平家物語 百八十六 泊瀬六代(はせろくだい)

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原文

さる程に文覚房(もんがくばう)もつと出できたり、若公(わかぎみ)こひうけたりとて、気色(きそく)誠にゆゆしげなり。「『此若公の父三位中将殿は、初度(しよど)の戦(いくさ)の大将なり。誰(たれ)申すとも叶(かな)ふまじ』と宣(のたま)ひつれば、『文覚が心をやぶつては、争(いか)でか冥加(みやうが)もおはすべき』なンど、悪口(あくこう)申しつれども、猶(なほ)、『叶ふまじ』とて那須野(なすの)の狩(かり)に下り給ひし間、剰(あまつさ)へ文覚も狩場(かりば)の供して、やうやうに申してこひ請けたり。いかに遅(おそ)うおぼしつらん」と申されければ、北条、「廿日(はつか)と仰せられ候ひし御約束(おんやくそく)の日かずも過ぎ候ひぬ。鎌倉殿の御(おん)ゆるされなきよと存じて、具し奉ッて下る程に、かしこうぞ。爰(ここ)にてあやまち仕(つかまつ)り候らむに」とて、鞍(くら)おいてひかせたる馬共(ども)に、斎藤五(さいとうご)、斎藤六(さいとうろく)を乗せてのぼらせらる。我身も遥(はる)かにうち送り奉ッて、「しばらく御供(おんとも)申したう候へども、鎌倉殿にさして申すべき大事共(だいじども)候。暇(いとま)申して」とてうちわかれてぞ下られける。誠に情(なさけ)ふかかりけり。

聖(ひじり)、若公を請けとり奉ッて、夜(よ)を日(ひ)についで馳せのぼるほどに、尾張国熱田(おはりのくにあつた)の辺(へん)にて、今年(ことし)も既に暮れぬ。明(あ)くる正月五日(いつか)の夜(よ)に入ッて、都へのぼりつく。二条猪熊(にでうゐのくま)なる所に、文覚房の宿所ありければ、それに入れ奉ッて、しばらくやすめ奉り、夜半ばかり大覚寺へぞおはしける。門(もん)をたたけども、人なければ音もせず。築地(ついぢ)のくづれより、若公のかひ給ひける白いゑのこのはしり出でて、尾をふッてむかひけるに、「母うへはいづくにましますぞ」と問はれけるこそせめての事なれ。斎藤六、築地をこえ、門をあけていれ奉る。ちかう人の住みたる所とも見えず。「いかにもしてかひなき命をいかばやと思ひしも、恋しき人々を今一度見ばやと思うためなり。こはされば何(なに)となり給ひけるぞや」とて、夜(よ)もすがら泣きかなしみ給ふぞ、まことに理(ことわり)と覚えて哀れなる。夜(よ)を待ちあかして、近里(きんり)の者に尋ね給へば、「年のうちに大仏参(だいぶつまゐり)とこそ承り候ひしか。正月の程は長谷寺(ちやうこくじ)に御(おん)こもりと聞え候ひしが、其後は御宿所(おんしゆくしよ)へ人のかよふとも見候はず」と申しければ、 斎藤五いそぎ長谷(はせ)へ参ッて、尋ねあひ奉り、此由申しければ、 母うへ、めのとの女房、つやつやうつつともおぼえ給はず、「是(これ)はされば夢かや、夢か」とぞ宣(のたま)ひける。いそぎ大覚寺へ出でさせ給ひ、若公を御覧じて、うれしさにもただ先立つものは涙なり。「早々(はやはや)出家し給へ」と仰せられけれども、聖(ひじり)惜しみ奉ッて出家もせさせ奉らず。やがてむかへとッて高雄に置き奉り、北の方のかすかなる御有様(おんありさま)をも、とぶらひけるとこそ聞えし。観音(くわんおん)の大慈大悲は、罪(つみ)あるも罪なきをもたすけ給へば、昔もかかるためしおほしといへども、ありがたかりし事共なり。

