平家物語 百八十五 六代(ろくだい)

『平家物語』巻第十二より「六代(ろくだい)」。

平維盛の嫡子六代は、大覚寺の奥菖蒲谷に匿われていたが、北条時政に見つけ出され、鎌倉へ送られる。唯一の望みは高雄の文覚上人に六代の助命嘆願をしてもらうことだった。

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あらすじ

北条四郎時政は平家の子孫を見つけ出した者に褒美を与えると公表し、京中の者たちは情報を得るために捜索を行った。捜し出された子供たちは幅広い年齢で、非道な手段で殺害された。北条はこれをやむなく行った。

特に注目されたのは、小松三位中将の若君である六代御前である。情報提供者の女房の協力で、北条は若君を見つけ、鎌倉殿の御代官として迎えに行った。若君は逃れることができないと悟り、母上を慰めつつ出ていくことを決断した。

母上は若君に最後の手向けをし、「極楽へ行きなさい」と言いながら、若君に黒檀の数珠を授けた。若君は母君に別れを告げた。十歳の御妹も同様に父の所へ行きたいと言ったが、乳母の女房に制止される。六代御前は御輿に乗り込んで武士たちに囲まれて出発した。

母上と乳母の女房は最愛の子供たちを見送りながら悲しみにくれた。その夜も更けていき、母上は涙に浸りながら眠れなかった。北の方は六代御前が夢の中で白い馬に乗って帰ってきた姿を見て、涙ながらに乳母に語った。

夜が明け、役人の暁を告げる声が聞こえ、斎藤六が帰還し母上に状況を報告し、六代御前の手紙を渡すと、母上は心を揺さぶられた。

母上は涙ながらに御返事を書いた。六が別れを告げ、去っていく中、乳母の女房は心配でじっとしていられず、さまよい出た。そこで聖の文覚坊が鎌倉殿の大切な人とされ、高貴な家柄の子供を弟子にしようとしているとの情報を得た。

乳母の女房は一人で高雄を訪れ、聖に涙ながらに訴えた。昨日武士に捕らえられたことや苦しい状況を伝えた。聖が詳細を尋ねると、女房は北条が武士として現れ、若君を連れ去ったことを語った。聖はその情報を確認すべく出かけた。

母上は、聖が出かけると、一時的に安堵した。母上は大覚寺に戻り、詳細を尋ねると、女房は聖が確認のため六波羅に向かったことを話した。

夜が明け、聖が六波羅に向かい、鎌倉殿からの命令を尋ねた。北条殿は、京都に平家の子孫が多く潜んでいるとの情報を受け、小松三位中将の子息で、中御門の新大納言(新大納言藤原成親)の娘の子であるとされる若君を捕らえ、殺すように命じられたと答えた。

しかし、若君の居所が分からず、北条は鎌倉へ下ることを考えていたが、一昨日になって若君の情報を得て、昨日彼を迎えに行ったと述べた。聖は若君の居所を尋ね、彼に会った際、彼の上品で可愛らしい様子に心を動かされ、涙を流した。

聖は若君を見て、彼を殺すことはできないと感じ、北条殿に「二十日間の猶予がほしい」と提案した。聖は自らの流浪者としての過去や京への上り下りの経験を語り、鎌倉殿との約束を伝えた。

翌日、聖は京を出発し、斎藤五と六は感謝の念を表し、大覚寺にこの報告をしに行った。母上と乳母の女房は安心し、二十日間の命の延長に喜びを感じた。

二十日間が過ぎ、文覚坊がまだ姿を現さない中、北条は京都を後にしようとしていた。斎藤五と斎藤六は心配しつつも、聖の姿は見えなかった。北条もまた急ぎの出発となり、斎藤兄弟は大覚寺に戻り、聖がまだ上京していないことを報告した。母上は聖の遅れを案じた。母上は「もし助命嘆願が通る前に六代を斬ってしまったなら」と心配した。

北条の家子が念仏を唱え、涙を流しているとの報告に、母上は六代の様子を心配し、その幼いながらも大人びた心を称えた。その上で、聖がなかなか姿を見せないことに対して嘆く母上に、斎藤兄弟は六代のいる方にも聖のいる方にも見えない現実を告げる。

母上に「どうするつもりか」と問われ、斎藤兄弟はもし六代が亡くなった場合は骨を引き取り、高野山に納め、出家して後世を弔うつもりである旨を伝えた。斎藤兄弟は泣く泣く退出した。

同年十二月十六日、北条四郎は若君を連れて都を出発した。斎藤五と斎藤六は泣きながら北条に同行する。六代御前は母上や乳母の女房とも別れ、都を振り返りながら最後の東路に向かう。

彼女の心情は推し量れず、別れ際には驚きと心の痛みが入り交じっていた。途中で首を討とうとする武士や、別れ際に心を痛める人々と出会うが、四宮河原や関山を越え、大津の浦に到達する。

粟津の原で斬られるかもしれないと心配されたが、夕暮れとなってしまった。様々な国や宿を通り過ぎ、駿河の国に到着した。

千本の松原で武士たちは御輿を下ろし、若君を座らせる。北条四郎は特別な理由なくここまで連れてきた旨を伝え、近江国で若君の命を絶つことを決意する。斎藤五、六に後事を託すが、五は死後も安穏に生きることを拒み、伏してしまう。

若君は美しく髪を垂らし、泣く武士たちが涙で袖を濡らす中、念仏を唱えながら待つ。斬り手に選ばれた者が目も見えず手も震えて断念し、別の者が代わりに斬ろうとするが、混乱の中で自ら太刀を捨てて退く。

そこに馬に乗った僧侶が駆けつけ、鎌倉殿の御教書があり、若君の許しを伝える内容であることが判明し、北条は喜び涙に包まれた。

原文

北条四郎策(ほうでうのしらうのはかりごと)に、「平家の子孫といはん人、尋ね出(いだ)したらむ輩(ともがら)においては、所望(しよまう)こふによるべし」と披露せらる。京中の者共、案内は知ッたり、勧賞蒙(けんじやうかうぶ)らんとて、尋ねもとむるぞうたてき。かかりければ、いくらも尋ね出したりけり。下臈(げらふ)の子なれども、色白う見めよきをば召し出(いだ)いて、「是はなんの中将殿(ちゆうじやうどの)の若君(わかぎみ)」、「彼少将殿(かのせうしやうどの)の君達(きんだち)」と申せば、 父母(ちちはは)泣きかなしめども、「あれは介錯(かいしやく)が申し候」、「あれはめのとが申す」 なんどいふ間、無下(むげ)にをさなきをば水に入れ、土にうづみ、少しおとなしきをばおしころし、さしころす。母がかなしみ、めのとが歎(なげき)、たとへんかたぞなかりける。北条も子孫さすが多ければ、是をいみじとは思はねど、世にしたがふならひなれば、力およばず。

