平家物語 百八 維盛都落(これもりのみやこらく)

原文

平家の侍越中次郎兵衛盛嗣(ゑつちゆうのじらうびやうゑもりつぎ)、是(これ)を承っておひとどめ参らせむと頻(しき)りにすすみけるが、人々に制せられてとどまりけり。

小松三位中将維盛(こまつのさんみのちゆうじやうこれもり)は、日比(ひごろ)よりおぼしめしまうけられたりけれども、さしあたッてはかなしかりけり。北の方と申すは、故中御門新大納言成親卿(こなかのみかどのしんだいなごんなりちかのきやう)の御娘(むすめ)なり。桃顔(たうがん)露にほころび、紅粉眼(こうふんまなこ)に媚(こび)をなし、柳髪(りうはつ)風に乱るるよそほひ、又人あるベしとも見え給はず。六代御前(ろくだいごぜん)とて、生年十(しやうねんとを)になり給ふ若公(わかぎみ)、その妹(いもと)八歳の姫(ひめ)君(ぎみ)おはしけり。此(この)人々皆おくれじとしたひ給ヘば、三位中将宣(のたま)ひけるは、「日比(ひごろ)申しし様に、われは一門に具して西国(さいこく)の方へ落ち行くなり。いづくまでも具し奉るべけれども、道にも敵(かたき)待つなれば、心やすうとほらん事もありがたし。たとひわれうたれたりと聞き給ふとも、様(さま)なンどかへ給ふ事はゆめゆめあるべからず。そのゆゑは、いかならん 人にも見えて、身をもたすけ、をさなき者共をもはぐくみ給 ふべし。情(なさけ)をかくる人もなどかなかるべき」とやうやうになぐさめ給へども、北の方とかうの返事もし給はず、ひきかづきてぞふし給ふ。すでにうッたたんとし給へば、袖(そで)にすがッて、「都には父もなし、母もなし。捨てられ参らせて後、又誰(たれ)にかはみゆべきに、いかならん人にも見えよなンど承るこそうらめしけれ。前世(ぜんぜ)の契(ちぎり)ありければ、人こそ憐(あはれ)み給ふとも、人ごとにしもや情(なさけ)をかくべき。いづくまでもともなひ奉り、 同じ野原(のばら)の露とも消え、一つ底の水屑(みくず)ともならんとこそ契りしに、さればさ夜(よ)の寝覚(ねざめ)のむつごとは皆偽(いつはり)になりにけり。
せめては身一つならばいかがせん、捨てられ奉る身のうさを思ひ知ッてもとどまりなん。をさなき者共をば、誰にみゆづり、いかにせよとかおぼしめす。うらめしうもとどめ給ふ物かな」と、且つうはうらみ且つうはしたひ給へば、三位中将宣(のたま)ひけるは、「誠に人は十三、われは十五より見そめ奉り、水のなか水の底へも共にいり、共に沈み、限(かぎり)ある別路(わかれぢ)までもおくれ先だたじとこそ申ししかども、かく心うき有様にていくさの陣へおもむけば、具足し奉り、ゆくゑも知らぬ旅の空にてうき目を見せ奉らんもうたてかるべし。其上(そのうへ)今度は用意も候(さうら)はず。いづくの浦にも心やすう落ちついたらば、それよりしてこそ迎(むかへ)に人をも奉らめ」とて、思ひきッてぞたたれける。中門(ちゆうもん)の廊(ろう)に出でて、鎧(よろひ)とッて着(き)、馬ひき寄せさせ、既に乗らんとし給へば、若公、姫君はしり出でて、父の鎧の袖、草摺(くさずり)に取りつき、「是(これ)はさればいづちへとて、わたらせ給ふぞ。我も参らん、われもゆかん」と面々(めんめん)にしたひ泣き給ふにぞ、うき世のきづなとおぼえて、三位中将いとどせんかたなげには見えられける。
さる程に、御弟新三位中将資盛卿(おんおとうとしんざんみのちゆうじやうすけもりのきやう)、左中将清経(さちゆうじやうきよつね)、同(おなじき) 少将有盛(せうしやうありもり)、丹後侍従忠房(たんごのじじゆうただふさ)、備中守師盛(びつちゆうのかみもろもり)、兄弟五騎、乗りながら門のうちへ打入り、庭にひかへて、「行幸は遥かにのびさせ給ひぬらん。いかにや今まで」と声々に申されければ 、三位中将馬にうち乗ッて出で給ふが、猶ひッかへし、縁のきはへうち寄せて、弓の弭(はず)で御簾(みす)をざッとかきあげ、「是(これ)御覧ぜよ、おのおの。をさなき者共があまりにしたひ候(さうらふ)を、とかうこしらへおかんと仕るほどに、存(ぞん)の外(ほか)の遅参(ちさん)」と宣(のたま)ひもあへず泣かれければ、庭にひかへ給へる人々、皆鎧(よろひ)の袖(そで)をぞぬらされける。

