平家物語 百五十八 藤戸(ふぢと)

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平家物語巻第十より「藤戸(ふぢと)」。寿永三年(1184)九月、三河守範頼は平家追討のため総勢三万で西国へ出発。播磨の室に着く。平家の方では五百余一艘の舟に乗って屋島を出て備前国の児島に着く。同月二十六日、海をはさんで合戦がはじまる。

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前回「三日平氏」からのつづきです。
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原文

是を鎌倉の兵衛佐(ひやうゑのすけ)かへり聞き給ひて、「哀れ、へだてなくうちむかひておはしたらば、命計(ばかり)はたすけ奉(たてま)ツてまし。小松(こまつ)の内府(だいふ)の事は、おろかに思ひ奉らず。池の禅尼(ぜんに)の使(つかひ)として、頼朝(よりとも)を流罪(るざい)に申しなだめられしは、ひとへに彼内府(かのだいふ)の芳恩(はうおん)なり。其恩争(いか)でか忘るべきなれば、子息(しそく)たちもおろかに思はず。まして出家なンどせられなむうへは、子細(しさい)にや及ぶべき」とぞ宣ひける。

さる程に、平家は讃岐(さぬき)の八島(やしま)へかへり給ひて後も、東国(とうごく)よりあら手の軍兵数万騎(ぐんぴようすまんぎ)、都についてせめ下るとも聞ゆ。鎮西(ちんぜい)より臼杵(うすき)、戸次(へつぎ)、松浦党(まつらたう)、同心しておしわたるとも申しあへり。かれを聞き、是を聞くにも、只耳をおどろかし、肝魂(きもたましひ)を消すより外(ほか)の事ぞなき。今度一の谷にて一門の人々のこりすくなくうたれ給ひ、むねとの侍共なかば過ぎてほろびぬ。 今は力つきはてて、阿波民部大夫重能(あはのみんぶのたいふしげよし)が兄弟、四国の者共かたらッて、さりともと申しけるをぞ、高き山、深き海ともたのみ給ひける。女房達はさしつどひて、只泣くより外(ほか)の事ぞなき。かくて七月廿五日にもなりぬ。「こぞの今日(けふ)は都を出でしぞかし。程なくめぐり来にけり」とて、あさましうあわたたしかりし事共宣ひいだして、泣きぬわらひぬぞし給ひける。

同(おなじき)廿八日、 新帝(しんてい)の御即位(ごそくゐ)あり。内侍所(ないしどころ)、神璽(しんし)、宝剣(ほうけん)もなくして御即位の例、神武天皇(じんむてんわう)より以来(このかた)八十二代、是はじめとぞ承る。八月六日(むゆかのひ)、除目(じもく)おこなはれて、蒲冠者範頼(かばのくわんじやのりより)、参河守(みかはのかみ)になる。九郎冠者義経(くらうかんじやよしつね)、左衛門尉(さゑもんのじよう)になさる。すなはち使(し)の宣旨(せんじ)を蒙(かうむ)ッて、九郎判官(くらうはうぐわん)とぞ申しける。

さる程に、荻(をぎ)のうは風もやうやう身にしみ、萩(はぎ)の下露(したつゆ)もいよいよしげく、うらむる虫の声々に、稲葉(いなば)うちそよぎ、木(こ)の葉(は)かつ散るけしき、物思はざらむだにも、ふけゆく秋の旅の空はかなしかるべし。まして平家の人々の心の中(うち)、さこそは、おはしけめと、おしはかられて哀れなり。むかしは九重(ここのへ)の雲の上にて、春の花をもてあそび、今は八島の浦(うら)にして、秋の月にかなしむ。凡(およ)そさやけき月を詠じても、都のこよひいかなるらむと思ひやり、心をすまし、涙をながしてぞ、あかしくらし給ひける。左馬頭行盛(さまのかみゆきもり)かうぞ思ひつづけ給ふ。

君すめばこれも雲井(くもい)の月なれどなほこひしきはみやこなりけり。

現代語訳

これを鎌倉の兵衛佐頼朝は帰ってお聞きになり、「ああ、遠慮なく、尋ねて来て対面してくださったなら、命だけはお助していただろうに。小松の内大臣の事は、おろそかにお思い申してはいない。池の禅尼の使いとして、頼朝を死罪から流罪にするよう申し宥められたのは、ひとえにあの内大臣の御恩によるものだ。その恩をどうして忘れようか。忘れられないから、子息たちもおろそかには思っていない。まして出家などせられた以上は、あれこれ言うまでもない」と言われた。