現代語訳

そうするうちに文覚房もつっと出て来て、若君を乞い受けたという事で、とても気分が良さそうである。「鎌倉殿は、『この若君の父三位中将殿は、最初の合戦の大将である。誰が願い出たとしても許さん』と、おっしゃったので、『文覚の心に逆らって、どうして神仏のご加護がありましょうか』などと、悪口を申した。鎌倉殿は、なおも、『許さん』と言って、那須野の狩にお下りになったが、その間でも文覚もわざわざ狩場へ御供をして、あれこれと申して若君をやっと乞い受けた。どれほど遅いと想われたことでしょうか」と申されたので、北条は、「二十日と仰せられた御約束の日も過ぎましたし、鎌倉殿の御許しは無いものと存じて、六代殿をお連れ申して下って参りましたが、よくも斬らなかったものだ。ここで過ちを犯すところでした」と、鞍を置いて引かせていた馬どもに、斎藤五、斎藤六を乗せて京に上らせられる。北条は自分も遠くまで六代をお送り申して、「しばらく御供したいのですが、鎌倉殿に急いで申さなければならない大事がいくつもございます。ここでお別れ申して」と別れて下られた。実に情け深いことであった。

聖は、若君を受け取り申して夜昼休まず馳せ上っていくうちに、尾張国熱田の辺りで、今年ももう暮れてしまった。明けて正月五日の夜に入ってから、都へのぼり着く。二条猪熊という所に、文覚房の宿所があったので、そこにお入れして、しばらくお休め申し上げ、夜になってから大覚寺へいらっしゃった。門を叩いたが、誰もいないので音もしない。築地の崩れた所から、若君が飼われていた白い犬の子が走り出て、尾を振って寄って来たのに、「母上はどこにおられるか」と問われたのは思い余ってよくよくのことであった。斎藤六が築地を越えて中に入り、門を開けてお入れする。最近まで人が住んでいた所にも見えない。「どうやってでも生き甲斐の無い命を、生き延びようと思ったのは、恋しい人々にもう一度会いたいと思うからだ。これはいったいどうしたことだろうか」と、夜通し泣き悲しまれたのだが、まことに尤もな事だと思われて哀れである。夜の明けるのを待って、近隣の人に聞かれると、「年内に大仏参詣をなさると承りました。正月には長谷寺に御籠りになられるということでしたが、その後は御宿所へ人が通うのもお見掛けしません」と申したので、斎藤五は急いで長谷寺へ参って、母上方を尋ねあてて、お会いし、このことを申し上げたところ、母上、乳母の女房はまったく現実のこととも思われず、「これは、いったい夢なのだろうか。夢か」とおっしゃった。急いで大覚寺へお出かけになり、若君を御覧になって、嬉しさのあまり只先立つものは涙である。「早々に出家なさい」と仰せられたが、聖は惜しみ申して出家もおさせにならない。すぐに迎え取って高雄にお置き申し上げ、北の方のひっそりと暮らすご様子なども訪ねてお世話したという事であった。観音の大慈大悲は、罪ある者も罪のない者も助けられるので、昔もこのような例は多いといっても有り難い事であった。

原文

さるほどに北条四郎(ほうでうのしらう)、六代御前具し奉って下りけるに、鎌倉殿の御使鏡(かがみ)の宿(しゆく)にて行き逢ひたり。「いかに」と問へば、「十郎蔵人殿(じふらうくらんどどの)、信太三郎先生殿(しだのさぶらうせんじやうどの)、九郎判官殿(くらうはうぐわんどの)に同心のよしきこえ候。討ち奉れとの御気色(ごきそく)で候」と申す。北条、「我身は大事の囚人(めしうと)具したれば」とて、甥(をひ)の北条平六時貞(ほうでうのへいろくときさだ)が送りに下りけるを、老蘇(おいそ)の森(もり)より、「とう、わ殿(との)は帰ッて、此人々おはし所聞き出(いだ)して討ッて参らせよ」とてとどめらる。平六都に帰って尋ねる程に、「十郎蔵人殿の在所(ざいしよ)知りたり」といふ寺法師(てらほふし)出で来(き)たり。彼僧(かのそう)に尋ぬれば、「我はくはしうは知らず。知りたりといふ僧こそあれ」といひければ、おし寄せてかの僧をからめとる。「是はなんのゆゑにからむるぞ」。「十郎蔵人殿の在所知ッたンなればからむるなり」。「さらば、『教へよ』とこそいはめ。さうなうからむる事はいかに。天王寺(てんわうじ)にとこそ聞け」。「さらばじんじよせよ」とて、平六が聟(むこ)の十郎国久(じふらうくにひさ)、殖原(うゑはら)の九郎(くらう)、桑原(くわばら)の次郎(じらう)、服部(はつとり)の平六(へいろく)を さきとして其勢(そのせい)卅余騎、天王寺へ発向(はつかう)す。十郎蔵人(じふらうくらんど)の宿は二所(ふたところ)あり。谷(たに)の学頭伶人兼春(がくとうれいじんかねはる)、秦六秦七(しんろくしんしち)と云ふ者のもとなり。二手(ふたて)につくッて押し寄せたり。十郎蔵人は兼春がもとにおはしけるが、物具(もののぐ)したる者共の打入るを見て、うしろより落ちにけり。学頭が娘二人(むすめににん)あり。共(とも)に蔵人(くらんど)の思ひ者なり。是等(これら)をとらへて蔵人のゆくゑを尋ぬれば、姉は、「妹に問へ」といふ 、妹は、「姉に問へ」といふ。俄(にはか)に落ちぬる事なれば、誰(たれ)にもよも知らせじなれども、具して京へぞのぼりける。

