平家物語 百九十一 六道之沙汰(ろくでうのさた)

原文

「世を厭(いと)ふならひ、なにかは苦しうさぶらふべき。はやはや御対面(ごたいめん)さぶらうて、還御(くわんぎよ)なし参らッさせ給へ」と申しければ、女院御庵室(にようゐんごあんじつ)にいらせ給ふ。「一念の窓の前には、摂取(せっしゆ)の光明(くわうみやう)を期(ご)し、十念の柴(しば)の枢(とぼそ)には、聖衆(しやうじゆ)の来迎(らいかう)をこそ待ちつるに、思(おもひ)の外(ほか)に御幸(ごかう)なりける不思議さよ」とて、泣く泣く御見参(おんげんざん)ありけり。

法皇此御有様(このおんありさま)を見参らッさせ給ひて、「非想(ひさう)の八万劫(はちまんごふ)、猶(なほ)必滅の愁(うれへ)に逢(あ)ひ、欲界(よくかい)の六天、いまだ五衰(ごすい)のかなしみをまぬかれず。善見城(ぜんけんじやう)の勝妙(しようめう)の楽(らく)、中間禅(ちゆうげんぜん)の高台(かうだい)の閣(かく)、又夢(ゆめ)の裏(うち)の果報(くわほう)、幻(まぼろし)の間(あひだ)の楽しみ、既(すで)に流転無窮(るてんむぐう)なり。車輪(しやりん)のめぐるが如し。天人(てんにん)の五衰の悲しみは、人間(にんげん)にも候(さうら)ひける物かな」とぞ仰せける。「さるにても誰(たれ)か事問ひ参らせ候(さうらふ)。何事につけても、さこそ古(いにしへ)おぼしめし出で候らめ」と仰せければ、「いづかたよりおとづるる事もさぶらはず。隆房(たかふさ)、信隆(のぶたか)の北の方より、たえだえ申し送る事こそさぶらへ。その昔、あの人どものはぐくみにてあるべしとは、露も思ひより候はず」とて 御涙をながさせ給へば、つき参らせたる女房達(にようぼうたち)も、みな袖(そで)をぞぬらされける。女院御涙をおさへて申させ給ひけるは、「かかる身になる事は、一旦(いつたん)の歎(なげき)申すにおよびさぶらはねども、後生菩提(ごしやうぼだい)の為には、悦(よろこび)とおぼえさぶらふなり。忽(たちま)ちに釈迦(しやか)の遺弟(よいてい)につらなり、忝(かたじけな)く弥陀(みだ)の本願(ほんぐわん)に乗(じよう)じて、五障三従(ごしやうさんじゆう)の苦しみをのがれ、三時(さんじ)に六根(ろくこん)をきよめ、一すぢに九品(くほん)の浄刹(じやうせつ)をねがふ。専(もッぱ)ら一門の菩提(ぼだい)をいのり、常は三尊(さんぞん)の来迎(らいかう)を期(ご)す。いつの世にも忘れがたきは先帝(せんてい)の御面影(おんおもかげ)、忘れんとすれども忘られず、しのばんとすれどもしのばれず。ただ恩愛(おんあい)の道ほどかなしかりける事はなし。されば彼(かの)菩提(ぼだい)のために、朝タ(あさゆふ)のつとめおこたる事さぶらはず。是(これ)もしかるべき善(ぜん)知識(ちしき)とこそ覚えさぶらへ」と、申させ給ひければ、法皇仰せなりけるは、「此国(このくに)は粟散辺土(そくさんへんど)なりといへども、忝(かたじけな)く十善(じふぜん)の余薫(よくん)に答へて、万乗(ばんじよう)の主(あるじ)となり、随分一(ずいぶんひと)つとして、心にかなはずといふ事なし。就中(なかんずく)仏法流布(ぶつぽうるふ)の世に生(むま)れて、仏道修行(ぶつだうしゆぎやう)の心ざしあれば、後生善所疑(ごしようぜんしよううたがひ)あるべからず。人間のあだなるならひは、今更おどろくべきにはあらねども、御有様(おんありさま)見奉るに、あまりにせんかたなうこそ候へ」と仰せければ、女院重(にようゐんかさ)ねて申させ給ひけるは、「我平相国(われへいしやうこく)の娘として、天子の国母(こくも)となりしかば、一天四海(いつてんしかい)みなたなごころのままなり。