> 【源氏物語】【花散里 03】源氏、麗景殿女御と昔語りをする【原文・現代語訳・朗読】

【花散里 03】源氏、麗景殿女御と昔語りをする

かの本意《ほい》の所は、思しやりつるもしるく、人目なく静かにておはするありさまを見たまふもいとあはれなり。まづ、女御の御方にて、昔の御物語など聞こえたまふに、夜更けにけり。二十日の月さし出づるほどに、いとど木高《こだか》き影ども木《こ》暗く見えわたりて、近き橘《たちばな》のかをりなつかしく匂ひて、女御の御けはひ、ねびにたれど、飽くまで用意あり、あてにらうたげなり。すぐれてはなやかなる御おぼえこそなかりしかど、陸《むつ》ましうなつかしき方には思したりしものを、など思ひ出できこえたまふにつけても、昔のことかき連ね思されて、うち泣きたまふ。

郭公《ほととぎす》、ありつる垣根のにや、同じ声にうち鳴く。慕ひ来《き》にけるよ、と思さるるほども艶《えん》なりかし。「いかに知りてか」など忍びやかにうち誦《ずん》じたまふ。

「橘の香をなつかしみほととぎす花散る里をたづねてぞとふ

いにしへの忘れがたき慰めにはなほ参りはべりぬべかりけり。こよなうこそ紛るることも、数そふこともはべりけれ。おほかたの世に従ふものなれば、昔語もかきくづすべき人少なうなりゆくを、ましてつれづれも紛れなく思さるらん」と聞こえたまふに、いとさらなる世なれど、ものをいとあはれに思しつづけたる御気色の浅からぬも、人の御さまからにや、多くあはれぞ添ひにける。

人目なく荒れたる宿はたちばなの花こそ軒のつまとなりけれ

とばかりのたまへる、さはいへど人にはいとことなりけり、と思しくらべらる。

西面《にしおもて》には、わざとなく忍びやかにうちふるまひたまひてのぞきたまへるも、めづらしきに添へて、世に目馴れぬ御さまなれば、つらさも忘れぬべし。何やかやと、例の、なつかしく語らひたまふも、思さぬことにあらざるべし。仮にも、見たまふかぎりは、おし並べての際《きは》にはあらず、さまざまにつけて、言ふかひなしと思さるるはなければにや、憎げなく、我も人も情をかはしつつ過ぐしたまふなりけり。それをあいなしと思ふ人は、とにかくに変るもことわりの世の性《さが》、と思ひなしたまふ。ありつる垣根も、さやうにてありさま変りにたるあたりなりけり。

現代語訳

その目当ての所は、想像していた通りで、人影もなく静かでいらっしゃるありさまをご覧になるにつけ、しみじみと感慨深い。

まず、麗景殿女御の御方にて、昔の御物語などお話申し上げていると、夜も更けていった。二十日の月がさし上ってくる頃、高い木立の影があたり一面にひとしお暗く見えて、近くでは橘の香りがなつかしく匂って、女御のご様子は、お年を召していらっしゃるが、あくまで心遣いがあり、優美で、いたわしい感じでいらっしゃる。

「格別にきわだった院の御寵愛こそなかったが、仲睦まじくなつかしいお相手としておぼしめしあそばしていたものを」などと思い出しなさるにつけても、源氏の君は、院御在世の昔のことが繰り返し何度も思い出されて、ついお泣きになる。

ほととぎすが、さきほどの垣根のそれだろうか、同じ声で鳴く。「我を慕ってついてきたのか」とお思いになるのも優美なことである。「いかに知りてか」など静かにお口ずさみなさる。

(源氏)橘の…

(昔を思い出させるという橘の香をなつかしみ、ほととぎすが、この橘の花散る里をたずねてきて鳴いています)

昔が忘れられないことに心悩ませております。その心の慰めには、やはりこちらの参上いたすべきでしたよ。こうしてお話しておりますと、たいそう心紛れることも、またかえって悲しみが加わることもございますな。人はその時の世の流れに従うものですから、昔語もぼつぼつと話せるような人も少なくなってゆくのですから、ましてこちらでは、所在ないお気持ちを紛らわしがたいとお思いでしょう」と申し上げなさると、今さら言ってもしかたがないここ最近の世情ではあるが、たいそうしみじみと感じ入っていらっしゃるご様子の浅からぬのも、女御のお人柄ゆえであろうか、しみじみとした感慨が多く加わることであるよ。

(女御)人目なく…

(訪れる人もなく荒れ果てたこの宿は、橘の花だけが、軒端に咲いており、あなたをお誘いする手がかりとなっております)

とだけ仰せられる女御のご様子は、それほど華やいだ存在ではなかったといっても、やはり世間の並大抵の女性とはたいそう違っている、と源氏の君は御心の中にお比べになる。

語句

■かの本意の所 最初に目指したところ。目的地。麗景殿女御・花散里の邸。 ■昔の御物語 桐壺院ご在世の頃の思い出話。 ■橘のかをり 「五月まつ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする」(古今・夏 読人しらず/伊勢物語第六十段)。 ■用意あり 気配りがあること。 ■らうたげなり 哀れで庇護したくなる感じ。 ■ありつる垣根 さきほどの中川邸の垣根。 ■いかに知りてか 「いにしへのこと語らへばほととぎすいかに知りてか古声のする」(古今六帖五)。 ■橘の… 「五月まつ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする」(古今・夏 読人しらず)、「橘の花散る里のほととぎす片恋ひしつつ鳴く日しぞ多き」(万葉1473 大伴家持)などをふまえる。この歌が当巻のヒロイン花散里の名の根拠となる。 ■かきくづす ぼつぼつと話をする。 ■いとさらなる世 たいそう言っても仕方のない世情。右大臣家の権勢さかんで源氏や藤壺には不遇である今の情勢をいう。 ■人目なく… 「つま」は「端」と「手がかり」の意をかける。

朗読・解説:左大臣光永

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