平家物語 百八十九 大原入(おおほはらいり)

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原文

されども冷泉大納言隆房卿(れいぜんのだいなごんたかふさのきやう)、七条修理大夫信隆卿(しつでうのしゆうりのだいぶののぶたかのきやう)の北の方、しのびつつやうやうにとぶらひ申させ給ひけり。「あの人々共(ひとびとども)のはぐくみにてあるべしとこそ、昔は思はざりしか」とて、女院御涙(にようゐんおんなみだ)をながさせ給へば、つき参らせたる女房(にようぼう)たちも、みな袖(そで)をぞしぼられける。

此御住(このおんすま)ひも都猶(なほ)ちかくて、玉(たま)ぼこの道(みち)ゆき人(びと)の人目(ひとめ)もしげくて、露の御命(おんいのち)風を待たん程は、うき事聞かぬふかき山の奥のおくへも入りなばやとはおぼしけれども、さるべきたよりもましまさず。ある女房の参ッて申しけるは、「大原山(おほはらやま)のおく、寂光院(じやくくわうゐん)と申す所こそ閑(しづか)にさぶらへ」と申しければ、「山里(やまざと)は物のさびしき事こそあるなれども、世のうきよりは住みよかんなるものを」とて、おぼしめしたたせ給ひけり。御輿(おんこし)なンどは、隆房(たかふさの)卿(きやう)の北の方の御沙汰(おんさた)ありけるとかや。文治(ぶんぢ)元年長月(ながつき)の末に、彼(かの)寂光院へいらせ給ふ。道すがら四方(よも)の梢(こずゑ)の色々なるを御覧じ過ぎさせ給ふ程に、山かげなればにや、日も既(すで)に暮れかかりぬ。野寺(のでら)の鐘の入相(いりあひ)の音(おと)すごく、わくる草葉(くさば)の露しげみ、いとど御袖(おんそで)ぬれまさり、嵐はげしく木(こ)の葉(は)みだりがはし。空かき曇り、いつしかうちしぐれつつ、鹿(しか)の音(ね)かすかに音信(おとづ)れて、虫の恨(うらみ)もたえだえなり。とに角(かく)にとりあつめたる御心ぼそさ、たとへやるべきかたもなし。浦づたひ島づたひせし時も、さすがかくはなかりし物をと、おぼしめすこそかなしけれ。岩に苔(こけ)むしてさびたる所なりければ、住ままほしうぞおぼしめす。露結(むす)ぶ庭の萩原霜枯(はぎはらしもが)れて、籬(まがき)の菊の枯(か)れ枯(が)れにうつろふ色を御覧じても、御身(おんみ)の上とやおぼしけん。仏の御前(おんまへ)に参らせ給ひて、「天子聖霊成等正覚(てんししやうりやうじやうとうしやうがく)、頓証菩提(とんしようぼだい)」と、いのり申させ給ふにつけても、先帝の御面影(おんおもかげ)ひしと御身(おんみ)にそひて、いかならん世にか思召(おぼしめ)し忘れさせ給ふべき。さて寂光院のかたはらに、方丈(はうぢやう)なる御庵室(ごあんしつ)をむすんで、一間(ひとま)をば御寝所(ぎよしんじよ)にしつらひ、一間(ひとま)をば仏所(ふつしよ)に定め、昼夜朝夕(ちうやてうせき)の御(おん)つとめ、長時不断(ちやうじふだん)の御念仏(おんねんぶつ)、おこたる事なくて、月日を送らせ給ひけり。

現代語訳

けれども冷泉大納言隆房卿(れいぜんのだいなごんたかふさのきょう)と七条修理大夫信隆卿(しちじょうのしゅうりのだいぶののぶたかのきょう)の北の方は、人目を忍びながらさまざまにお見舞いをなさった。「あの人々の世話で生きて行こうとは昔は思ってもみなかったのに」と言って、女院が御涙を流されると、つき申し上げていた女房達も、皆涙で濡れた袖を絞られた。

