平家物語 百八十四 吉田大納言沙汰(よしだだいなごんのさた)

『平家物語』巻第十ニより「吉田大納言沙汰(よしだだいなごんのさた)」。平家にも源氏にもへつらわなかった公正なる公卿、吉田経房という人物が点描される。

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あらすじ

源頼朝は日本国の惣追捕史の称をいただき、朝廷に対し、田地や兵糧を要求した。

これは過大な要求と見なされ、法皇からもその申し出は過ぎたものとされたが、公卿たちは頼朝の要求にある程度の理があるとしてこれを容認したとされる。

頼朝はこうしたことを吉田大納言経房を通じて奏聞した。経房は公正な人物で、平家にも源氏にもへつらうことなく知られていた。

平家が力を持っていた時も、彼は他の公家がするようなへつらいをせず、法皇を鳥羽殿に押し込めた際には、勘解由小路中納言とともに後院の別当に任じられた。

吉田経房は橘右中弁光房朝臣の子で、幼い頃に父を亡くしたが、順調に昇進し、高い地位に就いていった。善悪は隠していても表れるものであり、経房の公正さは特筆すべきものだった。

原文

さる程に鎌倉殿、日本国の惣追捕使(そうづいふくし)を給はッて、 反別(たんべつ)の兵粮米(ひやうらうまい)を宛(あ)て行ふべきよし、公家(くげ)へ申されけり。朝(てう)の怨敵(をんでき)をほろぼしたる者は、 半国を給はるという事、無量義経(むりやうぎきやう)に見えたり。されども我朝(わがてう)にはいまだその例なし。「是は過分の申状(まうしじやう)なり」と、法皇仰せなりけれども、公卿僉議(くぎやうせんぎ)あッて、「頼朝卿(よりとものきやう)の申さるる所、道理なかばなり」とて、御(おん)ゆるされありけるとかや。諸国に守護(しゆご)をおき、庄園(しやうゑん)に地頭(ぢとう)を補(ふ)せらる。一毛(いちもう)ばかりもかくるべきやうなかりけり。

鎌倉殿、かやうの事人おほしといへども、吉田大納言経房卿(よしだのだいなごんつねふさのきやう)をもッて奏聞(そうもん)せられけり。この大納言はうるはしい人と聞え給へり。平家にむすぼほれたりし人々も、源氏の世の強(つよ)りし後は、或(あるい)はふみをくだし、或(あるい)は使者をつかはし、さまざまにへつらひ給ひしかども、この人はさもし給はず。されば平家の時も、法皇を鳥羽殿(とばどの)におしこめ参らせて、後院(ごゐん)の別当(べつたう)をおかれしには、勘解由小路中納言(かでのこうぢのちゆうなごん)、此経房卿二人(ににん)をぞ、後院の別当にはなされたりける。権右中弁光房朝臣(ごんのうちゆうべんみつふさのあつそん)の子なり。十二の年父の朝臣(あつそん)うせ給ひしかば、みなし子にておはせしかども、次第(しだい)の昇進(しようじん)とどこほらず、三事(さんし)の顕要(けんえう)を兼帯(けんたい)して、夕郎(せきらう)の貫首(くわんじゆ)をへ、参議大弁(さんぎだいべん)、大宰帥(ださいのそつ)、遂(つひ)に正二位大納言(じやうにゐだいなごん)に至れり。人をばこえ給へども、人にはこえられ給はず。されば人の善悪は錐袋(きりふくろ)をとほすとてかくれなし。ありがたかりし人なり。

現代語訳

そうするうちに鎌倉殿は、日本国の惣追捕史(そうずいふくし)の称を頂いて、田一反当り、兵糧米五升の拠出を割り当てるということを朝廷へ申された。朝廷の敵を滅ぼした者は国半分をいただくという事が無量義経(むりょうぎきょう)に見えている。しかしながらわが国にはまだその例はない。「これは過ぎた申し状である」と法皇は仰せられたが、公卿共が会議を開いて、「頼朝の卿の申されるところは道理もある程度はある」と言って、御許されがあったとかということだ。諸国に守護を置き、荘園に地頭を任命される。一毛程のわずかな土地も隠れようがなかった。