さて平家は讃岐の八島へ帰られた後も、東国から新手の軍勢が数万騎、都に着いて四国に攻め下ってくるという噂であった。又九州からは緒方三郎を初めとして臼杵(うすき)、戸次(へつぎ)、松浦党(まつらとう)の者共が源氏に味方して押し渡ってくるようだと言い合っている。あの噂を聞き、この噂を聞くにつけ、それは只驚いて恐れおののくより外にない。此度一の谷の戦で平家一門の人々が大勢お討たれになり残り少なくなったが、主だった侍共も半分以上は滅んでしまった。平家は今は力尽きはて、阿波民部大夫重能(あわのみんぶのたいふしげよし)の兄弟が四国の者共を味方に誘って、「まさか負ける事はあるまい」と申したのを、高い山、深い海とたいそう頼りにされていた。女房達は寄り集まって、泣くよりほかはなかった。こうして七月二十五日にもなった。「去年の今日は都を出たのだ。都を出て間もないのにもうすぐその日がめぐってくるのだ」といって、当時の情けなくあわただしかった事などを言い出されて、泣いたり笑ったりなさった。

同月二十八日、京都では新帝(後鳥羽天皇)の御即位の式典が行われる。内侍所(ないしどころ)、神璽(しんし)、宝剣もなくて御即位なさった例は神武天皇からこのかた八十二代、これが初めてだということである。八月六日に除目が行われて、蒲冠者範頼(かばのかんじゃのりより)が三河守になる。九郎冠者義経(くろうかんじゃよしつね)を左衛門尉(さえもんのじょう)になさる。すぐさま使(検非違使)の宣旨を蒙って検非違使尉(けびいしじょう)になり九郎判官と申した。

そのうちに秋も深まり、萩の上を吹き抜ける風もようやく身に染み、萩の下露もいよいよ深くなって、恨みを告げるように悲しそうに泣く虫の声々が聞え、稲の葉もそよぎ、木の葉がたちまち散る景色は、物思いにふけらずとも、更け行く秋の旅の空は悲しいものであったろう。まして平家の人々の心の中は、さぞかし悲しくいらっしゃっただろうと推測されて哀れである。昔は宮中で、春の花に興じて楽しみ、今は八島の浦で、秋の月に悲しむ。だいたい曇りのない月を詠じても、都の今夜はどうであろうかと思いやり、心を澄まし、涙を流して、その日その日を過ごされていた。左馬頭行盛(ゆきもり)は次のように思い続け歌を詠まれた。

君すめばこれも雲井(くもい)の月なれどなほこひしきはみやこなりけり。
(君が住んでおられるのだから、これも雲の上の月だが、やっぱり恋しいのは都なのであった)

語句

■へだてなく 維盛が隔て心なく頼朝と対面して事情を話してくれていたら。 ■小松の内府 維盛の父重盛。 ■池の禅尼 頼盛の母。平治の乱の後、頼朝の助命を清盛に嘆願した。 ■子細にや及ぶべき あれこれ言うことがあろうか。不問にすること。 ■鎮西より… 「九州の者ども緒方三郎をはじめとして、臼杵、戸次、松浦党にいたるまで、一向平家をそむいて、源氏に同心のよし」(巻六「飛脚到来」)。 ■阿波民部大夫重能が兄弟 紀氏。四国に勢力を持つ豪族。平家に同心。 ■さりとも いくらなんでも源氏に負けることはないだろうの意。 ■こぞの今日は 「寿永二年七月廿五日に、平家都を落ちはてぬ」(巻七「福原落」)。 ■程なく 都を出て間もないのにもうその日が来てしまった。時間経過の早いことをいう。 ■新帝 後鳥羽天皇 前年八月二日践祚(巻八「名虎」)。 ■内侍所、神璽、宝剣 三種の神器(巻四「厳島御幸」)。 ■八月六日 『吾妻鏡』には、六月五日の小除目に範頼は三河守に、八月六日義経は左衛門尉に使の宣旨を被る。八月六日については記述がない。 ■荻のうは風 「物毎に秋のけしきはしるけれど先づ身にしむは荻の上風」(千載・秋上 大蔵卿行宗)。 ■かつ散る 少しずつ散る。 ■さこそはおはしけめ 「さこそは悲しくおはしけめ」の意。 ■九重 内裏。宮中。次の「八島」の「八」との対比。 ■行盛 清盛の孫。基盛の子。 ■君すめば… 「君」は安徳天皇。天皇が「住む」と月が「澄む」をかける。「雲居」は雲、空。宮中の意をかける。「かくばかりうき身の程も忘られてなほ恋しきは都なりけり」(千載・羇旅 平康頼)を引く。 

