平家物語 百八十ニ 土佐房被斬(とさばうきられ)

原文

さる程に、九郎判官(くらうはうぐわん)には、鎌倉殿より大名(だいみやう)十人つけられたりけれども、内々御不審(ごふしん)を蒙(かうぶ)り給ふよし聞えしかば、心をあはせて一人(いちにん)づつ皆下りはてにけり。兄弟(きやうだい)なるうへ、殊(こと)に父子の契(ちぎり)をして、去年(こぞ)の正月木曾義仲(きそよしなか)を追討せしよりこのかた、 度々(どど)平家を攻めおとし、今年(ことし)の春ほろぼしはてて、一天(いつてん)をしづめ、四海(しかい)をすます。勧賞(けんじやう)おこなはるべき処(ところ)に、いかなる子細(しさい)あッてか、かかる聞えあるらんと、かみ一人(いちじん)をはじめ奉り、 しも万民(ばんみん)に至るまで不審(ふしん)をなす。此事は去春摂津国渡辺(さんぬるはるつのくにわたなべ)より舟揃(ふねぞろへ)して、八島(やしま)へわたり給ひしとき、逆櫓(さかろ)たてう、たてじの論をして、大きにあざむかれたりしを、梶原遺恨(かぢはらゐこん)に思ひて、 常は讒言(ざんげん)しけるによッてなり。定めて謀反(むほん)の心もあるらむ、大名共さしのぼせば、宇治(うぢ)、勢田(せた)の橋をもひき、京中(きやうぢゆう)のさわぎとなッて、なかなかあしかりなんとて、土佐房昌俊(とさばうしやうしゆん)を召して、「和僧(わそう)のぽッて物詣(ものまうで)するやうにて、たばかッてうて」 と宣ひければ、昌俊畏(かしこま)ッて承り、宿所へも帰らず、御前をたッてやがて京へぞ上りける。

同(おなじき) 九月廿九日土佐房都へついたりけれども、次の日まで 判官殿(はうぐわんどの)へも参らず。昌俊がのぼりたるよし聞き給ひ、武蔵房弁慶(むさしばうべんけい)をもッて召されければ、やがてつれて参りたり。判官宣(のたま)ひけるは、「いかに、鎌倉殿より御文(おんふみ)はなきか」。「さしたる御事候(おんことさうら)はぬ間、御文は参らせられず候(さうらふ)。御詞(おんことば)にて申せと候ひしは、『当時まで都に別の子細なく候事、さて御渡り候ゆゑとおぼえ候。相構へてよく守護せさせ給へ、と申せ』とこそ、仰せられ候ひつれ」。判官、「よもさはあらじ。義経(よしつね)討ちにのぼる御使(おんつかひ)なり。『大名どもさし上(のぼ)せば、宇治、勢田の橋をもひき、都鄙(とひ)のさわぎともなッて、なかなかあしかりなん。 和僧のぼせて、物詣(ものまうで)する様(やう)にて、たばかッてうて』とぞ、仰せ付けられたるらむな」と宣へば、昌俊大きに驚きて、「何によッてか唯今(ただいま)さる事の候べき。いささか宿願によッて、熊野参詣(くまのさんけい)のために罷上(まかりのぼ)ッて候」。そのとき判官宣ひけるは、「景時(かげとき)が讒言によッて、義経(よしつね)鎌倉へも入れられず、見参(げんざん)をだにし給はで、おひ上せらるる事はいかに」。昌俊、「其事はいかが候らん、身においてはまッたく御腹(おんばら)くろ候はず。起請文(きしやうもん)を書き進ずべき」よし申せば、判官、「とてもかうても、鎌倉殿によしと思はれ奉(たてま)ッたらばこそ」とて、以(もつ)ての外(ほか)けしきあしげになり給ふ。昌俊一旦(いつたん)の害をのがれんが為(ため)に、居ながら七枚の起請文を書いて、或(あるい)は焼いてのみ、或(あるい)は社(やしろ)に納めなンどして、ゆりてかへり、大番衆(おほばんじゆ)にふれめぐらして、其(その)夜(よ)やがて寄せんとす。

