養和の飢饉

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原文

また、養和のころとか、久しくなりて覚えず。二年(ふたとせ)があひだ、世の中飢渇(けかつ)して、あさましき事侍りき。或は春夏ひでり、或は秋大風、洪水(おおみず)など、よからぬ事どもうちつづきて、五穀ことごとくならず。夏植うるいとなみありて、秋刈り、冬収むるぞめきはなし。これによりて、国々の民、或は地をすてて境を出で、或は家を忘れて山に住む。さまざまの御祈りはじまりて、なべてならぬ法ども行わるれど、さらにそのしるしなし。

京のならひ、何わざにつけても、みなもとは田舎をこそ頼めるに、絶えて上るものなければ、さのみやは操もつくりあへん。念じわびつつ、さまざまの財物かたはしより捨つるがごとくすればも、さらに目見立つる人なし。たまたま換ふるものは、金(こがね)を軽(かろ)くし、粟(ぞく)を重くす。乞食(こつじき)、路のほとりに多く、憂へ悲しむ声耳に満てり。前の年、かくのごとく、からうじて暮れぬ。あくる年は、立ち直るべきかと思ふほどに、あまりさへ、疫癘(えきれい)うちそひて、まさざまに、あとかたなし。

世人みなけいしぬれば、日を経つつきはまりゆくさま、少水(しょうすい)の魚(いお)のたとへにかなへり。はてには笠うち着、足ひきつつみ、よろしき姿したる者、ひたすらに家ごとに乞ひ歩く。かくわびしれたるものどもの、歩くかと見れば、すなはち倒れ伏しぬ。築地のつら、道のほとりに、飢ゑ死ぬる者のたぐひ、数も知らず、取り捨つるわざも知らねば、くさき香(か)世界に満ち満ちて、変りゆくかたちありさま、目もあてられぬ事多かり。いはむや、河原などには、馬車(むまくるま)の行き交ふ道だになし。

あやしき賤山(しづやま)がつも、力尽きて、薪さへ乏(とも)しくなりゆけば、頼むかたなき人は、自らいが家をこぼちて、市に出でて売る。一人が持ちて出でたる価(あたひ)、一日(ひとひ)が命だに及ばずとぞ。あやしき事は、薪の中に赤き丹(に)着き、箔など所々に見ゆる木、あひまじはりけるを、たづぬれば、すべきかたなき者、古寺に至りて仏を盗み、堂のものの具を破り取りて、割り砕けるなりけり。濁悪世にしも生れ合ひて、かかる心憂きわざをなん見侍りし。

いとあはれなる事も侍りき。さりがたき妻(め)をとこ持ちたる者は、その思ひまさりて深き者、必ず、先立ちて死ぬ。その故は、わが身は次にして、人をいたはしく思ふあひだに、稀々得たる食ひ物をも、かれに譲るによりてなり。されば、親子ある者は、定まれる事にて、親ぞ先立ちける。また、母の命尽きたるを知らずして、いとけなき子のなほ乳(ち)を吸ひつつ臥せるなどもありけり。

仁和寺に隆暁法印といふ人、かくしつつ数も知らず、死ぬる事を惜しみて、その首の見ゆるごとに額に阿字(あじ)を書きて、縁を結ばしむるわざをなんせられける。人数を知らむとて、四五両月を数へたりければ、京のうち一条よりは南、九条より北、京極よりは西、朱雀よりは東の路のほとりなる頭(かしら)、すべて四万二千三百余りなんありける。いはむや、その前後に死ぬる者多く、また、河原、白河、西の京、もろもろの辺地(へんち)などを加へていはば、際限もあるべからず。いかにいはむや、七道諸国をや。崇徳院の御位(みくらい)の時、長承(ちょうじょう)のころとか、かかるためしありけりと聞けど、その世のありさまは知らず、まのあたりめづらかなりし事なり。

現代語訳

また、養和のことだったか、遠い昔のことになってしまったので覚えていない。二年の間、世の中が飢餓状態で、ひどい状態になったことがあった。あるいは春夏日照り、あるいは秋に大風が吹き洪水が襲い、悪いことばかり続いて、穀物はまるで実らなかった。

夏に田植えをしても秋に収穫できず冬に蓄えることもできないのだ。これによって国々の民はあるいは家を捨てて国境を出て、或いは家を忘れて山に住んだ。朝廷ではさまざまの御祈祷がはじまり、並々ならぬ祈りが行われたが、まったくその効果はなかった。

京の習慣は、とにかく何をするにも、みな田舎から上がってくる米を頼みにしているのに、それが絶えてしまったのであるから、そう世間体ばかり作ってもいられない。早くよくなればいいがと心の中で願いつつ、さまざまの価値ある家財を捨て値で売ろうとするが、誰も見向きもしない。

