平家物語 百五十七 三日平氏(みつかへいじ)

原文

舎人武里(とねりたけさと)も同じくいらむとしけるを、聖(ひじり)とり留(とど)めければ、力およばず。「いかにうたてくも御遺言(ごゆいごん)をばたがへ奉らんとするぞ。下臈(げらふ)こそなほもうたてけれ。今はただ後世(ごせ)をとぶらひ奉れ」と、泣く泣く教訓(けうくん)しけれども、おくれ奉るかなしさに、後(のち)の御孝養(ごけうやう)の事も覚えず、舟底(ふなぞこ)にふしまろび、をめきさけびける有様は、むかし悉達太子(しつだたいし)の壇特山(だんどくせん)に入らせ給ひし時、 車匿舎人(しやのくとねり)がこんでい駒(こま)を給はッて、王宮(わうぐう)にかへりし悲しみも、是(これ)には過ぎじとぞ見えし。しばしは舟をおしまはして、浮きもやあがり給ふと見けれども、三人共に深く沈んで見え給はず。いつしか経(きやう)よみ念仏して、「過去聖霊一仏浄土(くわこしやうりやういちぶつじやうど)へ」と廻向(ゑかう)しけるこそ哀れなれ。

さる程に、夕陽(せきやう)西に傾(かたむ)き、海上(かいしやう)もくらくなりければ、名残(なごり)はつきせず思へども、むなしき舟を漕(こ)ぎかへる。とわたる舟の櫂(かい)のしづく、聖(ひじり)が袖(そで)よりつたふ涙、分きていづれも見えざりけり。聖は高野へかへりのぼる。武里は泣く泣く八島へ参りけり。御弟新三位中将殿(おんおとうとしんざんみのちゆうじやうどの)に御文(おんふみ)取りいだして参らせたりければ、「あな心憂(こころう)。わがたのみ奉る程は、人は思ひ給はざりける口惜しさよ。池の大納言のやうに頼朝(よりとも)に心をかよはして、都へこそおはしたるらめとて、大臣殿(おほいとの)も二位殿(にゐどの)も、我等にも心をおき給ひつるに、されば那智(なち)の興(おき)にて身を投げてましますござんなれ。さらば引具(ひきぐ)して一所(いつしよ)にも沈み給はで、 所々(ところどころ)にふさむ事こそかなしけれ。御詞(おんことば)にて仰せらるる事はなかりしか」と問ひ給へば、「申せと候(さうら)ひしは、『西国(さいこく)にて左(ひだん)の中将殿(ちゆうじやうどの)うせさせ給ひ候ひぬ。一谷(いちのたに)で備中守殿(びつちゆうのかみどの)うたれさせ給ひ候ひぬ。われさへかくなり候ひぬれば、いかにたよりなうおぼしめされ候はんずらんと、それのみこそ心苦しう思ひ参らせ候へ』」。唐皮(からかは)、小烏(こがらす)の事までもこまごまと申したりければ、「今はわれとてもながらふべしとも覚えず」とて、袖をかほにおしあててさめざめと泣き給ふぞ、まことに理(ことわり)と覚えて哀れなる。故三位中将殿(こさんみのちゆうじやうどの)にゆゆしく似給ひたりければ、見る人涙をながしけり。侍共(さむらひども)さしつどひて、只泣くより外の事ぞなき。大臣殿も二位殿も、「此人は池(いけ)の大納言(だいなごん)の様(やう)に頼朝(よりとも)に心をかよはして都へとこそ思ひたれば、さはおはせざりける物」とて、今更なげきかなしみ給ひけり。

四月一日(ひとひのひ)、鎌倉前兵衛佐頼朝正下(かまくらのさきのひやうゑのすけよりともじやうげ)の四位し給ふ。元(もと)は従下(じゆげ)の五位(ごゐ)にてありしに、五階(かい)をこえ給ふこそゆゆしけれ。是(これ)は木曾左馬頭義仲追討(きそのさまのかみよしなかついたう)の賞とぞ聞えし。