拝礼(はいらい)の春の始(はじめ)より、色々の衣(ころも)がへ仏名(ぶつみやう)の年の暮(くれ)、摂禄以下(せつろくいげ)の大臣公卿(だいじんくぎやう)にもてなされし有様、六欲四禅(ろくよくしぜん)の雲の上にて、八万の諸天に囲繞(いねう)せられさぶらふらむ様(やう)に百官悉(ことごと)くあふがぬ者やさぶらひし。清涼紫宸(せいりやうししん)の床(ゆか)の上、 玉の簾(すだれ)のうちにてもてなされ、春は南殿(なんでん)の桜(さくら)に心をとめて日を暮し、九夏三伏(きうかさんぷく)のあつき日は、泉(いづみ)をむすびて心をなぐさめ、秋は雲の上の月をひとり見むことをゆるされず、玄冬素雪(げんとうそせつ)のさむき夜は、妻(つま)をかさねてあたたかにす。長生不老(ちやうせいふらう)の術(じゆつ)をねがひ、蓬來不死(ほうらいふし)の薬(くすり)を尋ねても、只(ただ)久しからん事をのみ思へり。あけても暮れても、楽しみさかえし事、天上の果報(くわほう)も、是(これ)には過ぎじとこそおぼえさぶらひしか。それに寿永(じゆえい)の秋のはじめ、木曾義仲(きそよしなか)とかやにおそれて、一門の人々、住みなれし都をば雲井のよそに顧(かへりみ)て、ふる里(さと)を焼野(やけの)の原(ばら)とうちながめ、古(いにしへ)は名をのみ聞きし須磨(すま)より明石(あかし)の浦づたひ、さすが哀れに覚えて、昼は漫々(まんまん)たる浪路(なみぢ)をわけて袖をぬらし、夜(よる)は洲崎(すさき)の千鳥(ちどり)と共に泣きあかし、浦々島々(うらうらしまじま)よしある所を見しかども、ふるさとの事は忘れず。かくて寄る方なかりしは、五衰必滅(ごすいひつめつ)の悲しみとこそおぼえさぶらひしか。人間の事は、愛別離苦(あいべつりく)、怨憎会苦(をんぞうゑく)、共(とも)に我身に知られてさぶらふ。四苦八苦(しくはつく)、一つとして残る所さぶらはず。さても筑前国太宰府(ちくぜんのくにだざいふ)といふ所にて、維義(これよし)とかやに九国(くこく)のうちをも追ひ出(いだ)され、山野(さんや)広しといへども、立寄(たちよ)りやすむべき所もなし。同じ秋の末にもなりしかば、昔は九重(ここのへ)の雲の上にて見し月を、今は八重(やへ)の塩路(しほぢ)にながめつつ、あかし暮しさぶらひし程に、神無月(かみなづき)の比(ころ)ほひ、清経(きよつね)の中将(ちゆうじやう)が、『都のうちをば源氏がためにせめおとされ、鎮西(ちんぜい)をば維義がために追ひ出(いだ)さる。網にかかれる魚(うを)の如し。いづくへゆかばのがるべきかは。ながらヘはつべき身にもあらず』とて、海に沈みさぶらひしぞ、心憂(こころう)き事のはじめにてさぶらひし。浪の上にて日をくらし、船の内にて夜(よ)をあかし、貢物(みつぎもの)もなかりしかば、供御(ぐご)を備ふる人もなし。たまたま供御はそなへんとすれども、水なければ参らず。大海(だいかい)にうかぶといへども、潮(うしほ)なればのむ事もなし。是(これ)又餓鬼道(がきだう)の苦(く)とこそおぼえさぶらひしか。かくて室山(むろやま)、水島(みずしま)、所々(ところどころ)のたたかひに勝ちしかば、人々すこし色なほッて見えさぶらひし程に、一の谷といふ所にて一門おほくほろびし後(のち)は、 直衣(なほし)、束帯(そくたい)をひきかへて、くろがねをのべて身にまとひ、明けても暮れても、いくさよばひの声たえざりし事、修羅(しゆら)の闘諍(とうじやう)、帝釈(たいしやく)の諍(あらそひ)も、かくやとこそおばえさぶらひしか。