この御住いも都に近く、道行く人の人目も多くて、露のようにはかない御命が、風に吹かれて散るように死ぬのを待っている間は、辛い嫌な事を聞かないですむ深い山の奥の奥へも入ってしまいたいと思われたけれども、適当な便宜もおありにならない。ある女房が参って申すには、「大原山の奥に、寂光院と申す閑静な所があるそうですよ」と申したので、「山里は物寂しくはあろうが、世間で嫌な辛い思いをするよりは住みよいであろうよ」と言って、寂光院への移転を思い立たれた。御輿などは、隆房卿の北の方の手配だったそうだ。文治元年九月に、その寂光院へお入りになる。道中、四方の梢がいろいろと色づいているのを御覧になりながらお通りになって行くうちに、山陰(やまかげ)だからからであろうか、日もすでに暮れかかった。野寺で鳴らす入相の鐘の音が物寂しく感じられ、踏み分けていく草葉に露がしっとりと降りており、涙に濡れた御袖がいっそう濡れて、激しい風に、木葉が乱れ散っている。空が急に曇りだし、早くも時雨が降って来て、鹿の鳴き声がかすかに聞えて、虫の恨むように聞える鳴き声が絶え絶えに聞える。あれこれと見る物聞く物が合さってその御心細さは例えようがない。かって浦伝いや島伝いをしながら暮していた時も、さすがにこんなに心細くはなかったものをと、思われるのが悲しかった。寂光院は岩に苔むして物寂びた所だったので、ここにいつまでも住みたいとお思いになる。露が降りている庭の萩原は霜で枯れ、籬のあたりに咲く菊がそれぞれに枯れそうになって色を変える様を御覧になっても、自分の身の上の様だと思わたことだろう。仏の御前にお参りになられて、「天子聖霊成等正覚(てんししょうりょうじやうとうしょうがく)、頓証菩提(とんしょうぼだい)」と祈り申されるにつけても、先帝の面影がひしひしと御身に添っていつの世にお忘れになる事だろうか。さて建礼門院は、寂光院の傍らに一丈四方の御庵室を造って、一間を御寝所にしつらい、一間を仏像安置の場所に定め、昼夜朝夕御勤行(おつとめ)、長時間にわたる絶え間ない御念仏を怠る事もなく、月日を送っておられた。

原文

かくて神無月中(かみなづきなか)の五日(いつか)の暮(くれ)がたに、庭に散りしく楢(なら)の葉(は)をふみならしてきこえければ、女院、「世を厭(いと)ふ所に、何者のとひくるやらん。あれ見よや、忍ぶべき者ならば、いそぎしのばん」とて見せらるるに、をしかのとほるにてぞありける。女院、「いかに」と御尋(おんたづ)ねあれば、大納言佐殿(だいなごんのすけどの)、涙をおさへて、

岩根(いはね)ふみたれかはとはんならの葉のそよぐはしかのわたるなりけり

女院哀(あは)れにおぼしめし、窓の小障子(こしやうじ)にこの歌をあそばしとどめさせ給ひけり。

かかる御つれづれのなかに、おぼしめしなぞらふる事共は、つらき中にもあまたあり。軒(のき)に並べる植木(うゑき)をば、七重宝樹(しちぢゆうほうじゆ)とかたどれり。岩間につもる水をば、八功徳水(はっくどくすい)とおぼしめす。無常(むじやう)は春の花、風に随って散りやすく、有涯(うがい)は秋の月、雲に伴(ともな)って隠れやすし。昭陽殿(せうやうでん)に花を翫(もてあそ)びし朝(あした)には、風来ッて匂(にほひ)を散し、長秋宮(ちやうしうきゆう)に月を詠ぜしゆふべには、雲おほッて光をかくす。昔は玉楼金殿(ぎよくろうきんでん)に錦(にしき)の褥(しとね)をしき、妙(たへ)なりし御住ひなりしかども、今は柴(しば)引きむすぶ草(くさ)の庵(いほ)、よそのたもともしをれけり。

現代語訳

こうして十月五日の暮方に、庭に散り積った楢の葉を踏み鳴らして来る物音が聞えたので、女院が「世の中を嫌って住んでいる所に、何者が訪ねて来るのかしら。それを見て来なさい。隠れなければならない者ならば、急いで隠れましょう」と言って、女房に見させられると、男鹿が通る音であった。女院が、「どうだった」とお尋ねになると、大納言佐殿(だいなごんのすけどの)は涙をこらえて、

岩根ふみたれかはとはんならの葉のそよぐはしかのわたるなりけり
(この山間の岩を踏んで、誰が訪ねて来るでしょうか、楢の落葉がそよぐのは、鹿が通っているのだった)

女院は哀れにお思いになり、窓の小障子にこの歌を書かかれてお残しになった。

こんな退屈な生活の中にもなぞらえてお考えになる事は、辛い中でもたくさんあった。軒に並べた植木を、極楽の七重の宝樹(ほうじゅ)に擬して考える。岩の間に溜まる水を、極楽の池の八功徳水とお考えになる。無常は、春の花が風が吹くのに従って散りやすいようなものであり、人の一生は秋の月が雲に覆われて隠れやすいようなものである。内裏の昭陽殿で花を賞美した朝には、風が花を吹き散らし、長秋宮で月を眺めた夕べには、雲がその光を覆い隠した。昔は玉楼金殿(ぎょくろうきんでん)に褥(しとね)を敷き、優美なお住まいであったが、今は柴を結んで造った粗末な草庵での生活で、傍(はた)で見ていてもお気の毒さで、袂(たもと)が涙に濡れて萎(しお)れたのだった。

朗読・解説:左大臣光永

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