同三日(おなじきみつかのひ)、崇徳院(しゆとくゐん)を神とあがめ奉るべしとて、むかし御合戦(ごかつせん)ありし大炊御門(おほひのみかど)が末に、社(やしろ)をたてて宮うつしあり。院の御沙汰(ごさた)にて内裏(だいり)にはしろしめされずとぞ聞えし。

現代語訳

舎人の武里も維盛と同様入水しようとしたが、聖が留めたので、仕方なく舟に残った。「どうして情けなくも御遺言にお背きしようとするのか。下臈はやはり困ったものだ。今はただ維盛殿の後世の菩提を弔い申せ」と、泣く泣く意見を加えたが、お伴できなかった悲しさに、維盛の死後の供養の事も念頭になく、舟底に転がって、おめき叫ぶ有様は、むかし悉達太子(しっだたいし)が壇特山(だんとくさん)にお入りになられた時、車匿舎人(しゃのくとねり)が太子の乗馬「こんでい駒」を賜って、王宮へ帰って行った悲しみも、これには叶うまいと見えた。しばらくは舟をぐるぐる巡らせて、もしかして浮き上がられるかもしれないと海面を見ていたが、三人共に深く沈んでお見えにならない。そのうちに経を読み念仏を唱え、「死んだ人の霊魂が阿弥陀如来の極楽浄土へお生れになるように」と死者の冥福を祈ったのは哀れである。

そうしているうちに、夕日は西に傾き、海上も暗くなってきたので、名残は尽きないように思ったが、三人が欠けた舟を漕いで帰る。瀬戸を渡る舟の櫂(かい)の雫(しずく)と聖の袖から伝わり落ちる涙とが混じり、どちらとも区別がつかない程であった。聖は高野山へ上り帰って行く。武里は泣く泣く八島へ参った。御弟の新三位中将殿に御文を取り出して差し上げたところ、「ああ。情けない。私が頼りにしていたほどには、維盛殿は思われていなかった事の悔しさよ。池の大納言のように頼朝に心を通わせて、都に行かれたのだろうと、大臣殿も二位殿も、我等にも警戒する気持ちを持っておられたが、那智の沖で身を投げておられたのだな。それなら我々も引き連れて同じ所でお沈みにもならず、違った場所場所で倒れるのは悲しい事だ。三位中将が御言葉で言われた事は無かったのか」とお尋ねになると、「申せと言われましたのは、『西国にて左の中将殿(平清経・維盛の弟)が亡くなられました。一の谷では備中守殿がお討たれになりました。自分までもこのようになりましたので、どんなに頼りなく思っておられるだろうかと、それだけを心苦しく思っております』ということです」と武里が申し、唐皮の鎧や小烏の太刀の事までも詳しく申したので、新三位中将は、「今は自分も長生きする気がしない」と言って、袖を顔に押し当ててさめざめと泣かれたのは、まことに道理と思われて哀れである。この方(資盛)は故三位中将殿に良く似ておられたので、見る人は涙を流した。侍共も寄り集まって、只泣くより外はなかった。大臣殿も二位殿も、「この人は池の大納言の様に頼朝に心を通じて都へ行かれたのだと思っていたが、そうはなさらなかったのか」と言って、今更のように歎き悲しまれた。

四月一日、鎌倉前兵衛佐頼朝(かまくらさきのひょうえのすけよりとも)を正下(しょうげ)の四位(しい)になされる。元は従下(じゅげ)の五位(ごい)であられたのに、五段階を越えられたのはたいしたことであった。これは木曽左馬頭義仲を追討した事への賞だということであった。

同月三日、崇徳院(すとくいん)を神として崇め申し上げるべきだと、昔御合戦があった大炊御門(おおいのみかど)の末、春日河原に、社を立てて遷宮が行われた。院の命令で、内裏は御存じなかったという噂であった。

