平家物語 百八十七 六代被斬(ろくだいきられ)

原文

さる程に六代御前は、やうやう十四五にもなり給へば、みめ、かたちいよいようつくしく、あたりもてりかかやくばかりなり。母うへ是を御覧じて、「あはれ世の世にてあらましかば、当時は近衛司(こんゑづかさ)にてあらんずるものを」と、宣(のたま)ひけるこそあまりの事なれ。

現代語訳

そうするうちに六代御前は、ようやく十四五にもなられると、容貌、姿かたちはますます可愛らしく、その周りは照り輝くばかりである。母上はこれを御覧になって、「ああ、世が世であれば、今は近衛司になっているものを」と、おっしゃったのは度を越した言である。

原文

鎌倉殿常はおぼつかなげにおぼして、高雄(たかを)の聖(ひじり)のもとへ便宜(べんぎ)ごとに、「さても維盛卿(これもりのきやう)の子息は何(なに)と候(さうらふ)やらむ。昔頼朝(よりとも)を相(さう)し給ひしやうに、朝(てう)の怨敵(をんでき)をもほろぼし、会稽(くわいけい)の恥(はぢ)をも雪(きよ)むべき仁(じん)にて候か」と尋ね申されければ、聖の御返事(おんへんじ)には、「是(これ)は底もなき不覚仁(ふかくじん)にて候ぞ。御心(おんこころ)やすうおぼしめし候へ」と申されけれども、鎌倉殿猶(なほ)も御心(おんこころ)ゆかずげにて、「謀反(むほん)おこさば、やがて方人(かたうど)せうずる聖の御房(おんばう)なり。但(ただ)し頼朝一期(いちご)の程は、誰(たれ)か傾くべき。子孫のすゑぞ知らぬ」と、宣(のたま)ひけるこそおそろしけれ。母うへ是を聞き給ひて、「いかにも叶(かな)ふまじ。はやはや出家し給へ」と仰せければ、六代御前(ろくだいごぜん)十六と申しし文治(ぶんぢ)五年の春の比(ころ)、うつくしげなる髪を肩のまはりにはさみおろし、柿(かき)の衣(ころも)、袴(はかま)に笈(おひ)なンどこしらへ、聖に暇(いとま)こうて修行に出でられけり。斎藤五(さいとうご)、斎藤六(さいとうろく)も、同じ様(さま)に出で立ちて、御供(おんとも)申しけり。まづ高野(かうや)へ参り、父の善(ぜん)知識(ちしき)したりける滝口入道(たきぐちにふだう)に尋ねあひ、御出家(ごしゆつけ)の次第、臨終の有様くはしう聞き給ひて、かつうはその御跡(おんあと)もゆかしとて、熊野へ参り給ひけり。浜(はま)の宮(みや)の御前(おんまへ)にて、父のわたり給ひける、山(やま)なりの島(しま)を見渡して、渡らまほしくおぼしけれども、浪風(なみかぜ)むかうてかなはねば、力およばでながめやり給ふにも、我父(わがちち)はいづくに沈み給ひけんと、沖より寄する白浪(しらなみ)にも問はまほしくぞ思はれける。汀(みぎは)の砂(いさご)も父の御骨(ごこつ)やらんと、なつかしうおぼしければ、涙に袖はしをれつつ、塩くむあまの衣(ころも)ならねども、かわくまなくぞ見え給ふ。渚(なぎさ)に一夜逗留(いちやとうりう)して、念仏申し経(きやう)よみ、指(ゆび)のさきにて砂(いさご)に仏のかたちを書きあらはして、あけければ貴(たつと)き僧を請(しやう)じて、父の御(おん)ためと供養(くやう)じて、作善(さぜん)の功徳(くどく)さながら聖霊(しやうりやう)に廻向(ゑかう)して、亡者(まうじや)に暇(いとま)申しつつ、泣く泣く都へ上られけり。