現代語訳

さて、九郎判官には、鎌倉殿(頼朝)から大名十人をつけられていたけれども、内々頼朝殿の御不審を蒙られたという事が伝わったので、頼朝の意向に心を合せて一人づつみんな鎌倉へ下ってしまった。兄弟である上に、親子の約束を交わして、去年の正月に木曽義仲を追討して以来、たびたびの戦で平家を攻め落とし、今年の春にはすっかり攻め滅ぼしてしまい、天下を鎮め、国家を平定する。論功行賞が行われて当然なところに、どのような理由があってか、こんな話があるのだろうかと、天皇を初め奉り、しも万民に至るまで不審がる。この事は今年の春摂津国渡辺から舟ぞろえをして、八島へ渡られた時、逆櫓を立てる、立てないと言い争いをして、大変馬鹿にされたのを、梶原が恨んで、いつも頼朝に讒言していたことによるのである。頼朝は、義経はきっと謀反の気持ちを抱いているのだろう、大名共を何人も都へ上らせるならば、宇治、勢田の橋板も引き外し、京都中の騒ぎになって、返って悪かろうと、土佐房昌俊(とさぼうしょうしゅん)を召して、「和僧が上京して寺に詣でるふりをして、義経を騙して討て」と言われると、昌俊は畏まって承り、家へも帰らず、頼朝の御前を発ってそのまま上京した。

同年九月二十九日に土佐房は都へ着いたが、次の日まで判官殿の所へも参らない。義経は、昌俊が上京したことをお聞きになり、武蔵坊弁慶を通じて召されたところ、すぐに連れて参った。「どうだ。鎌倉殿から御文はないのか」。「これといった用事もございませんので、義経殿への御文をお書きではありません。言葉で伝えよと言われたのは、『今まで都に特別な事件が起きないのは、このようにして殿が都におられるからであろう。十分に注意して守護なさるように、と申せ』と、仰せつけられました。判官は、「決して、そうではあるまい。お前は、義経を討ちに来た鎌倉殿の御使いだ。『大名を何人も上らせれば、宇治、勢田の橋板を引き、都や田舎の騒動にもなってかえって悪かろう。お前を上京させるから、寺に参詣するふりをして、騙して討て』と、仰せつけられたのだろうな」と言われると、昌俊は大変驚いて、「なんで現在そんなことがありましょうか。少しばかり年来の願い事があって、熊野参詣の為に上京したのでございます」。その時判官が言われるには、「景時の讒言によって、義経は鎌倉へも入られず、対面もなさらずに、追い上らせられたのはどうしてだ」。昌俊は、「そのことはどうでしょうか、私に限ってはまったく義経殿に対して腹黒い気持ちは抱いておりません。起請文を書いて差し上げましょう」ということを申すので、判官は、「どちらにしても鎌倉殿に良いと思われ申してはいないのだ」といって、たいそう不機嫌になられる。昌俊は一旦害を遁れようとするために、その場で七枚の起請文を書いて、或いは焼いて呑み、或いは社に納めなどして、許されて帰り、大番衆に触れ回して、その夜すぐに攻め寄せようとする。