原文

五月四日(よつかのひ)、池の大納言関東へ下向。兵衛佐、「御(おん)かたをば、全くおろかに思ひ参らせ候はず。只故池殿(こいけどの)のわたらせ給ふとこそ存じ候へ。故尼御前(こあまごぜん)の御恩(ごおん)を大納言殿に報じ奉らん」とたびたび誓状(せいじやう)をもッて申されければ、一門をもひきわかれておちとどまり給ひたりけるが、「兵衛佐ばかりこそかうは思はれけれども、自余の源氏共いかがあらむずらん」と肝(きも)たましひを消すより外の事なくておはしけるが、鎌倉より、「故尼御前(こあまごぜん)を見奉ると存じて、とくとく見参(げンざん)に入り候(さうら)はん」と申されたりければ、大納言くだり給ひけり。

弥平兵衛宗清(やへいびやうゑむねきよ)といふ侍あり。相伝専一(そうでんせんいち)の者なりけるが、相具(あひぐ)してもくだらず。「いかに」と問ひ給へば、「今度の御供(おんとも)は仕(つかま)らじと存じ候(さうらふ)。其(その)ゆゑは君こそかくてわたらせ給へども、御一家(ごいつか)の君達(きんだち)の西海(さいかい)の浪(なみ)のうへにただよはせ給ふ御事(おんこと)の心憂(こころう)くおぼえて、未(いま)だ安堵(あんど)しても存じ候はねば、心すこしおとしすゑておツさまに参り候べし」とぞ申しける。大納言にがにがしう恥づかしう思ひ給ひて、「一門をひきわかれてのこりとどまッたる事は、我身ながらいみじとは思はねども、さすが身も捨てがたう命も惜しければ、なまじひにとどまりにき。そのうへは又くだらざるべきにもあらず。はるかの旅におもむくに、いかでか見おくらであるべき。うけず思はば、おちとどまッし時はなどさはいはざッしぞ。大小事一向なんぢにこそいひあはせしか」と宣へば、宗清居(ゐ)なほり畏(かしこま)ッて申しけるは、「たかきもいやしきも、人の身に命ばかり惜しき物や候。又世をばすつれども、身をばすてずと申し候めり。御(おん)とどまりをあしとには候はず。兵衛佐(ひやうゑのすけ)もかひなき命をたすけられ参らせて候へばこそ、今日(けふ)はかかる幸(さいはひ)にもあひ候へ。流罪(るざい)せられ候ひし時は、故尼御前(こあまごぜん)の仰(おほ)せにて、近江(あふみ)の国篠原(しのはら)の宿(しゆく)までうちおくッて候ひき。『其事なンど今に忘れず』と 承り候へば、さだめて御供(おんとも)に罷(まか)りくだりて候はば、引出物(ひきでもの)、饗応(きやうおう)なンどもし候はんずらむ。それにつけても心憂かるべう候。西国にわたらせ給ふ君達、もしは侍共のかへりきかむ事、 返(かえ)す返(がえ)す恥づかしう候へば、まげて今度ばかりはまかりとどまるべう候。君おちとどまらせ給ひて、かくてわたらせ給ふ程では、などか御(おん)くだりなうても候べき。はるかの旅におもむかせ給ふ事は、まことにおぼつかなう思ひ参らせ候へども、敵(かたき)をもせめに御くだり候はば、一陣にこそ候べけれども、是(これ)は参らずとも、更に御事(おんこと)かけ候まじ。兵衛佐たづね申され候はば、『あひ労(いたは)る事あッて』と仰せ候べし」と申しければ、心ある侍共は是を聞いて、みな涙をぞながしける。大納言もさすが恥づかしうは思はれけれども、さればとてとどまるべきにもあらねば、やがてたち給ひぬ。

現代語訳

五月四日、池の大納言関東へ下向。対面した兵衛佐は、「貴方を全くおろそかに思ってはおりません。只亡くなられた池殿(池の禅尼)がお出でになるのだと存じます。故池殿の御恩を大納言殿にお報い申しましょう」とたびたび誓約した書状をもって申し送られたので、平家一門の人々とも別れて都落ちせず都に残っておられた。「兵衛佐殿だけはこのように思っておられたが、他の源氏の者共はどのように思っていることやら」と恐れおののき生きた心地もなく過ごすより外にする事も無くしておられたが、鎌倉から「故尼御前にお会いできると思って、早くお目にかかりたいものです」と申して来られたので、大納言はお下りになったのであった。

