平家物語 百六十六 鶏合(とりあはせ) 壇浦合戰(だんのうらかつせん)
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原文
さる程に九郎大夫判官義経(くらうたいふのはうぐわんよしつね)、 周防(すはう)の地におしわたッて、兄の参川守(みかはのかみ)と一(ひと)つになる。平家は長門国引島(ながとのくにひくしま)にぞつきにける。 源氏阿波国勝浦(あはのくにかつうら)について八島(やしま)のいくさにうちかちぬ。平家引島(ひくしま)につくときこえしかば、源氏は同国(どうこく)のうち、追津(おひつ)につくこそふしぎなれ。
熊野別当湛増(くまののべつたうたんぞう)は、平家へや参るべき、源氏へや参るべきとて、田辺(たなべ)の新熊野(いまぐまの)にて御神楽(みかぐら)奏して権現(ごんげん)に祈誓(きせい)し奉る。「白旗につけ」と御託宣(ごたくせん)ありけるを、猶(なほ)うたがひをなして白い鶏(にはとり)七つ、赤き鶏七つ、これをもッて権現の御(おん)まへにて勝負をせさす。赤きとり一つもかたず、みなまけてにげにけり。 さてこそ源氏へ参らんと思ひさだめけれ。一門の者どもあひもよほし、都合其勢(つがふそのせい)二千余人、二百余艘(よさう)の舟に乗りつれて、 若王子(にやくわうじ)の御正体(おしやうだい)を舟に乗せ参らせ、旗のよこがみには金剛童子(こんがうどうじ)を書き奉(たてま)ッて壇の浦へ寄するを見て、源氏も平氏も共にをがむ。されども源氏の方へつきければ、平家興(きよう)さめてぞ思はれける。又伊予国(いよのくに)の住人、河野四郎通信(かはののしらうみちのぶ)、百五十艘の兵船(ひやうせん)に乗りつれてこぎ来(きた)り、源氏と一つになりにけり。判官かたがたたのもしう力ついてぞ思はれける。源氏の舟は三千余艘、平家の舟は千余艘、唐船(たうせん)せうせうあひまじれり。源氏の勢(せい)はかさなれば、平家の勢は落ちぞゆく。元暦(げんりやく)二年三月廿四日(にじふしにち)の卯剋(うのこく)に、豊前国門司(ぶぜんのくにもじ)、赤間(あかま)の関(せき)にて、源平矢合(げんぺいやあはせ)とぞさだめける。其日判官と梶原(かぢはら)とすでに同士軍(どしいくさ)せむとする事あり。梶原申しけるは、「今日(けふ)の先陣(せんぢん)をば景時(かげとき)にたび候へ」。判官、「義経(よしつね)がなくはこそ」。「まさなう候。殿は大将軍(たいしやうぐん)にてこそましまし候へ」。判官、「思ひもよらず。鎌倉殿(かまくらどの)こそ大将軍よ。義経は奉行(ぶぎやう)を承ッたる身なれば、ただ殿原(とのばら)と同じ事ぞ」と宣(のたま)へば、梶原先陣を所望(しよまう)しかねて、「天性(てんぜい)この殿は侍(さぶらひ)の主(しゆう)にはなり難し」とぞつぶやきける。判官これを聞いて、「日本一(につぽんいち)のをこの者かな」とて、太刀の柄(つか)に手をかけ給ふ。梶原、「鎌倉殿の外(ほか)に主をもたぬ物を」とて、これも太刀の柄に手をかけけり。さる程に嫡子(ちやくし)の源太景季(げんたかげすゑ)、次男平次景高(へいじかげたか)、同三郎景家(おなじきさぶらうかげいへ)、父と一所(いつしよ)に寄りあうたり。判官の景気を見て、奥州(あうしう)の佐藤四郎兵衛忠信(さとうしらうびやうゑただのぶ)、伊勢三郎義盛(いせのさぶらうよしもり)、源八広綱(げんぱちひろつな)、江田源三(えだのげんざう)、熊井太郎(くまゐたらう)、武蔵房弁慶(むさしぼうべんけい)なンどいふ一人当千(いちにんたうぜん)の兵者(つはもの)ども、梶原をなかにとりこめて、われうッとらんとぞすすみける。されども判官には三浦介(みうらのすけ)とりつき奉る。梶原には土肥次郎(とひのじらう)つかみつき、両人手をすッて申しけるは、「これ程の大事をまへにかかへながら同士軍候(どしいくささうら)はば、平家力(ちから)つき候ひなんず。就中(なかんづく)鎌倉殿のかへりきかせ給はん処(ところ)こそ穏便(をんびん)ならず候へ」と申せば、判官しづまり給ひぬ。梶原すすむに及ばず。それよりして梶原、判官をにくみそめて、つひに讒言(ざんげん)してうしなひけるとぞきこえし。