原文

判官は磯禅師(いそのぜんじ)といふ白拍子(しらびやうし)の娘静(しづか)といふ女を最愛(さいあい)せられけり。静もかたはらを立ちさる事なし。 静申しけるは、「大路(おほぢ)は皆武者でさぶらふなる。是(これ)より催しのなからんに、大番衆の者ども、これほどさわぐべき様やさぶらふ。あはれ是はひるの起請法師(きしやうぼふし)のしわざとおぼえ候(さぶらふ)。人をつかはして見せさぶらはばや」とて、六波羅(ろくはら)の故入道相国(こにふだうしやうこく)の召しつかはれけるかぶろを 三四人(さんしにん)つかはれけるを、二人(ににん)つかはしたりけるが、程ふるまで帰らず。なかなか女は苦しからじとて、はした者を一人(いちにん)見せにつかはす。程なくはしり帰ッて申しけるは、「かぶろとおぼしき者はふたりながら、土佐房の門(もん)にきりふせられてさぶらふ。宿所には鞍置馬(くらおきうま)どもひしとひッたてて、大幕(おほまく)のうちには、矢負ひ弓はり、者ども皆具足(ぐそく)して、唯今寄せんといでたちさぶらふ。すこしも物まうでのけしきとは見えさぶらはず」と申しければ、判官是を聞いて、やがてうッたち給ふ。静着背長(きせなが)とッて投げかけ奉る。高紐(たかひも)ばかりして、太刀(たち)とッて出で給へば、中門(ちゆうもん)の前に馬に鞍おいてひッたてたり。是にうち乗ッて、「門(もん)をあけよ」とて門あけさせ、いまやいまやと待ち給ふ処に、しばしあッて、ひた甲(かぶと)四五十騎、門の前におし寄せて、時をどッとぞつくりける。判官鐙(あぶみ)ふンばり立ちあがり、大音声(だいおんじやう)をあげて、「夜討(ようち)にも昼戦(ひるいくさ)にも、義経たやすう討つべき者は、日本国(につぽんごく)におぼえぬものを」とて、只一騎をめいてかけ給へば、五十騎ばかりの者共、中をあけてぞ通しける。

さる程に、伊勢(いせ)ノ三郎義盛(さぶらうよしもり)、奥州(あうしう)ノ佐藤四郎兵衛忠信(さとうしらうびやうゑただのぶ)、江田源三(えだのげんざう)、熊井太郎(くまゐたらう)、武蔵房弁慶(むさしばうべんけい)なンどいふ、一人当千(いちにんたうぜん)の兵共(つはものども)、やがてつづいて攻め戦ふ。其後(そののち)侍共、「御内(みうち)に夜討(ようち)いッたり」とて、あそこの屋形(やかた)、ここの宿所より馳(は)せ来(きた)る。程なく六七十騎集まりければ、土佐房たけく寄せたりけれども、 たたかふにおよばず、散々(さんざん)にかけちらされて、たすかる者はすくなう、うたるる者ぞおほかりける。昌俊希有(しやうしゆんけう)にしてそこをばのがれて、鞍馬(くらま)の奥ににげ籠(こも)りたりけるが、鞍馬は判官の故山(こさん)なりければ、彼法師(かのほふし)土佐房をからめて、次の日判官の許(もと)へ送りけり。僧正(そうじやう)が谷(たに)といふ所に、かくれゐたりけるとかや。

現代語訳

判官は磯禅師(いそのぜんじ)という白拍子(しらびょうし)の娘静(しずか)を最も愛しておられた。静も判官の傍(そば)を離れる事は無い。静が申すには、「大路は皆武者でいっぱいだそうです。こちらから召集もしていないのに大番役の者共が、これほど騒ぐのはどうしたものでしょうか。ああ、これは昼間に起請文を書いた法師の仕業と思われます。人をやって見させましょう」と言って、六波羅の故入道相国が召し使われていた禿髪(かぶろ)を三四人使っておられたが、その中の二人を見に行かせられたたが、時間が経っても帰らない。かえって女ならば無難だろうと、召使の女を一人、見に行かせる。間もなく女が走って帰って申すには、「かぶろと思われる者は二人とも、土佐房の門の所で切り伏せられております。宿所には鞍置き馬がびっしりと立って、大幕の内には、矢を負い弓を張り、者共が皆具足を着けて、今にも攻め寄せようという装いでございます。少しも物詣での様子には見えません」と申すと、判官はこれを聞いて、すぐにお発ちになる。静はすぐに着背長を取ってさっと無造作にお着せ申し上げる。高紐だけを結んで、太刀を取ってお出になると、中門の前に馬に鞍を置いて引き立てた。これにうち乗って、「門を開けよ」と、門を開けさせ、敵の来るのを、いまかいまかとお待ちになっている所へ、しばらくして、皆鎧・甲を着けた四五十騎が、門の前に押し寄せて、どっと鬨の声を挙げる。判官は鐙を踏ん張って立ち上がり、大声を上げて、「夜討ちでも昼戦でも、義経をたやすく討てる者は、日本国にはいないのに」と言って、只一騎大声を上げてお駆けになると、五十騎ほどの者共は、中を開けて通した。

