平家物語 百五十九 大嘗会之沙汰(だいじやうゑのさた)

原文

同(おなじき)廿七日、都には九郎判官義経(くらうはうぐわんよしつね)、検非違使五位尉(けびゐしごゐのじよう)になされて、九郎大夫判官(くらうたいふはうぐわん)とぞ申しける。さる程に十月にもなりぬ。八島には浦(うら)吹く風もはげしく、磯(いそ)うつ浪(なみ)もたかかりければ、兵者(つはもの)もせめ来らず。商客(しやうかく)のゆきかふもまれなれば、都のつても聞かまほしく、いつしか空かきくもり霰(あられ)うち散り、いとどきえ入る心地ぞし給ひける。都には大嘗会あるべしとて、御禊(ごけい)の行幸(ぎやうがう)ありけり。節下(せつげ)は徳大寺左大将実定公(とくだいじのさだいしやうしつていこう)、其比内大臣(そのころないだいじん)にておはしけるが、つとめられけり。去々(をととし)先帝の御禊(ごけい)の行幸には、平家の内大臣宗盛公節下(むねもりこうせつげ)にておはせしが、節下の幄屋(あくや)につき、前に竜(りよう)の旗(はた)たててゐ給ひたりし景気(けいき)、冠(かぶり)ぎは、袖のかかり、表袴(うへのはかま)の裾(すそ)までもことにすぐれて見え給へり。其外(そのほか)一 門の人々、三位中将知盛(さんみのちゆうじやうとももり)、頭(とう)の中将重衡以下(ちゆうじやうしげひらいげ)、近衛(こんゑ)づかさ、御綱(みつな)に候(さうら)はれしには、又立ちならぶ人もなかりしぞかし。今日(けふ)は九郎判官先陣に供奉す。木曾なンどのは似ず、以ての外に京なれてありしかども、平家の中のえりくづよりもなほおとれり。

同(おなじき)十一月十八日、大嘗会とげおこなはる。去(さんぬ)る治承(ぢしよう)、養和(やうわ)の比(ころ)より、諸国七道の人民百姓等(にんみんひやくしやうら)、源氏のためになやまされ、平家のためにほろぼされ、家(いへ)かまどを捨てて山林にまじはり、春は東作(とうさく)の思(おもひ)を忘れ、秋は西収(せいじゆ)のいとなみにも及ばず。いかにしてか様(やう)の大礼(たいれい)もおこなはるべきなれども、さてしもあるべき事ならねば、かたのごとくぞとげられける。

参河守範頼(みかはのかみのりより)、やがてつづいてせめ給はば、平家はほろぶベかりしに、室(むろ)、高砂(たかさご)にやすらひて、遊君遊女共(いうくんいうぢよども)召しあつめ、あそびたはぶれてのみ月日をおくられけり。東国(とうごく)の大名小名(だいみやうせうみやう)おほしといへども、大将軍の下知(げぢ)にしたがふ事なれば、力及ばず。只国のつひえ、民のわづらひのみあッて、今年もすでに暮にけり。

現代語訳

同月二十七日、都では九郎判官義経が検非違使・五位尉に任ぜられて、九郎大夫判官と申した。そうこうしているうちに十月にもなった。八島では海辺を吹く風も激しく、磯に寄せる波も高かったので、軍兵も攻めてこない。商人の往来も希になり、都の便りもなかなか聞けず、いつしか空はかき曇り霰が散って、いっそう落ち込み沈みこんだ心地がなさった。都では大嘗会(だいじょうえ)が行われるというので、御禊(ごけい)の行幸があった。節下(せつげ)を司る大臣は徳大寺左大将実定公(しっていこう)が、その頃は内大臣でおられたが、勤められた。一昨年の先帝(安徳天皇)の御禊の行幸には、平家の内大臣宗盛公が節下を勤められたが、節下の幕屋に着き、前に竜の旗を立てて座っておられた。その様子、冠の被り具合、袖の様子、表袴の裾までも、特に勝れてお見えであった。そのほか平家一門の人々、三位中将知盛、頭の中将重衡以下、近衛府の官人が御綱の役人として祗候(しこう)されたが、又それに肩を並べる人もなかったことだ。今日は九郎判官義経がお伴をする。木曾などには似ず、思いの外都慣れしておられたが、平家の中の選屑(えりくず)よりもやはり劣っている。

同年十一月十八日、大嘗会が催される。先の治承、養和の頃から、諸国七道の人民百姓等が源氏の為に悩まされ、平家の為に滅ぼされ、家や竈を捨てて山林に隠れ住み、春は耕作することを忘れ、秋にはそれを収穫することもしない。どうしてこんな大礼を行われねばならないのだろう。そんな事をすべきではないのだが、そのまま過ごすわけにもいかないので型通りに行われたのであった。

三河の範頼がすぐに続いて攻められると、平家は滅ぶはずだったが、室や高砂で休んでおり、遊君遊女を呼び集め、遊び戯れて月日を送っておられた。東国の大名小名は大勢いたが、大将軍の下知に従う事なので、なんとも仕方がない。ただ国費の無駄遣いと民の苦しみだけがあって、今年もすでに暮れてしまった。

朗読・解説:左大臣光永

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