【若紫 04】源氏、紫の上を垣間見る

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原文

人なくて、つれづれなれば、夕暮《ゆふぐれ》のいたう霞みたるにまぎれて、かの小紫垣《こしばがき》のほどに立ち出でたまふ。人々は帰したまひて、惟光朝臣《これみつのあそむ》とのぞきたまへば、ただこの西面《にしおもて》にしも、持仏《ぢぶつ》すゑたてまつりて行ふ、尼なりけり。簾《すだれ》すこし上げて、花奉るめり。中の柱に寄りゐて、脇息《けふそく》の上に経を置きて、いとなやましげに読みゐたる尼君、ただ人と見えず。四十余《よ》ばかりにて、いと白うあてに、痩せたれど、頬《つら》つきふくらかに、まみのほど、髪のうつくしげにそがれたる末も、なかなか長きよりもこよなう今めかしきものかな、とあはれに見たまふ。

きよげなる大人二人ばかり、さては童《わらは》べぞ出で入り遊ぶ。中に、十ばかりにやあらむと見えて、白き衣《きぬ》、山吹などの萎えたる着て、走り来たる女子《をむなご》、あまた見えつる子どもに似るべうもあらず、いみじく生ひ先見えてうつくしげなる容貌《かたち》なり。髪は扇《あふぎ》をひろげたるやうにゆらゆらとして、顔はいと赤くすりなして立てり。

「何ごとぞや。童《わらは》べと腹立ちたまへるか」とて、尼君の見上げたるに、すこしおぼえたるところあれば、子なめりと見たまふ。「雀の子を犬君《いぬき》が逃がしつる。伏籠の中に籠めたりつるものを」とて、いと口借《くちを》しと思へり。このゐたる大人、「例の、心なしの、かかるわざをしてさいなまるるこそ、いと心づきなけれ。いづ方《かた》へかまかりぬる。いとをかしうやうやうなりつるものを。烏《からす》などもこそ見つくれ」とて立ちて行く。髪ゆるるかにいと長く、めやすき人なめり。少納言《せうなごん》の乳母《めのと》とこそ人言ふめるは、この子の後見なるべし。

「いで、あな幼《をさな》や。言ふかひなうものしたまふかな。おのがかく今日明日《けふあす》におぼゆる命をば、何とも思したらで、雀慕ひたまふほどよ。罪得ることぞと常に聞こゆるを、心憂く」とて、尼君「こちや」と言へば、ついゐたり。

頬《つら》つきいとらうたげにて、眉のわたりうちけぶり、いはけなくかいやりたる額《ひたひ》つき、髪《かむ》ざし、いみじううつくし。ねびゆかむさまゆかしき人かな、と目とまりたまふ。さるは、限りなう心を尽くしきこゆる人に、いとよう似たてまつれるが、まもらるるなりけり、と思ふにも涙ぞ落つる。

尼君、髪をかき撫でつつ、「梳《けづ》ることをうるさがりたまへど、をかしの御髪《ぐし》や。いとはかなうものしたまふこそ、あはれにうしろめたけれ。かばかりになれば、いとかからぬ人もあるものを。故姫君は、十ばかりにて殿に後れたまひしほど、いみじうものは思ひ知りたまへりしぞかし。ただ今おのれ見棄てたてまつらば、いかで世におはせむとすらむ」とて、いみじく泣くを見たまふも、すずろに悲し。幼心地《をさなごこち》にも、さすがにうちまもりて、伏し目になりてうつぶしたるに、こぼれかかりたる髪、つやつやとめでたう見ゆ。

おひ立たむありかも知らぬ若草をおくらす露ぞ消えんそらなき

またゐたる大人、「げに」とうち泣きて、

初草《はつくさ》のおひゆく末も知らぬ間《ま》にいかでか露の消えんとすらむ

と聞こゆるほどに、僧都あなたより来て、「こなたはあらはにやはべらむ。今日しも端《はし》におはしましけるかな。この上《かみ》の聖《ひじり》の方《かた》に、源氏の中将の、瘧病《わらはやみ》まじなひにものしたまひけるを、ただ今なむ聞きつけはべる。いみじう忍びたまひければ、知りはべらで、ここにはべりながら、御とぶらひにもまでざりける」とのたまへば、「あないみじや。いとあやしきさまを人や見つらむ」とて、簾下ろしつ。「この世にののしりたまふ光る源氏、かかるついでに見たてまつりたまはんや。世を棄てたる法師の心地にも、いみじう世の愁へ忘れ、齢《よはひ》のぶる人の御ありさまなり。いで御消息《せうそこ》聞こえん」とて立つ音すれば、帰りたまひぬ。