池の大納言の所に弥平兵衛宗清(やへいひょうえむねきよ)という侍がいた。先祖代々仕える家臣で第一の忠義の者だったが、お供して下ろうともしない。「どうしてだ」と大納言がお尋ねになると、「今度の御供はいたすまいと存じます。その訳は君はこのようにお渡りになられますが、平家御一家の君達が西海の波の上で漂われておられる事が残念で、まだ落ち着いた気分にもなれませんので、心を少し落ち着かせてからおっつけ参りましょう」と申した。大納言は苦々しく恥ずかしくお思いになって、「一門の人々と別れて都に残った事は、自分の事ながらりっぱだとは思わないが、それでも身も捨てられず命も惜しいので中途半端に留まったのだ。残った以上又下らないという訳にもいかない。私が遥かな旅に赴くのにどうして見送らないでいられるのか。不承知に思うなら、私が都落ちもしないで都に留まった時は何故そうは言わなかったのだ。大事も小事も全てお前に相談してきたのだ」と言われると、宗清が居直り畏まって申したことには、「身分の高い人も低い人も、人の身であれば命ばかりは惜しい物でございます。又世を捨てても身を捨ててはならぬと申すようです。都に御留まり為されたことを悪いと申すのではありません。。兵衛佐も生き甲斐の無い命を助けられておりますからこそ、今日はこのような幸いにも会ったのでございます。頼朝殿が流罪に処せられました時は、故尼御前の御指示で、近江の国篠原の宿迄送って行きました。頼朝殿が、『その事等をいまだに忘れていない』とお聞きしましたので、きっと御供として下りましたなら、引出物、饗応などもなさるのではないでしょうか。それにつけても私にとっては情けないのでございます。このことを西国へ赴かれた君達や侍共が人伝に聞かれると思いますと、返す返す気恥ずかしゅうございますので是非今度ばかりは都に留まりとう存じます。君は都に残留なさってこうしておられるからには、どうしてお下りにならないでよいでしょう。遥かな旅路に赴かれる事は、真に気がかりには思いますが、敵を攻めに御下りになるのなら、同じ陣でお仕えするべきですが、今度の場合は私が同行しなくても全く不自由をお掛けする事はないでしょう。兵衛佐殿が私の事をお尋ねになったら『病を患っておりまして』とおっしゃってください」と申したところ、宗清の気持ちがわかる侍共はこれを聞いて、皆涙を流した。大納言もさすがに気恥ずかしゅうは思われたが、だからといって留まるわけにもいかず、やがて出発なさった。

原文

同(おなじき)十六日、鎌倉へ下りつき給ふ。兵衛佐いそぎ見参して、まづ、「宗清は御供(おんとも)して候か」と申されければ、「折ふし労(いたは)る事候ひてくだり候はず」と宣(のたま)へば、「いかに、何をいたはり候ひけるやらむ。意趣(いしゆ)を存じ候にこそ。むかし宗清がもとに候ひしに、事にふれてありがたうあたり候ひし事、今に忘れ候はねば、さだめて御供に罷下(まかりくだ)り候はむずらん、とく見参(げンざん)せばやなンどこひしう存じて候に、うらめしうもくだり候はぬものかな」とて、下文(くだしぶみ)あまたなしまうけ、馬、鞍(くら)、物具以下(もののぐいげ)、 やうやうの物共たばむとせられければ、しかるべき大名(だいみやう)共、われもわれもと引出物(ひきでもの)共用意したりけるに、くだらざりければ、 上下本意(ほい)なき事に思ひてぞありける。