現代語訳
さて九郎大夫判官義経は、周防の地に押し渡って、兄の三河守と合流した。平家は長門国引島(ながとのくにひくしま)に着いた。源氏は阿波国勝浦(あわのくにかつうら)に着いて、八島の戦いに勝った。平家が引島に着いたという話が伝わると、源氏が同国の内の追津(おいつ)に着いたのは不思議であった。
熊野別当湛増(たんぞう)は、平家へ付くべきか源氏へ付くべきかと悩んで、田辺の新熊野で御神楽を催して権現に祈誓申しあげる。すると「白旗に付け」と御宣託(ごせんたく)が下ったが、猶もそれを疑って白い鶏七羽、赤い鶏七羽、これを持って権現の御前で勝負をさせた。ところが赤い鶏は一羽も勝たず、みな負けて逃げてしまった。それで源氏へ味方しようと決心したのであった。一門の者共を招集して、合計その勢二千余人が二百余艘の船に乗り連なって漕ぎ出し、若王子の御神体を船にお乗せ申しあげ、旗の横上(よこがみ)には金剛童子を描き申し上げ壇ノ浦へ寄せるのを見て、源氏も平氏も共に拝んだ。しかしその船が源氏の方に付いたのを見て、平家は興冷めしてしまった。又伊与国の住人、河野四郎通信(みちのぶ)が百五十艘の兵船に乗り、連なって漕いで来て源氏と合流した。判官はあれこれにつけて頼もしく力がついたように思われた。源氏の船は三千余艘、平家の船は千余艘となり、中国風の大型の船も少々混じっていた。源氏の勢が増えたので平家は落ちて行く。元暦(げんりゃく)二年三月二十四日の午前六時頃に、豊前国門司、赤間の関で、源平矢合せと決定した。その日判官と梶原とが早くも同士討ちをしようとしたことがあった。梶原が申すには、「今日の先陣は景時にお任せください」。判官は、「義経がいないのならともかく、いるから駄目だ」、「それはよろしくない。殿は大将軍であられますぞ」。判官、「思いもよらない事よ。鎌倉殿が大将軍でござるぞ、義経は奉行を承った身なので、ただ貴殿と同じ事よ」と言われると、梶原は先陣を希望しかねて、「もともとこの殿は侍の頭にはなり難い」とつぶやいた。判官はこれを聞いて、「日本一の馬鹿者だな」と言って、太刀の柄に手をおかけになる。梶原、「鎌倉殿の他に主は持たぬものを」と、これも太刀の柄に手をかけた。そうしているうちに嫡子の源太景季、次男平次景高、同三郎景家が父と一緒に寄り集まった。判官の様子を見て、奥州の佐藤史郎兵衛忠信、伊勢三郎義盛、源八広綱、江田源三、熊井太郎、武蔵坊弁慶などという一人当千の兵共は、梶原を中に取り籠めて、自分が梶原を討取ろうと進んで来た。けれども判官には三浦介が取り付き申し上げる。梶原には土肥次郎が取りついて、両人が手をすり合わせて申したのは、「こんな大事を前に抱えながら同士討ちをするなら、平家は力づきますぞ。とりわけ鎌倉殿が回り回ってお聞きになったら穏やかではありません」と申すと、判官は冷静になられた。梶原は進むこともできない。それから以後、梶原は判官を憎んで、最後には讒言(ざんげん)をして判官を滅ぼしたという事だった。
原文
さる程に源平の陣のあはひ、海のおもて卅余町(さんじふよちやう)をぞへだてたる。門司(もじ)、赤間(あかま)、壇(だん)の浦(うら)はたぎりておつる塩なれば、源氏の舟は塩にむかうて心ならずおしおとさる。平家の舟は塩におうてぞ出できたる。おきは塩のはやければ、みぎはについて、梶原敵(かたき)の舟のゆきちがふ処に熊手をうちかけて、親子主従(おやこしゆうじゆう)十四五人乗りうつり、打物(うちもの)ぬいて艫舳(ともへ)にさむざむにないでまはる。分どりあまたして、其(その)日(ひ)の高名(かうみやう)の一(いち)の筆にぞつきにける。