現代語訳

北条四郎時政は、計略を立て、「平家の子孫という人を捜し出した者共には望み通りの物を与える」と公表された。京中の者共が物事の内情や土地の様子を知っていたので、褒美を頂こうと、平家の子孫を探し求めたのは情けない事であった。こういうありさまだったので、何人も捜し出した。身分の低い者の子であっても、色白で見た目が綺麗な者を呼び出して、「これは何という中将殿の若君だ」、「あの者は少将殿の君達だ」と申すと、父や母は泣き悲しんでも、「あれは後見人がそのように申しました」、「あれは乳母がそうだと申しました」などと言うので、非常に幼い子は水に沈めたり、土の中に埋めたりし、少し年がいった子は首を絞めて押し殺したり、刺し殺したりした。母の悲しみ、乳母の歎きは、たとえようもなかった。北条もなんといっても子や孫を大勢持っていたので、このように幼児たちを殺害することを決してよい事とは思わなかったが、時世に従うのが人の常なので、仕方なくやったのであった。

語句

■案内は知ッたり 京の町の事情を熟知している。 ■いくらも尋ね出したりけり 『吾妻鏡』十二月十七日条に、小松内府(重盛)息丹後侍従忠房、屋島前内府(宗盛)息童二人、越前三位通盛卿息一人、維盛卿嫡男(六代)、土佐守宗実(小松内府息)が捉えられたとある。 ■介錯 世話人。

原文

中にも小松三位中将殿(こまつのさんみのちゅうじやうどの)の若君(わかぎみ)、六代御前(ろくだいごぜん)とておはすなり。平家の嫡々(ちやくちやく)なるうへ、年もおとなしうましますなり。いかにもしてとり奉らんとて、手を分けてもとめられけれども、尋ねかねて、既に下らんとせられける処(ところ)に、ある女房(にようぼう)の六波羅(ろくはら)に出でて申しけるは、「是(これ)より西、遍照寺(へんぜうじ)のおく、大覚寺(だいかくじ)と申す山寺の北のかた、菖蒲谷(しやうぶだに)と申す所にこそ、小松三位中将殿の北の方、若君、姫君(ひめぎみ)おはしませ」と申せば、時政やがて人をつけて、其あたりをうかがはせける程に、ある坊に女房達、をさなき人、あまたゆゆしく忍びたるていにてすまひけり。籬(まがき)のひまよりのぞきければ、白いゑのこの走り出でたるをとらんとて、うつくしげなる若公(わかぎみ)の出で給へば、めのとの女房とおばしくて、「あなあさまし。人もこそ見参らすれ」とて、いそぎひき入れ奉る。是(これ)ぞ一定(いちぢやう)にておはしますらんと思ひ、いそぎ走り帰ッてかくと申せば、次の日かしこにうちむかひ、四方を打ちかこみ、人をいれていはせけるは、「平家小松三位中将殿の若君、六代御前、是におはしますと承って、鎌倉殿の御代官(ごだいくわん)に北条四郎時政と申す者が、御(おん)むかへに参って候。はやはや出(いだ)し参らッさせ給へ」と申されければ、母うへ是(これ)を聞き給ふに、つやつや物もおぼえ給はず。斎藤五(さいとうご)、斎藤六(さいとうろく)はしりまはッて見けれども、武士ども四方を打ちかこみ、いづかたより出(いだ)し奉るべしともおぼえず。めのとの女房(にようぼう)も御(おん)まへに倒れふし、声も惜しまずをめきさけぶ。日比(ひごろ)は物をだにもたかくいはず、しのびつつかくれゐたりつれども、いまは家の中(うち)にありとある者、声を調(ととの)へて泣きかなしむ。北条(ほうでう)も是を聞いて、よに心苦(こころぐる)しげに思ひ、涙のごひ、つくづくとぞまたれける。ややあッてかさねて申されけるは、「世もいまだしづまり候はねば、しどけなき事もぞ候とて、 御(おん)むかへに参って候。別(べち)の御事(おんこと)は候まじ。はやく出し参らッさせ給へ」と申されければ、若君、母うへに申させ給ひけるは、「つひにのがるまじう候へば、とくとく出(いだ)させおはしませ。武士どもうち入ッてさがすものならば、うたてげなる御有様共(おんありさまども)を、見えさせ給ひなんず。たとひまかり出で候とも、しばしも候はば、暇(いとま)こうてかへり参り候はん。いたくな歎かせ給ひ候ひそ」となぐさめ給ふこそいとほしけれ。

現代語訳

中でも、小松三位中将の若君で六代御前という人がおられる。この人は平家の嫡流であるうえ、年も成人になっておられた。どうやあっても捕え奉ろうと、手分けして探し求められたが、見つける事ができず、北条ももう鎌倉へ下ろうとしたところに、ある女房が六波羅に参って申すには、「此処から西の遍照時の先の、大覚寺と申す山寺の北の菖蒲谷と申す所に、小松三位中将殿の北の方、若君、姫君がおられます」と申すので、時政はすぐにこの女房に人を付けて菖蒲谷に行かせ、その付近を探させたところ、ある僧坊に女房達や幼い人や大勢の人々がひどく人目を忍ぶようにして住んでいた。垣根の隙間から覗いて見ると、白い子犬が走り出たのを捕えようとして、可愛らしい若君が出て来られると、乳母の女房と思われる女が、「ああ、いけません。人に見られますよ」と言って、急いで引き入れ申した。これこそその若君でいらっしゃるに違いないと思い、急いで走り帰ってかくかくしかじかと申すと、次の日そこへ向い、四方を囲んで、人を入れて言わせたのは、「平家小松三位中将殿の若君、六代御前がここにおられるとお聞きして、鎌倉殿の御代官として北条四郎時政と申す者が御迎えに参っております。すぐにお出し申しなさい」と申されたところ、母上はこれをお聞きになって、まったくどうしてよいかわからず、おろおろされるばかりであった。斎藤五、斎藤六が走り回って見たけれども、武士どもが四方を囲んでおり、どこからお出し申すことができようとも思われない。乳母の女房も御前に倒れ伏して、声を惜しまず大声で泣き叫ぶ。日頃は物を言うにも大声を出さず、ひっそりと隠れ住んでおられたが、今は家の中のいるあらゆる者が、声を揃えて泣き悲しむ。北条もこれを聞いて、たいそういたわしい事に思い、涙を拭いながら待たれていた。かなり長い時間が経ってから再度申されたのは、「世の中もまだ静まってはおりませんので、誰かが乱暴をするかもしれないと懸念し、御迎えに参っております。とくに心配する事はありますまい。早くお出し申されますように」と申されたので、若君が母上に申されるには、「結局は逃れられない事ですから、さっさと私をお出しください。武士どもが打ち入って探すような事があれば、取り乱した見苦しい御様子を見られてしまうことになるでしょう。たとえ出て参りましても、しばらく時が経ちましたならば、暇を願って帰って参りましょう。そんなに深くお嘆きなさいますな」と慰め申されるのはかわいそうな事であった。

