平家物語 百八十八 女院出家(にようゐんしゆつけ)

原文

建礼門院(けんれいもんゐん)は、東山(ひんがしやま)の麓(ふもと)、吉田(よしだ)の辺(へん)なる所にぞ立ちいらせ給ひける。中納言法印慶恵(ちゆうなごんのほふいんきやうゑ)と申しける奈良法師(ならぼふし)の坊(ぼう)なりけり。 住みあらして年久しうなりにければ、庭には草ふかく、簷(のき)にはしのぶ茂れり。簾(すだれ)たえ閨(ねや)あらはにて、雨風(あめかぜ)たまるべうもなし。花は色々にほへども、主(あるじ)とたのむ人もなく、月はよなよなさしいれど、詠(なが)めてあかすぬしもなし。昔は玉の台(うてな)をみがき、錦(にしき)の帳(ちやう)にまとはれて、あかし暮し給ひしに、今はありとしある人にはみな別れはてて、あさましげなるくち坊にいらせ給ひける御心(おんこころ)のうち、おしはかられて哀れなり。魚(うを)の陸(くが)にあがれるが如く、鳥の巣をはなれたるがごとし。さるままには、うかりし浪(なみ)の上、船の中(うち)の御住(おんすま)ひも、今は恋しうぞおぼしめす。蒼波路遠(さうはみちとほ)し、思(おもひ)を西海(さいかい)千里の雲に寄せ、白屋(はくおく)苔(こけ) ふかくして、涙東山一庭(なんだとうざんいつてい)の月におつ。かなしとも云ふはかりなし。

かくて女院(にようゐん)は、文治(ぶんぢ)元年五月一日(ひとひのひ)、御(おん)ぐしおろさせ給ひけり。御戒(おんかい)の師には、長楽寺(ちやうらくじ)の阿証房(あしようばう)の上人印西(しやうにんいんせい)とぞきこえし。御布施(おんふせ)には先帝(せんてい)の御直衣(おんなほし)なり。今はの時まで召されたりければ、その御(おん)うつり香(が)も未(いま)だうせず。御形見(おんかたみ)に御覧ぜんとて、 西国(さいごく)よりはるばると都までもたせ給ひたりければ、いかならん世までも御身(おんみ)をはなたじとこそおぼしめされけれども、御布施(おんふせ)になりぬべき物のなきうへ、かつうは彼御菩提(かんおごぼだい)のためとて、泣く泣くとりいださせ給ひけり。上人これを給はッて、何(なに)と奏(そう)するむねもなくして、墨染(すみぞめ)の袖(そで)をしぼりつつ、泣く泣く罷出(まかりい)でられけり。此(この)御衣(ぎよい)をば幡(はた)にぬうて、長楽寺の仏前にかけられけるとぞ聞えし。

女院は、十五にて女御(にようご)の宣旨(せんじ)をくだされ、十六にて后妃(こうひ)の位(くらゐ)に備(そなは)り、君王(くんわう)の傍(かたはら)に候(さぶら)はせ給ひて、朝(あした)には朝政(あさまつりごと)をすすめ、よるは夜(よ)を専(もつぱ)らにし給へり。廿二にて皇子御誕生(わうじごたんじやう)、皇太子(くわうたいし)にたち、位につかせ給ひしかば、院号蒙(ゐんがうかうぶ)らせ給ひて、建礼門院(けんれいもんゐん)とぞ申しける。入道相国(にふだうしやうこく)の御娘(おんむすめ)なるうへ、天下の国母(こくも)にてましましければ、世の重うし奉る事なのめならず。今年(ことし)は廿九にぞならせ給ふ。桃李(たうり)の御粧猶(おんよそほひなほ)こまやかに、芙蓉(ふよう)の御(おん)かたちいまだ衰へさせ給はねども、翡翠(ひすい)の御(おん)かンざしつけても、何にかはせさせ給ふべきなれば、遂(つひ)に御様(おんさま)をかへさせ給ふ。浮世(うきよ)を厭(いと)ひ、まことの道にいらせ給へども、御歎(おんなげき)はさらにつきせず。人々いまはかくとて海に沈みし有様、先帝、二位殿の御面影(おんおもかげ)、いかならん世までも、忘れがたくおぼしめすに、露の御命(おんいのち)、なにしに今までながらへて、かかるうき目を見るらんと、おぼしめしつづけて、御涙(おんなみだ)せきあへさせ給はず。五月(さつき)の短夜(みじかよ)なれども、あかしかねさせ給ひつつ、おのづからうちまどろませ給はねば、昔のことは夢にだにも御覧ぜず。壁にそむける残(のこん)の灯(ともしび)のかげかすかに、夜もすがら窓うつくらき雨の音ぞさびしかりける。上陽人(しやうやうじん)が上陽宮(しやうやうきゆう)に閉ぢられけん悲しみも、是(これ)には過ぎじとぞ見えし。昔をしのぶつまとなれとてや、もとの主のうつし植ゑたりけん花橘(はなたちばな)の、簷(のき)近く風なつかしうかをりけるに、 山郭公二声三声(やまほととぎすふたこゑみこゑ)おとづれければ、女院ふるき事なれどもおぼしめし出でて、御硯(おんすずり)の蓋(ふた)にかうぞあそばされける。