すでに源平両方(げんぺいりやうばう)陣をあはせて時(とき)をつくる。上(かみ)は梵天(ぼんてん)までもきこえ、下(しも)は海竜神(かいりゆうじん)もおどろくらんとぞおぼえける。新中納言知盛卿(しんぢゆうなごんとももりのきやう)、舟の屋形(やかた)にたちいで、大音声(だいおんじやう)をあげて宣(のたま)ひけるは、「いくさはけふぞかぎり、者どもすこしもしりぞく心あるべからず。天竺(てんぢく)、震旦(しんだん)にも日本我朝(につぽんわがてう)にもならびなき名将勇士(めいしやうゆうし)といへども、運命つきぬれば力およばず。されども名こそ惜しけれ。東国(とうごく)の者共(ものども)によわげ見ゆな。いつのために命をば惜しむべき。これのみぞ思ふ事」と宣へば、飛騨三郎左衛門景経御(ひだのさぶらうざゑもんかげつねおん)まへに候ひけるが、「これ承れ、侍(さびらひ)ども」とぞ下知(げぢ)しける。上総悪七兵衛(かづさのあくしちびやうゑ)すすみ出でて申しけるは、「坂東武者(ばんどうむしや)は馬のうへでこそ口はきき候とも、舟軍(ふないくさ)にはいつ調練(てうれん)し候べき。魚(うを)の木にのぼッたるでこそ候はんずれ。一々にとッて海につけ候はん」とぞ申したる。越中次郎兵衛(ゑつちゆうのじらうびやうゑ)申しけるは、「同じくは大将軍の源九郎(げんくらう)にくん給(だま)へ。九郎は色白うせいちいさきが、むかばのことにさしいでてしるかんなるぞ。ただし直垂(ひたたれ)と鎧(よろひ)を常に着かふなれば、きッと見わけがたかんなり」とぞ申しける。上総悪七兵衛申しけるは、「心こそたけくとも、その小冠者(こくわんじや)何程の事かあるべき。片脇(かたわき)にはさんで海へいれなん物を」とぞ申したる。
新中納言はか様(やう)に下知(げぢ)し給ひ、大臣殿(おほいとの)の御(おん)まへに参って、 「けふは侍(さぶらひ)どもけしきよう見え候。ただし阿波民部重能(あはのみんぶしげよし)は心がはりしたるとおぼえ候。かうべをはね候(さうら)はばや」と申されければ、大臣殿、「見えたる事もなうて、いかが頸(くび)をばきるべき。さしも奉公の者であるものを。重能参れ」と召しければ、木蘭地(むくらんぢ)の直垂に洗革(あらひがは)の鎧着て、御(おん)まへに畏(かしこま)ッて候。「いかに、重能は心がはりしたるか。今日こそわるう見ゆれ。四国の者共にいくさようせよと下知せよかし。臆(おく)したるな」と宣へば、「なじかは臆し候べき」とて、御(おん)まへをまかりたつ。 新中納言、あはれきやつが頸をうちおとさばやとおぼしめし、 太刀(たち)の柄(つか)くだけよとにぎッて、大臣殿の御(おん)かたをしきりに見給ひけれども、御(おん)ゆるされなければ、力及ばず。
現代語訳
さて、源平の陣の間は、海面上三十余町離れていた。門司、赤間、壇の浦の辺りは潮が集まってたぎり落ちる所なので、源氏の船は潮に向って思いがけず押し戻される。一方平家の舟は潮流に乗って出て来た。沖は潮の流れが速いので、水際に寄って、梶原は敵の船が行違うところに熊手を引っ掛けて、親子主従十四人が敵の船に乗り移り、刀や長刀を抜いて舟の前後に散々切って回る。多くの物を分捕って、その日の高名帳の一番に載せられた。