たまたま交換できたとしても、家財よりも食料のほうが高く売れるくらいだ。乞食が道のほとりに多く、嘆き悲しむ声が耳に満ちる。前の年(養和元年)はこのように、かろうじて暮れた。

あくる年は立ち直るだろうかと思っていると、もっと酷いことになってしまった。飢饉に疫病が加わり、もう最悪だ。いっこうによくなりそうな兆しは無い。

世間の人がみな閂をかけて門を閉ざしてしまったので、日が経つにしたがって変わっていく様子は、「少水の魚」…水が少ないので魚が死ぬという例えそのものだった。

しまいには笠を着て、足を着物で覆って、それなりの格好をしていた者も、ひたすら家々に物乞してまわるようになった。

このように落ちぶれ果てた者どもが、歩くかと見れば、すぐに倒れ伏す。築地の所、道のほとりに、飢え死んだ者どもの死体が無数にあった。

取り捨てる方法も無いので、悪臭があたりに満ち満ちて、腐乱している様子は、目もあてられない事が多かった。まして河原などには、馬や牛車の行き交う道すらなかった。

身分賤しき者や木こりも、力尽きて、薪さえ乏しくなっていくと、頼れる相手がいない 人は、自分の家を壊して、市に出て売る。

一人が持って出たものについた値段は、その人が一日暮らす生活費にも満たないという。奇妙なことは、薪の中に赤い丹がつき箔などが所々に見える木が、交っているのを、尋ねると、どうしようもなくなった者が、古寺に入って仏像を盗み、堂の仏具を壊して、割り砕いたのだという。

こんな悪い末法の世に生まれ合わせて、このようないやことを見ることになったのだ。

ひどく哀れなこともあった。捨て去ることのできない妻・夫持っている者は、その思いがまさって深い者が必ず先立ちて死んだ。その理由は、わが身は次にして、相手をいたわしく思っている間に、たまに得た食糧をも、相手に譲るためである。なので、親子連れは当然のこととして、親が先だった。また、母の命が尽きたことを知らずに幼い子がなお乳を吸いつつ臥している姿などもあった。

仁和寺に隆暁法印という人が、このようにしつつ無数に死ぬ事を惜しんで、その首が見えるごとに額に阿字を書いて仏縁を結ばせるわざをされた。

人数を知ろうとして、四月五月両月を数えると、京のうち一条より南、九条より北、京極より西、朱雀より東の路のほとりにある頭、すべて四万二千三百余りあったという。

まして、その前後に死ぬ者は多く、また、鴨川の河原、白河、西の京、いろいろな郊外などを加えていえば、際限も無いだろう。まして畿外の諸国をあわせると、大変なことだろう。

崇徳院が御位にあった時、長承年間だとか、このような例があったと聞くが、その時代の様子は知らないが、今の世のことは、私が目の当りにしたことである。

語句

■養和 養和元年(1181年)7月14日から翌5月27日まで、飢饉が続いたため「寿永」と改元。 ■五穀 米・粟・麦・黍・豆。食料。

■ならひ 風俗。習慣。 ■何わざにつけても 何をするにも。 ■操をつくる 世間体をとりつくろう。 ■念じわぶ 願う。 ■あまりさへ あまつさえ。そうでなくても酷いのにさらに酷いことになった。 ■まさざま いっそう程度がひどい。 ■あとかたなし 立ち直った形跡は無い。

■けいしぬれば 不明。家に閂をかけて閉ざしてしまったので、と見る説が有力。 ■少水の魚 「是の日已に過ぐれば、命則ち衰滅す。少水の魚の如し」(往生要集) ■ひきつつみ 足を着物でくるんで ■ひたすらに もっぱら。一途に。 ■築地 ついひぢ。生垣。柱を立て、泥で塗り固め、屋根を葺いた垣根。古くは土を盛り上げただけの素朴なものだった。 ■たぐひ 同様な物事。

■あやしき賤 身分いやしき者 ■山がつ 木こり ■濁悪世 『法華経』にある言葉。末法の悪い時代。 ■しも 強調。副助詞「し」+係助詞「も」が一体化したもの。 ■ものの具 仏具。

■さりがたき 去り難き。もしくは避り難き。ようは大切で、見捨てて行くことができない相手のこと。 ■いとけなき 幼けなき。幼い。

■阿字 梵語五十字の第一字で、密教では特に貴ぶ。 ■河原 鴨川の河原。六条河原や四条河原。 ■白河 祇園のあたり。 ■西の京 山陰本線が北上して西に折れるあたり。二条城の西。

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解説:左大臣光永

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