平家物語 百八十三 判官都落(はうぐわんのみやこおち)

『平家物語』巻第十ニより「判官都落(はうぐわんのみやこおち)」。頼朝は義経を討つための軍勢を北条時政を大将としてさし向ける。義経は京を去り、吉野へ、さらに奥州へ逃れる。

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あらすじ

義経のもとには足立新三郎という下働きの男がおり、頼朝から内々に「九郎の様子を見て、私に知らせよ」という指示を受けていた。

昌俊が斬られたことを目撃した新三郎は、昼夜を問わず鎌倉へと急行し、この出来事を鎌倉殿に報告した。その結果、舎弟の参河守範頼が討手として上京するよう指示された。

範頼は頼朝の命令を受けることに対して何度も辞退したが、再度命じられてしまった。しかし、頼朝の言葉に恐れを抱き、鎧を脱いで上京することを辞退した。範頼は不忠な行為はないとして、一日に十枚ずつの起請を書き、それを頼朝の舘で読み上げたが、それでも受け入れられず、最終的に討たれることになった。

その後、北条時政を大将として討手が上京するという知らせが伝わり、義経は九州へ逃れようと考えた。緒方三郎惟義という者は平家を九州に入れないほどの威勢のある者だったので、義経は緒方に敵である菊池高直の首を差し出す条件で、緒方を味方につけた。

そして、同年十一月二日、九郎大夫判官は後白河法皇の御所へ参り、頼朝の讒言によって義経を討つことになっていること、そのためしばらく九州へ下りたい旨を伝えた。

法皇は義経が遠国へ行けば京都での乱暴が収まるかもしれないとの意見を受け、朝廷の御下文を出して義経に九州の者を率いて行くことを許可した。

その軍勢は次の三日の午前六時頃に京都を去り、問題もなく波風を立てずに移動した。

太田太郎頼基は摂津国源氏で、「義経の軍が自分の門前を通るのに、一つも矢を射かけられないか」と考え、川原津で判官の軍勢に追いつき、攻め戦を仕掛けた。

義経方は500余騎で、太田太郎方は60余騎だったが、太田太郎は一団に守りを固め、激しい攻撃を行った。

しかし、太田太郎自身が負傷し、多くの家来が討たれ、馬も矢で負傷し、彼は撤退した。

判官は多くの首を取り、軍神に捧げ「出発が良い」と喜んだが、西の風が強く吹き、住吉の浦に打ち上げられ、吉野の奥に籠もった。

吉野で法師に攻められ、奈良へ逃げ、そこでも法師に攻撃され、最終的に都へ戻り、北国に向かい、結局奥州へ下ることになった。

都から連れてきた女性たちを住吉の浦に置き去りにした。その女性たちは松の下で泣き崩れていたところを、住吉の神官たちが憐れんで皆を京都へ送った。

判官の頼りにされていた伯父信太三郎先生義憲、十郎蔵人行家、緒方三郎惟義の船は、浦や島に打ち上げられ、その行方が分からなくなった。また、突然西の風が吹いたことも、平家の怨霊の仕業と思われた。

そして同年十一月七日、鎌倉の北条時政が代官として六万余騎を率いて都に入り、伊予守源義経、備前守源行家、信太三郎先生源義憲を追討すべきだと申し出ました。その結果、院宣が下り、頼朝からの申し状によって、義経追討の院宣が下された。

原文

ここに足立新三郎(あだちのしんざぶらう)といふ雑色(ざつしき)は、「きやつは下臈(げらふ)なれども、 以(もつ)ての外(ほか)さかざかしいやつで候。召しつかひ給へ」とて、判官に参らせられたりけるが、内々(ないない)、「九郎がふるまひ見て、われに知らせよ」とぞ宣(のたま)ひける。昌俊(しやうしゆん)がきらるるを見て、新三郎夜(よ)を日(ひ)についで馳(は)せ下り、鎌倉殿に此由(このよし)申しければ、舎弟参河守範頼(しやていみかはのかみのりより)を討手(うつて)にのぼせ給ふべきよし仰せられけり。頻(しき)りに辞(じ)し申されけれども、重而(かさねて)仰せられける間、力およばで、 物具(もののぐ)して暇(いとま)申しに参られたり。「わ殿(との)も九郎がまねし給ふなよ」と仰せられければ、此御詞(このおんことば)におそれて、物具ぬぎおきて、京上(きやうじやう)はとどまり給ひぬ。全く不忠なきよし、一日に十枚づつの起請を昼は書き、夜は御坪(おつぼ)の内にて読みあげ読みあげ、百日に千枚の起請を書いて参らせられたりけれども、かなはずして、終(つひ)にうたれ給ひけり。其後北条四郎時政(そののちほうでうのしらうときまさ)を大将として、討手のぼると聞えしかば、判官殿鎮西(ちんぜい)のかたへ落ちばやと思ひたち給ふ処(ところ)に、緒方三郎維義(をかたのさぶらこれよし)は、平家を九国(くこく)の内へも入れ奉らず、追ひ出(いだ)すほどの威勢の者なりければ、判官、「我にたのまれよ」とぞ宣ひける。「さ候はば、御内(みうち)に候菊池二郎高直(さうらふきくちのじらうたかなお)は年ごろの敵(かたき)で候。給はッて頸(くび)をきッて、たのまれ参らせむ」と申す。左右(さう)なうたうだりければ、六条河原(ろくでうかはら)に引きいだしてきッてンげり。其後維義かひがひしう領状(りやうじやう)す。