あはれなる人を見つるかな、かかれば、このすき者どもは、かかる歩《あり》きをのみして、よくさるまじき人をも見つくるなりけり、たまさかに立ち出づるだに、かく思ひの外《ほか》なることを見るよと、をかしう思す。さても、いとうつくしかりつる児《ちご》かな、何人ならむ、かの人の御かはりに、明け暮れの慰めにも見ばや、と思ふ心深うつきぬ。

現代語訳

源氏の君は人がいなくて退屈なので、夕暮れのたいそう霞がかっている中にまぎれて、あの小柴垣の家のあたりに出かけられた。人々は都にお帰しになって、惟光朝臣とおのぞきになると、ちょうどこの宿の西面の部屋に、持仏をお据え申してお勤めをしているのは、尼であった。

簾をすこし上げて、花をお供えするようだ。中の柱に寄りかかって座って、脇息の上に経を置いて、たいそう大仰そうに読経しているこの尼君は、並たいていの人とは見えない。

四十すぎくらいで、たいそう肌は白く気品があり、痩せているが、頬はふくよかで、目もとのあたり、髪を美しく切りそろえた端も、かえって髪が長いよりもたいそう今めいているな、と、源氏の君は、しみじみ趣深く御覧になる。

こざっぱりした女房が二人ほど、それと、きっと女の子だろう、出たり入ったりして遊んでいる。その中に、十歳ぐらいだろうかと見えて、白い下着に、山吹襲の着ならしたのを着て、走って来た女の子は、多く見えている他の子供たちにまったく似ておらず、たいそう成長した末が想像されて、かわいらしい姿である。

髪は扇をひろげたようにゆらゆらとして、顔はたいそう赤くなるほど手でこすって、立っている。

(尼)「何ごとですか。子供たちと喧嘩なさったの」といって、尼君が見上げると、すこし似ているところがあるので、子だろうと源氏の君は御覧になる。

(女子)「雀の子を犬君《いぬき》が逃してしまったの。伏籠の中に入れておいたのに」といって、たいそう残念がっている。そこに座っていた女房が、「いつもの、分別のない女房が、このようなことをして、お咎めを受けるのは、ひどく感心しないことね。雀の子はどこへ行ってしまったのでしょう。たいそう可愛らしく、だんだんと成長していたのに。烏などが見つけたら大変」といって立ち去る。

この女房は、髪がゆるゆかでとても長く、見苦しくない人のようだ。少納言の乳母と人が言っているらしいこの女房は、この子の世話役にちがいない。

尼君は、「まあ、なんと幼いこと。言っても仕方ないことをおっしゃるものですね。私がこんなふうに今日明日にもと思っている命を、何とも思われないで、雀をお慕いになるていどですよ。罪を得ることですといつも申し上げているのに、残念なこと」といって、(尼君)「こちらですよ」と言えば、少女は膝を前に出して座っている。

少女は、顔つきはたいそう可愛らしく、眉のあたりに美しさがただよい、子供っぽく髪の毛を脇へかきやった額のようすも、髪の生え方も、とても可愛い。将来のさまが楽しみな人だなと、源氏の君はじっと見つめていらっしゃる。