原文

同(おなじき)九月十二日、参河守範頼、平家追討(ついたう)のために西国(さいごく)へ発向(はつかう)す。相伴(あひともな)ふ人々、足利蔵人義兼(あしかがのくらんどよしかね)、加賀美小次郎長清(かがみのこじらうながきよ)、北条小四郎義時(ほうでうのこしらうよしとき)、斎院次官親能(さいゐんしくわんちかよし)、侍大将には土肥次郎実平(とひのじらうさねひら)、子息弥太郎遠平(しそくのやたらうとほひら)、三浦介義澄(みうらのすけよしずみ)、子息平六義村(しそくのへいろくよしむら)、畠山庄司次郎重忠(はたけやまのしやうじじらうしげただ) 、同(おなじき)長野三郎重清(ながののさぶらうしげきよ)、稲毛三郎重成(いなげのさぶらうしげなり)、榛谷四郎重朝(はんがいのしらうしげとも)、同(おなじき)五郎行重(ごらうゆきしげ)、小山小四郎朝政(をやまのこしらうともまさ)、同(おなじき)長沼五郎宗政(ながぬまのごらうむねまさ)、土屋三郎宗遠(つちやのさぶらうむねとほ)、 佐々木三郎盛綱(ささきさぶらうもりつな)、八田四郎武者朝家(はつたのしらうむしやともいへ)、安西三郎秋益(あんざいのさぶらうあきます)、大胡三郎実秀(おほごのさぶらうさねひで)、天野藤内遠景(あまののとうないとほかげ)、比企藤内朝宗(ひきのとうないともむね)、同(おなじき)藤四郎能員(とうしらうよしかず)、中条藤次家長(ちゆうでうのとうじいえなが)、一品房章玄(いつぽんばうしやうげん)、土佐房昌俊(とさのぼうしやうしゆん)此等(これら)を初(はじめ)として、都合(つがふ)其勢三万余騎、都をたッて播磨(はりま)の室(むろ)にぞつきにける。

平家の方(かた)には大将軍小松新三位中将資盛(たいしやうぐんこまつのしんざんみのちゆうじやうすけもり)、同少将有盛(おなじきせうしやうありもり)、丹後侍従忠房(たんごのじじゆうただふさ)、侍大将には、飛騨三郎左衛門景経(ひだのさぶらうざゑもんかげつね)、越中次郎兵衛盛嗣(ゑつちゆうのらうびやうゑもりつぎ)、上総五郎兵衛忠光(かずさのごらうびやうゑただみつ)、悪七兵衛景清(あくしちびやうゑかげきよ)をさきとして、五百余艘(さう)の兵船(ひやうせん)に取乗(とりの)ッて、備前(びぜん)の児島(こじま)につくと聞えしかば、源氏室(むろ)をたッて、是も備前国西河尻(びぜんのくににしかはじり)、藤戸(ふぢと)に陣をぞとッたりける。