現代語訳

鎌倉殿はいつも六代御前の事を気にかけておられて、高雄の聖の所へ機会ある事に、「ところで維盛卿の子息はどうしているか。昔頼朝の人相を見られたように、朝敵をも滅ぼし、これまでの負け戦の恥をも雪ぐような人物であろうか」と尋ねられたので、聖の御返事としては、「これは底無しの思慮分別無しでござるぞ。御安心なさいますように」と申されたのだが、鎌倉殿は猶も納得できない様子で、「謀反を起したら、すぐに味方をしそうな聖の御房だ。但し頼朝が生きている間は、誰が源氏を倒せよう。子孫の末の時代はどうなるかわからない」と言われたのは恐ろしい事であった。母上はこれをお聞きになって、「どうしても出家しなければ助かるまい。早々に出家なさい」と言われたので、六代御前は十六の年、文治五年の春に、可愛らしい髪を肩の周りで鋏で切り下し、柿渋で染めた衣、袴に笈(おい)などをこしらえ、聖に暇乞いをして修行に出られた。斎藤五、六も同じような装いをして出立し、お供申した。初めに高野山へ参り、父を仏道に導いた滝口入道を尋ねて会い、御出家の次第、臨終の有様など詳しくお聞きになって、一つにはその御跡も見たいということで、熊野へお参りになった。浜の宮の御前で父がお渡りになられた、山なりの島を見渡して、渡りたいと思われたが、波風が強くて渡れないので、仕方なく遠くを眺めらておられたが、それにしても我父はどこにお沈みになられたのだろうと、沖から寄せる白波にも聞いてみたいと思われたのだった。水際の砂も父の遺骨ではなかろうかと、懐かしく思われたので、涙で袖は萎れながらも、塩を汲む海女の衣ではないが、乾く間もないようにお見えになる。渚に一夜泊まって、念仏申し経を読み、指の先で砂に仏の姿を書き表して、夜が明けたので尊い僧を招いて、父の御為にと供養して、作善の功徳をそっくりそのまま父の霊魂に回向して、亡くなった人に暇を告げて、泣く泣く都へ上られた。

原文

小松殿(こまつどの)の御子丹後侍従忠房(たんごのじじゆうただふさ)は八島(やしま)のいくさより落ちて、ゆくゑも知らずおはせしが、紀伊国(きのくに)の住人、湯浅権守宗重(ゆあさごんのかみむねしげ)をたのんで、湯浅(ゆあさ)の城(じやう)にぞこもられける。是を聞いて平家に心ざし思ひける越中次郎兵衛(ゑつちゆうのじらびやうゑ)、上総五郎兵衛(かずさのごらうびやうゑ)、悪七兵衛(あくしちびやうゑ)、飛騨四郎兵衛(ひだのしらうびやうゑ)以下(いげ)の兵共(つはものども)、つき奉るよし聞えしかば、伊賀伊勢両国(りやうごく)の住人等(ら)、われもわれもと馳せ集まる。究竟(くつきやう)の者共数百騎(すひやくき)たてごもッたるよし聞えしかば、熊野別当(くまののべつたう)、鎌倉殿より仰せを蒙ッて、両三月(りやうさんぐわつ)が間、八ヶ度寄せて攻め戰ふ。城(じやう)の内(うち)の兵ども命を惜しまずふせぎければ、毎度にみかたおひちらされ、熊野法師(くまのほふし)数をつくいてうたれにけり。熊野別当、鎌倉殿へ飛脚(ひきやく)を奉って、「当国(たうごく)湯浅の合戦の事、両三月が間に八ヶ度寄せて攻め戦ふ。されども城の内の兵ども命を惜しまずふせぐ間、毎度に御方(みかた)おひおとされて、敵を寃(しへだ)くるに及ばず。近国二三ヶ国(きんごくにさんがこく)をも給はって、攻めおとすべき」よし申したりければ、鎌倉殿、「其条(そのでう)、国の費(つひえ)、人の煩(わづらひ)なるべし。たてごもる所の凶徒(きようと)は、定(さだ)めて海山(うみやま)の盗人(ぬすびと)にてぞあるらん。山賊海賊きびしう守護して、城(じやう)の口をかためてまぼるべし」とぞ宣(のたま)ひける。其定(そのじやう)にしたりければ、げにも後には人一人(いちにん)もなかりけり。 鎌倉殿はかりことに、「小松殿の君達(きんだち)の、一人も二人(ににん)もいきのこり給ひたらんをば、たすけ奉るべし。其故(そのゆゑ)は、池(いけ)の禅尼(ぜんに)の使(つかひ)として、頼朝を流罪(るざい)に申しなだめられしは、ひとへにかの内府(だいふ)の芳恩(はうおん)なり」と宣ひければ、丹後侍従六波羅(ろくはら)へ出でてなのられけり。やがて関東へ下し奉る。鎌倉殿対面して、 「都へ御上(おんのぼ)り候へ。かたほとりに思ひあて参らする事候(さうらふ)」とて、すかし上せ奉り、おッさまに人をのぼせて、勢田(せた)の橋の辺(へん)にて切ッてンげり。