同(おなじき)十一月二日(ふつかのひ)、九郎大夫判官(くらうたいふのはうぐわん)、院御所(ゐんのごしよ)へ参ッて、大蔵卿泰経朝臣(おほくらのきやうやすつねのあつそん)をもッて奏聞(そうもん)しけるは、「義経君(よしつねきみ)の御為(おんため)に奉公の忠を致す事、ことあたらしう初めて申し上ぐるにおよび候はず。しかるを頼朝(よりとも)、郎等共が讒言(ざんげん)によッて、義経をうたんと仕り候間(さうらふあひだ)、しばらく鎮西の方へ罷下(まかりくだ)らばやと存じ候。哀院庁(あはれゐんのちやう)の御下文(おんくだしぶみ)を一通(つう)下し預り候はばや」と申されければ、法皇、「此条頼朝がかへりきかん事、いかがあるべからん」とて、諸卿に仰せ合せられければ、「義経都に候ひて、関東の大勢(おほぜい) 乱れ入り候はば、京都の狼籍(らうぜき)たえ候べからず。遠国(ゑんごく)へ下り候ひなば、暫(しばら)く其恐(そのおそれ)あらじ」とおのおの一同に申されければ、緒方三郎(をかたのさぶらう)をはじめて臼杵(うすき)、戸次(へつぎ)、松浦党(まつらたう)、惣じて鎮西の者、義経を大将として、其下知(げぢ)にしたがふべきよし、庁(ちやう)の御下文(おんくだしぶみ)を給はッてンげれば、其勢五百余騎、あくる三日卯剋(うのこく)に、京都にいささかのわづらひもなさず、浪風(なみかぜ)もたてずして下りにけり。

現代語訳

義経の所に足立新三郎という下働きの男がおり、「あいつは身分の低い者ではあるが、大変賢く、気の利く奴なので、お召し使いください」と言って、頼朝から差し出されたが、内々に、「九郎の様子を見て、我に知らせよ」と言われた。昌俊が斬られたのを見て、新三郎は夜も昼も休まず鎌倉へ馳せ下り、鎌倉殿にこの事を報告したので、舎弟の参河守範頼を討手として上京させると仰せられた。頼朝の下知を受けた範頼は頻りと辞退申されたが、再度仰せられたので、どうしようもなく、鎧・甲で武装してお別れの挨拶をしに参られた。頼朝が、「わ殿も九郎の真似をなさるなよ」と仰せられたので、この御言葉に恐れをなして、鎧・甲を脱ぎ、横に置いて、上京するのをお止めになった。範頼は、まったく頼朝に対して不忠はない事を、一日に十枚づつの起請を昼は書き、夜はこれを頼朝の舘の中で読み上げ読み上げ、百日に千枚の起請を書いて差し出されたが、受け入れられず、最後には討たれてしまわれた。其後北条四郎時政を大将として、討手が上京するという事が伝わってきたので、判官殿が九州の方へ逃れようかと思い立たれるところに、緒方三郎惟義は、平家を九州の内へも入れ奉らず、追い出すほどの威勢の者だったので、判官は、「私に頼まれてくれ」と言われた。「それならば、義経殿のところに居る菊池二郎高直は長年の敵でござる。これをいただいて首を切って、頼みをお受け申しましょう」と申す。判官が、あっさりと菊池の身柄を緒方にお与えになったので、緒方はこれを六条河原に引き出して斬ってしまった。その後、惟義は頼もしく義経の申し出を承諾した。