現代語訳

さて、北条四郎は六代御前をお連れして、鎌倉へ下ったが、鎌倉殿の御使いと鏡の宿で行き会った。北条が、「どうしたのだ」と聞くと、「十郎蔵人殿、信太三郎先生殿が九郎判官殿に味方をされているという噂が伝わっております。それで討ち申せという鎌倉殿の御意向です」と申す。北条は、「自分は大事な囚人を連れているので」と言って、甥の北条平六時貞が同行して送りに下っていたのを、老蘇の森から、「早くお前は帰って、この人たちが居られる所を聞き出して討って鎌倉殿にさしあげろ」と言って同行を止められた。平六が都に帰って尋ねると、「十郎蔵人殿の在所が知れました」と言う寺法師が出て来た。その僧に尋ねると、「私は詳しい事は知りません。知っていると言う僧がいます」と言ったので、押し寄せてその僧を搦め捕る。「どういう理由で縛るのか」。「十郎蔵人殿の在所を知っているので縛るのだ」。「それなら、『教えろ』と言えばいいのに、そうはせずに縛るのはどうしてだ。天王寺にいると聞いている」。「では案内せよ」と言って、平六の婿の笠原の十郎国久、殖原の九郎、桑原の次郎、服部の平六を先としてその兵三十余騎が天王寺へ出発する。十郎蔵人の宿は二カ所ある。谷の学頭伶人兼春と秦六・秦七という者の所である。二手に分けて押し寄せた。十郎蔵人は兼春の所におられたが、武装した者たちが打ち入るのを見て、後ろから逃げ出した。学頭には二人の娘がいた。共に蔵人の愛人である。二人を捕らえて蔵人の行方を尋ねると、姉は、「妹に聞け」と言う。妹は「姉に聞け」と言う。突然逃げ出したので、誰にもまさか知らせてはいないのだろうが、二人を連れて京に上った。