現代語訳

小松殿の御子丹後侍従忠房は、八島の戦いから逃れた後、行方もわからずにおられたが、紀伊國の住人、湯浅権守宗重を頼って、湯浅の城に籠られた。これを聞いて平家に志を寄せていた越中次郎兵衛、上総五郎兵衛、悪七兵衛、飛騨の四郎兵衛以下の兵共が味方につき申したという事が伝わったので、伊賀・伊勢両国の住人等が我も我もと馳せ集まる。屈強な者共が数百騎立て籠もったということが伝わって来たので、熊野別当が、鎌倉殿の命を受けて二、三か月の間に、八度寄せて攻め戦う。城内の兵共が命を惜しまず防いだので、毎度味方は追い落され、熊野法師はほとんど討たれてしまった。熊野別当は鎌倉殿へ飛脚をさしむけて、「当国での湯浅の合戦の事、二、三か月の間に八度も寄せて戦いましたが、城内の兵共が命を惜しまず防戦しますので、毎度味方は追い落されて、敵を打ち負かすことができません。近国二、三ヶ国でも頂いて攻め落としたい」ということを申したので、鎌倉殿は、「それは、国の出費となり、人の煩いになるに違いない。立て籠もっている凶徒は、きっと海山の盗人であろう。山賊や海賊は厳しく監視して、城の入り口を固めて守れ」と言われた。その通りにすると、頼朝の言葉通りに、後では人一人いなくなった。鎌倉殿は計画を立てて、「小松殿の公達が、一人でも二人でも生き残っていたなら、それを助けなさい。その訳は、池の禅尼の使いとして、頼朝を流罪に減刑せよと申し宥められたのは、ひとえにかの内府の報恩である」と言われたので、丹後侍従は六波羅へ出て行って名乗られたのだった。すぐに関東へ下し申し上げる。鎌倉殿は対面して、「都へ御上り下さい。都の片隅に貴方のお住まいにと思っている所があります」と言って、だまして上京させ、後を追うように人を上らせて、勢田の橋の辺りで斬ってしまった。

原文

小松殿の君達六人の外(ほか)に、土佐守宗実(とさのかみむねざね)とておはしけり。三歳(さんざい)より大炊御門(おほひのみかど)の左大臣経宗公(さだいじんつねむねこう)の養子(やうじ)にして、異姓他人(いしやうたにん)になり、武芸の道をばうち捨てて、文筆をのみたしなンで、今年は十八になり給ふを、鎌倉殿より尋ねはなかりけれども、世に憚(はばか)ッておひ出されたりければ、先途(せんど)をうしなひ、大仏(だいぶつ)の聖(ひじり)俊乗房(しゆんじようばう)のもとにおはして、「我は是(これ)小松の内府(だいふ)の末の子に、 土佐守宗実と申す者にて候。三歳より大炊御門左大臣経宗公養子にして、異姓他人になり、武芸のみちをうち捨てて、文筆をのみたしなんで、生年(しやうねん)十八歳に罷(まか)りなる。鎌倉殿より尋ねらるる事は候はねども、世におそれておひ出されて候。聖の御房(ごばう)、御弟子(おんでし)にせさせ給へ」とて、もとどりおしきり給ひぬ。「それもなほおそろしうおぼしめさば、鎌倉へ申して、 げにも罪ふかかるべくは、いづくへもつかはせ」と宣ひければ、聖いとほしく思ひ奉ッて、出家せさせ奉り、東大寺の油倉(ゆさう)といふ所にしばらくおき奉ッて、関東へ此(この)よし申されけり。 「なにさまにも見参(げんざん)してこそともかうもはからはめ。まづ下し奉れ」と宣ひければ、聖(ひじり)力およばで関東へ下し奉る。此(この)人奈良を立ち給ひし日よりして、飲食(おんじき)の名字(みやうじ)をたッて、湯水(ゆみづ)をものどへいれず。足柄(あしがら)こえて関本(せきもと)と云ふ所にて、つひにうせ給ひぬ。「いかにも叶(かな)ふまじき道なれば」とて、思ひきられけるこそおそろしけれ。