いよいよ源平の両陣営は同時に鬨の声を挙げる。その声は上は梵天まで聞え、下は海竜神も驚くだろうと思われた。新中納言知盛卿は、舟の屋形に立って、大音声をあげて言われるには、「戦いは今日が最後だ。者共少しでも退く気持ちがあってならぬ。天竺、震段にも日本わが国にも並びない名将勇士と言えども、運命が尽きてしまえばどうしようもない。そうはいっても名は惜しいものだ。東国の者共に弱気を見られるな。将来を考えて命を惜しむべきではない。これだけが心に思う事だ」と言われると、飛騨三郎左衛門景常が御前に控えていたが、「この御言葉を承れ。侍ども」と命令を下した。上総悪七兵衛が進み出て申すには、「坂東武者は馬上でこそ偉そうに口をききますが、舟戦についてはいつ訓練をしたのでしょう。魚が木に登ったようでござるな。一人一人捕まえて海に落し申そう」と申した。越中次郎兵衛が申すには、「どうせ組むなら大将軍の源九郎義経とお組みなされ。九郎は色白で背が低く、前歯がいちじるしく出ているぞ。ただし直垂と鎧をいつも着替えるそうだから、きっと見分けにくいということだ」と申した。上総の悪七兵衛が申すには、「心が勇ましくても。その小冠者が何ほどの事があろう。方脇に挟んで海に入れよう物を」と申した。
新中納言は言はこのように命令をお下しになり、大臣殿の御前に参って、「今日は侍共の士気が高いように思いますが、阿波民部重能は心変りしたように思います。首を刎ねたいものです」と申されたところ、「はっきりした証拠もないのに、なぜ首を切るのか。あれほど忠実に奉公してくれた者を。重能参れ」と呼ばれると、重能は木蘭地の直垂に洗革の鎧を着て、御前に畏まる。「どうだ。重能は心変りしたのか。今日は元気がないように見えるぞ。四国の者共にしっかり戦をせよと命令を下せ。臆病になるな」と言われると、「どうして臆しましょうか」と言って、御前を退去する。新中納言は可哀想だが彼奴の首を打ち落とさねばと思われて、太刀の柄砕けよというぐらい強く握って、大臣殿の方を頻りに御覧になったが、許されなかったのでどうしようもない。
原文
平家は千余艘(よさう)を三手(みて)につくる。山鹿(やまが)の兵藤次秀遠(ひやうどうじひでとほ)、五百余艘で先陣にこぎむかふ。松浦党(まつらたう)、三百余艘で二陣につづく。平家の君達(きんだち)、二百余艘で三陣につづき給ふ。兵藤次秀遠は九国(くこく)一番の勢兵(せいびやう)にてありけるが、我程(われほど)こそなけれども、普通様(ふつうざま)の勢兵ども五百人をすぐッて、舟々(ふねぶね)の艫舳(ともへ)にたて、肩(かた)を一面にならべて、五百の矢を一度にはなつ。源氏は三千余艘の舟なれば、勢(せい)のかずさこそおほかりけめども、処々(ところどころ)より射ければ、いづくに勢兵ありともおぼえず。大将軍九郎大夫判官(たいしやうぐんくらうたいふのはうぐわん)、まッさきにすすンでたたかふが、楯(たて)も鎧(よろひ)もこらへずして、さんざんに射しらまさる。平家みかたかちぬとて、しきりにせめ鼓(つづみ)うッて、よろこびの時をぞつくりける。
現代語訳
平家は千余艘の船を三手に分ける。山鹿の兵藤次秀遠が五百余艘で先陣として敵に向って漕ぎ出す。松浦党は三百余艘で第二陣で続く。平家の公達は、二百余艘で第三陣として続かれる。兵藤次秀遠は九州一の精兵であったが、自分ほどではないが、普通並みの精兵ども五百人を選んでそれぞれの船の前後に立て、肩を一面に並べて、五百の矢を一度に放つ。源氏は三千余艘の船なので、軍勢の数はさぞかし多かった事だろうが平家方は色んな所から射たので、何処に精兵がいるかわからない。大将軍九郎判官義経は、真っ先に進んで戦うが、盾でもで鎧も平家の矢を防ぎきれず、散々に射られて勢いを挫かれる。平家は味方の勝ちを確信し、頻りに攻撃の鼓を打って、悦びの鬨の声をあげた。
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