ほととぎす花たちばなの香(か)をとめてなくはむかしのひとや恋しき

女房達(にようぼうたち)さのみたけく、二位殿(にゐどの)、越前(ゑちぜん)の三位(さんみ)の上(うへ)のやうに、水の底にも沈み給はねば、武士(もののふ)のあらけなきにとらはれて、旧里(きうり)にかへり、わかきも老いたるも、様(さま)をかへ、かたちをやつし、あるにもあられぬ有様(ありさま)にてぞ、思ひもかけぬ谷の底、岩のはざまにあかし暮し給ひける。住(すま)ひし宿(やど)は、皆煙(けぶり)とのぼりにしかば、むなしき跡(あと)のみのこりて、しげき野べとなりつつ、見なれし人のとひくるもなし。仙家(せんか)より帰つて、七世(しつせ)の孫(まご)にあひけんも、かくやとおぼえてあはれなり。

さるほどに、七月九日(ここぬかのひ)の大地震(だいぢしん)に、築地(ついぢ)もくづれ、荒れたる御所(ごしよ)もかたぶきやぶれて、いとど住ませ給ふべき御(おん)たよりもなし。緑衣(りよくい)の監使(かんし)、宮門(きゆうもん)をまぼるだにもなし。心のままに荒れたる籬(まがき)は、しげき野辺よりも露けく、折(をり)知りがほに、いつしか虫の声々(こゑごゑ)うらむるも哀れなり。夜(よ)もやうやうながくなれば、いとど御寝覚(おんねざめ)がちにて、明(あか)しかねさせ給ひけり。つきせぬ御物思(おんものおもひ)に、秋のあはれさへうちそひて、しのびがたくぞおぼしめされける。何事もかはりはてぬるうき世なれば、 おのづからなさけをかけ奉るべき草のゆかりもかれはてて、誰はぐくみ奉るべしとも見え給はず。

現代語訳

建礼門院は、東山の麓、吉田の辺りの所に立ち入られた。中納言法印慶恵と申した奈良法師が住んでいた僧坊である。住み終わった後長年経っていたので、庭には草が深く生い茂り、軒にはシノブ草が茂っている。簾(すだれ)は破れて無くなり、寝室は丸見えで、雨風を防げそうにも見えない。花はいろいろ匂ってくるが主と頼む人も無く、月の光は夜毎に差し込むが、眺めて夜明かしをする人もいない。昔は華麗な宮殿の中で錦の蚊帳に囲まれて明かし暮されていたのに、今は平氏一族のあらゆる人とも別れてしまい、ひどくみすぼらしい朽ち果てた僧坊にお入りになった建礼門院の御心の内が推量されて哀れである。魚が陸に上がったようなものでもあり、鳥が巣を離れたのと同じである。そういう生活をするにつけては、浮んだ波の上や船の中での御住まいも、今となっては恋しく思われる。青海原の波の彼方千里の果てに遠ざかった西海の雲にはるかに思いを馳せて悲しみ、白茅で葺いた苔むした粗末な小屋で、東山の麓の庭に照る月を観ては涙を流すのであった。悲しいとどんなに言っても言い尽くせない。