現代語訳

小松殿の公達は六人の外に、土佐守宗實という人がいらっしゃった。三歳の時から大炊御門の左大臣経宗公の養子となり、姓を平氏から藤原へ変えて他人となり、武芸の道を打ち捨てて、文筆をたしなんで、今年は十八歳にお成りになられるのを、鎌倉殿からの探索もなかったけれども、世間に憚って追い出されたので、将来の生きる道を失い、大仏の聖俊乗房(しゅんじょうぼう)の所へ行かれて、「私は小松の内府の末っ子で、土佐守宗実と申す者でございます。聖の御房の御弟子にして下さい」と言って、自分から髻(もとどり)をお切りになった。「それでもなお恐ろしいと思われるならば、鎌倉へ申して、どうしても罪深いとお思いならばどこへでもやってくれ」と言われたので、聖は気の毒にお思いになり、出家させ申して、東大寺の油倉という所にしばらく置き申し、関東へこの由を申し出された。鎌倉殿は、「ともかくどうあっても見参してから取り計らいましょう。まず関東へ下し申せ」と言われたので、聖はどうしようもなく関東へ下し申し上げる。この人は奈良を発った日から飲食と言う名のつく物を断って、湯水をも喉へ入れない。足柄を越えて関本という所で、ついにお亡くなりになった。「どうあっても生きられない道なので」と言って、思いきられたのは恐ろしい事であった。

原文

さる程に建久(けんきう)元年十一月七日(なぬかのひ)、鎌倉殿上洛(しやううらく)して、同九日(おなじきここのかのひ)、正弐位大納言(じやうにゐだいなごん)になり給ふ。同(おなじき)十一日大納言右大将を兼じ給へり。やがて両職を辞して、十二月四日(よつかのひ)関東へ下向。

現代語訳

そうするうちに建久元年十一月七日、鎌倉殿は上洛して、同九日、正弐位大納言にお成りに成る。同十一日大納言と右大将を兼務なさった。間もなく両職を辞して、十二月四日に関東へ下向なさった。

原文

建久三年三月十三日、法皇崩御(ほうぎよ)なりにけり。御歳(おんとし)六十六、 瑜伽振鈴(ゆがしんれい)の響(ひびき)は、其夜(そのよ)をかぎり、一乗暗誦(いちじやうあんじゆ)の御声(みこゑ)は、其暁(そのあかつき)に終りぬ。

現代語訳

建久二年三月十三日、法皇が崩御なさった。御年六十六、瑜伽振鈴‘ゆがしんれい)の響は、その夜で終り、一乗暗誦(いちじょうあんじゅ)の御声は、その明け方で終った。

原文

同(おなじき)六年三月十三日、大仏供養(くやう)あるべしとて、二月中に鎌倉殿又御上洛(ごしやうらく)あり。同(おなじき)十二日大仏殿へ参らせ給ひたりけるが、梶原(かぢはら)を召して、「てンがいの門の南のかたに、大衆何十人(だいしゆなんじふにん)をへだてて、あやしばうだる者の見えつる。召しとッて参らせよ」と宣ひければ、梶原承(うけたまは)ッてやがて具して参りたり。ひげをばそッてもとどりをばきらぬ男なり。「何者ぞ」と問ひ給へば、「是程運命尽きはて候ひぬるうへは、とかう申すに及ばず。是は平家の侍(さぶらひ)、薩摩中務家資(さつまのなかづかさいへすけ)と申す者にて候」。「それは何と思ひてかくはなりたるぞ」。「もしやとねらひ申し候ひつるなり」。「心ざしの程はゆゆしかり」とて、供養はてて都へいらせ給ひて、六条河原(ろくでうかはら)にてきられにけり。

現代語訳

同六年三月十三日、大仏供養が行われるということで、二月中に鎌倉殿は又御上洛なさる。同十二日大仏殿へ参詣なさったが、梶原景時を召して、「転害門の南の方に、大衆何十人かを隔てて、怪しい動きをしている者が見えた。召し取って差し出せ」とおっしゃったので、梶原は承ってすぐに連れて参った。ひげを剃って髻を斬っていない者である」「何者だ」とお尋ねになると、「こんなに運が尽き果ててしまった以上、とやかく申す事はない。私は平家の侍で薩摩守中務家資(さつまのかみなかつかさいえすけ)と申す者でございます」。「お前は何を考えてこういうなりをしているのだ」。「もしやと思い、狙い申していたのです」。「志の程は立派だ」と言って、大仏供養が終ってから都へお入りになり、六条河原にてお斬りになってしまった。

