかけ、法華経の経文八巻と善導和尚が著した九帖の御書も置かれていた。昔たきしめていた蘭麝(らんじゃ)の匂いとはうって変って、香の匂いが立ち上っている。かの浄名居士(じょうめいきょじ)が一丈四方の室の中に、三万二千の床を並べ、十方の諸仏をご招待申したというのも、このようであったかと思われた。襖には、諸経の要文どもを色紙に書いて、所々に張ってある。その中に大江の定基法師(さだもとほっし)が、中国の清涼山(せいりょうざん)で詠んだという、「笙歌(せいが)遥かに聞ゆ孤雲(こうん)の上、聖衆来迎(しょうじゅうらいごう) 落日(らくじつ)の前」とも書かれている。少し引き離して、女院の御製と思われて、

おもひきや深山(みやま)のおくにすまひして雲ゐの月をよそに見んとは
(このように深山の奥に住んで、宮中で眺めた月を、よそで、それもこんな宮中を離れた寂しい所で見ようとは、かって思いもしなかったことだ)

それから傍らの一間を御覧になると、女院の御寝所と思われて竹の棹(さお)に麻の御衣(おんころも)、紙の御夜具(おんやぐ)などがかけられている。
あれほど日本や中国の美を尽くした数限りない美麗な衣装で着飾っておられた御様子も、まるで夢となってしまった。御供の公卿や殿上人も、それぞれが宮中でのかっての美しいお姿を見知っていたので、それが今のように思われて、皆涙を流されたのであった。

そうしているうちに上の山から、濃い墨染の衣を着た尼が二人、岩のがけ道を伝い伝いして、下りあぐんでおられた。法皇がこれを御覧になって、「あれは何者か」とお尋ねになると、老尼が涙をこらえて申すには、「花かごを肘にかけ、岩つつじを取り揃えてお持ちになっているのは、女院でいらっしゃいます。柴木に蕨を折りそえて持っておりますのは、鳥飼の中納言伊実(これざね)の娘で、五条大納言邦綱卿(くにつなきょう)の養子となり、先帝の御乳母をしておりました大納言佐です」と申し終らぬうちに泣いた。法皇もまことに哀れなことだと思われて、御涙を抑える事がおできにならない。女院は、「このように世を捨てた身とはいいながら、今このように哀れな有様を御覧に入れるのは恥ずかしいことです。消えてなくなりたい」と思われたがどうしようもない。毎夜毎夜仏前に捧げる閼伽(あか)の水を汲み、その水で濡れた衣の袂(たもと)も萎(しお)れて、早朝の山路の上には露が重たく下りて、袖も湿り絞りかねられたのであろうか、山へもお戻りにもなられず、御庵室へもお入りにもならず、御涙にむせばれて、途方にくれてお立ちになっていらっしゃるところへ、内侍の尼が参って女院のお持ちになっていた花かごを頂戴した。

朗読・解説:左大臣光永

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