語句

■六代御前 正盛・忠盛・清盛・重盛・維盛・六代と数えて六代目であるためこう呼ぶ。この時十二歳。→巻七「維盛都落」。 ■六波羅 北条時政の京都における居所。 ■遍照寺 京都市右京区広沢の池の北西にあった寺。大覚寺の東。現在は広沢の池の南にある。 ■大覚寺 右京区嵯峨。嵯峨天皇の離宮の跡地に建てられた寺院。大沢の池で有名。 ■菖蒲谷 大覚寺の奥。北嵯峨。「遍照寺ノ奥、大覚寺ノ北、菖蒲沢」(『吾妻鏡』)。 ■ゆゆしく たいそう。程度がはなはだしいさま。 ■籬のひまよりのぞきみれば 「籬」は竹や木で編んだ垣根。以下の場面は『源氏物語』「若紫」で光源氏が紫の上を垣間見る場面を模す。 ■ゑのこ 犬の子。 ■人もこそ見参らすれ 『源氏物語』「若紫」における「烏などもこそ見つくれ」を模す。 ■一定そ きっとそれ(六代御前)であろう。 ■斎藤五、斎藤六 延慶本・長門本には「斎藤五宗貞、斎藤六宗光」とある。『尊卑分脈』によると斎藤宗長の子で、これら兄弟の弟景房は斎藤実盛の子の養子となっている。兄弟も斎藤実盛と縁があったか。実盛と維盛の縁から六代の後見人ともなっているのだろう。 ■声を調えて 声を揃えて。 ■ややあッて 長い時間が経過して。 ■しどけなきこと 不穏なこと。兵を連れてきたのは六代を害するためではなくむしろ不穏な連中から守るためであると強調。 ■うたてげなる御有様 取り乱して見苦しいようす。 ■しばしも候はば しばらく六波羅におりましたらの意か。

原文

さてもあるべきならねば、母うへ泣く泣く御(おん)ぐしかきなで、 もの着せ奉り、既に出(いだ)し奉らんとし給ひけるが、黒木(くろき)の数珠(ずず)のちいさううつくしいを取出(とりいだ)して、「是にて、いかにもならんまで念仏申して、極楽(ごくらく)へ参れよ」とて奉り給へば、若君是をとッて、「母御前(ははごぜん)には今日(けふ)既にはなれ参らせなんず。今はいかにもして、父のおはしまさん所へぞ参りたき」と宣(のたま)ひけるこそ哀れなれ。これを聞いて、御妹(おんいもうと)の姫君(ひめぎみ)の十(とほ)になり給ふが、「われも父御前(ちちごぜん)の御(おん)もとへ参らん」とて、はしり出で給ふを、めのとの女房(にようぼう)とりとどめ奉る。六代御前今年(ことし)はわづかに十二にこそなり給へども、よのつねの十四五よりはおとなしく、みめかたち優(いう)におはしければ、敵(かたき)によわげを見えじと、おさふる袖(そで)のひまよりも、余りて涙ぞこぼれける。さて御輿(おんこし)に乗り給ふ。武士ども前後左右(ぜんごさう)に打ちかこンで出でにけり。 斎藤五、斎藤六御輿の左右についてぞ参りける。北条乗りがへ共(ども)おろして、乗すれども乗らず。大覚寺(だいかくじ)より六波羅(ろくはら)まで、かちはだしにてぞ走りける。

現代語訳

いつまでもそうしているわけにもいかないので、母上は泣く泣く御髪を撫でつけ、衣をお着せ申し、もはやお出し申そうとなさったが、黒檀の数珠の小さくて美しい物を取り出して、「これで最後の時を迎えるまで念仏を唱えて、極楽へ行きなさい」と言って差し上げられると、若君はこれを取って、「母君にはいよいよ今日お別れすることになります。今はどうあっても父君のおられる所へ参りたいと思います」と言われたのは哀れである。これを聞いて、御妹の十になられる姫君が、「私も父の所へ行きます」と言って、走り出られたのを、乳母の女房が、御止め申し上げる。六代御前は、今年わずか十二歳におなりになっていたが、世間一般の十四五よりは大人びており、見た目、姿かたちが美しかったので、敵に弱気を見せまいとして、抑える袖の隙間からも、溢れて涙がこぼれた。そうして御輿にお乗りになられる。武士どもが前後・左右を取り囲んで出て行った。斎藤五、六が御輿の左右に付いて行った。北条は乗換用の馬に乗っていた武士どもを下して、この二人を乗せようとしたが乗ろうとしない。大覚寺から六波羅迄、裸足で走った。

語句

■黒木の数珠 黒壇(こくたん)の数珠。 ■姫君 屋代本・延慶本では姫君の名は夜叉御前。 ■おさふる袖のひまよりも 巻一「祇王」に同文。 ■乗りがへ 乗り換えの馬に乗る従者。

原文

母うへ、めのとの女房、天にあふぎ地にふして、もだえこがれ給ひけり。「此日比(このひごろ)平家の子どもとりあつめて、水にいるるもあり、土にうづむもあり、おしころし、さしころし、 さまざまにすときこゆれば、我子(わがこ)はなにとしてかうしなはんずらん、すこしおとなしければ、頸(くび)をこそきらんずらめ。人の子はめのとなンどのもとにおきて、時々見る事もあり。それだにも恩愛(おんあい)はかなしきならひぞかし。況(いはん)や是はうみおとして後、一日片時(ひとひかたとき)も身をはなたず、人のもたぬものをもちたるやうに思ひて、朝夕(あさゆふ)ふたりの中(なか)にてそだてし物を。たのみをかけし人にもあかで別れし其後(そののち)は、ふたりをうらうへにおきてこそなぐさみつるに、ひとりはあれどもひとりはなし。けふより後はいかがせむ。此三年(みとせ)が間、夜昼(よるひる)肝心(きもこころ)を消しつつ、 思ひまうけつる事なれども、さすが昨日(きのふ)今日(けふ)とは思ひよらず。 年ごろは長谷(はせ)の観音(くわんおん)をこそふかう頼み奉りつるに、終(つひ)にとられぬることのかなしさよ。唯今(ただいま)もやうしなひつらん」と、かきくどき泣くより外(ほか)の事ぞなき。さ夜(よ)もふけけれど、むねせきあぐる心地(ここち)して、露もまどろみ給はぬが、めのとの女房に宣ひけるは、「ただいまちッとうちまどろみたりつる夢に、 此子が白い馬に乗りて来(きた)りつるが、『あまりに恋しう思ひ参らせ候へば、しばしの暇(いとま)こうて参りて候』とて、そばについゐて、なにとやらん、よにうらめしげに思ひて、さめざめと泣きつるが、程なくうちおどろかれて、もしやとかたはらをさぐれども人もなし。夢なりともしばしもあらで、さめぬる事のかなしさょ」とぞ語り給ふ。めのとの女房も泣きけり。 長き夜(よ)もいとどあかしかねて、涙に床(とこ)も浮く計(はかり)なり。