六月九日(ここのかのひ)、池の大納言関東より上洛(しやうらく)し給ふ。兵衛佐、「しばらくかくておはしませかし」と申されけれども、「都におぼつかなく思ふらん」とて、いそぎのぼり給ひければ、庄園(しやうゑん)、私領一所(しりやういつしよ)も相違あるべからず、並びに大納言になしかへさるべきよし、法皇へ申されけり。鞍置馬卅疋(くらおきうまさんじつぴき)、はだか馬卅疋、長持卅枝(ながもちさんじふえだ)に、羽金、染物(そめもの)、巻絹風情(かんぎぬふぜい)の物をいれて奉り給ふ。兵衛佐かやうにもてなし給へば、大名小名(だいみやうせうみやう)われもわれもと引出物を奉る。馬だにも三百疋に及ベり。命いき給ふのみならず、徳(とく)ついてぞ帰りのぼられける。

同(おなじき)十八日、肥後守貞能(ひごのかみさだよし)が伯父平田入道定次(をぢひらたのにふだうさだつぐ)を大将として、 伊賀、伊勢両国の住人等(ら)、近江国(あふみのくに)へうち出でたりければ、源氏の末葉等発向(ばつえふらはつかう)して合戦(かつせん)をいたす。両国の住人等(ら)一人ものこらずうちおとさる。平家重代相伝(ぢゆううだいそうでん)の家人(けにん)にて、昔のよしみを忘れぬ事は哀れなれども、思ひたつこそおほけなけれ。三日平氏(みつかへいじ)とは是(これ)なり。

さる程に、小松の三位中将維盛卿(さんみのちゆうじやうこれもりのきやう)の北の方は、風のたよりの事(こと)つても、たえて久しくなりければ、何(なに)となりぬる事やらむと、心苦しうぞ思はれける。月に一度なンどは必ず音づるる物をと待ち給へども、春過ぎ夏もたけぬ。「三位中将、今は八島にもおはせぬ物をと申す人あり」と聞き給ひて、あまりのおぼつかなさに、とかくして八島へ人を奉り給ひたりければ、いそぎも立ちかへらず。夏過ぎ秋にもなりぬ。七月の末にかの使(つかひ)かへりきたれり。北の方、「さていかにゃいかに」と問ひ給へば、「『過ぎ候ひし三月十五日の暁、八島を御(おん)出で候ひて、高野(かうや)へ参らせ給ひて候ひけるが、高野にて御(おん)ぐしおろし、それより熊野へ参らせおはしまし、後世(ごせ)の事をよくよく申させ給ひ、那智(なち)の興(おき)にて御身(おんみ)を投げさせ給ひて候』 とこそ、御供(おんとも)申したりける舎人武里(とねりたけさと)はかたり申し候ひつれ」と申しければ、北の方、「さればこそ。あやしと思ひつる物を」とて、引きかづいてぞふし給ふ。若君(わかぎみ)、姫君(ひめぎみ)も声々に泣きかなしみ給ひけり。若君の御(おん)めのとの女房泣く泣く申しけるは、「是は今更おどろかせ給ふべからず。日来(ひごろ)よりおぼしめしまうけたる御事(おんこと)なり。本三位中将殿(ほんざんみのちゆうじやうどの)のやうに生取(いけどり)にせられて、都へかへらせ給ひたらば、いかばかり心憂(こころう)かるべきに、高野にて御ぐしおろし、熊野へ参らせ給ひ、後世の事よくよく申させおはしまし、臨終正念(りんじゆうしやうねん)にてうせさせ給ひける御事(おんこと)、歎(なげき)の中の御(おん)よろこびなり。されば御心(おんこころ)やすき事にこそおぱしめすべけれ。今はいかなる岩木のはざまにても、をさなき人々をおほしたて参らせんと思召(おぼしめ)せ」と、やうやうになぐさめ申しけれども、思食(おぼしめ)ししのびて、ながらふべしとも見え給はず。やがて様(さま)をかへ、かたのごとくの仏事をいとなみ、後世をぞとぶらひ給ひける。