原文

平家の子孫は 去文治元年(さんぬるぶんぢぐわんねん)の冬の比(ころ)、一(ひと)つ子(ご)、二(ふた)つ子(ご)をのこさず、腹の内をあけて見ずといふばかりに尋ねとッて失ひてき。今は一人(いちにん)もあらじと思ひしに、新中納言(しんぢゆうなごん)の末の子に、伊賀大夫知忠(いがのたいふともただ)とておはしき。平家都を落ちしとき、三歳(さんざい)にてすておかれたりしを、めのとの紀伊次郎兵衛為教(きのじらうびやうゑためのり)やしなひ奉ッて、ここかしこにかくれありきけるが、備後国太田(びんごのくにおほた)といふ所にしのびつつゐたりけり。やうやう成人し給へば、郡郷(ぐんがう)の地頭(ぢとう)、守護あやしみける程に、都へのぼり法性寺(ほふしやうじ)の一(いち)の橋(ばし)なる所にしのんでおはしけり。爰(ここ)は祖父入道相国(そぶにふだうしやうこく)、「自然(しぜん)の事のあらん時城槨(じやうくわく)にもせん」とて、堀を二重(ふたへ)にほッて、四方に竹をうゑられたり。逆茂木(さかもぎ)ひいて、昼は人音(ひとおと)もせず、よるになれば尋常なるともがらおほく集って、詩作り、歌よみ、管絃(くわんげん)なンどして遊びける程に、なにとしてかもれ聞えたりけん。その比(ころ)人のおぢおそれけるは、一条(いちでう)の二位入道能保(にゐのにふだうよしやす)といふ人なり。その侍に後藤兵衛基清(ごとうびやうゑもときよ)が子に、新兵衛基綱(しんびやうゑもとつな)、「一の橋に違勅(ゐちよく)の者あり」と聞き出(いだ)して、建久七年十月七日(なぬかのひ)の辰(たつ)の一点(いつてん)に、其勢(そのせい)百四五十騎、一の橋へはせむかひ、をめきさけんで攻め戦ふ。城(じやう)の内(うち)にも卅余人(さんじふよにん)ありける者共、大肩(おほかた)ぬぎに肩ぬいで、竹の陰よりさしつめひきつめ散々(さんざん)に射れば、馬、 人おほく射ころされて、面(おもて)をむかふべき様(やう)もなし。さる程に一の橋に違勅の者ありと聞きつたへ、在京の武士ども、われもわれもと馳(は)せつどふ。程なく、一二千騎(いちにせんぎ)になりしかば、近辺(きんぺん)の小家(こいへ)をこぼち寄せ、堀をうめ、をめきさけんで攻め入りけり。城のうちの兵ども、打物(うちもの)ぬいて走り出でて、或(あるい)は討死(うちじに)する者もあり、或(あるい)はいたで負うて自害する者もあり。伊賀大夫知忠(いがのたいふともただ)は生年(しやうねん)十六歳になられけるが、いた手負うて自害し給ひたるを、めのとの紀伊次郎兵衛入道(きのじらうびやうゑにふだう)、膝(ひざ)の上にかき乗せ、涙をはらくはらとながいて、高声(かうしやう)に十念(じふねん)となへつつ、腹かき切ッてぞ死ににける。其(その)子の兵衛太郎(ひやうゑたらう)、兵衛次郎(ひやうゑじらう)共に討死してんげり。城(じやう)の内に卅余人ありける者共、大略(たいりやく)討死自害して、館(たち)には火をかけたりけるを、武士ども馳せ入ッて、手々(てんで)に討ちける頸共(くびども)とッて、太刀長刀(たちなぎなた)のさきにつらぬき、弐位入道殿(にゐのにふだうどの)へ馳せ参る。一条の大路(おほぢ)へ車やり出(いだ)して、頸共実検(じつけん)せらる。紀伊次郎兵衛入道の頸は、見知ッたる者も少々ありけり。伊賀大夫の頸、人争(いか)でか見知り奉るべき。此(この)人の母うへは、治部卿局(ぢぶのきやうのつぼね)とて八条(はつでう)の女院(にようゐん)に候(さうら)はれけるを、むかへ寄せ奉ッて見せ奉り給ふ。「三歳(さんざい)と申しし時、故中納言にぐせられて西国(さいこく)へ下りし後は、いきたりとも、死にたりとも、そのゆくゑを知らず。 但(ただ)し故中納言の思ひ出づる所々(ところどころ)のあるはさにこそ」とて泣かれけるにこそ、伊賀大夫の頸とも人知ってンげれ。