源平の陣のあはひ、海のおもて廿五町ばかりをへだてたり。舟なくしてはたやすうわたすべき様(やう)なかりければ、源氏の大勢(おほぜい)むかひの山に宿(しゆく)して、いたづらに日数をおくる。平家の方(かた)よりはやりをの若者(わかもの)共、小船(こぶね)に乗って漕(こ)ぎいださせ、扇(あふぎ)をあげて、「ここわたせ」とぞまねきける。源氏、「やすからぬ事なり。いかがせん」というところに、同(おなじき)廿五日の夜に入ッて、佐々木三郎盛綱、浦の男(をとこ)をひとりかたらって、白い小袖(こそで)、大ロ(おほくち)、白鞘巻(しらざやまき)なンどとらせ、すかしおほせて、「この海に馬にてわたしぬべき所やある」と問ひければ、男申しけるは、「浦の者共おほう候(さうら)へども、案内知ッたるはまれに候。此男こそよく存知(ぞんぢ)して候へ。たとへば河の瀬のやうなる所の候が、月がしらには東(ひんがし)に候。月(つき)尻(じり)には西に候。両方(りやうばう)の瀬のあはひ、海のおもて十町ばかりは候らむ。この瀬は御馬(おんむま)にてはたやすうわたさせ給ふべし」と申しければ、佐々木なのめならず悦(よろこ)びて、わが家子郎等(いへのこらうどう)にも知らせず、かの男と只二人まぎれ出で、はだかになり、件(くだん)の瀬のやうなる所を見るに、げにもいたくふかうはなかりけり。膝(ひざ)、腰(こし)、肩(かた)にたつ所もあり、鬢(びん)のぬるる所もあり、深い所をばおよいで、あさき所におよぎつく。男申しけるは、「これより南(みんなみ)は、北よりはるかに浅う候。敵(かたき)矢さきをそろへて待つところに、はだかにてはかなはせ給ふまじ。かへらせ給へ」と申しければ、佐々木げにもとてかへりけるが、「下臈(げらう)はどこともなき者なれば、又人にかたらはれて案内(あんない)をもをしへむずらん。我計(わればかり)こそ知らめ」と思ひて、彼(かの)男をさしころし、頸(くび)かききッてすててンげり。

現代語訳

同年九月十二日、三河守範頼(のりより)は、平家追討の為に西国へ出発する。従う人々は足利蔵人義兼(あしかがのくらんどよしかね)、加賀美小次郎長清(かがみのこじろうながきよ)、北条小四郎義時(ほうじょうのこしろうよしとき)、斎院次官親能(さいいんじかんちかよし)、侍大将には土肥次郎実平(といのじろうさねひら)、子息弥太郎遠平(しそくのやたらうとおひら)、三浦介義澄(みうらのすけよしずみ)、子息平六義村(しそくのへいろくよしむら)、畠山庄司次郎重忠(はたけやまのしょうじじろうしげただ) 、同(おなじく)長野三郎重清(ながののさぶろうしげきよ)、稲毛三郎重成(いなげのさぶろうしげなり)、榛谷四郎重朝(はんがいのしろうしげとも)、同(おなじく)五郎行重(ごろうゆきしげ)、小山小四郎朝政(おやまのこしろうともまさ)、同(おなじく)長沼五郎宗政(ながぬまのごろうむねまさ)、土屋三郎宗遠(つちやのさぶろうむねとお)、 佐々木三郎盛綱(ささきさぶろうもりつな)、八田四郎武者朝家(はったのしろうむしゃともいえ)、安西三郎秋益(あんざいのさぶろうあきます)、大胡三郎実秀(おおごのさぶろうさねひで)、天野藤内遠景(あまののとうないとおかげ)、比企藤内朝宗(ひきのとうないともむね)、同(おなじく)藤四郎能員(とうしろうよしかず)、中条藤次家長(ちゅうじょうのとうじいえなが)、一品房章玄(いつぽんぼうしょうげん)、土佐房昌俊(とさのぼうしょうしゅん)此等(これら)を初(はじめ)として、総勢其勢三万余騎が、都を発って播磨(はりま)の室(むろ)に着いた。

平家の方(かた)では大将軍小松新三位中将資盛(すけもり)、同少将有盛(ありもり)、丹後侍従忠房(たんごのじじゅうただふさ)、侍大将には、飛騨三郎左衛門景経(ひだのさぶろううざえもんかげつね)、越中次郎兵衛盛嗣(えつちゅうのじろうびょうえもりつぎ)、上総五郎兵衛忠光(かずさのごろうびょうえただみつ)、悪七兵衛景清(あくしちべえかげきよ)を先駆けに、五百余艘(さう)の兵船(ひょうせん)に乗って、備前(びぜん)の児島(こじま)に着いたという噂が聞えてきたので、源氏方は室(むろ)を発って、是も備前国西河尻(びぜんのくににしかわじり)の藤戸(ふぢと)に陣を取ったのであった。