ここに斎藤五(さいとうご)、斎藤六(さいとうろく)とて、兄は十九、弟(おとと)は十七になる侍(さぶらひ)あり。三位中将の御馬の左右(さう)のみづつきにとりつき、いづくまでも御供(おんとも)仕るべき由申せば、三位中将宣ひけるは、「おのれらが父斎藤(さいとう)別当(べつたう)北国へくだッし時、汝等(なんぢら)が頻(しき)りに供せうどいひしかども、『存ずるむねがあるぞ』とて、汝等をとどめおき、北国へくだッて遂(つひ)に討死(うちじに)したりけるは、かかるベかりける事を、ふるい者でかねて知りたりけるにこそ。あの六代をとどめて行くに、心やすう扶持(ふち)すべき者のなきぞ。ただ理をまげてとどまれ」と宣へば、力およばず涙をおさへてとどまりぬ。北の方は、「としごろ日比(ひごろ)是程情(なさけ)なかりける人とこそ兼ねても思はざりしか」とて、ふしまろびてぞ泣かれける。若公、姫君、女房達は、御簾(みす)の外(ほか)までまろび出でて 人の聞くをもはばからず、声をはかりにぞをめきさけび給ひける。此(この)声々耳の底にとどまッて、西海のたつ浪(なみ)のうへ、吹く風の音までも聞く様にこそ思はれけめ。

平家都を落ち行くに、六波羅(ろくはら)、池(いけ)殿(どの)、小松殿、八条(はつでう)、西八条以下(にしはちでういげ)、一門の卿相雲客(けいしやううんかく)の家々廿余ケ所、付々(つきづき)の輩(やから)の宿所(しゆくしよ)宿所(じゆくしよ)、京白河(しらかは)に四五万間(しごまんげん)の在家(ざいけ)、一度に火をかけて皆焼き払ふ。

現代語訳

平家の侍越中次郎兵衛盛嗣(えっちゅうのじろうびょうえもりつぎ)は、摂政殿が御車を引き返されたのを聞いて、追い留め参らせようと頻りに気負い立ったが、人々に制止されて思い留まった。