現代語訳

平家の子孫は去る文治元年の冬の頃、一歳の子、二歳の子をも残さず、母親の腹の中を開けて見ないというだけで徹底的に探して捕え殺してしまった。今はもう一人もいないと思っていたのに、新中納言(知盛)の末の子に、伊賀大夫知忠という人がおられた。平家が都を落ちて行ったとき、三歳で捨て置かれていたのを、乳母の紀伊次郎兵衛為教(ききのじろうひょうえためのり)が養い申して、あちらこちらと隠れ歩いており、備後国太田という所に隠れて住んでいた。だんだん成人なさって、郡郷の地頭や守護が怪しみだしたので、都へ上り、法勝寺の一の橋という所に隠れておられた。ここは祖父の入道相国(清盛)が、「大事が起った時は城槨にしよう」と言って、堀を二重に掘って、四方に竹を植えられた。逆茂木を引いて昼間は人の音もせず、夜になると立派な身なりをした者共が大勢集まって、詩を作り、歌を詠み、管弦などを奏して遊んでいたが、どうして漏れ聞こえたのであろうか。その頃人が怖れたのは、一条の二位入道能保(にいのにゅうどうよしやす)という人である。その侍に後藤兵衛基清(ごとうひょうえもときよ)の子で、新兵衛基綱(しんひょうえもとつな)という者がおり、「一の橋に勅命に従わない者がいる」と聞き出して、建久七年十月七日の午前七時過ぎに、その兵百四、五十騎が一の橋へ馳せ向い、おめき叫んで攻め戦う。城の中に三十余人いた者共が、衣服を両肩からはずし、上半身裸になって、竹の陰から弓に矢をつがえては引き、つがては引きして散々に射ると、馬、人共に大勢が射殺されて、まともに向う事もできないほどである。そうこうするうちに、一の橋に勅命に従わない者がいると伝え聞いて、在京の武士どもが、我も我もと馳せ集う。ほどなく一、二千騎にもなったので、近辺の小家を壊して、その材木を寄せ集めて、堀を埋め、おめき叫んで攻め入った。城内の兵共は、刀を抜いて走り出て、或いは討死する者もあり、或いは痛手を負って自害する者もいる。伊賀大夫知忠は生年十六歳に成られていたが、痛手を負って自害なさったのを、乳母の紀伊次郎兵衛入道が膝の上に抱き上げ、涙をはらはらと流して、声高に十念唱えながら、腹を掻き切って死んでしまった。その子の兵衛太郎、兵衛次郎も共に討死してしまった。城内にいた三十余人の者共はおおむね討死・自害して、館には火をかけたところに、武士どもが馳せ入って、それぞれに討取った首共を取って、太刀や長刀の先に貫き、弐位入道殿へ馳せ参る。弐位入道殿は車を一条の大路へ出して首実検をなさる。紀伊次郎兵衛入道の首は、見知った者も何人かいた。伊賀大夫の首は、どうして人が見知り申そうか。この人の母上は、治部卿局といって八条の女院に仕えておられたので、人をやって迎え寄せ申してお見せ申す。治部卿局は、「三歳と申した時に、故中納言(知盛)に連れられて私が西国へ下った後は、生きているとも、死んだとも、その行方は知りませんでした。但し故中納言が思い出される所が何カ所かあるのできっとそう(知忠)であろう」と言って泣かれたので、伊賀大夫の首だと言う事を人は知ったのだった。

原文

平家の侍(さぶらひ)、越中次郎兵衛盛嗣(ゑっちゆうのじらうびやうゑもりつぎ)は、但馬国(たじまのくに)へ落ち行きて、気比(きひ)の四郎道弘(しらうだうこう)が聟(むこ)になッてぞゐたりける。道弘、越中次郎兵衛とは知らざりけり。されども、錐袋(きりぶくろ)にたまらぬ風情(ふぜい)にて、よるになればしうとが馬ひきいだいてはせひきしたり、海の底十四五町、廿町(にじつちやう)くぐりなンどしければ、地頭(ぢとう)、守護あやしみける程に、何としてかもれ聞えたりけん、鎌倉殿御教書(みげうしよ)を下されけり。「但馬国住人朝倉太郎大夫高清(たじまのくにのぢゆうにんあさくらのたらうたいふたかきよ)。平家の侍(さぶらひ)越中次郎兵衛盛嗣、当国(たうごく)に居住の由きこしめす。召(め)し進(まゐ)らせよ」と仰せ下さる。気比の四郎は朝倉の大夫が聟なりければ、よび寄せていかがしてからめむずると議するに、「湯屋(ゆや)にてからむべし」とて、湯にいれて、したたかなる者五六人おろしあはせてからめんとするに、とりつけば投げ倒され、おきあがればけ倒さる。互(たがひ)に身はぬれたり、取りもためず。されども衆力(しゆりき)に強力(がうりき)かなはぬ事なれば、二三十人ばッと寄って、太刀のみね、長刀(なぎなた)の柄(え)にてうちなやしてからめとり、やがて関東へ参らせたりければ、御(おん)まへにひッすゑさせて、事の子細(しさい)を召し問はる。「いかに汝(なんぢ)は同じ平家の侍といひながら、故親(こしん)にてあんなるに、死なざりけるぞ」。「それはあまりに平家 のもろくほろびてましまし候間(さうらふあひだ)、もしやとねらひ参らせ候(さうら)ひつるなり。太刀(たち)の身(み)のよきをも、征矢(そや)の尻(しり)のかねよきをも、鎌倉殿の御(おん)ためとこそこしらへもッて候ひつれども、是程に運命つきはて候ひぬるうへは、とかう申すにおよび候はず」。「心ざしの程はゆゆしかりけり。頼朝(よりとも)をたのまばたすけてつかはんはいかに」。「勇士二主(じしゆ)に仕へず。盛嗣程の者に御心(おんこころ)ゆるしし給ひては、かならず御後悔(ごこうくわい)候べし。ただ御恩(ごおん)にはとくとく頸(くび)を召され候へ」と申しければ、「さらばきれ」とて、由井(ゆゐ)の浜にひきいだいて、きッてシげり。ほめぬ者こそなかりけれ。