源平の陣の間は、海面二十五町程隔たっていた。舟が無ければ簡単に渡る術も無かったので、源氏の多数の軍勢は向いの山に寝泊まりをして、無駄に日数を送る。平家の方から血気にはやる若者共が、小船に乗って漕ぎ出し、扇を掲げて「ここを渡って来い」と招いた。源氏方では、「簡単ではないが、どうしよう」と言っている所に、同月二十五日の夜に入って、佐々木三郎盛綱が、浦の男一人を仲間に引き入れて、白い小袖、大口袴、白鞘巻などを与え、うまく騙し切って、「この海に馬で渡れる所はあるか」と尋ねると、男が申したことには、「浦の者共は大勢おりますが、案内できる者はまれでございます。私はよく存じております。たとえば川の瀬のような所がございますが月初めには東にございます。月の終わりには西にございます。両方の瀬の間は海面で十町ほどでございます。この瀬は馬で簡単に渡る事ができます」と申したので、佐々木はたいそう喜んで自分の家の子、郎等にも知らせず、その男と二人、秘かに室を抜け出し、裸になり、その瀬のような所を見てみると、たしかににそれほど深くはなかった。膝、腰、肩が海面に出る所もあり、鬢(びん)が濡れる所もある。深い所は泳いで渡り、浅い所に泳ぎ着く。「ここから南は、北よりはるかに浅うございます。敵が矢先を揃えて待っている所に、裸で向かっては敵わないでしょう。お戻りください」と申したので、佐々木はなるほどと帰って行ったが、「下郎はどこの者ともわからぬ当てにならぬ者だから、又人に言われて案内するかもしれぬ。自分だけが知っていよう」と考えて、その男を刺し殺し、首を掻き切って捨ててしまった。

語句

■同九月十二日 『百錬抄』では九月二日。 ■足利蔵人義兼 足利義康の子。 ■北条四郎義時 北条時政の子。後に鎌倉幕府執権。 ■土屋三郎宗遠 土肥実平の弟。神奈川県平塚市土屋の人。 ■佐々木三郎盛綱 宇多源氏。佐々木四郎高綱の兄。 ■藤四郎能員 比企能員。鎌倉幕府御家人。 ■飛騨三郎佐衛門景経 飛騨守景家の子。 ■越中次郎兵衛盛嗣 越中守平盛俊の子。 ■備前の児島 岡山県倉敷児島。当時は島。 ■西河尻 備前・備中の国境、西阿智川の川尻(長門本)。西大川(現・旭川)の川尻ともいうが詳細不明。 ■藤戸 児島湾の西、水島灘に通ずる水道。藤戸の渡。現岡山県倉敷市藤戸地区。

■廿五町 一町は六十間。約109メートル。 ■はやりをの 血気にはやる。 ■ここわたせ ここを馬で渡せといって挑発する。 ■小袖 袖口の狭い貴族の衣類。 ■大口 大口袴。束帯のとき、表袴(うわばかま)の下にはく。 ■白鞘巻 柄や鞘に銀の装飾をほどこした短刀。 ■すかしおほせて うまいこと騙しきって。 ■此男 自分のこと。 ■月がしら 月の初旬。 ■月尻 月の下旬。 ■どこともなき者 どこの者ともわからない者。素性の知れない者。 

原文

同(おなじき)廿六日の辰剋(たつのこく)ばかり、平家(へいけ)又小舟(こぶね)に乗ッて漕ぎいださせ、「ここをわたせ」とぞまねきける。佐々木三郎、案内はかねて知ッたり、滋目結(しげめゆひ)の直垂(ひたたれ)に黒糸威(くろいとをどし)の鎧(よろひ)着て、白葦毛(しらあしげ)なる馬に乗り、家子郎等(いへのこらうどう)七騎 ざッとうち入れてわたしけり。大将軍参河守(たいしやうぐんみかはのかみ)、「あれ 制せよ、留(とど)めよ」と宣へば、土肥次郎実平(とひのじらうさねひら)、鞭(むち)鐙(あぶみ)をあはせておッついて、「いかに佐々木殿、物のついてくるひ給うか。大将軍のゆるされもなきに狼籍(らうぜき)なり。とどまり給へ」といひけれども、耳にも聞きいれずわたしければ、土肥次郎も制しかねて、やがてつれてぞわたいたる。馬のくさわき、 胸がいづくし、太腹(ふとばら)につく所もあり、鞍壺(くらつぼ)こす所もあり。ふかき所はおよがせ、あさき所にうちあがる。大将軍参河守是(これ)を見て、「佐々木にたばかられけり。あさかりけるぞや。わたせやわたせ」と下知(げぢ)せられければ、三万余騎の大勢(おほぜい)みなうち入れてわたしけり。平家の方には、「あはや」とて、舟共おしうかべ、矢さきをそろへてさしつめひきつめさんざんに射る。源氏の兵者共(つはものども)是を事ともせず、甲(かぶと)の錣(しころ)をかたむけ、平家の舟に乗りうつり乗りうつり、をめきさけんでせめたたかふ。源平乱れあひ、或(あるい)は舟ふみ沈めて死ぬる者もあり、或は船引きかへされてあわてふためく者もあり。一日(いちにち)たたかひくらして夜に入りければ、平家の舟は興(おき)にうかぶ。源氏は児島(こじま)にうちあがッて、人馬(じんば)の息(いき)をぞやすめける。平家は八島へ漕(こ)ぎしりぞく。源氏心はたけく思へども、船なかりければ、おうてもせめたたかはず。「昔より今にいたるまで、馬にて河をわたすつはものはありといへども、馬にて海をわたす事、天竺(てんじく)、震旦(しんだん)は知らず、我朝(わがてう)には希代(きだい)のためしなり」とぞ、備前の児島を佐々木に給はりける。鎌倉殿の御教書(みげうしよ)にものせられけり。