原文

蔵人は熊野(くまの)の方(かた)へ落ちけるが、只一人(ただいちにん)ついたりける侍(さぶらひ)、足をやみければ、和泉国八木郷(いづみのくにやぎのがう)といふ所に逗留(とうりう)してこそゐたりけれ。彼主(かのあるじ)の男、蔵人を見知ッて、よもすがら京へ馳(は)せのぼリ、北条平六につげたりければ、「天王寺の手の者はいまだのぼらず。誰をかやるべき」とて、大源次宗春(だいげんじむねはる)といふ郎等(らうどう)をようで、「汝(なんぢ)が宮たてたりし山僧(さんぞう)はいまだあるか」。「さン候(ざうらふ)」。「さらばよべ」とてよばれければ、件(くだん)の法師出で来たり。「十郎蔵人のおはします、討ッて鎌倉殿に参らせて、御恩蒙(ごおんかうぶ)り給ヘ」。「さ承り候ひぬ。人をたび候へ」と申す。「やがて大源次くだれ。人もなきに」とて、舎人(とねり)、雑色(ざふしき)、人数(にんじゆ)わづかに十四五人相(あひ)そへてつかはす。常陸房正明(ひたちばうしやうめい)といふ者なり。和泉国に下りつき、彼家(かのいへ)にはしり入ッて見れどもなし。板敷(いたじき)うちやぶッてさがし、塗籠(ぬりごめ)のうちを見れどもなし。常陸房大路(おほぢ)にたッて見れば、百姓(ひやくしやう)の妻(つま)とおぼしくて、おとなしき女のとほりけるをとらへて、「此辺(このへん)にあやしばうだる旅人のとどまッたる所やある。いはずはきッて捨てん」といへば、「唯今(ただいま)さがされさぶらうつる家にこそ、夜部(よべ)までよに尋常(じんじやう)なる旅人の、二人(ににん)とどまッてさぶらひつるが、今朝(けさ)なンど出でてさぶらふやらん。あれに見えさぶらふ大屋(おほや)にこそ、今はさぶらふなれ」といひければ、常陸房黒革威(くろかはをどし)の腹巻(はらまき)の袖(そで)つけたるに、大太刀(おほだち)はいて、彼家(かのいへ)に走り入ッて見れば、歳(とし)五十ばかりなる男の、かちの直垂(ひたたれ)に折烏帽子(をりえぼし)着て、唐瓶子(からへいじ)、菓子(くわし)なンどとりさばくり、銚子(てうし)どももッて酒すすめむとする処(ところ)に、物具(もののぐ)したる法師のうち入るを見て、かいふいてにげければ、やがてつづいておッかけたり。蔵人(くらんど)、「あの僧。や、それはあらぬぞ。行家はここにあり」と宣(のたま)へば、走り帰ッて見るに、白い小袖(こそで)に大口(おほくち)ばかり着て、左の手には金作(こがねづくり)の小太刀(こだち)をもち、右の手には野太刀(のだち)のおほきなるをもたれたり。常陸房、「太刀投げさせ給へ」と申せば、蔵人大きにわらはれけり。常陸房走り寄ッてむずときる。ちやうどあはせてをどりのく。又寄ッてきる。ちやうどあはせてをどりのく。寄りあひ寄りのき、一時(ひととき)ばかりぞたたかうたる。蔵人うしろなる塗籠(ぬりごめ)の内へ、しざりいらんとし給へば、常陸房、「まさなう候(さうらふ)。ないらせ給ひ候(さうら)ひそ」と申せば、「行家もさこそ思へ」とて、又をどり出でてたたかふ。常陸房太刀を捨てて、むずとくんでどうどふす。上(うへ)になり下になり、ころびあふ処(ところ)に、大源次(だいげんじ)つッと出できたり、あまりにあわててはいたる太刀をばぬかず、石をにぎッて蔵人の額(ひたひ)をはたとうッて打ちわる。蔵人大きにわらッて、「おのれは下臈(げらふ)なれば。太刀、長刀(なぎなた)でこそ敵(かたき)をばうて、 礫(つぶて)にて敵うつ様やある」。常陸房、「足を結(ゆ)へ」とぞ下知(げぢ)しける。常陸房は、「敵が足を結へ」とこそ申しけるに、余りにあわてて、四(よ)つの足をぞ結うたりける。其後蔵人の頸(くび)に縄(なは)をかけてからめ、ひきおこしておしすゑたり。「水参らせよ」 と宣へば、糒(ほしひ)をあらうて参らせたり。水をばめして糒をばめさず、さしおき給へば、常陸房とッてくうてンげり。「わ僧は山法師(やまぼふし)か」。「山法師で候」。「誰(たれ)といふぞ」。「西塔(さいたふ)の北谷法師(きただにぼふし)、常陸房正明(ひたちばうしやうめい)と申す者で候」。「さては行家につかはれんといひし僧か」。「さン候(ざうらふ)」。「頼朝(よりとも)が使(つかひ)か、平六が使か」。「鎌倉(かまくら)殿(どの)の御使候(おんつかひざうらふ)。誠に鎌倉殿をば討(う)ち参らせんとおぼしめし候ひしか」。「是(これ)程(ほど)の身になッて後、思はざりしといはばいかに。思ひしといはばいかに。手なみの程はいかが思ひつる」と宣へば、「山上(さんじやう)にておほくの事にあうて候に、いまだ是ほど手ごはき事にあひ候はず。よき敵三人(かたきさんにん)に逢うたる心地こそし候(さうら)ひつれ」と申す。「さて正明をばいかが思(おぼ)しめされ候ひつる」と申せば、「それはとられなんうへは」とぞ宣ひける。「その太刀とり寄せよ」とて見給へば、蔵人の太刀は一所(いつしよ)もきれず、常陸房が太刀は四十二所(しじふにところ)きれたりけり。やがて伝馬(てんま)たてさせ、乗せ奉ッてのぼる程に、其(その)夜(よ)は江口(えぐち)の長者(ちやうじや)がもとにとどまッて、夜もすがら使(つかひ)をはしらかす。明くる日の午刻(うまのこく)ばかり、北条平六其勢(そのせい)百騎ばかり、旗(はた)ささせて下る程に、淀(よど)の赤井河原(あかゐがはら)でゆき逢うたり。「都へはいれ奉るべからずといふ院宣(ゐんぜん)で候。鎌倉殿の御気色(ごきそく)も其(その)儀(ぎ)でこそ候へ。はやく御頸(おんくび)を給はッて、鎌倉殿の見参(げんざん)にいれて、御恩蒙(かうぶ)り給へ」といへば、「さらば」とて赤井河原で、十郎蔵人(じふらうくらんど)の頸(くび)をきる。