小松三位中将維盛は、以前から覚悟はなさっていたが、いざその事態に直面すると悲しかった。北の方と申す人は故中御門新大納言成親卿(なかのみかどのしんだいなごんなりちかきょう)の御娘である。桃の花が露を含んで咲き始めたようなお顔、紅、白粉(おしろい)で化粧した頬、眼(まなこ)には媚びを宿し、柳のように長い髪が風に乱れる装い、その美貌は他に並ぶ者は無いように思われた。そのお子として、六代御前という、生年十(とお)におなりになる若君、その妹八歳の姫君がおられた。この人々が皆遅れまいと慕われたので、三位中将が言われた。「以前から申していたように、私は一門と一所に西国へ落ちて行くのだ。どこまでもお連れしなければならないのだが、道中の道にも敵が待ち伏せしているので、安全に通れない事もある。たとえ私が討たれたと聞いても、尼になったりすることがあってはならぬ。その理由は、貴方が望むならどのような人とでも一緒になって、身を助け、幼い者たち育ててほしいからだ。情けをかける人もどうしてない事があろう」とだんだんにお慰めになるが、北の方はとかくの返事もなさらないで、衣を引き被って泣き伏しておられる。もはやお立ちになろうとすると、袖にすがって、「都には父もおりませんし、母もおりません。貴方に捨てられた後、又どなたかと一緒になるべきでしょうが、どのような人でも貴方の好きな人と一緒になれとおっしゃることが怨めしゅうございます。貴方とは前世からの宿縁があったからこそ、人は憐んでくださいますが、違う人が情けをかけてくれるでしょうか。何処へなりとも同行し、同じ野原で命を落し、同じ水底に沈もうと約束しましたのに、それでは夜の寝覚めの睦言は皆嘘になってしまいました。
せめて私一人ならば仕方がありません。捨てられる身の哀れを思い知ったとしても都に留まりましょう。しかし、幼い者たちの面倒を見る事を誰に任せ、どうせよとお考えなのか。私をここに留められるのは恨めしいことですよ」と、一方では恨み、一方では慕われるので、三位中将は次のようにおっしゃった。「本当に貴方は十三、私は十五の時から連れ添い申して、火の中、水の底へも共に入り、共に沈み、限りある命の分かれ路においても遅れず、先立たずと申しましたが、こんな辛い気持ちのままで戦の陣に赴いて、お供をして行方もわからない旅の空で悲しい目に逢わせるのも辛い事です。そのうえ今度は用意もしておらず、何処の浦でも安心して落ち着いたならば、それから迎の人をさしあげましょう」といって、思い切って出立された。中門の廊に出て、鎧を取って着、馬を引き寄せさせ、既に乗ろうとなさると、若君と姫君は走り出て、父の鎧の袖、草摺に取りついて、「これはまあ何処へいらっしゃるのです。私も参ります。私も行きます」と面々に後を慕ってお泣きになるので、これを断ち難い浮世の絆と思われて、三位中将は大変仕方なさそうな様子に見えた。
そうしているうちに弟の新三位中将資盛卿(しんさんみのちゅうじょうすけもりのきょう)、左中将清経(さちゅうじょうきよつね)、同少将有盛(しょうしょうありもり)、丹後侍従忠房(たんごのじじゅうただふさ)、備中守師盛(びつちゅうのかみもろもり)の兄弟五人は、乗りながら門の中へ入り、庭に控えて、「行幸がたいへんに遅くなります。どうして今まで出立なさらないのか」と口々に申されたので、三位中将は馬に乗って出られたが、又引き返し、縁の際に馬を寄せて、弓の弭(はず)で御簾をざっとかき上げ、「これを御覧ください。おのおの方。幼い者共があまりにも跡を慕いますので、あれこれと慰めようとしておりましたので、思いがけず遅くなりました」とおっしゃり、こらえきれずにお泣きになると、庭に控えていた人々は、皆鎧の袖を濡らされた。

ここに斎藤五、斎藤六といって、兄は十九、弟は十七になる侍がある。三位中将の御馬の左右のみずきに取り付いて、どこまでも御供つかまつりますと申すと、三位中将が次のように言われた。「己等の父の斎藤別当が北国へ下った時、汝等が頻りに供をすると言ったが、「思う事がある」と言って、汝等を留め置いて、北国へ下って遂に討死してしまったのは、平家の力が衰えてこのように都を離れなければならない事がある事を、経験豊富で思慮深い老人である故に、以前からわかっていたからだ。あの六代を留め置いて行くのに、安心してその育成を任せられる者はいない。ただ理をまげて留まれ」と言われると、どうしようもなく涙を押えて留まった。北の方は、「いつもは是程に情の無い人であったとは思わなかったものを」といって、身悶えしてお泣きになった。若君、姫君、女房達は、御簾の外まで転がり出て、人が聞いているにもかかわらず、声をかぎりに喚き叫んでお嘆きになる。この声々が耳の底にとどまって、西海の立つ波の上で、吹く風の音までも聞くように思われたことであろう。

平家が都を落ちて行くのに、六波羅、池殿、小松殿、八条、西八条以下に一門の公卿・殿上人の家々が二十数カ所、それにお付きの人たちの宿所宿所、京白河に四五万軒の在家があり、皆一度に火をかけて皆焼き払った。

次の章「平家物語 百九 聖主臨幸(せいしゆゆりんかう)
朗読・解説:左大臣光永

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