現代語訳

母上と乳母の女房は空を仰ぎ、地面に伏して、悶え焦がれられた。「最近平家の子供を捕らえて集め、水中に落とすのもあり、地中に埋めるのもある。おし殺し刺し殺し、様々な殺し方をしているという話が伝わったので、我が子はどうやって殺すのだろうか。すこし大人びていたので、首を切るのであろうか。人の子は、乳母などに預けて、時々会うこともある。それでさえ親子の情は悲しい習いである。いわんや六代は、産み落してから、一日、一時でも離した事は無いのだ。人の持っていない才能を持っているように思って、朝夕夫婦の間で育てたものを。頼りにしていた人(維盛)にも心ならずも別れたその後は、二人(六代と姫君)を左右に置いて慰め申してきたのに、一人(姫君)は傍にいるが、もう一人(六代)はいない。今日から先はどうすればいいのだろう。この足掛け三か年の間、夜も昼も恐怖のためにびくびくしながら、かねてから予期し覚悟していたことではあったが、さすがに今日明日の事とは思いもよらなかった。近頃は長谷の観音を深く頼りにしておられたのに、ついに捕われてしまったことの悲しさよ。こうしているたった今にも殺されてしまったかもしれない」とくどくどと言って泣くより他にはなかった。その夜も更けていったが、胸がせき上げる心地がして、少しもまどろみもなさらず居られたが、その北の方が乳母の女房におっしゃるには、「いまちょっとまどろんで見た夢の中で、この子が白い馬に乗ってやってきたが、『あまりにも恋しゅう思いましたので、しばらく暇をいただいて参りました』と言って、傍にかしこまって、どうしたことか、たいそう恨めしそうな様子で、さめざめと泣いたが、間もなくはっと目が覚めて、もしかして帰ってきているのではと傍らを探ってみるが、誰もいない。例え夢だとしてもしばらくの間に覚めてしまった事が悲しい」とお語りになる。乳母の女房も泣いた。冬の長い夜もますます明かしかねて、流す涙に床も浮くほどである。

語句

■たのみをかけし人 夫維盛。 ■あかで もっと一緒にいたかったのに。 ■うらうへ 左右・前後。 ■なぐさみつる 自分の心を慰めていた。 ■ひとりはあれどもひとりはなし 二人のうち姫君はいるが若君(六代御前)はいない。 ■三年が間 平家が都落ちして夫維盛と別れた寿永二年(1183)七月からこの文治二年(1185)十二月まで二年六ヶ月間。 ■思ひまうけつる事なれども 前もって覚悟していたことだが。巻一「祇王」に同種の文。 ■長谷 奈良県桜井市初瀬の長谷寺。長谷観音を祀る。 ■もしやと ひょっとして六代が帰ってきたのかと。 ■夢なりともしばしもあらで 夢であったとしてもほんの短い間もつづかないで。

原文

限(かぎり)あれば、鶏人暁(けいじんあかつき)をとなへて夜(よ)も明けぬ。斎藤六(さいとうろく)帰り参りたり。「さていかにやいかに」と問ひ給へば、「唯今までは 別(べち)の御事(おんこと)も候はず。御文(おんふみ)の候」とて取りいだいて奉る。あけて御覧ずれば、「いかに御心苦(おんこころぐる)しう思(おぼ)しめされ候らむ。只今(ただいま)までは別の事も候はず。いつしか誰々(たれたれ)も御恋(おんこひ)しうこそ候へ」と、よにおとなしやかに書き給へり。母うへこれを見給ひて、とかうの事も宣(のたま)はず。ふみをふところに引き入れて、うつぶしにぞなられける。誠に心のうちさこそはおはしけめと、おしはかられて哀れなり。かくて遥(はる)かに時剋(じこく)おしうつりければ、「時の程もおぼつかなう候に、帰り参らん」と申せば、母うヘ泣く泣く御返事書いてたうでンげり。斎藤六暇(いとま)申してまかり出づ。

現代語訳

夜にも限りがあって、時刻を告げる役人の暁を告げる声に明けていき、斎藤六が帰って来た。「さあ、どうでしたか、どうでした」とお尋ねになると、「今のところ、特に変りはございません。六代御前からの御手紙がございます」と取り出してさしあげた。北の方がそれを開けて御覧になると、「母上はどんなに心配なさっている事でしょう。今までは特別な事はございません。早くも誰も彼も恋しく思われます」と、たいそう大人びてお書きになっている。母上はこれを御覧になって、何もおっしゃることもできずに、手紙を懐に入れて、俯せになってしまわれた。本当に心の内はどれほどの悲しみであろうかと、推察されて哀れである。こうしてずいぶん時が経ったので、斎藤六が、「わずかな時間でも、若君と離れているのが気がかりですから、帰ります」と申すと、母上は泣く泣く御返事を書いてお与えになった。斎藤六は別れを告げて出て行く。

語句

■鶏人 宮中で時刻を告げる役人。 ■御心苦しう 形容詞「心苦し」に「御」がつくケース。 ■いつしか 早くも。 ■たうでンげり 「給びてけり」の音便。

原文

めのとの女房、せめても心のあられずさに、はしり出でて、 いづくをさすともなく、その辺(へん)を足にまかせて泣きありくほどに、ある人の申しけるは、「此(この)おくに高雄(たかを)といふ山寺あり。その聖文覚房(ひじりもんがくばう)と申す人こそ、鎌倉殿にゆゆしき大事の人に思はれ参らせておはしますが、上﨟(じやうらふ)の御子(おんこ)を御弟子(おんでし)にせんとて、ほしがらるなれ」と申しければ、うれしき事を聞きぬと思ひて、母うへにかくとも申さず、ただ一人(いちにん)高雄に尋ね入り、聖にむかひ奉ッて、「血(ち)のなかよりおほしたて参らせて、今年(ことし)十二にならせ給ひつる若君を、昨日(きのふ)武士にとられてさぶらふ。御命(おんいのち)こひうけ参らせ給ひて、御弟子(おんでし)にせさせ給ひなんや」とて、聖の前に倒れふし、声も惜しまず泣きさけぶ。まことにせんかたなげにぞ見えたりける。聖むざんにおぼえければ、事の子細を問ひ給ふ。おきあがッて泣く泣く申しけるは、「平家小松三位中将(こまつのさんみのちゆうじやう)の北の方の、したしうまします人の御子(おんこ)をやしなひ奉るを、もし中将の君達(きんだち)とや人の申しさぶらひけん、昨日(きのふ)武士のとり参らせてまかりさぶらひぬるなり」と申す。「さて武士をば誰といひつる」。「北条とこそ申しさぶらひつれ」。「いでいでさらば行きむかひて尋ねむ」とて、つき出でぬ。此詞(このことば)をたのむべきにはあらねども、聖のかくいへば、 今すこし人の心地(ここち)出できて、大覚寺へかへり参り、母うへにかくと申せば、「身を投げに出でぬるやらんと思ひて、我もいかならん淵河(ふちかは)にも、身を投げんと思ひたれば」とて、事の子細を問ひ給ふ。聖の申しつるやうをありのままに語りければ、「あはれこひうけて、今一度見せよかし」とて、手をあはせてぞ泣かれける。