現代語訳

蔵人は熊野の方へ逃げたが、たった一人供をしていた侍が、足を病んだので、和泉国八木郷という所に逗留していた。その家の主人は、蔵人の顔を見知っており、夜も昼も休まず京へ馳せ上り、北条平六に告げたので、「天王寺に行かせた者はまだ京へ上って来ない。誰をやろうか」と言って、大源次宗春という郎等を呼んで、「お前が親しくしていた延暦寺の僧はまだいるか」。「おります」。「では呼べ」と言って呼ばれたところ、その法師が出頭して来た。「十郎蔵人がいらっしゃる、討って鎌倉殿へ差し上げて、恩賞をいただけ」。「承知しました」。「人をお与えください」。と申す。「すぐに大源次が下れ。人もいないので」と言って、舎人、雑色を含めて十四五人を付けて行かせる。その僧は常陸房正名という者である。一行は和泉国に下りつき、例の家に走り入って見るが人影はない。床板を打ち破って捜し、塗籠の部屋の中を見てもいない。常陸房が道に立って見ると、百姓の妻と思われて、年配の女が通っていたのを捕らえて、「この辺りに怪しい様子をした旅人がとまっている所があるか。言わなければ斬って捨てるぞ」と言うと、「今お探しになっておられた家に、夕べ迄実に立派な旅人が、二人留まっておられましたが、今朝方出て行かれたのでしょうか。あそこに見えます大きな家に、今はいるようです」と言ったので、常陸房は黒革威しの腹巻の袖を着けたのに大太刀を差して、その家に走り入って見ると、五十歳ぐらいの男が、かちの直垂に折り烏帽子を被って、唐瓶子、木の実などを手に取り回し、銚子を持って酒を勧めているところに、武装した法師が討ち入ったのを見て、さっと這うようにして逃げたので、すぐさま続いて追いかけた。蔵人が、「そこの僧。おい、それは違うぞ。行家はここにいるぞ」と言われるので、走り帰って見ると、白い小袖に大口袴を着て、左の手には黄金作りの小太刀を持ち、右の手には野太刀の大きなものを持っておられた。常陸房が、「太刀をお投げなさい」と申すと、蔵人はたいそう笑われた。常陸房が走り寄って、えいと斬りつける。がちゃんと刃合わせをして跳び退く。再度寄り付いて斬りつける。寄り付き、寄り退き、二時間ほど戦った。蔵人が後ろにある塗籠部屋の中へ、後退しようとなさるので、常陸房は、「卑怯な。入らせはせぬぞ」と申すと、「行家もそう思うぞ」と言って、又躍り出て戦う。常陸房は太刀を捨てて、むんずと組んでどたっと倒れる。上になり下になり、転びあっているところに、大源次がつっと出て来て、あまりにも慌てて差した太刀を抜かず、石を握って蔵人の額をはたと打って打ち割る。蔵人はたいそう笑って、「お前は下臈だからな。武士は太刀や長刀で敵を討つのに、石で打つことがあるか」。常陸房が、「足を縛れ」と命令した。常陸房は、「敵の足を縛れ」と申したのに、大源次は余りにも慌てており、二人の四本の足を一緒に縛ったのだった。その後、蔵人の首に縄を掛けて縛り上げ、引き起こして押さえ座らせた。蔵人が「水を飲ませろ」と言われると、糒(ほしい)を洗ってさしあげた。水は飲まれたが糒には口をおつけにならず、さし置かれたので、常陸房がそれを取りあげて食ってしまった。「「お前は比叡山の法師か」。「「山法師です」。「何と言う」。「西塔の北谷法師、常陸房正明と申す者です」。「それでは行家に使われたいと言った僧か」。「そうです」。「頼朝の使いか、平六の使いか」。「鎌倉殿の御使いです。本当に鎌倉殿を討ち参らせようと思われたのですか」。「このように捕らわれの身になった後では、思わなかったと言ってもどうなるものか。思ったと言っても同じ、どうなるものでもない。自分の腕前の程はどう思ったか」と言われると、「叡山では多くの事件に会いましたが、いまだこれ程手強い事には会っておりません。立派な敵三人に逢った気がしました」と申す。「ところで正明をどのように思われましたか」と申すので、「それは囚われた以上は」と言われた。「その太刀を取り寄せろ」といって御覧になると、蔵人の太刀は一カ所も刃こぼれはしておらず、常陸房の太刀は四十二カ所の刃こぼれがあった。すぐに使いの馬を立てさせ、蔵人をお乗せ申して上るうちに、その夜は江口の長者の所に泊まって、一晩中使いを走らせる。次の日の正午頃、北条平六はその軍勢百騎ほどで、旗をささせて下る途中、淀の赤井河原で常陸房の一行の出会った。「都へはお入れ申してはならぬという院宣でございます。鎌倉殿のお気持ちもその通りでございます。早く御首を頂いて、鎌倉殿に検分頂いて、恩賞を頂きなさい」と言うと、「それでは」と言って、赤井河原で、十郎蔵人行家の首を斬る。