こうして女院は、文治元年五月一日、髪を下(おろ)された。御戒の師は、長楽寺(ちょうらくじ)の阿証房(あしょうぼう)の上人印西(しょういんいんせい)ということであった。長楽寺へのお布施(おふせ)は先帝(安徳天皇)の御直衣(おんなおし)である。最期の時までお召しになっていたので、その御移り香はいまだに無くならない。御形見として御覧になろうといって、西国からはるばると都まで持たせられたので、どんな世になっても御身から離すまいと思われていたが、お布施になるような物が無いうえ、一つには先帝の菩提を弔うためというので、泣く泣く取り出されたのだった。上人はこれを頂いて、何と申し上げて良いか言葉もなく、涙に濡れた墨染の袖を絞りながら、泣く泣く退出された。この御衣を旗に縫い籠めて、長楽寺の仏前にかけられたということであった。

女院は、十五で女御の宣旨を下され、十六で后妃の位につき、高倉天皇の側にお仕えになられて、朝は朝政をなさるように勧め、夜は寝所で寵愛を独り占めになさっていた。二十二歳の時皇子が御誕生になり、その皇子が皇太子にたち、即位なさったので、院号を授けられて、建礼門院と申した。入道相国の御娘である上に、天皇の生母でいらっしゃったので、世間が重んじ申し上げる事、一通りではない。今年は二十九におなりになる。桃・李(すもも)のようなお姿は相変わらず美しく、芙蓉のような身体つきはいまだ衰えを感じさせないが、翡翠の御簪(かんざし)をつけて飾っても今更いたしかたのない御事なので
、ついに髪を下して尼のお姿になられた。世間を嫌い、仏の道にお入りになったが、御歎きはまったく尽きる事は無い。人々が今はこれまでと海に沈んだ有様や先帝や二位殿の御面影、どんな世になっても、忘れがたいと思われているのに、露のようなはかない命をどうして今まで長らえて、こんな辛い目をみるのだろうかと、思い続けて、御涙をこらえる事がおできにならない。五月の夜は短いが、明かしかねておられ、時たまうとうととなさることもないので、昔の事は夢にでも御覧にならない。壁際に置いて室内を照らす残りの灯の影がかすかになり、夜もすがら窓を打つ暗い雨の音が寂しかった。上陽人(じょうじん)が上陽宮(じょうようきゅう)に閉じ籠められた時の悲しさも、建礼門院の今の悲しみには勝てないと見えた。昔を偲ぶよすがとなれということだろうか、元の主が移し植えたのであろう花橘が、軒近くで風に靡いてなつかしそうに香っているところに、山郭公が二声、三声鳴き声をあげて訪れたので、御硯の蓋につぎのようにお書きになった。

ほととぎす花たちばなの香(か)をとめてなくはむかしのひとや恋しき
(ほととぎすが、花橘の香りを求めてここに来て鳴くのは、私のように昔の人が恋しいからであろうか)

女院に仕えていた女房達はそれほど気強く、二位殿、越前の三位の上のように、水の底にもお沈みにもならないので、荒々しい武士に捕われて、故郷の京都へ帰り、若い者も年取った者も、尼姿になり、みすぼらしいさまになって、生きていても生きていない様なみじめな有様で、前には思いもしなかった谷の底や岩の隙で日を過ごしておられた。住んでいた家は、皆焼失してしまったので、虚しく焼け跡ばかりが残って、草深い野原になり、見慣れた人が訪ねてくることもない。後漢の劉晨(りゅうしん)と阮肇(げんちょう)が仙女に会って帰ってみると、七世後の孫に会ったという時の心境も、このようではなかったかと思えて哀れである。

そうしているうちに、七月九日の大地震で、築地も崩れ、荒れていた御所も破れ傾いて、ますますお住みになれるありさまではなくなった。御門を守る門衛さえいない。荒れ果てた垣根は、草深い野原よりも露に濡れ、時節を知っているといった虫の声々が恨むように聞えて哀れである。夜も次第に長くなると、女院はますます御寝覚めがちで、夜を明かしかねておられた。尽きない御思いのうえに、秋の哀れさえまでも加わって、悲しみをこらえきれないように思われた。何事も変わり果ててしまったこの世なので、たまにでも女院に御情けをおかけ申し上げるような縁故の人々も、草が枯れたように、すっかり亡くなってしまって、誰がお世話申し上げるともお見えにならなかった。

朗読・解説:左大臣光永

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