現代語訳

乳母の女房は、心配のあまり心が落ち着かず、じっとしていられないので、走り出して、何処へ行くともなく、その辺りを足の向くまま泣き歩いているうちに、ある人が申すには、「この奥に高雄という山寺があります。そこの聖の文覚坊と申す人こそ、鎌倉殿にとってたいそう大切な人と思われておられますが、身分の高い人の子息を御弟子にしようと欲しがっておられるということです」と申したので、嬉しい事を聞いたと思って、母上にかくかくと申さず、たった一人で高雄に尋ね入り、聖にお向い申して、「生れた時からお育て申して今年十二におなりに成った若君を、昨日武士に捕えられてしまいました。御命乞いをしてくださり、御弟子にしていただけませんでしょうか」と言って、聖の前に倒れ伏して、声を惜しまず泣き叫ぶ。ほんとうにどうしようもないように見えた。聖はかわいそうに思われたので、詳しい事をお尋ねになる。女房が起き上がって泣く泣く申すには、「平家の小松三位中将の北の方が、親しくしておられます人の御子を養い申しましたが、その子をもしかしたら中将の若君ではないかと誰かが申しましたのでしょうか、昨日武士が捕えて連れて行ってしまったのです」と申す。「それで、その武士は誰と言いましたか」。「北条と名乗りました」。「よしよしそれならそこへ出かけて行って聞いてみよう」と言って、ついと出て行った。この言葉をすっかり信用したわけではなかったが、聖がこのように言うので、今少し生き返ったような安堵の心地になって、大覚寺に帰って母上にかくかくと申し上げると、「身投げするのに出て行ったのかと思って、自分もどんな淵河にも、身投げしようと思っていたのです」と言って、詳しい事をお尋ねになる。乳母の女房が、聖の申されたことを、ありのまま申し上げると、「ああ、六代を貰い受けて、もう一度会わせて欲しい」と言って、手を合わせてお泣きになった。

語句

■せめても せめてものできることとしては。 ■心のあられずさに 心ここにあらずという落ち着かないさま。 ■ゆゆしき大事の人 文覚が頼朝にとって大事の人であることは巻五「福原院宣」にみえる。 ■血のなかより 誕生の時からの慣用句。「御乳に参りはじめさぶらひて、君を血のなかよりいだきあげ参らせ」(巻二・少将乞請)。 ■したしうましまし人の… 以下、六代が北の方の実子であることを隠していう。 ■人の心地出できて 正気がもどってきた。

原文

聖六波羅(ひじりろくはら)にゆきむかッて、事の子細を問ひ給ふ。北条(ほうでう)申されけるは、「鎌倉殿の仰せに、『平家の子孫、京中におほくしのんでありと聞く。中にも小松三位中将の子息、中御門(なかのみかど)の新大納言(しんだいなごん)の娘の腹にありと聞く。平家の嫡々(ちやくちゃく)なるうへ、年もおとなしかんなり。いかにも尋ねいだして失ふべし』と、仰せを蒙(かうむ)ッて候ひしが、此程(このほど)すゑずゑのをさなき人々をば、 少々取奉ッて候ひつれども、此若公(わかぎみ)は在所(ざいしよ)を知り奉らで、尋ねかねて既にむなしう罷下(まかりくだ)らむとし候ひつるが、思はざる外(ほか)、一昨日(をととひ)聞き出(いだ)して、昨日(きのふ)むかへ奉ッて候へども、なのめならずうつくしうおはする間、あまりにいとほしくて、いまだともかうもし奉らで、おき参らせて候」と申せば、聖、「いでさらば見奉らん」とて、若公のおはしける所へ参ッて見参らせ給へば、二重織物(ふたへおりもの)の直垂(ひたたれ)に、黒木(くろき)の数珠(ずず)手にぬき入れておはします。髪のかかり、すがた、事がら、誠にあてにうつくしく、此世の人とも見え給はず。こよひうちとけて寝給はぬとおぼしくて、すこしおもやせ給へるにつけて、いとど心苦(こころぐる)しうらうたくぞおぼえける。聖を御覧じて、何とかおぼしけん、涙ぐみ給へば、聖も是を見奉ッて、すぞろに墨染(すみぞめ)の袖(そで)をぞしぼりける。たとひすゑの世にいかなるあた敵(かたき)になるとも、いかが是を失ひ奉るべきと、かなしうおぼえければ、北条に宣ひけるは、「此若君を見奉るに、先世(ぜんぜ)の事にや候らん、あまりにいとほしう思ひ奉り候。廿日(はつか)が命をのべてたべ。鎌倉殿 へ参ッて申しあづかり候はむ。聖、鎌倉殿を世にあらせ奉らんとて、わが身も流人(るにん)でありながら、院宣(ゐんぜん)うかがうて奉らんとて、京へ上るに、案内も知らぬ富士川(ふじかは)の尻(しり)に、よるわたりかかッて、既におしながされんとしたりし事、高師(たかし)の山(やま)にてひッぱぎにあひ、手をすッて命ばかりいき、福原の籠(ろう)の御所(ごしよ)へ参り、前右兵衛督光能卿(さきのうひやうゑのかみみつよしのきやう)につき奉ッて、院宣申しいだいて奉りしときの約束には、『いかなる大事をも申せ。聖が申さん事をば、頼朝が一期(いちご)の間はかなへん』とこそ宣ひしか。其後(そののち)もたびたびの奉公、かつは見給ひし事なれば、ことあたらしう始而(はじめて)申すべきにあらず。契(ちぎり)を重うして命(めい)を軽(かろ)うず。鎌倉殿に受領神(じゆりやうじん)つき給はずは、よも忘れ給はじ」とて、その暁(あかつき)立ちにけり。斎藤五、斎藤六是(これ)を聞き、聖を生身(しやうじん)の仏の如く思ひて、手を合せて涙をながす。いそぎ大覚寺(だいかくじ)へ参ッて、此由申しければ、是を聞き給ひける母うへの心のうち、いか計(ばかり)かはうれしかりけむ。されども鎌倉のはからひなれば、いかがあらんずらむとおぼつかなけれども、当時(たうじ)聖のたのもしげに申して下りぬるうへ、廿日(はつか)の命(いのち)ののび給ふに、母うへ、めのとの女房(にようぼう)、すこし心もとりのべて、ひとへに観音の御(おん)たすけなればと、たのもしうぞ思はれける。