同年十一月二日、九郎大夫判官は、後白河法皇の御所へ参って、大蔵卿泰恒朝臣を通して申し上げるには、「義経が君の御為に忠義の奉公をしたことは改めて申し上げるまでもございません。それなのに頼朝は、郎等共の讒言によって、義経を討とうとしておりますので、しばらく九州の方へ下りたいと存じます。ああ、何とかして院の御下文を一通預かることはできませんか」と申されたところ、法皇は、「このことを頼朝が伝え聞いたならばどういうことになろうか」と諸卿にご相談されたところ、「義経が都に居ることで、関東の大勢の武者達がが乱れ入りましたなら、京都での武士どもの乱暴は後を絶ちません。義経が遠国へ下られたなら、しばらくはその恐れはありますまい」とおのおの一同に申されたので、義経は、緒方三郎を始めとして臼杵、戸次、松浦党、すべての九州の者は義経を大将として、その下知に従えという、朝廷の御下文を頂き、その軍勢五百余騎は、次の三日の日の午前六時頃に、京都にすこしの問題も残さず、波風も立てずに下って行った。

語句

■足立新三郎 『平家物語』諸本、『吾妻鏡』にも「足立」「安達」が混在。 ■討手に 「参河守範頼大将軍ト為リ上洛ス可シト云々、或ハ伝フ、奥之疑ノ為ニ坂東に留置カルト云々、実説未ダ聞カズ」(玉葉・文治元年十一月十三日条)。なお範頼が実際に討たれたのは建久四年(1193)八月。以下の記述は史実を整理・単純化している。 ■京上 上京。上洛。 ■緒方三郎維義 豊後国大野郡緒方庄(大分県大野市緒方町)の人。本性は大神(おおみわ)。大物主神の子孫と伝える(巻八「緒環」)。 ■菊池二郎高直 肥後国(熊本県)菊池郡の豪族。 ■たうだり 「給びたり」の音便。 ■領状 受け入れること。 ■大蔵卿泰経朝臣 後白河の近臣、高階泰経。泰重の子。大蔵省の長官。 ■哀 ああ、どうか。嘆願の意。 ■三日 『玉葉』『百錬抄』にこの日の記事。「院中已下諸家、京中悉ク以テ安穏、義経等之所行、実ニ以テ義士ト謂フ可キ歟、洛中之尊卑随喜セザル無シ」(玉葉)。 ■太田太郎頼基 頼資の子、又太郎。→巻四「源氏揃」。 ■川原津 未詳。大阪市東淀川区付近の地名か。 ■大物の浦 摂津国尼崎の海岸。現兵庫県尼崎市大物。 ■住吉の浦 大阪市住吉区の海岸。義経が移動した場所は『吾妻鏡』には吉野山・多武峯・伊勢大神宮・仁和寺・比叡山など。 ■吉野法師 吉野の蔵王堂・如意輪寺などに住む僧兵。 ■奈良法師 興福寺・東大寺などの僧兵。 ■奥 奥州。「前伊予守義顕日来所々ニ隠レ住ミ度々追捕使之害ヲ遁レ訖(おはん)ヌ、遂ニ伊勢美濃等ノ国ヲ経テ奥州ニ赴ク。是陸奥守秀衡入道ノ権勢ヲ恃ムニ依ツテ也」(『吾妻鏡』文治三年(1187)二月十日条)。 ■ふみしだき 長い袴を踏みしだいて。 ■袖をかたしいて 一人寝することの慣用表現。 ■義憲 源為義の子。義経の父義朝の弟。行家は義憲の弟。 ■同十一月七日 「関東武士多ク以テ入洛」(『玉葉』十一月十三日条)。「北条四郎時政、今日入洛、其勢千余騎」(同二十四日条)(『吾妻鏡』は二十五日)。 ■去ニ日は 頼朝追討は『百錬抄』『玉葉』十月十七日条に義経の申請により宣旨が下され、十一月ニ日院庁御下文があった。 ■義経追討の院宣は『玉葉』には十一月十ニ日、『吾妻鏡』は同十一日。「件ノ両将(義経・行家)昨日ハ頼朝ヲ討ツ可キ宣旨ヲ蒙リ、今日ハ又此院宣ニ預ル、世間之転変、朝務之軽忽、之ヲ以テ察ス可シ」(『玉葉』)。