原文

信太三郎先生義憲(しだのさぶらうせんじやうよしのり)は、醍醐(だいご)の山にこもりたるよしきこえしかば、おし寄せてさがせどもなし。伊賀の方(かた)へ落ちぬと聞えしかば、服部平六(はつとりへいろく)先として、伊賀国(いがのくに)へ発向(はつかう)す。千戸(せんど)の山寺(やまでら)にありと聞えし間、おし寄せてからめんとするに、袷(あはせ)の小袖(こそで)に大口(おほくち)ばかり着て、金(こがね)にてうちくくんだる腰の刀にて、腹かききッてぞふしたりける。頸(くび)をば服部平六とッてンげり。やがてもたせて京へのぼり、北条平六に見せたりければ、「軈而(やがて)もたせて下り、鎌倉殿の見参に入れて、御恩蒙り給へ」といひければ、常陸房、服部平六、おのおの頸共もたせて鎌倉 へくだり、見参にいれたりければ、「神妙(しんべう)なり」とて、常陸房は笠井(かさゐ)へながさる。「下りはてば勧賞(けんじやう)蒙らんとこそ思ひつるに、さこそなからめ、剰(あまつさ)へ流罪(るざい)に処(しよ)せらるる条、存外(ぞんぐわい)の次第なり。かかるべしと知りたりせば、なにしか身命(しんみやう)を捨てけむ」と、後悔すれどもかひぞなき。されども中二年(なかにねん)といふに召しかへされ、「大将軍討ちたる者は冥加(みやうが)のなければ、一旦(いつたん)いましめつるぞ」とて、他馬国(たじまのくに)に多田庄(ただのしやう)、摂津国(つのくに)に葉室(はむろ)ニケ所給はッて帰り上る。服部平六、平家の祗候(しこう)人たりしかば、 没官(もつくわん)せられたりける服部、返し給はッてシげり。

現代語訳

信太三郎先生義憲は醍醐付近の山に籠っていると言う噂だったので、押し寄せて捜したが見つからない。伊賀の方へ逃げたということだったので、服部兵六を先に立て、伊賀国へ出発する。千戸の山寺に居るということだったので、押し寄せて捕えようとしたが、袷の小袖に大口だけを着て、黄金で鞘を包んだ腰刀で、腹掻き切って臥していた。首を服部平六が取った。すぐに持たせて京へ上り、北条平六に見せたところ、「すぐに持たせて鎌倉へ下り、鎌倉殿に検分していただいて褒美をもらいなさい」と言ったので、常陸房、服部平六は、それぞれに首を持たせて釜倉へ下り、お目にかけたところ、「感心だ」と言って、常陸房は葛西へ流された。「下り着いたら恩賞を頂こうと思ったのに、そうではないにしても、さらに流罪に処せられるとは、思いもよらぬ事だ。こうなると知っていたら、どうして命がけで戦ったのだろうか」と、後悔するがどうしようもない。それでも中二年を経た後、呼び戻され、「大将軍を討った者は神仏の加護が無いので、一旦戒めたのだ」と言って、常陸房は、但馬国に多田庄、摂津国に葉室の二カ所を頂いて京へ帰り上る。服部平六は平家に仕えていたので、没収されていた服部の領地を返していただいた。

朗読・解説:左大臣光永


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