一谷を攻めおとされて後(のち)、親は子におくれ、妻(め)は夫(をつと)にわかれ、沖につりする船をば、敵(かたき)の舟かと肝(きも)を消し、遠き松にむれゐる鷺(さぎ)をば、源氏の旗(はた)かと心をつくす。さても門司(もじ)、赤間(あかま)の関(せき)にて、いくさはけふを限(かぎり)と見えしかば、二位(にゐ)の尼(あま)申しおく事さぶらひき。『男(をとこ)のいきのこらむ事は、千万(せんばん)が一つもありがたし。 設(たと)ひ又遠きゆかりは、おのづからいき残りたりといふとも、我等(われら)が後世(ごせ)をとぶらはん事もありがたし。昔より女はころさぬならひなれば、いかにもしてながらへて、主上(しゆしやう)の後世(ごせ)をもとぶらひ参らせ、我等が後生(ごしやう)をもたすけ給へ』と、かきくどき申しさぶらひしが、夢の心地(ここち)しておぼえさぶらひしほどに、風にはかにふき、浮雲(うきぐも)あつくたなびいて、兵(つはもの)心をまどはし、天運(てんうん)つきて、人の力におよびがたし。既(すで)に今はかうと見えしかば、二位の尼、先帝をいだき奉ッて、ふなばたへ出でし時、あきれたる御様(おんさま)にて、『尼ぜ、われをばいづちへ具してゆかむとするぞ』と仰せさぶらひしかば、いとけなき君にむかひ奉り、涙をおさへて申しさぶらひしは、『君はいまだしろしめされさぶらはずや。先世(ぜんぜ)の十善戒行(じふぜんかいぎやう)の御力(おんちから)によッて、今万乗(ばんじよう)の主(あるじ)とは生れさせ給へども、悪縁(あくえん)にひかれて、御運既(ごうんすで)につき給ひぬ。まづ東(ひんがし)にむかはせ給ひて、伊勢太神宮(いせだいじんぐう)に御暇(おんいとま)申させ給ひ、其後西方浄土(そののちさいはうじやうど)の来迎(らいかう)にあづからんとおぼしめし、西にむかはせ給ひて、御念仏侍(おんねんぶつさぶら)ふべし。此国(このくに)は粟散辺土(そくさんへんど)とて、心憂(こころう)き堺(さかひ)にてさぶらへば、極楽浄土(ごくらくじやうど)とてめでたき所へ具し参らせ侍ふぞ』と、泣く泣く申しさぶらひしかば、山鳩色(やまばといろ)の御衣(ぎよい)にびンづらいはせ給ひて、御涙(おんなみだ)におぼれ、ちいさううつくしい御手(おんて)をあはせ、まづ東をふしをがみ、伊勢大神宮に御暇(おんいとま)申させ給ひ、其後西にむかはせ給ひて、御念仏(おんねんぶつ)ありしかば、二位の尼やがていだき奉ッて、海に沈みし御面影(おんおもかげ)、目もくれ心も消えはてて、忘れんとすれども忘られず、忍ばんとすれどもしのばれず。残りとどまる人々のをめきさけびし声、叫喚大叫喚(けうくわんだいけうくわん)のほのほの底の罪人(ざいにん)も、これには過ぎじと こそおぼえさぶらひしか。さて武士共(もののふども)にとらはれて、のぼり さぶらひし時、播磨国明石浦(はりまのくにあかしのうら)について、ちッとうちまどろみてさぶらひし夢に、昔の内裏(だいり)にははるかにまさりたる所に、先帝をはじめ奉ッて、一門の公卿殿上人(くぎやうてんじやうびと)、みなゆゆしげなる礼儀(れいぎ)にて侍(さぶら)ひしを、都を出でて後、かかる所はいまだ見ざりつるに、『是(これ)はいづくぞ』と問ひ侍ひしかば、弐位(にゐ)の尼と覚えて、『竜宮城(りゆうぐうじやう)』と答へ侍(さぶら)ひし時、『めでたかりける所かな。