それは、限りなく心を尽くし申し上げている人(藤壺)に、この少女がとてもよく似ているので、目を離すことができないのだと、思うにつけても涙が落ちる。

尼君は、少女の髪をかき撫でながら、「髪に櫛を入れることを嫌がりなさいますが、可愛らしい御髪ですよ。ひどく分別ないふるまいをされるのが、可哀相で、心配なのです。これくらいの年齢になれば、まったくこの娘のように幼稚でない人もありますのに。亡くなった姫君(尼君の娘・少女の実母)は、十歳ぐらいで父君に先立たれなさったころは、たいそう分別がついてございましたものですよ。今この時、私がお見捨て申し上げでもしたら、どうやってこの世にいらっしゃるつもりですか」といって、たいそう泣くのを御覧になるにつけても、源氏の君は、なんとなく悲しい気持ちになられる。

少女は、幼い心とはいえ、尼君が泣くのをじっと見つめて、伏し目になってうつぶせになったところに、こぼれかかった髪が、つややかで美しく見える。

(尼君)おひ立たむ…

(成長していく先もわからないこの若草を残して、露のような私は、消えようにも消えるべき空がない)

もう一人すわっている女房が、「ほんとうに」と泣いて、

初草の…

(萌出したばかりの若草のゆく末も知らないうちに、露はどうして消えようとするのでしょう)

と申し上げているうちに、僧都があちらから来て、(僧都)「こちらは丸見えでございますよ。今日にかぎって、端にいらっしゃるのですな。この上の聖の坊に、源氏の中将が、瘧病の平癒祈願のためいらっしゃっているのを、たった今聞きつけました。たいそうお忍びでお出かけでしたので、存じませんで、ここにございますままで、御見舞いにも参っておりませんでした」とておっしゃるので、(尼君)「あらいやだ。ひどく見すぼらしい様子を人に見るかもれしない」といって、簾を下ろした。

(僧都)「世間にすこぶる評判の光る源氏を、このような機会に拝見なさりませんか。世を捨てている法師の気持ちにも、まったく世の辛いことも忘れ、寿命がのびるような、源氏の君の御ようすです。さあご挨拶を申し上げましょう」といって出発する音がするので、源氏の君はお帰りになった。

可憐な人を見たものだな、ちょっと忍び歩きしただけでこれだけの成果である。この色好みな者たちは、こんな忍び歩きばかりして、よく、普通見ることができような人を見つけたものである、ちょっと外出したのでさえ、このように予想外のことを見るものよと、源氏の君は、おもしろく思われる。

それにしても、たいそう可愛らしい少女であったな。どういう人だろう。あの人(藤壺)の御かわりに、明けても暮れても、あの少女を慰めに見たいものだと思う心に深くとりつかれた。

語句

■西面 西側の部屋。西方極楽浄土への往生を願う者は西側の部屋で念仏や観想といったお勤めをする。 ■持仏 守り本尊としてふだん携帯する、小さな仏像。 ■中の柱 部屋の中央にある柱。どの壁面とも接していない。 ■衣 単衣。下着。 ■山吹 山吹襲の上着。表が薄朽葉。裏が黄色。ここでは童女の上着である汗袗(かざみ)のこと。 ■顔はいと赤く 泣いた後。 ■犬君 召使いの女童の名。 ■竹の籠。本来は中で香をたいて、上に衣類をかぶせて、香りをたきしめるための道具。 ■さいなまる 「さいなむ」は責める。咎める。「さいなまるる」はそれの受け身で責められる。お咎めを受ける。 ■ついゐたり 「突き居る」は膝をついて座る。 ■ねびゆかんむさま 「ねぶ」は成熟する。 ■いとはかなうものしたまふ 少女が分別のないふるまいをすること。 ■かからぬ人 これほど幼稚ではない人。 ■故姫君 尼君の娘。少女の実母。兵部卿宮(藤壺の兄)の妻。 ■うちまもりて 「まもる」はじっと見つめる。 ■おひ立たむ… 「若草」は紫の上。「露」は若草の縁語で老齢の尼君。この子が結婚するのを見届けるまで死ぬことができないの意。尼君と女房の贈答は、『伊勢物語』四十九段の男とその妹との贈答の影響している。 ■今日しも よりにもよって、源氏の御一行がいらしている今日に限っての意。 ■端 屋敷の端。縁側。外から見える位置。 ■かかれば ちょっと忍び歩きしただけで美しい少女を見つけるとう成果をこの者たちは上げるのだからの意。 

朗読・解説:左大臣光永

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