鎌倉殿は、このような事を公家は多いといっても、吉田大納言経房卿を通じて奏聞せられた。この大納言は公正な人であると伝わっていた。平家に縁のあった人々も、源氏の勢力が強くなった後は、或いは手紙を出し、或いは使者を遣わし、さまざまにへつらったが、この人はそんなこともなさらない。だから平家が栄えていた時も、法皇を鳥羽殿に押し籠め参らせて、後院の別当を置かれたときには、勘解由小路中納言とこの経房卿二人を、後院の別当になさったのである。この方は橘右中弁光房朝臣の子である。十二の年父の朝臣が亡くなったので、孤児でおられたが、順調に昇進し続け、、三つの要職を兼任して蔵人頭を経、参議大弁、大宰帥、最後には正二位大納言に至った。人を超えられたけれども、人には越えられなさらない。いったい人の善悪は錐の先が袋を通して現れるという諺(ことわざ)のとおり、隠していても自然に現れるのである。世にもめずらしい人であった。

語句

■惣追捕使 全国にわたる追捕使。追捕使は犯罪者の捕縛のために朝廷から任じられる役職。 ■反別に兵粮米 田一反(一段。約992平方メートル)ごとに兵粮米五升(約9リットル)を割り当てること。『玉葉』十一月二十八日条にこの件しるす。 ■無量義経 法華三部経の一つ。一巻。法華経(妙法蓮華経)の序論とされる。「譬ヘバ健人、王ノ為ニ怨ヲ除キ、怨既ニ滅シ已(おは)リテ、王大ニ歓喜シ、半国ノ封ヲ賞賜シ、皆悉ク之ヲ与フルガ如シ」(無量義経・功徳品)。 ■守護をおき… 文治元年、頼朝が勅許を得て各地の治安維持のために置いた役。地頭は荘園公領に置いた役。 ■一毛 一寸(約3センチ)の千分の一の長さ。 ■吉田大納言 勘解由小路大納言とも。吉田経房。勧修寺流藤原氏。京都の東郊・吉田に別邸を建てたため、「吉田権大納言」と呼ばれる。吉田家の祖とな正治ニ年(1200)没。五十九歳(公卿補任)。藤原高藤の子孫、光房の子。『吉記』は経房の日記。 ■うるはしい人 公明正大な人。 ■法皇を鳥羽殿へ →巻三「法皇被流」。 ■後院の別当 上皇御所の長官。経房が後院の別当に任じられたのは治承三年(1179)12月7日。 ■勘解由小路中納言 経房のこと。つまりに「勘解由小路中納言」と「此経房卿」は同一人物であり、この記述はおかしい。作者の記憶違いか。 ■権右中弁光房 久安六年(1150)権右中弁、久寿元年(1154)11月頓死(弁官補任)。 ■三事の顕要を兼帯 五位蔵人・衛門佐・弁官の三要職を兼任すること。 ■夕郎の貫首 蔵人頭の異称。 ■参議大弁 養和元年12月参議左大弁。 ■大宰帥 文治元年(1185)権中納言・大宰権帥を兼任。建久九年(1198)権大納言。 ■錐袋をとほすとて いわゆる「嚢中の錐」のたとえ。すぐれた人は錐が袋の中にあっても突き出てくるように自然と表にあらわれること。「夫賢士ノ世ニ処(を)ルヤ譬ヘバ錐ノ嚢中ニ処ルが若シ、其末立チドコロニ見ユ」(史記・平原君伝)。

……

…平家にも源氏にもへつらわなかった厳正なる公卿、吉田大納言経房の話でした。平家全盛期に平清盛が、後白河法皇を鳥羽殿に幽閉した時に、鳥羽殿の責任者として任じられたと。

平家に媚びへつらうような人物であったら、もしかしたら平家の命令で後白河法皇の御身を害してしまったかもしれない。しかしこの人はそのようなことはしなかったと。

今また源氏の世になって、頼朝からの訴えを後白河法皇に奏上するも、そこにこびへつらいはなく忖度はないようです。厳正な人物、吉田大納言経房という人物が点描される回でした。

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朗読・解説:左大臣光永

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