是には苦はなきか』と問ひさぶらひしかば、『竜畜経(りゆうちくきやう)のなかに見えて侍ふ。よくよく後世をとぶらひ給へ』と、申すと覚えて夢さめぬ。其後(そののち)はいよいよ経をよみ念仏して、彼御菩提(かのごぼだい)をとぶらひ奉る。是皆(これみな)六道にたがはじとこそおぼえ侍へ」と申させ給へば、法皇仰せなりけるは、「異国(いこく)の玄弉三蔵(げんじやうさんざう)は、悟(さとり)の前に六道を見(み)、吾朝(わがてう)の日蔵上人(にちざうしやうにん)は、蔵王権現(ざわうごんげん)の御力(おんちから)にて 六道を見たりとこそ承れ。是程(これほど)まのあたりに御覧ぜられける御事(おんこと)、誠にありがたうこそ候へ」とて、御涙(おんなみだ)にむせばせ給へば、供奉(ぐぶ)の公卿殿上人(くぎやうてんじやうびと)も、みな袖(そで)をぞしばられける。女院(にようゐん)も御涙(おんなみだ)をながさせ給へば、つき参らせたる女房達も、みな袖をぞぬらされける。

現代語訳

内侍の尼が、「世捨て人の常、そんなお姿でもなんの差し障りがございありましょう。さっさと御対面なさって、お帰りいただくようになさいませ」と申したので、女院は御庵室にお入りになった。「一度念仏を唱えては、衆生を浄土にお引き取りくださる阿弥陀仏の光が窓にさすことを期待し、十度念仏を唱えては、仏菩薩がこの粗末な庵にご来迎下さることを待っていましたのに、思いがけなく法皇がおいでになったとは信じられないことです」と言って、泣く泣く御対面なさった。

法皇はこの有様を御覧になられて、「非想天(ひそうてん)でも八万劫(はちまんごうの寿命があるというが、それでも必滅の愁いに逢い、欲界の六天でもいまだに五衰の悲しみを逃(のが)れることはできません。帝釈天の宮城善見城(ぜんけんじょう)での長寿の楽しみも、中間禅の梵天王の高台の宮殿の楽しみも、また夢のなかでの喜び、幻の中での楽しみであって、ただ果(はて)もなく流転するばかりで、車輪が回っているようなものです。天人の五衰の悲しみは、人間界にもあったのですよ」とおっしゃった。「それにしても誰かここをお訪ね申しておりますか。何事に付けてもさぞ昔を思い出すことでしょう」と言われると、「どこからも尋ねて来る者はおりません。隆房、信隆の北の方から、ときおり申してくる事はございますが、その昔は、あの人たちのお世話になって暮す事になろうとは、まったく思ってもみませんでした」と言って御涙を流されると、お付きの女房達も、皆涙で袖を濡らされた。女院が涙をこらえて申されるには、「このような身になりました事は、一時の歎きであることは申すまでもありませんが、後世での成仏のためには、喜びと思われるのです。たちまち釈迦の弟子に連なり、畏れ多くも衆生をお救いになるという弥陀の本願に甘んじて五障三従の苦しみから逃れ、昼三時・夜三時の勤行に六根の煩悩を清め、一途に九品(くほん)の浄土に往生することを願っています。ひたすら平家一門の菩提を弔い、常に阿弥陀・観音・勢至の三尊が迎えに来られることを期待しています。いつになっても忘れられないのは先帝の御面影で、忘れようとしても忘れられず、悲しみをこらえようとしてもこらえられません。ただ親子の情愛ほど悲しいものはありません。ですから先帝の菩提を弔う朝夕の務めを怠る事はありません。これも仏道に入る為の良い禅知識と思われます」と申されたところ、法皇が仰せられるには、「この国は辺鄙な所にある粟粒のような小国ではあるが、畏れ多くも前世の十善の行いを積んだそのおかげで、天子の母后となり、身分相応に何一つとして意に叶わない物はありません。