【若紫 05】源氏、僧都の坊に泊まる

うち臥したまへるに、僧都の御弟子、惟光を呼び出でさす。ほどなき所なれば、君もやがて聞きたまふ。「過《よ》きりおはしましけるよし、ただ今なむ人申すに、驚きながら、さぶらふべきを、なにがしこの寺に籠りはべりとはしろしめしながら忍びさせたまへるを、愁はしく思ひたまへてなん。草の御むしろも、この坊にこそまうけはべるべけれ。いと本意《ほい》なきこと」と申したまへり。「去《い》ぬる十余日《じふよにち》のほどより、瘧病《わらはやみ》にわづらひはべるを、たび重なりてたへがたくはべれば、人の教へのままに、にはかに尋ね入りはべりつれど、かやうなる人の、しるしあらはさぬ時、はしたなかるべきも、ただなるよりはいとほしう思ひたまへつつみてなむ、いたう忍びはべりつる。いまそなたにも」とのたまへり。

すなはち僧都参りたまへり。法師なれど、いと心恥づかしく、人がらもやむごとなく世に思はれたまへる人なれば、かるがるしき御ありさまを、はしたなう思す。かく籠れるほどの御物語など聞こえたまひて、「同じ柴の庵なれど、すこし涼しき水の流れも御覧ぜさせん」と、せちに聞こえたまヘば、かのまだ見ぬ人々に、ことごとしう言ひ聞かせつるを、つつましう思《おぼ》せど、あはれなりつるありさまもいぶかしくておはしぬ。

げに、いと心ことによしありて、同じ木草《きくさ》をも植ゑなしたまへり。月もなきころなれば、遣《やりみず》水に篝火《かがりび》ともし、燈籠《とうろ》などもまゐりたり。南面《みなみおもて》いときょげにしつらひたまへり。そらだきものいと心にくくかをり出て、名香《みやうがう》の香《か》など匂ひ満ちたるに、君の御追風《おひかぜ》いとことなれば、内《うち》の人々も心づかひすべかめり。

現代語訳

源氏の君が横になっていらっしゃると、僧都の御弟子が、惟光を呼び出させる。広くはない所なので、源氏の君も直にその口上をお聞きになる。

(僧都)「素通りなさったということ、たった今人が申すので、びっくりすると同時に、お見舞いにうかがうべきでしたが、それがしがこの寺に籠もってございますとはご存知でありながら、お忍びなさることを、恨めしく思い申し上げますぞ。草の御むしろ(宿泊する場所)も、私の坊にこそ準備すべきでしたのに。ひどく意に反したことです」と申し上げなさった。

(源氏)「去る十余日のあたりから、瘧病がわずらってございましたが、発作が重なって耐え難くなりましたので、人の教えるままに、急に北山に尋ね入ってまいりましたが、このような徳の高い僧が、もし効験があらわさない時、ばつが悪いに違いないし、その場合、普通の僧よりも、いっそうお気の毒だと思いまして、たいそう遠慮してございました。今、そちらにもうかがいます」とおっしゃった。

すぐに僧都が参られた。法師ではあるが、たいそうこちらが気後れするくらい立派で、人柄も高貴で世間から尊敬されていらっしゃる人であるので、源氏の君は軽々しいご自分のお姿を、ばつが悪いのものに思われる。

僧都は、このように山ごもりしている間の御物語などを源氏の君にお話しになって、(僧都)「同じ柴の庵ではありますが、すこし涼しい水の流れも御覧にいれましょう」と、しきりに申し上げなさるので、あの、自分をまだ見ていない人々に、おおげさに言い聞かせていたのを、源氏の君は、気恥ずかしく思われるけれど、可憐であったあの少女のありさまも気がかりなので、出かけていかれた。

ほんとうに、たいへんな気遣いで、風情があって、同じ木や草をも植えしつらえておられる。月も出ない闇夜の頃なので、遣水のほとりに篝火をともし、灯籠などにも灯をお入れしてある。屋敷の南面の部屋をたいそうさっぱりと調えなさっている。

空薫物《そらだきもの》がたいそう奥ゆかしく香りを放って、名香の香りなど匂いが満ちているところに、源氏の君の御追い風が、また格別なので、奥の人々も心遣いしているようだ。

語句

■うち臥したまへるに 聖の僧坊で源氏は横になっている。「聖」と「僧都」が別人であることに注意。 ■過きりおはしましけるよし 源氏が、僧都の僧坊を素通りして聖のもとに「瘧まじなひ」に行ったこと。僧都はそのことで源氏の君に恨み言を言う。 ■なにがし 拙僧。一人称。 ■愁はしく思ひたまへてなん 下に「さぶらはぬ」などを省略。 ■草の御むしろ 旅先のみすぼらしい一夜の宿。へりくだった言い方。 ■いまそなたにも ここまでの源氏の台詞は、源氏から惟光に伝えられ、惟光から僧都の使者に伝えられ、やがて僧都に伝わるのだろう。 ■まだ見ぬ人々に… 僧都が尼君たちに、「この世にののしりたまふ光る源氏、かかるついでに見たてまつりたまはんや。世を棄てたる法師の心地にも、いみじう世の愁へ忘れ、齢《よはひ》のぶる人の御ありさまなり。」などと言っていたことをさす(『若紫 04』)。 ■つつましう 気恥ずかしく。 ■灯籠 油を燃やす照明器具。軒や柱に吊るす。 ■南面 南=正面に面した部屋。正客を迎える。 ■そらだきもの どこからともなく匂ってくるようにたく薫物。「夜寒(よさむ)の風に誘はれくる―の匂(にほ)ひも、身にしむ心地す」(『徒然草』四十四)。 ■名香 仏に奉る香。 ■御追風 衣服にたきしめた香が、移動するたび漂うこと。

朗読・解説:左大臣光永

■【古典・歴史】メールマガジン
【古典・歴史】YOUTUBEチャンネル