現代語訳

聖は六波羅へ出向き、詳しい事をお尋ねになる。これに対して北条殿が申されるには、「鎌倉殿のご命令に、『平家の子孫が、京都の中に大勢隠れていると聞いている。その中でも小松三位中将の子息で、中御門の新大納言の娘の腹から生まれたのがいると聞いている。平家の嫡流であるうえ、年も成人に近いということだ。どうあっても捜し出して殺すのだ』とご命令を受けていましたが、このたび平家の末流の子供達を、少々お捕え申しましたが、この若君はその居所がわからなかったので、探しかねてもはや空しく鎌倉へ下ろうとしていましたが、思いがけず、一昨日聞き出して、昨日お迎え申しましたが、非常に可愛らしいので、あまりに不憫で、いまだに何もせず、そのまま置き参らせております」と申すと、聖は、「さあそれならその方にお会いしよう」と言って、若君が居られた所へ参って、お目にかかられると、二重織物の直垂を着て、黒木の数珠を手首に掛けておられる。髪の肩にかかった様子、その姿、人品は誠に上品で高貴で可愛らしく、この世の人ともお見えにならない。前の晩はよくお休みにならなかったと思われて、少しおやつれになられたようで、ますますお気の毒で、いじらしく思われた。聖を御覧になって、どのように思われたのか、涙ぐまれるので、聖もこれを見申して、ただわけもなく墨染の僧衣の袖を涙で濡らしたのであった。たとえ将来、自分にとってどんなに害をなす仇敵になったとしても、どうしてこの人を殺す事ができようかと、愛おしく思われたので、北条に言われるには、「この若君を拝見いたしますと、前世からの因縁でしょうか。あまりにもお気の毒に存じます。二十日間だけ命をお延しください。鎌倉殿へ参ってお願い申し上げこの若君をお預かりいたしましょう。私は鎌倉殿を世にお出し申そうとして、自分も流人でありながら、院宣を頂戴してさしあげようと、京にのぼりましたが、道も知らない冨士川の下流を、夜渡ろうとして、危うく押し流されそうになったり、高市の山で追剥に会い、手を合わせて嘆願して命だけは助かったりしながら、法皇が居られた福原の仮御所に参り、前の右兵衛督光能卿にお願いして、院宣を頂き、それを鎌倉殿に差し上げた時の約束では、「どのような大事でも申せ。聖が申す事は、頼朝が生きている間は叶えよう」と仰せられたのです。その後も、たびたび奉公した事は、貴方もすでに御覧になっていることですから、改めて申し上げるまでもない。約束は命よりも大切である。鎌倉殿に受領神がついて傲慢におなりでなければ、まさかお忘れではありますまい」と言って、翌日の明け方、京を出発した。斎藤五・斎藤六はこれを聞き、聖を生仏(いきぼとけ)のように思って手を合せて涙を流す。急いで大覚寺へ参って、この事を申したので、これをお聞きになった母上の心の内は、どれほど嬉しかったことであろうか。しかし鎌倉での取計らいなので、どうなるだろうと不安ではあったが、今は聖が頼もしそうに申して下さったうえ、二十日の間命が延びたので、母上と乳母の女房は、すこし心も安らいで、これもひとえに観音がお助け下さったのだと、頼もしく思われたのだった。

語句

■中御門の新大納言 新大納言成親。「北の方と申すは、故中御門新大納言成親卿の御娘なり」(巻七「維盛都落」)。 ■思はざる外 思いもかけず。巻六「葵前」に用例。 ■二重織物 模様を織りなした上に刺繍をして模様を二重にした物。 ■直垂 公家や武士の平服。 ■ぬき入れて 貫き入れて。数珠を手首にかけていることをいう。 ■事がら 人品。 こよひ 前夜。 ■すぞろに 何となく。わけもないのに。 ■高師の山 河内・遠江の国境、愛知県豊橋市内。 ■引ッぱぎ 追い剥ぎ。 ■籠の御所 福原の後白河法皇の御所。以下、光能を介して頼朝が院宣を受けることは巻五「福原院宣」にある。 ■かつは 一方では。 ■受領神 受領心。受領としての傲慢で尊大な心。 ■心もとりのべて 「心を取る」は安心すること。二十日の延期となったので「のべて」とつける。

原文

かくて明(あか)し暮(くら)し給ふほどに、廿日(はつか)の過ぐるは夢なれや。聖はいまだ見えざりけり。何(なに)となりぬる事やらんと、なかなか心苦(こころぐる)しうて、今更またもだえこがれ給ひけり。北条も、「文覚房(もんがくばう)の約束の日数(ひかず)も過ぎぬ。さのみ在京して年を暮すべきにもあらず。今は下らむ」とて、ひしめきければ、斎藤五、斎藤六手をにぎり、肝魂(きもたましひ)をくだけども、聖もいまだ見えず、使者をだにも上せねば、思ふはかりぞなかりける。是等(これら)大覚寺へ帰り参ッて、「聖もいまだのぼり候はず。北条も暁(あかつき)下向(げかう) 仕り候」とて、左右(さう)の袖をかほにおしあてて、涙をはらはらとながす。是を聞き給ひける母うへの心のうち、いかばかりかはかなしかりけむ。「あはれおとなしやかならん者の、聖の行きあはん所まで六代を具せよといへかし。もしこひうけてものぼらんに、さきにきりたらんかなしさをば、いかがせむずる。さてとくうしなひげなるか」と宣(のたま)へば、「やがて此暁の程とこそ見えさせ給ひ候へ。そのゆゑは、此ほど御宿直(おとのゐ)仕り候ひつる、北条の家子郎等(いへのこらうだう)ども、よに名残(なごり)惜しげに思ひ参らせて、或(あるい)は念仏申す者も候、或(あるい)は涙をながす者も候」。「さて此子は何(なに)としてあるぞ」と宣へば、「人の見参らせ候ときは、さらぬやうにもてないて、御数珠(おんずず)をくらせおはしまし候が、人の候はぬときは、御袖(おんそで)を御(おん)かほにおしあてて、御涙にむせばせ給ひ候」と申す。「さこそあるらめ。をさなけれども、心おとなしやかなる者なり。こよひかぎりの命と思ひて、いかに心ぼそかるらん。『しばしもあらば、暇(いとま)こうて参らむ』といひしかども、廿日にあまるに、あれへもゆかず、是へも見えず。今日(けふ)より後(のち)又何(いつ)の日、何(いつ)の時あひ見るべしともおぼえず。さて汝等(なんじら)はいかがはからふ」と宣(のたま)へば、「これはいづくまでも御供仕(おんともつかまつ)り、むなしうならせ給ひて候はば、御骨(ごこつ)をとり奉り、高野(かうや)の御山(おやま)にをさめ奉り、出家入道して、後世(ごせ)をとぶらひ参らせんとこそ思ひなッて候へ」と申す。「さらば、あまりにおぼつかなうおぼゆるに、とうかへれ」と宣へば、二人(ににん)の者泣く泣く暇(いとま)申して罷出(まかりい)づ。