とりわけ仏法が流布している世に生れて、仏道修行の志があれば、後世で極楽浄土に生まれ変わる事を疑ってはなりません。人間界のはかなく虚しいのは常の事で、今更驚くべきではないが、女院の御有様を見ますと、あまりにも悲しくなんともいたしかたなく存じます」と仰せられると、女院が再度申されるには、「私は平相国(へいしょうこく)の娘として、天下の国母となりましたので、日本国中みな思いのままでした。元日の拝賀の礼の春の始めから、四月・五月の衣替え、仏名会(ぶつみょうえ)の年の暮まで、摂政関白以下の大臣公卿共に大切にかしづかれた有様は六欲天・四禅天の雲の上で、八万の諸天にとり囲まれているかのようで、文武百官悉(ことごと)く仰ぎ尊ばない者はありませんでした。清涼殿や紫宸殿の床の上の玉の簾(すだれ)の中で大切にかしづかれ、春は南殿の桜に心を奪われて日を暮し、九夏三伏の暑い日には、泉の水を手にすくい取って心を慰め、秋は雲の上の月を一人で見る事を許されず、盛大に催される月見の宴で眺め、冬の寒い夜は衣類を重ねて暖かに過ごしました。長生不老の術を会得したいと願い、蓬莱不死の薬を尋ね求めて、ただ命が久しくあることだけを願っておりました。明けても暮れても、楽しいことばかりで、天上の果報も、これ以上ではあるまいと思われた事でした。それなのに寿永の初めに、木曽義仲(よしなか)とかいう者を恐れて、一門の人々が、住み慣れた都を雲のかなたに振り返り、福原の旧都を焼野原として眺め、昔は名だけを聞いたことのある須磨から明石の浦を伝って落ちて行きましたが、なんとも哀れに思われて、昼は広々とした海の波を分けて袖を濡らし、夜は須崎の千鳥の声を聞きながら泣き明かし、浦々島々の由緒ある所を見ましたが、故郷の事は忘れませんでした。こうして落ち着く所もなかったのは、天人の五衰、生者必滅の悲しみのようだとも思われたのでした。人間界で受ける、愛別離苦(あいべつりく)・怨憎会苦(おんぞうえく)の苦しみなど皆我身の事として思い知らされたのです。四苦八苦のすべてを体験し、一つとして残る所はありません。ところで筑前の国大宰府という所で、惟義とか言う者に九州からも追い出され、山野広しといっても、立ち寄って休むところもない。その年の秋にもなったので、昔は宮中の殿上で見た月を、今ははるかに離れた海の上で眺めながら月日を過ごしておりますうちに、十月の頃、清経の中将が、『都の中を源氏の為に攻め落とされ、九州を惟義の為に追い出される。網にかかった魚のようなものだ。どこへ行けば逃げられるのでしょうか。生きながらえる身でもありません』と、海に沈まれたのが、悲しい事の始めでした。波の上で日を暮し、船の中で夜を明かし、献上品もなかったのでお食事を調える人もありません。たまにお食事を差し上げとしても、水が無いのでそれもできません。大海に浮んでいるとはいっても潮水なので飲むこともできません。是も又餓鬼道の苦と思われたのでした。こうして室山、水島など所々の戦に勝ちましたので、人々も少し元気を取り戻しているように見えましたが、一の谷という所で一門の人々が大勢滅んだ後は、直衣、束帯の衣装にひきかえて、鉄の鎧・甲を身につけ、明けても暮れても戦場での鬨の声が絶えなかったことは、阿修羅王(あしゅらおう)と帝釈天(たいしゃくてん)の戦いもこのようではなかったかと思われました。一の谷を攻め落とされた後、親は子に遅れ、妻は夫に別れ、沖で釣りをしている舟を見ては、敵の舟ではと肝をつぶし、遠くの松に群れている鷺(さぎ)を見ては、源氏の白旗ではとないかと気を揉みました。