現代語訳

同月二十六日午前八時頃、平家が又小舟に乗って漕ぎ出し、「ここを渡れ」と招いた。佐々木三郎は渡れる所をかねて知っていた。滋目結(しげめゆい)の直垂(ひたたれ)に黒糸威(くろいとおどし)の鎧(よろい)を着て、白葦毛(しらあしげ)という馬に乗り、家子郎等(いえのころうとう)七騎がざッと海にうち入り渡ったのだった。大将軍の三河守は、「あれを抑えろ、止めよ」と言われると、土肥次郎実平(といのじろうさねひら)が鞭を馬の尻に当て、鐙を踏ん張って馬を走らせて追いつき、「どうした佐々木殿、物が憑いてお狂いになったか。大将軍の許しもないのに乱暴であろう。お留まりなされ」と呼びかけたが、聞き入れもせず渡ったので、土肥次郎も制しかねて、そのまま一緒に渡ってしまった。馬の草脇(くさわき)・鞅尽し(むながいづくし)・太腹に水がつく所もあり、鞍壺を水が越す所もある。深い所は馬を泳がせ、浅い所に上がった。大将軍の三河守はこれを見て、「佐々木にだまされたぞ。浅かったのだ。渡せや、渡せ」と下知されたので、三万余騎の大軍勢がみな馬を海にうち入れて渡った。平家の方では「それ、大変だ」といって、舟共を押し浮べ、矢先を揃えて弓につがえては引きつがえては引きしてさんざんに射る。源氏の兵共はこれを問題にもせず、甲の錣(しころ)を傾け、平家の船に乗り移り乗り移り、わめき叫んで攻め戦う。源平が乱れ合い、或いは船底を踏み割って、舟を沈めて死ぬ者もあり、或いは舟を引き返してあわてふためく者もいる。一日戦い暮して夜になると、平家の舟は沖に浮ぶ。源氏は児島に上がって、人馬を休めた。平家は八島へ漕ぎ退く。源氏は意気が上がり猶も攻めようとするが舟がなかったので、追いかけても攻めては戦わない。「昔から今に至るまで、馬で河を渡る兵はいたといえども、馬で海を渡る者は、天竺、震旦はいざ知らず、わが国ではめったにないことだ」と、備前の児島をこの褒美として佐々木にお与えになった。この事は鎌倉殿の御教書にも載せられたのだった。

語句

■滋目結の直垂 目結(鹿の子絞り)の絹の直垂。鹿の子絞りは絞り染めの一種。 ■白葦毛 白の多い葦毛。葦毛は白い毛に黒などのさし毛のあるもの。 ■鞭鐙をあはせて 鞭で馬の腹を叩き、鐙をあおる(馬の腹を蹴る)こと。馬を全力疾走させるときの動作。 ■くわさき 草脇。草別き。馬の胸前。 ■胸がいづくし 草脇の上。馬の鞅(むながい。胸繋。牛馬の胸にわたす緒)が胸に当たる部分。 ■矢さきをそろへて 合戦場面の常套句。 ■甲の錣をかたむけ 錣は甲の後ろにスカート状に垂れて首を保護する部分。「傾く」はこれをかしげて矢を防ぐ。 ■興 沖に同じ。 ■馬にて河をはたわすつはもの 巻四「橋合戦」に足利又太郎忠綱の馬筏の話がある。 ■御教書 院・摂関・将軍の下し文。

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朗読・解説:左大臣光永

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