現代語訳

平家の侍、越中次郎兵衛盛嗣(もりつぎ)は、但馬国へ逃げて行って、気比四郎道弘(きいのしろうみちひろ)の婿になっていた。道弘は、越中次郎兵衛とは知らなかった。ところが袋の中の錐はおのずからその先を表に出すというように、夜になると、舅の馬を引き出しては走り回って弓を引いたり、海の中を十四、五町、二十町と馬で泳いで渡ったりしていたので、地頭や守護が怪しんでいるところに、どうして漏れ聞こえたのか、鎌倉殿が御教書を下された。「但馬国住人朝倉太郎大夫高清へ。平家の侍越中次郎兵衛盛嗣が当国に居住している由を聞いた。召し取って差し出せ」と仰せ下さる。気比の四郎は朝倉の大夫の婿だったので、呼び寄せてどうやって捕えようかと相談すると、「湯屋で捕えよう」ということで、湯に入れて、屈強な者共五六人が示し合せて湯殿に入り捕えようとするが、取り付くと投げ倒され、起き上がると蹴倒される。互いに身体が濡れており、取り押える事もできない。しかし大勢の力に一人の剛力が敵うはずもなく、二、三十人がばっと寄って、太刀の峰、長刀の柄で打ち据え、ぐったりさせて絡め取り、すぐに関東へ差し出したところ、鎌倉殿は、御前に引き据えさせて、詳しい事情をお尋ねになる。「どうしてお前は同じ平家の侍とはいいながら、古くから親密であるというのに、死ななかったのだ」。「それは、あまりにも平家があっけなく滅びてしまわれましたので、もしやとお狙い申しておりました。太刀の身が良いのも、征矢の尻が鉄でできているのも、鎌倉殿を討つためにとこしらえ持っておりましたが、これほどに運命が尽き果ててしまったうえは、あれこれ申すまでもありません」。「志は立派であった。頼朝を頼るなら助けて家臣として使おうと思うがどうだ」。「勇士は二人の主に仕えない」。盛嗣ほどの者に御心をお許しになっては、必ず御後悔なさるでしょう。ただ御恩にさっさと首をお取りください」と申したので、「それでは斬れ」と言って、由井の浜に引き出して、斬ってしまった。盛嗣の潔い振舞を誉めない者はなかった。

原文

其比(そのころ)の主上(しゆしやう)は御遊(ぎよいう)をむねとせさせ給ひて、政道(せいたう)は一向(いつかう)、 卿(きやう)の局(つぼね)のままなりければ、人の愁(うれへ)、なげきもやまず。呉王剣客(ごわうけんかく)をこのんじかば、天下に疵(きず)を蒙(かうぶ)る者たえず。楚王細腰(そわうさいえう)を愛せしかば、宮中(きゆうちゆう)に飢(う)ゑて死するをんなおほかりき。上(かみ)の好(このみ)に下(しも)は随(したが)ふ間、世のあやふき事をかなしんで、心ある人々は歎(なげ)きあへり。ここに文覚(もんがく)もとよりおそろしき聖(ひじり)にて、いろふまじき事にいろひけり。二の宮は御学問(おんがくもん)おこたらせ給はず、正理(しやうり)を先とせさせ給ひしかば、いかにもして此宮を位に即(つ)け奉らんとはからひけれども、前右大将頼朝卿(さきのうだいしやうよりとものきやう)のおはせし程は かなはざりけるが、建久十年正月十三日、頼朝卿うせ給ひしかば、やがて謀反(むほん)をおこさんとしける程に、忽(たちま)ちにもれきこえて、二条猪熊(にでうゐのくま)の宿所に官人共(くわんにんども)つけられ、召しとッて、八十にあまッて後、隠岐国(おきのくに)へぞながされける。文覚京を出づるとて、「是程老(これほどおい)の波(なみ)に望ンで、今日(けふ)あすとも知らぬ身を、たとひ勅勘(ちよくかん)なりとも、都のかたほとりにはおき給はで、隠岐国までながさるる、毬杖冠者(ぎつちやうくわんじや)こそやすからね。つひには文覚がながさるる国へ、むかへ申さむずる物を」と申しけるこそおそろしけれ。このきみはあまりに毬杖の玉をあいせさせ給へば、文覚かやうに悪口(あくこう)申しけるなり。されば承久(しようきう)に御謀反(ごむほん)おこさせ給ひて、国こそおほけれ、隠岐国へうつされ給ひけるこそふしぎなれ。彼国(かのくに)にも文覚が亡霊(ばうれい)あれて、常は御物語(おんものがたり)申しけるとぞ聞えし。