原文

摂津国源氏(つのくにげんじ)、太田太郎頼基(おほだのたらうよりもと)、「わが門の前をとほしながら、 矢一つ射かけであるべきか」とて、川原津(かはらづ)といふ所におッついてせめたたかふ。判官は五百余騎、太田太郎は六十余騎にてありければ、なかにとりこめ、「あますな、もらすな」とて、散々に攻め給へば、太田太郎我身(わがみ)手負ひ、家子郎等(いへのこらうどう)おほくうたせ、馬の腹射させて引退(ひきしりぞ)く。判官頸共(くびども)きりかけて、戦神(いくさがみ)にまつり、「門出(かどで)よし」と悦(よろこ)ンで、大物(だいもつ)の浦より舟に乗ッて下られけるが、折節(をりふし)西の風はげしくふき、住吉(すみよし)の浦にうちあげられて、吉野(よしの)の奥にぞこもりける。吉野法師(よしのぼふし)にせめられて、奈良へおつ。奈良法師(ならぼふし)に攻められて、又都へ帰り入り、北国にかかッて、終(つひ)に奥(おく)へぞ下られける。都より相具したりける女房達(にようぼうたち)十余人、住吉の浦に捨て置きたりければ、松の下、まさごの上に、袴(はかま)ふみしだき、袖(そで)をかたしいて、泣きふしたりけるを、住吉の神官共憐(じんくわんどもあはれ)んで、みな京へぞ送りける。凡(およ)そ判官のたのまれたりける伯父信太三郎先生義憲(をぢのしだのさぶらうせんじやうよしのり)、十郎蔵人行家(じふらうくろうどゆきいへ)、緒方三郎惟義(をかたのさぶらうこれよし)が船共、浦々島々に打寄(うちよ)せられて、互(たがひ)にその行(ゆく)ゑを知らず。忽(たちま)ちに西の風ふきける事も、平家の怨霊(おんりやう)のゆゑとぞおぼえける。同(おなじき)十一月七日(なぬかのひ)、鎌倉の源二位頼朝卿(げんにゐよりとものきやう)の代官として、北条四郎時政(ほうでうのしらうときまさ)、六万余騎を相具して都へ入る。伊予守源義経(いよのかみみなもとのよしつね)、備前守同(びぜんのかみおなじく)行家、信太三郎先生同義憲追討(ついたう)すべきよし奏聞しければ、やがて院宣をくだされけり。去二日(さんぬるふつかのひ)は義経が申しうくる旨にまかせて、頼朝をそむくべきよし、庁(ちやう)の御下文(おんくだしぶみ)をなされ、同八日(おなじきやうかのひ)は頼朝卿の申状(まうしじやう)によッて、義経追討の院宣を下さる。朝(あした)にかはり夕(ゆふべ)に変ずる、世間(せけん)の不定(ふぢやう)こそ哀れなれ。

現代語訳

摂津国源氏、太田太郎頼基は、「義経の軍が自分の門前を通るのに、矢を一つも射掛けないでおられようか」と、川原津という所に追いついて攻め戦う。判官は五百余騎、太田太郎は六十余騎だったので、中に取り籠め、「皆殺しにしろ、討ち漏らすな」といって、散々にお攻めになると、太田太郎は自分は傷を負い、家子郎等を大勢討たれ、馬の腹を射られて引き退く。判官は多くの首を斬り、それをさらし首にして、軍神に祭り、「門出良し」と喜んで、大物の浦から船に乗って下られたが、ちょうどその時西の風が激しく吹き、住吉の浦に打ち上げられて、吉野の奥に籠った。吉野の法師に攻められて、奈良へ逃げた。奈良でも法師に攻められて、又都へ帰り入り、北国に向って、最後には奥州へ下られた。都から連れて来た女房達十余人を、住吉の浦に置き去りにした。置き去りにされた女房達が、松の下、砂の上に、袴を踏み乱し、袖を片敷いて、泣き伏していたのを、住吉の神官共が憐れんで、皆を京都へ送った。だいたい判官が頼りにされていた伯父信太三郎先生義憲、十郎蔵人行家、緒方三郎惟義の舟は、浦々島々に打ち寄せられて、互いのその行方がわからない。忽ち西の風が吹いたことも、平家の怨霊の仕業と思われた。同年十一月七日、鎌倉の源二位頼朝興の代官として、北条四郎時政が、六万余騎を引き連れて都に入る。伊予守源義経、備前守源行家、信太三郎先生源義憲を追討すべきことを奏聞したので、すぐに院宣を下された。去る二日には義経が申請したとおりに、頼朝を背くようにという、庁の御下文をなされ、同月八日には頼朝卿の申し状によって、義経追討の院宣を下される。朝には変り、夕べには変るという、定めの無い世の習いは、まことに哀れな事である。

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朗読・解説:左大臣光永

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