現代語訳

こうして日夜を送っておられるうちに、二十日は夢のように過ぎていった。が、聖はまだ見えなかった。どうなったのだろうかと、かえって心配になって、今更のように悶え苦しまれるのであった。北条も、「文覚坊が約束した日数も過ぎた。そういつまでも京都にとどまって年を越すわけにもいかない。今となってはもう下ろう」と言って出発の支度に忙しく騒ぎ立てたので、斎藤五、斎藤六は、はらはらして、あれこれ心配したけれども聖はまだ現れなかった。文覚が使者さえも上京させないので、どうしてよいか思案も尽き果ててしまった。この二人は大覚寺へ帰って参って、「聖はまだ上京なさいません。北条も夜明けにも下向いたします。」と言って、左右の袖を顔に押し当てて、涙をはらはらと流す。これをお聞きになった母上は心中どんなに悲しかったことであろうか。「ああ、年配の者が、聖と出会う所まで六代を連れて行くように言ってほしい。万一六代の命乞いができたとしても、上京するその前に六代を斬ってしまったら、その悲しさを、どうすればいいのか。ところで早く殺してしまいそうな様子か」と言われると、「ちょうどこの明け方の頃と思われます。その訳はこのたび御宿直をいたしました、北条の家子郎等どもが、まことに名残り惜しくお思いして、或いは念仏を申す者もございます。或いは涙を流す者もございます」。「それで私の子はどうしているか」と言われると、「人が見ている時は、何気ない風に装って、御数珠を持って念仏の回数を数えておられますが、人がいない時は、御袖を御顔に押し当てて、御涙に咽ばれておられます」と申す。「そうであろう。幼いが心は大人びている者である。今夜限りの命と思って、どんなに心細いことだろう。『少しでも時間があれば、暇を願って参りましょう』と言ったけれども、二十日が過ぎたのに私も六代のいるそちらへも行かず、こちらへも見えない。今日から後又いつの日、何時の時、会って見る事ができるのかわからない。それでお前らはどうするつもりだ」と言われると、「私はどこまでもお供いたし、お亡くなりになったならば、御骨を引き取り申し上げ、高野の御山に納め申し上げ、出家して入道になり、後世をお弔い申そうと思っております」と申す。「それなら、たいそう気にかかるので、早く帰れ」と言われので、二人は泣く泣く別れの挨拶をして退出する。

語句

■夢なれや 「なれや」は断定の助動詞「なり」の已然形に「や」がついたもの。詠嘆。 ■ひしめきければ 出発のしたくに忙しくしていると。 ■思ふはかりぞなかりける 考えるよすががない。考える手がかりがない。 ■こひうけても 命乞いに成功しても。 ■くらせおはしまし 繰らせおはしまし。 ■あれへもゆかず、是へも見えず 私も六代のいるあちらへも行かず、六代も私のところに見えず。 ■

原文

さる程に、同(おなじき)十二月十六日、北条四郎(ほうでうしらう)、若公(わかぎみ)具し奉ッて、 既に都を立ちにけり。斎藤五(さいとうご)、斎藤六(さいとうろく)、涙にくれてゆくさきも見えねども、最後の所までと思ひつつ、泣く泣く御供に参りけり。北条、「馬に乗れ」といへども乗らず。「最後の供で候(さうら)へば、苦しう候(さうらふ)まじ」とて、血の涙をながしつつ、足にまかせてぞ下りける。六代御前はさしもはなれがたくおぼしける母うへ、めのとの女房にもわかれはて、住みなれし都をも雲井(くもゐ)のよそにかへりみて、今日(けふ)をかぎりの東路(あづまぢ)におもむかれけん心のうち、おしはかられて哀れなり。駒(こま)をはやむる武士あれば、我頸(わがくび)うたんずるかと肝(きも)を消し、物いひかはす人あれば、既に今やと心をつくす。四(し)の宮(みや)河原(がはら)と思へども、関山(せきやま)をもうちこえて、大津(おおつ)の浦(うら)になりにけり。粟津(あはづ)の原(はら)かとうかがへども、 今日(けふ)もはや暮れにけり。国々(くにぐに)宿々(しゆくじゆく)打過ぎ打過ぎ行く程に、駿河国(するがのくに)にもつき給ひぬ。若公(わかぎみ)の露の御命(おんいのち)、今日をかぎりとぞきこえける。

現代語訳

そうするうちに、同年十二月十六日、北条四郎は、若君をお連れ申して、すでに都を出立した。斎藤五、六の兄弟は、涙の為に目の前が暗くなって行く先も見えなかったが、最後の所まではと思いながら、泣く泣くお伴して行った。北条は、「馬に乗れ」と言うが乗ろうとしない。「最後の御供ですので苦しいことはございません」と言って、血の涙を流しながら、足の力の続く限り歩き続けて下って行った。六代御前はさすがに離れがたく思われていた母上や、乳母の女房とも別れてしまい、住み慣れた都を雲のかなたに振り返って見て、今日が最後の東路に赴かれたが、その心の内が推量されて哀れである。馬を早めて走らせる武士がいれば、自分の首を討とうとするのかと驚き、話し合っている人がいれば、いよいよ今が最後かと心を痛める。四宮河原で斬られるかと思ったが、関山も越えて、大津の浦になった。粟津の原でかと様子を窺ったが、今日も早くも暮れてしまった。国々や宿々を通り過ぎ通り過ぎしていく間に、駿河の国にお着きになった。若君の露のようにはかない命も今日が最後だという噂であった。

語句

■供で候へば 「御供で候へば」とあるべき。 ■わかれはて… 巻十二「平大納言被流」に同文。 ■四の宮河原 京都市山科区山科(巻十「海道下」)。 ■関山 逢坂山。 ■粟津の原 大津市粟津町。義仲が戦死した(巻九「木曾最期」)。JR石山駅付近。 ■千本の松原 静岡県沼津市西南部の海沿いの松原。