現代語訳

その頃の主上(後鳥羽天皇)は詩歌管弦の遊びに夢中で、政道には一向に見向かれず、卿の局の言うままだったので、人の愁いや歎きも止まない。呉王は剣客を好まれていたので、天下に傷を蒙る者が絶えない。楚王は細腰を愛されたので、宮中では飢えて死ぬ女が多かった。上の者の好みに下の者が随っている間、世の中が危なくなっているのを悲しんで、心ある人々は歎き合った。ところで文覚はもとより恐ろしい聖で、口出ししてはならない事に口出しをした。二の宮(ご学問をお怠りにならず、正しい道理を先としておられたので、どうにかしてこの宮を位におつけ申そうと計らったけれども、前右大将頼朝卿がおられる間は叶わなかったが、建久十年正月十三日、頼朝卿がお亡くなりになったので、すぐに謀反を起そうとしているうちに、たちまちそれが漏れ伝わって、二条猪熊の宿所に検非違使庁の役人どもが付けられ、文覚を召し取って、八十を過ぎた後に、隠岐の島へ流された。文覚は京を出る時に、「これほどの老人になって、今日明日ともわからない身を、たとえ勅勘であるにしても、都の近辺には置こうとはなさらず、隠岐の島までお流しになる。毬杖冠者(ぎつちょうかんじゃ)こそ腹立たしい限りだ。最後には文覚が流される国へお迎えするものを」と申したことこそ恐ろしい事であった。この君はあまりに毬杖の玉を愛されるので、文覚はこのように悪口を申したのだった。そこで承久に御謀反を起されて、国は多いのに、あえて隠岐の島へ遷されたのは不思議である。その国でも文覚の亡霊が暴れて、いつも後鳥羽天皇に御物語を申したということである。

原文

さる程に六代御前は、三位禅師(さんみのぜんじ)とて、高雄(たかを)におこなひすましておはしけるを、「さる人の子なり、さる人の弟子なり。 頭(かしら)をばそッたりとも、心をばよもそらじ」とて、鎌倉殿より頻(しき)りに申されければ、安判官資兼(あんはうぐわんすけかね)に仰せて、召(め)し捕(と)ッて関東ヘぞ下されける。駿河国住人岡辺橘守泰綱(するがのくにのぢゆうにんおかべごんのかみやすつな)に仰せて、田越川(たこえかは)にて切られてシげり。十二の歳(とし)より、卅(さんじふ)にあまるまでたもちけるは、ひとへに長谷(はせ)の観音(くわんおん)の御利生(ごりしやう)とぞ聞えし。それよりしてこそ、平家の子孫は、ながくたえにけれ。
応安三年十一月廿九日
仏子有阿書

現代語訳

そうしているうちに六代御前は、三位禅師といって、高雄で修行に専念しておられる所を、「ある人の子である。ある人の弟子である。頭を丸めたとしても、心はまさか剃らないだろう」と言って、鎌倉殿よりしきりに申されたので、安判官資兼(あんほうがんすけかね)に命じて、召し取って関東へ下された。駿河国住人岡辺橘守泰綱(おかべごんのかみやすつな)に命じて、田越川で切られてしまった。十二歳の年から、三十過ぎまで生きながらえたのはひとえに長谷の観音の御利生という噂であった。それよりして平家の子孫は永く絶えてしまった。
応安三年十一月二十九日
仏子有阿書

朗読・解説:左大臣光永

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