そうして門司、赤間が関で、戦は今日が最後と見えたので、弐位の尼が申し残されたことがありました。『男が生き残る事は、千、万が一にもないでしょう。例え又、遠縁(とおえん)の者が、たまたま生き残ったとしても、我等の後世を弔うこともないでしょう。昔から女は殺さないのが常なので、どうにでもして長らえて、主上の後世を弔い申し上げ、我等が後世をも助けて下さい』と掻き口説いて申されましたが、夢のような心地で聞いているうちに、急に風が吹き、浮雲は厚くたなびいて、兵どもは心を奪われ、天から与えられた運は尽いて、人の力では何ともできない事態になりました。もはや今が最後と見えたので、二位の尼が、先帝を抱き申しあげて、船端へ出られた時、帝はどうしてよいかわからない御様子で、『尼ぜ、私を何処へ連れて行こうとするのだ』と仰せられましたので、幼い君に向い申し上げ、尼が涙をこらえて申されるには、『君はまだおわかりになりませんか。前世での十善戒業のお力によって、今天皇としてこの世にお生まれになりましたが、前世の悪い縁に引かれて、御運はもはや尽きてしまわれました。先ず東にお向きになって、伊勢大神宮にお別れ申し上げ、その後西方浄土からの来迎を期待して、西にお向きになって、お念仏をお唱えください。この国は粟散辺土といって辛い悲しい所ですから、極楽浄土というありがたい所へお連れ申しあげるのです』、と、泣く泣く申されましたので、幼帝は山鳩色の御衣に、角髪(みずら)をお結になって、御涙を激しく流されながら、小さな可愛らしい御手を合せ、先ず東を伏し拝み、伊勢大神宮にお別れを申し上げ、其後に西にお向きになって、御念仏を唱えられると、二位の尼がすぐに抱き申して、海に沈まれましたが、その有様に、目もくらみ、気も失うばかりで、御面影は忘れようとしても忘れられず、悲しみに耐えようとしても耐えられない事でした。あの時残った人々のわめき叫んだ声は、叫喚(きょうかん)・大叫喚(だいきょうかん)の地獄の炎で焼かれる罪人の苦しむ声も、これほどではなかったろうと思われました。そうして武士どもに捕えられて、都に上って参りました時、播磨国明石浦に着いて、すこし微睡(まどろ)んで見た夢の中で、昔の内裏よりはるかに立派な所に、先帝を初め奉り、一門の公卿・殿上人が皆格別に礼儀を正して控えていたのを見て、都を出て以来、こんな所は未だ見た事もなかったので、『ここはどこですか』と尋ねましたら、弐位の尼と思われる人が、『竜宮城』と答えました時、「すばらしい所ですね。ここには苦は無いのですか」と尋ねますと『竜宮城の苦は竜畜経の中に見えております。苦が無くなるようによくよく後世を弔ってください』と、申すと思ったら目が覚めた。その後はいっそう経を読み、念仏を唱えて、亡くなった人達の菩提を弔い申し上げております。是は皆、六道に反する事ではないと思われます」と申されると、法皇が仰せになるには、「異国の玄奘三蔵は、悟りを開く前に六道を見たと言い、我が国の日蔵上人は、蔵王権現の御力によって、六道を見たと聞いている。女院がこれほど目(ま)の当たりに御覧になられた御事は、誠に珍しい事です」と言って御涙に咽(むせ)ばれるとお供の公卿・殿上人も、皆涙で袖を絞られた。女院も御涙をお流しになるので、付き従っている女房達も、皆涙で袖を濡らされた。

朗読・解説:左大臣光永

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