原文

千本(せんぼん)の松原(まつばら)に武士どもみなおりゐて、御與(おんこし)かきすゑさせ、敷皮(しきがは)しいて若公すゑ奉る。北条四郎、若公の御(おん)まへちかう参ッて申されけるは、「是(これ)まで具し参らせ候ひつるは、別(べち)の事候はず。もしみちにて聖(ひじり)にもや行きあひ候(さうらふ)と、まちすぐし参らせ候ひつるなり。御心(おんこころ)ざしの程は見え参らせ候ひぬ。山のあなたまでは、鎌倉殿の御心中(ごしんぢゆう)をも知りがたう候へば、近江国(あふみのくに)にてうしなひ参らせて候よし、披露(ひろう)仕り候べし。誰(たれ)申し候とも、一業所感(いちごふしよかん)の御事なれば、よも叶(かな)ひ候はじ」と、泣く泣く申しければ、若公ともかうもその返事をばし給はず、斎藤五、斎藤六をちかう召して、「我いかにもなりなん後、汝等(なんぢら)都に帰ッて、穴賢(あなかしこ)道にてきられたりとは申すべからず。そのゆゑは終(つひ)にはかくれあるまじけれども、まさしう此有様聞いて、あまりに歎き給はば、草の陰にても心苦(こころぐる)しうおぼえて、後世(ごせ)のさはりともならんずるぞ。『鎌倉まで送りつけて参ッて候』と申すべし」と宣へば、二人の者共、肝魂(きもたましひ)も消えはてて、しばしは御返事(おんへんじ)にもおよばず。良(やや)あッて斎藤五、「君におくれ参らせて後、命いきて安穏(あんをん)に都まで上りつくべしともおぼえ候はず」とて、涙をおさへてふしにけり。既に今はの時になりしかば、若公御(わかぎみおん)ぐしの肩にかかりたりけるを、よにうつくしき御手(おんて)をもッて、前へ打越(うちご)し給ひたりければ、守護の武士ども見参らせて、「あないとほし。いまだ御心(おんこころ)のましますよ」とて、皆袖(そで)をぞぬらしける。其後(そののち)西にむかひ手を合せて、静かに念仏唱(とな)へつつ、頸(くび)をのべてぞ待ち給ふ。狩野工藤三親俊(かののくどうざうちかとし)、切手(きりて)にえらばれ、太刀(たち)をひッそばめて、左のかたより御(おん)うしろに立ちまはり、既にきり奉らんとしけるが、目もくれ心も消えはてて、いづくに太刀を打ちつくべしともおぼえず。前後不覚(ぜんごふかく)になりしかば、「つかまつとも覚え候はず。 他人(たにん)に仰せ付けられ候へ」とて、太刀を捨ててのきにけり。「さらばあれきれ、これきれ」とて、切手をえらぶ処(ところ)に、 墨染(すみぞめ)の衣(ころも)、袴(はかま)着て、月毛(つきげ)なる馬に乗ッたる僧一人(いちにん)、鞭(むち)をあげてぞ馳(は)せたりける。「あないとほし。あの松原の中(なか)に、世にうつくしき若君を、北条殿のきらせ給ふぞや」とて、者共ひしひしとはしりあつまりければ、此僧、「あな心憂(こころう)」とて、手をあがいてまねきけるが、猶(なほ)おぼつかなさに、着たる笠(かさ)をぬぎ、指(さ)しあげてぞまねきける。北条子細(しさい)ありとて待つ処(ところ)に、此僧馳(は)せついて、いそぎ馬より飛びおり、しばらく息を休めて、「若公(わかぎみ)ゆるさせ給ひて候(さうらふ)。鎌倉殿の御教書(みげうしよ)是に候」とて、とり出(いだ)して奉る。披(ひら)いて見給へば、

まことや小松三位中将維盛卿(こまつのさんみのちゆうじやうこれもりのきやう)の子息(しそく)尋ね出(いだ)されて候なる、高雄(たかを)の聖御房(ひじりごばう)申しうけんと候。疑(うたがひ)をなさず、預け奉るべし。
北条四郎殿(ほうでうのしらうどの)へ                                  頼朝(よりとも)

とあそばして、御判(ごはん)あり。二三遍(べん)おしかへしおしかへしようで後、「神妙々々(しんべうしんべう)」とて打ちおかれければ、斎藤五、斎藤六はいふにおよばず、北条の家子郎等共(いへのこらどうども)も、皆悦(よろこび)の涙をぞながしける。

現代語訳

千本の松原で武士どもは皆下りて行って、御輿を下に降ろさせ、敷皮を敷いて若君を御座らせ申し上げる。北条四郎が若君の御前近くに参って申されるには、「ここまでお連れ申して参りましたのは、特別の理由があったのではございません。もし道で聖に行き会うかもと、期待しながら日を送って来たのです。私のあなたに対する厚意の程は十分にお見せしました。足柄山の向こうまでお連れしたら、鎌倉殿がどう思われるかわかりませんので、近江国でお命をいただいたことにして披露いたしましょう。「例え誰がお願いしたとしても、悪行の報いによって滅びた平家一門の人々と同じく、貴方様が罪を享けるのを免れるものではございません」と、泣く泣く申されると、若君はどのような返事もなさらない。斎藤五、六を近くにお呼びになり、「私が死んだ後、お前たちは都に帰って、決して途中で斬られたと言ってはならない。そのわけは最後には死んでしまうのだが、まさしくこの有様を聞いて、母上たちがあまりにも嘆かれるなら、草の陰にて心苦しく思えて、後世での支障となるであろう。鎌倉まで送り届けて参りましたと申すのだ」と言われると、二人の者共は、意気消沈してしまい、しばらくは御返事もできずにいる。しばらくして斎藤五は、「死ぬこと、君に遅れました後、命を長らえて安穏に都まで上り着こうとも思いません」と言って、涙を抑えて伏してしまった。もはや今はの時になったので、若君は御髪が肩にかかっていたのを、まことに美しい御手を使って、前へ御垂らしになったところ、警護の武士どもが見参らせて、「ああ、可哀想に、まだお気は確かでいらっしゃるよ」と言って、皆涙で袖を濡らした。その後、若君は西に向って手を合せ、静かに念仏を唱えながらお待ちになる。狩野工藤三親俊(かののくどうぞうちかよし)が斬り役人に選ばれ、太刀を傍に引き寄せて、左のほうから御後ろに回って立ち、今や斬り奉ろうとしたが、目も見えず、正気もすっかりなくなって、何処に太刀を討ち当てて良いかもわからない。前後不覚になったので、「とても役目を果たせそうには思われません。他の者に申しつけて下さい」と言って、太刀を捨てて退いた。「それではあれが斬れ、これが斬れ」と切り手を選んでいるところに、墨染の衣、袴を着て、月毛の馬に乗った僧が一人、鞭をあげて駆けて来た。「ああ、可哀想に。あの松原の中で、世にも美しい若君を北条殿が斬らせようとしているぞ」と言って、人々が隙間もなくびっしりと寄り集まったので、この僧は、「ああ情けない」と言って、手を振って招いたが、それでもやはり不安なので、着ていた笠を脱ぎ、それを上げて手招きした。北条は、なにかわけがあるのだろうと思って待っているところに、この僧が駆けつけて、急いで馬から飛び降り、しばらく息を休めて、「若君をお許しになりました。鎌倉殿の御教書がここにございます」と言って、取り出して北条に差し上げる。北条が開いて御覧になると

噂に聞けば、小松三位中将維盛卿の子息を捜し出されたという事ですが、高雄の聖御坊が申し受けるといわれている。疑わず、預け奉れ
北条殿へ
頼朝

と書かれており、印が押されている。北条はそれを二三度繰り返し読んだ後、「結構、結構」と言って、置かれたので、斎藤五、六は言うまでもなく、北条の家子、郎等共も、皆慶びの涙を流した。

語句

■御心ざし 私の貴方に対する誠意。 ■山 足柄山。 ■一業所感 平家一門の人々と前世で悪い行いをしたので今生では同じ運命にならざるをえないの意。 ■穴賢 ああ畏れ多いから転じて、けして…するなの意。 ■まさしう はっきりそのまま。 ■前へ打越し 髪を前に垂れさせて。首筋をあらわにするため。 ■狩野工藤三親俊 未詳。伊豆国狩野郷(静岡県田方郡修善寺町)の人。狩野介茂光(巻十「千手前」)の一族だろう。 ■月毛 赤褐色に白みをおびたもの。 ■僧一人 僧が誰かは明示されていない。 ■手をあがいて 手をばたばた動かして。 ■御教書 命令書。 ■神妙 不思議だ。殊勝だ。

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