そうするうちに、伊勢ノ三郎義盛、奥州ノ佐藤四郎兵衛忠信、江田源三、熊井太郎、武蔵坊弁慶などという、一人当千の兵共が、すぐに続いて攻め戦う。其後侍共は、「お屋敷に夜討ちが入った」と言って、あそこの舘、ここの宿舎より馳せて来る。まもなく六七十騎が集まったので、土佐房は勇猛果敢に攻め寄せたが、散々に駆け散らされて、助かる者は少なく、討たれる者は多かった。昌俊はかろうじてそこを逃れ出て、鞍馬の奥に逃げ、籠っていたが、鞍馬は判官の故郷の山なのでそこの法師が土佐房を捕まえて、次の日判官のもとへ送った。僧正が谷という所に、隠れていたとかいう事である。

原文

昌俊を大庭(おほには)にひッすゑたり。かちの直垂(ひたたれ)に、首丁頭巾(すッちやうどきん)をぞしたりける。判官わらッて宣ひけるは、「いかに和僧(わそう)、起請にはうてたるぞ」。土佐房すこしもさわがず、居なほり、あざわらッて申しけるは、「ある事に書いて候(さうら)へば、うてて候(さうらふ)ぞかし」と申す。「主君の命(めい)を重んじて、私の命(めい)を軽(かろ)んず。 心ざしの程、尤(もつと)も神妙(しんべう)なり。和僧命惜しくは、鎌倉へ返しつかはさんはいかに」。土佐坊、「まさなうも御諚(ごぢやう)候ものかな。 惜しと申さば、殿はたすけ給はんずるか。鎌倉殿の、『法師なれどもおのれぞねらはんずる者』とて、仰せかうぶッしより、命(いのち)をば鎌倉殿に奉りぬ。なじかはとり返し奉るべき。唯御恩(ごおん)にはとくとく頸(かうべ)を召(め)され候へ」と申しければ、「さらばきれ」とて、六条河原(ろくでうかはら)にひきいだいてきッてンげり。ほめぬ人こそなかりけれ。

現代語訳

判官は昌俊を大庭に引き据えた。褐(かち)の直垂に、首丁頭巾(すっちょうずきん)をしていた。判官が笑って言われるには、「どうだ和僧、起請文の罰が当たったな」。土佐房は少しも騒がず、座りなおして、嘲笑って申すには、「ない事をある事のように書いておきましたので、罰があたったのです」と申す。「主君の命を重んじて私の命を軽く扱う。主君への忠誠の程、感心である。和僧、命が惜しいなら、鎌倉へ帰してやろうと思うがどうだ」。土佐房「とんでもない事を言われるものですな。惜しいと申せば、殿は私をお助けになるのか。鎌倉殿が、『法師ではあるがおのれこそ義経の命をねらえる者だ』と言って、仰せいただいてから、私の命は鎌倉殿に差し上げております。どうしてそれを取り返し申しましょうか。只御恩として、さっさと首をお取り下さい」と、申したので、「それでは斬れ」と言って、六条河原に引き出して斬ってしまった。昌俊を誉めない人は無かった。

朗読・解説:左大臣光永

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