現代語訳

同月十六日、大納言は鎌倉へお着きになられる。兵衛佐はすぐに対面して、まず、「宗清はお供しておりますか」と申されたので、大納言が、「あいにく病気にかかっておりまして下って来てはおりません」と言われると、「どうして、何を患っているのであろう。これまでの行きがかりを思うのですな。昔、宗清の所におりました際に、事あるごとにめったにないほどよく応接してくれた事、今も忘れる事はできないが、きっとお伴に下ってくるだろう、すぐに対面しなくてはと恋しく思っていたのに、下って来ないのは恨めしい事だ」と言って、下文(くだしぶみ)をたくさん準備し、馬、鞍、武具以下、様々の物などをお与えになろうとなさっていたので、名のある源氏の大名共が、我も我もと引出物を用意していたのだが、宗清が下って来なかったので、みな残念に思っていた。

六月九日、池の大納言が関東から上京なさる。兵衛佐が、「しばらくこうしていらっしゃい」と申されたが、「都で心配に思うだろう」と、急いで上京なさったので、池の大納言の庄園や私領地を一カ所も変更を加えてはならないこと、また元の大納言に為されるようにという旨を後白河法皇に申し送られた。そして鞍置馬三十頭、裸馬三十頭、長持三十個に砂金、染物、巻絹風情の物を入れて献上なさる。兵衛佐がこのようにもてなし申されたので、大名小名も我も我もと引出物をさしあげる。馬でさえも三百頭に及んだ。池の大納言は、命が助かっただけでなく、富を増やして帰京されたのだった。

同月十八日、肥後守貞能(さだよし)の伯父平田入道定次(ひらたのにゅうどうさだつぐ)を大将として、伊賀、伊勢両国の住人等が近江国(おうみのくに)へ出陣したので、源氏の末裔等が出陣して合戦をする。両国の住人等は一人残らず討ち落された。平家代々の家臣なので、昔のよしみを忘れないのは哀れではあるが、思い立つのは身分不相応である。三日平氏(みっかへいし)とはこの事である。

さて小松の三位中将維盛卿の北の方は、風の便りの言伝も、絶えて長くなったので、どうしたことだろうと、心苦しく思われていた。月に一度などは必ず便りがあるものとお待ちになっていたが、春も過ぎ夏も盛りを過ぎた。「三位中将、今は八島にいらっしゃらないものをという人がいる」ということをお聞きになって、あまりの心細さに、やっとのことで八島へ人を差し向けられたが、使いは急にも立ち帰っても来ない。夏も過ぎ秋になってしまった。七月の末にその使いの者が帰って来た。北の方は、「さてどうでした、どうでした」とお尋ねになると、「『維盛卿は、少し前の三月十五日の暁に、八島をお出になり、高野へ行かれたそうですが、高野で御髪(おぐし)をおろし、それから熊野へ行かれまして、後世の事をよくよく申されて、那智の沖にて御身を投げられたそうでございます』と、御供申しておりました舎人の武里が語りました」と申したので、北の方は、「はたしてそうだった。最近便りが無いのは変だと思っていたのに」と言って、衣を引き被って泣き伏しておられる。若君、姫君もそれぞれに声を上げて泣き悲しまれた。若君の御乳母の女房が泣く泣く申したことには、「この事で今更驚かれてはなりません。日頃から北の方がお覚悟なさっていたことなのです。本三位中将殿のように生け捕りにされて、都へお帰りになったなら、どれほど嫌な思いをされたことでしょうに、高野で御髪を下し、熊野へ行かれて、後世の事をよくよく懇願申されて、臨終にも安らかな心で亡くなられた事は歎きの中の喜びでございます。ですから貴方様は御心安く思われるべきでしょう。今はどんな山間の辺鄙な所ででも、幼い方々をお育て申そうとお覚悟下さい」と、様々にお慰め申したが、御心の中で亡父維盛のことを追慕して、生きながらえようともお見えにならない。すぐに髪を下して尼になり、型通りに仏事を行い、維盛の後世をお弔いになっておられた。

朗読・解説:左大臣光永